第20話:自由の代償
「……私の家はね、お父さんお母さんと三人暮らしだったの。」
体を洗い、背中合わせで浴槽に浸かっていると、スミレが語り出した。
「すごく幸せだった。お父さんもお母さんも、私を大切にしてくれて。妹も生まれたんだよ?すっごくかわいかったけど二人とも妹につきっきりで、私には『お姉ちゃんなんだから我慢しなさい。』なんて言って構ってくれなくなっちゃって。それが寂しくて、拗ねたりもしたっけ……。」
吊り下げられたランプでは広い風呂場を明るく照らすことはできず、なぜか視界は暗い。
「これからは四人で頑張っていこうねって笑ってた。……お父さんが会社を辞めさせられるまでは……。」
仕事をクビになった父は酒浸りになり、時折母やスミレに暴力を振るうようになった。
母も最初は父を止めようとしていたが、その度に殴られ、蹴られ、やがて何も言わなくなったという。
「ある日起きたらね。お母さんがいなくなってたの。殴られるのが嫌で、妹を連れて逃げたんだってお父さん言ってた。私は、おいてかれちゃったの……。」
以降、父のストレスのはけ口はスミレ一人となった。
煙草の火を押し当て、悲鳴を上げるスミレを見て笑う父の姿はもはや自分が大好きだった父親ではないと気付いたスミレは家を飛び出す。
「すっごく嬉しかった!今の私はこんなにも自由で、どこにでも行けるって思った!……でも、そんな簡単なことじゃなかったんだ……。」
帰る家をなくしたスミレには、居場所などなかった。
夜の街をさまよい、小汚い恰好をした子どもを助けてくれる者などどこにもいなかったのだ。
食べるものもなく、道を歩けば自分に侮蔑の目を向ける大人達。
「怖かった。まるで世界が私のことを嫌ってるみたいで……。私は生きてちゃいけないんだって思って……。」
「……もういいですよ。スミレさん。」
「夜の川って、すごく暗いんだよ?何もかも飲み込んでしまいそうなくらい。黒くて、深くて……。」
「スミレさん!」
後ろからスミレを抱きしめる。
その小さな体からスミレの体温が伝わって来て、アスカは安堵した。
「……アスカちゃん、前にここから出たら何かしたいことはある?ってみんなに聞いたよね。」
「……はい。」
あの時のスミレは明らかに動揺していた。過去を聞いた今、彼女の答えは容易に想像がつく。
「私は………ここから出たくない。私の居場所は、もうここにしかないから……。それができないならいっそ、消えてしまいたい……。」
スミレの体は、小さく震えていた。
「……アスカちゃんは、何か見つかった?ここから出たらしたいこと。」
「…………まぁ、一応。」
部屋に戻る途中でスミレが問いかけてくるが、先ほどの話を聞いてからでは答えづらい。
「私に遠慮しないで、教えてほしいな?」
「……えっと、その……。自由に生きてみたいんです。誰にも縛られない生活をしてみたくて……。」
「……そっか…………。」
スミレの顔を見られないでいると、不意に手を取られた。
思わず顔を上げると、ランタンの淡い光がスミレの顔を照らす。
「私に負い目なんて感じなくていいんだよ?アスカちゃんは、アスカちゃんのやりたい事をやればいいと思う。」
暗い廊下でも不思議なほどはっきりと見えるスミレの顔は、穏やかに微笑んでいた。
「……でも、忘れないでね。自由になるってことは、全部自分でやらなくちゃいけなくなるってこと。誰も助けてくれなくても、それは自由になることを選んだ自分のせいだってこと。」
「……はい。」
アスカが頷くと、スミレも満足そうに頷く。
いつの間にか、目の前にはスミレの部屋があった。
「おやすみなさい、アスカちゃん。また明日ね。」
ボーン!ボーン!
