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クライアント1

くたびれた事務所、くたびれたソファーが、部屋の隅で静かに息をしている。

 長年、依頼人と眠気と重力を受け止め続けてきた革張りは、色も艶もとうに擦り切れ、ところどころから白い綿が顔をのぞかせていた。沈みすぎた座面は座る者の腰を容赦なく奪い、立ち上がるときには必ずひとつ、溜息を吸い取っていく。


 デスクの上では、写真と請求書が互いの境遇を嘆いている。

 写真は黄ばんで波打ち、湿気に負けた角は丸くなっていた。写っているのは笑顔なのか、それとも何かを諦めた顔なのか、もう判別がつかない。隣に積まれた請求書は封も切られぬまま斜めにずり落ち、薄く積もった埃が、この机に最近誰も触れていないことを雄弁に物語っていた。


 天井では、サーキュレーター付きのライトが軋みながら回っている。

 安物の金属は、長年の湿気とタバコのヤニを吸い込み、鈍くくすんでいた。モーターは機嫌をうかがうように、ときおり回転を早めたり遅らせたりする。


 その風は部屋中の紙片をわずかに揺らすだけで、暑さも寒さもほとんど和らげはしない。だが、ないよりはマシだと言わんばかりに、黙々と回り続けていた。


 灰皿の縁では、誰にも吸われなかったタバコの灰が、落ちる未来について思案している。

 吸いかけのタバコは火を失い、細い灰柱は自分の重さに耐えることを、そろそろ諦めかけていた。


 そんな部屋で、暇を持て余した探偵が一人。

 俺のことだ。


 何も気にすることなく、いつも通り惰眠を貪っていた。まるでこの世の時間すべてが、自分のものだとでも思い込んだように。


 今が朝なのか夜なのか、真昼なのか真夜中なのか。

 そんな区別はとっくに意味を失い、壁の時計でさえ諦めたように針を止めている。


 外のネオンも朝日も、この部屋の薄暗さに吸い込まれ、世界がどんな顔をしているのか、誰にもわからなかった。


 俺は靴も脱がず、コートの襟を立てたまま、ソファーに身を沈めている。

 夢とも現実ともつかない薄闇の中で、ただ呼吸だけを続けていた。


 枕代わりの古いクッションは潰れすぎて、もはや布の塊にしか見えない。


 いつの間にか伸びた不精髭。

 切れ味の悪いカミソリを無理に使ったせいか、頬や顎には細い切り傷が何本も走っていた。


 だが、それらはもう血の匂いも痛みも持たない。

 ただの薄い線として、俺の顔に刻まれているだけだ。


 いや――これは最近の傷じゃない。

 探偵になる前、もっと昔のものかもしれない。


 眠る暇もなく“昔の仕事”を走り続けていた頃。

 あるいは、何かを失い、それでも自分の人生に意味を見出そうともがいていた時代の名残。


 それらの傷は、俺が何をして、何を諦め、どんな夜を越えてきたのかを語りかけてくる。

 だが俺は気にすることもなく、静かに寝息を立てていた。


 ――そのときだ。


 ドン、ドン、ドン、ドン。


 ドアを叩く音が、死んだような事務所の空気を震わせた。

 古い木製風の扉が軋み、壁に立てかけていた古新聞がぱらりと床に落ちる。


 強すぎず、弱すぎず。

 だが、明らかに急いでいる人間のリズムだった。


「チャイムはとっくに壊れてる。こうするしか、俺を呼ぶ方法はねぇってわけだ」


 ソファーに沈み込んだまま、片眉を上げて呟く。

 眠気の膜はまだ剥がれきらず、視界の端がぼやけていた。天井で軋むライトの音が、頭の奥で溶け合い、やけに遠い世界の出来事のように聞こえる。


 少しだけ身体を起こし、部屋を見渡す。

 散らかった写真、黄ばんだ請求書、湿気を吸った書類の山。

 どれも「動くな」と囁いてくるようで、見ただけでまた横になりたくなる。


「ドアには電子ロックをかけてある。この商売じゃ、恨みを買うのは水道代より安いからな」


 そう言いながら腰を押し上げるが、動きはひどく鈍い。

 事務所の空気には、夜とも朝ともつかない冷たさが漂い、タバコの残り香だけが時間の経過を主張していた。


「お願いしたいことがあるんです!」


 ドア越しに聞こえたのは、女の声だった。

 かすれて弱々しいが、切迫した震えだけははっきりと伝わってくる。寒さか、恐怖か。声の端が細かく揺れていた。


「……女の声、か。必死だな」


 眠気が、ほんの少しだけ引く。

 脳の奥で、古い警戒心が目を覚ました。


 俺は夢と現実の境が曖昧なまま、モニターの前へ歩み寄る。

 床に散らばった空き瓶を踏みそうになりながら、点滅する画面の青白い光が、俺の顔に影を落とした。


「一人で来たのかい、お嬢さん」


 画面を叩いてノイズを払う。


「最新型じゃない。赤外線センサーも、死んだ魚みたいなもんだ」


 モニターは砂嵐を走らせながら、外の冷たさまで伝えてきそうな顔をしている。

 横には、俺が蹴飛ばした跡が残っていた。


「解体屋の裏に転がってた代物だ。蹴ったら運よく点いた」


 鼻で笑う。


「人生なんて、案外そんなもんさ」


 思わぬ場所で拾い物をするのは、何かを必死で求めた人間の特権だ。

 そんな経験則が、背中に重く張りついている。


 画面の向こうで、女が肩をすくめていた。

 コートの襟を握る両手は赤く、指先がかすかに震えている。


「……一人だな。相当、冷えてる」


 そう呟いた瞬間、事務所の隙間風が足元を撫でた。

 まるで外の寒さが、じわじわと侵食してくるようだった。


 小さく溜息をつく。


 面倒だ。

 だが、放り出せない。


「外は寒いでしょう。中へどうぞ」


 俺はゆっくり立ち上がり、ロックを解除しに向かう。

 一歩踏み出すたび、床の書類がさらりと音を立てた。邪魔にならない程度に足で寄せ、隅へ追いやる。


 背後で、サーキュレーターがまだ、のろのろと回っている。

 その軋む音が、なぜか自分の鼓動と重なって聞こえた。


 ――このときの俺は、まだ知らなかった。

 ドアの向こうに立つ女が、あの大事件へと繋がる、最初のピースだということを。


 足元に落ちた影が、わずかに長く伸びた気がした。

 それはこれから始まる混沌の旅路を、静かに暗示しているかのようだった。

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