1 思い出してしまった日
「リナ、しっかりおやりよ!」
母さんの活気ある声に背中を押され、私は木のトレーを両手でしっかりと抱え直した。トレーの上には、こんがりと焼かれた黒パンと、野菜がごろごろ入ったスープが乗っている。父さんが作る、我が家の定食屋「陽だまり亭」の定番メニューだ。
「はーい!」
六歳児のか細い声で返事をしながら、私は店の中を慎重に進む。石造りの床は少しでこぼこしていて、油断すると足を取られそうだ。店の隅のテーブルで食事をしていた屈強な傭兵たちが、私に気づいてにこやかに手を振ってくれる。私も笑顔で会釈を返した。
ここが私の世界。王都の下町にある、小さな定食屋「陽だまり亭」。それが、物心ついた頃からの私の日常だった。
そう、ほんの数時間前までは。
事件が起きたのは、今日の昼過ぎのこと。店の裏で遊んでいた私は、積み上げられた古い樽に登ろうとして、見事に足を滑らせた。そして、後頭部を地面の石畳に強かに打ち付けたのだ。
目の前に火花が散り、意識が遠のく。そして、次に目を開けた時、私の頭の中には、奔流のような記憶が流れ込んできたのだ。
(……そうだ、私、死んだんだ)
日本の東京という街で、佐藤美咲、二十八歳、独身、職業システムエンジニア。それが、私の「前世」だった。連日の徹夜と休日出勤。栄養ドリンクを水代わりに、コンビニ弁当を主食とする日々。心身の限界をとっくに超えていた私は、ある雨の夜、駅の階段で足を滑らせて……。
そこまでの記憶を思い出した瞬間、私は自分が「リナ」という六歳の少女に生まれ変わっていることを完全に理解した。そして、目の前に広がるこの剣と魔法の世界が、私の新しい現実なのだと。
「リナ、お疲れ様。まかない、一緒に食べよう」
仕事を終えた私を、厨房から出てきた父さんが優しい笑顔で迎えてくれた。テーブルの上には、今日のまかないが用意されている。メニューは、店で出しているのと同じ、黒パンと野菜のスープだ。
「ありがとう、父さん」
私は椅子にちょこんと座り、木のスプーンを手に取った。以前は、これが当たり前の食事だった。父さんの作る料理は美味しい。母さんの笑顔は温かい。それが私の世界の全てだった。
しかし、「佐藤美咲」の記憶が蘇った今、私の舌は目の前のスープに違和感を覚えていた。
(……味が、薄い。いや、深みがない、と言うべきか)
野菜と肉をただ煮込んだだけの、素朴な味。塩と、ほんの少しの香草で味付けされているが、それだけだ。決して不味くはない。むしろ、素材の味はしっかりと感じられる。だが、私の記憶の中にある「美味しいスープ」とは、何かが決定的に違っていた。
(出汁だ……。コンソメとか、鶏ガラとか、鰹節とか……そういう『うま味』の概念がないんだ)
前世では、お金がなくて自炊に励んでいた時期がある。限られた予算の中でいかに美味しいものを作るか。その探求の中で、私は「うま味」の重要性を骨身に染みて理解していた。昆布と鰹節で取った出汁で作った味噌汁。鶏の骨を煮込んで作ったスープ。それらが、料理の味をどれだけ豊かにするか。
私は、父さんが営むこの「陽だまり亭」を見渡した。掃除の行き届いた清潔な店内。腕は確かだが、少し不器用な父。店を切り盛りする、明るく元気な母。そして、ひっきりなしに訪れる常連客たち。
(この店、もっともっと美味しくなる……!)
私の胸に、確かな確信が芽生えた。それは、過労死した社畜、佐藤美咲のささやかな特技であり、そして今、異世界に転生した少女リナの、新しい目標が生まれた瞬間だった。