エントランスの振り子時計が9時を告げる。
「……スミレさん。」
その音に背中を押され、部屋へと入ろうとしていたスミレを呼び止めた。
「外に居場所が無いなら私がなりますよ。ここを出るのが怖いなら、私が連れ出します。約束です。」
そう言って小指を差し出す。
「…………うん。ありがとう……。」
スミレは一瞬泣きそうな顔になったが、嬉しそうに笑って礼を言うと自分の小指をアスカのそれと絡めるのであった。
コン、コン、コン。
ゆっくりと三回扉をノックする。——それが彼女との秘密の合図だ。
「……こんばんは、ケンイチさん。」
扉を開けたルリが微笑み、部屋へと招き入れる。
ケンイチは長く使用された痕跡の無いベッドに腰かけると頭を抱えた。
「俺はどうすればよかったんだ……。」
ルリはお茶の用意をしているようで、こちらへ背を向けている。
花柄の寝巻をまとった姿はとても可愛らしいのだが、今はそれを口にできるほどの心の余裕はない。
「このままだと、全てバレてしまうかもしれない……。」
「……大丈夫ですよ。今はお茶でも飲んで落ち着いてください。」
顔を上げると、目の前のテーブルにカップが置かれた。中に注がれた紅茶らしき液体が、ゆらゆらとランタンの明かりを反射している。
「ルリさんは怖くないの?アレが見つかれば、俺達はお終いなのに……。」
「見つかりませんよ。だから大丈夫です。」
ルリが隣に座り、ケンイチの頬を撫でた。
「まずは落ち着かないと、それとも……珈琲の方がよかったですか?」
目を伏せて悲しそうな声を出すルリを見て、ケンイチはカップを手に取り紅茶を一口飲む。鼻に抜ける爽やかな香りが乱れた心を落ち着けてくれた。
「ありがとう。美味しいね、これ。」
「茶葉じゃなくて香草を使ったお茶なんだそうです。心が落ち着くお茶だってミドリさんが言ってました。」
確かにスッと鼻腔を駆け抜けた香りが、胸のつかえを取り去ってくれた気がする。飲み下した熱が腹から広がり、強張っていた体を弛緩させていく。
「そうだね、まだ大丈夫。……ルリさんはすごいね、落ち着いてて。なんだか俺の方が子どもみたいだ。」
お茶を飲みながらルリを見つめる。ルリも自分のカップから顔を上げ、ケンイチを見つめ返した。
「そんなことないですよ。……私だって内心焦ってるし、怖い。」
そう言うとルリはケンイチから目を逸らし、部屋の隅を見つめる。
「……ねぇ、ルリさん。どうして、あんなことをしたの?」
ケンイチは昼間のことを思い出し、意を決してルリへと問いかけた。
「……私は、今しか信じていなかったんです。」
ルリが言葉を紡ぐ。しかし、その目は暗闇を見つめたままだ。
「生まれてすぐにお母さんが死んで、私を一人で育ててくれたお父さんも死んで、過去を失くした私は未来を信じることしかできなくて……。だから、ここで生きている今を信じられなくなりました。」
平坦な口調で話すルリは今まで共に過ごしてきた表情豊かな彼女からは想像できない姿で、ケンイチは息をのむ。
しかしそんな姿はすぐに鳴りを潜め、晴れやかな笑みでケンイチを見上げた。
「でも、最近になってようやく未来が信じられるようになってきたんです……。私が望んだ未来が形になってきている気がして。そうすると、今が楽しくなってくるんです。辛いこととか怖いことがあっても、未来があるから頑張れるんだってわかりました。」
「……そっか。」
ルリの話は抽象的でケンイチには理解できなかったが、彼女が未来への希望を見つけられたことに安心する。お茶の効果で緊張の糸が緩んだのかあくびが出た。
「ふわ……ぁ………。」
「フフッ、眠くなっちゃいました?」
それを見たルリが笑う。その表情にどこか色気を感じ、鼓動が早くなるのを感じる。
頭を振り、相手は子どもだと自分を戒めた。そうしている間にも眠気はどんどん強くなっていく。
「少し寝ていってください。疲れたままだと、危ないですから。」
「でも……シズカさんが、待って…………。」
抗えないほどに瞼が重い。体を起こしていられず、ベッドへ倒れこむ。
「…………大丈夫ですよ。」
ルリに頭を撫でられた。重くなった瞼が閉じる直前、彼女が何かを呟く。
その声を聞きとる前に、ケンイチは意識を手放した。




