3 厨房の小さな料理人
「リナの秘密のスープ」は、瞬く間に「陽だまり亭」の看板メニューとなった。しかし、私――リナの中の社畜・佐藤美咲――の料理への探求心は、そんなものでは満たされなかった。
(スープだけじゃない。焼き物も、煮物も、もっと美味しくできるはず。そのためには、私が厨房に立たないと……!)
しかし、問題は私の年齢だ。まだ六歳の子供に、火や刃物を扱わせる親がどこにいるだろうか。案の定、父は私の申し出に首を縦に振らなかった。
「だめだ、リナ。厨房は危ない。お前はまだ小さいんだから、お使いでもしてなさい。手伝いは、十歳になったら考えよう」
父の言い分はもっともだ。しかし、私の中の二十八歳の魂が、それで納得できるはずもなかった。
「お願い、父さん! 刃物は使わないから。野菜を洗ったり、お皿を並べたりするだけ。それならできるでしょ?」
私は、六歳児の特権である「うるんだ瞳」を最大限に活用して父に迫った。娘の必死の懇願に、頑固な父もついに根負けした。
「……わかった。だが、絶対に無理はするなよ。火のそばには行くな。いいな?」
「うん!」
こうして、私は念願の厨房への立ち入りを許可された。最初は、言われた通り、野菜を洗ったり、皿を準備したりするだけだった。しかし、私はその合間に、父の仕事ぶりを食い入るように見つめた。食材の切り方、火加減、味付けのタイミング。その全てを、前世の記憶と照らし合わせ、分析していく。
数週間が経つ頃には、私は厨房の次の動きを完全に予測できるようになっていた。父がジャガイモに手を伸ばせば、その皮を剥くためのナイフを差し出す。肉を切り終えれば、次に使う塩と香草の入った壺を隣に置く。その動きはあまりに自然で、淀みがなかった。
「リナ、お前……」
父は、驚きのあまり言葉を失っていた。まるで、長年連れ添った夫婦のような、阿吽の呼吸。六歳の娘が、なぜこれほどの働きを見せるのか。父には到底理解できなかっただろう。
そして、運命の日がやってくる。その日、店はいつにも増して混雑しており、父一人では手が回りきらない状況だった。
「くそっ、間に合わねえ! 野菜を切る時間がない!」
父の悲鳴のような声を聞いた瞬間、私は動いていた。いつも父が使っている、野菜切りのための小さなナイフを手に取り、まな板の上の野菜に向き合う。
「リナ、危ない!」
父の制止の声が飛ぶ。しかし、それよりも早く、私の手が動いた。トントントン、と小気味良い音が厨房に響く。均一な厚さにスライスされていく野菜。その手際に、父も母も、そして厨房にいた誰もが息をのんだ。
あっという間に野菜を切り終えた私は、ナイフをそっと置き、父を見上げた。
「父さん、できたよ」
父は、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「お前は……本当に、すごい子だな」
その日から、私は正式に厨房の一員として認められた。両親は、私のことを「特別な才能を持った子」だと信じているようだった。まさか、その才能の正体が、過労死した日本の社畜の記憶だとは夢にも思わずに。
こうして私は、六歳にして「陽だまり亭」の厨房に立つことになった。それは、これから始まる、美味しい料理とささやかな謎解きの物語の、本当の始まりだった。




