クライアント4
探偵5
事務所のドアを開けたまま、俺は女を振り返った。
「いいか。今日は一日中、そこに居てくれ」
声は低く、余計な感情を混ぜない。こういう時は、余白が一番効く。
「冷蔵庫の中に、何か食えるものがあるはずだ。賞味期限は……まあ、信じるかどうかは任せる」
女は一瞬だけ困ったように笑った。
「……優しいのね。でも、着替えが」
「ああ。女性ものは残念ながら置いてない。健全な職場環境ってやつでね」
俺はコートのポケットを探るふりをして、何も取り出さない。
「……帰りに調達してくるさ」
「サイズとか、聞かないの?」
軽口だ。だが、試してもいる。
「スリーサイズを聞くほど野暮じゃない。探偵ってのは、必要以上のことは覗かない主義でね」
視線を外し、ドアノブに手をかける。
「……まあ、適当に選んでくる」
「ふふ。あなたの“適当”は信用していいの?」
「今夜だけはな。俺にも、たまには外さない日ってのがある。今日は運勢がいいらしい。占いは見てないが、肌がそう言ってる」
女は少し黙って、それから頷いた。
「……わかったわ。信じてみる」
そこで俺は、もう一段声を落とした。
「それよりも、いいか。誰が来ようと出るな。いや、出るどころか反応もしないでくれ」
彼女の目が真剣になる。
「腹が鳴るほど空腹で、ピザの配達が間違って転がり込んできてもだ」
「そうね。気をつけるわ」
「俺から通信が入っても出るな。ドアをドンドン叩かれて、俺の声で“開けてくれ”と聞こえても同じだ」
一拍置く。
「俺はな、どんな状況でもこの部屋に入る手段を知ってる。だから――自分から開けるな。いいな?」
女は静かに頷いた。
それで十分だった。
俺は色々な気持ちを置き去りにしたまま、車へ向かった。
心配ってやつは、湿った布みたいなもんだ。どれだけ絞っても、乾きやしない。
だから頼む。言うことを聞いて、おとなしく寝ててくれよ――子猫ちゃん。
子猫は、飼い主がいないと部屋を散らかすらしい。昔、どこかで聞いた童話の話だ。
散らかすくらいならどうでもいい。
問題は、俺が帰った時――
お前がそこにいるかどうかだ。
いや……生きているかどうかなんて、考えたくもない。
それにしても、必要なものってのは次々出てくる。
まさかこの歳になって、“女装の趣味がない”って事実を、ここまで恨む日が来るとはな。
「久しぶりの解体屋か……あの紫モヒカンに挨拶してくるとするか」
あの場所は、男の子の夢がぎゅうぎゅうに詰まった宝箱みたいなもんだ。
探そうと思えば、見つからない玩具なんて存在しない。
玄関モニタに噛ませる赤外線センサー?
きっと転がってる。
どんな奴が、どんな顔で、どんな時間にここへ来るのか。
そんなもの、分かった試しがない。
だからこそ、仕掛けは多いほうがいい。
とりあえず、クライアントの保護が最優先だ。
本来、契約には含まれていない。だが――最大の情報源であることに変わりはない。
それに、クライアントが消えちまえば、
俺がこの捜査を続ける動機が、ごっそり消える。
それだけは勘弁してくれ。
せっかく火がついたんだ。ここで水をかけられちゃ、立つ瀬がない。
俺は今、久々の重大案件に燃えている。
要人警護なんざ慣れっこだ。
密猟が進みすぎて絶滅寸前の野生動物――
あの“パンダクマ”を守るよりは、よっぽど簡単だろう。
鍵を握るのは、やっぱりあのデバイスに唯一アクセスできるボックス。
どうやら“RX”の方が適している。
まだ解体屋に残っていればいいがな。
接続ケーブルと頑丈なコネクタ。
どれも古い。ずいぶん昔の規格だ。
とあるメーカーのEEPROMと、そのROMライターまで必要になるとは……
時代遅れの代物は、最新機器に押し潰されて絶滅寸前。
だが裏を返せば、
古い専門機器が消えているってことは、
それだけ他人に勝手にアクセスされ、データを抜かれるリスクが低いってわけだ。
皮肉な世の中だ。
頑丈な六十階建てのデータセンターより、
竪穴式住居のほうが安全なこともある。
笑えないが、たまには事実になる。
それが、この世界の面白いところだ。
俺は大通りから、誰も入りたがらない二ブロック先の三叉路へ。
そして、迷いなく左へハンドルを切った。




