溢れる愛
「はっ」
不意に、静かになったかと思った彼女が、顔を上げた。寝ているのかと顔を覗き込んだ時の事だった。
「何」
きらきら目を輝かせて、飾りっ気のない口を小さく開けて。
「いえ、今急に思い出して。ふふっ」
興奮すると、ぺちぺち肩を叩いてくるのは彼女の癖だ。
彼女は、俺を愛しすぎている。
自意識過剰なんかじゃない。惚気だとバカにされてもいい。仕草ひとつ、視線ひとつが俺のことを大好きだと叫んでいた。そう、叫んでいるのだ。
「ただいま」
「……」
玄関を開けて見えたのは、腰を落として腕を広げて待ち構える、妻の姿。鍵を開けた音が耳にはいると同時に、玄関で待ち構えているというのに、ただいまという挨拶に返事はない。ただひたすら、無言でバスケのディフェンスのような体制で待ち構えている。
「……」
そうか、今日はそんな日か。
そのまま脇を通りすぎようとすると、案の定がっしり体当たりしてきた。
「お帰りなさい!」
「ぐっふっ……ただいま」
「お帰りなさい、お帰りなさい、お帰りなさい! お仕事お疲れさまでした」
力一杯抱き締めてきたかと思うと、すりすりと頬を首に擦り付けてきた。
「いつもの儀式か」
「儀式ってなんですか」
「いや、うるさいのよ」
「え、うるさかったですか」
「行動がうるさいのよ」
「うるさくないでしょーーー」
そういってヒートアップするすりすり。いつもながらに、妻の俺への愛が大きすぎる。
俺の姿を見つけたとたん、ぱぁっと、そう、ぱぁっという効果音が聞こえてくるぐらい、満面の笑顔を向けてくるのだ。
「今夜はドライブって聞いてたので、ご飯は作ってないです!」
「ん、久々の休日前だし、適当に何か買ってドライブしよっか」
「はい! ドライブ久々ですね。楽しみです」
2時間程、家の近くで車を走らせるだけ。それだけなのに、妻はいつも全力で喜んでくれる。
「はっ」
「何」
「思ったんですけど、今2人とも30歳じゃないですか」
「うん」
「30年って結構長いですよね。小学校の6年も、中学も高校も凄く長かったけど、社会人なんてあっという間で、その頃の時期もあっという間に越していて」
「あぁ、まぁね」
確かに、長かった。1年生の頃の6年生は凄く大人で、中学高校の3年間の日々は何か失敗したら一生が終わってしまうような、そんな全力の日々で、大学は大人の仲間入りの気持ちがしたまだまだガキで。そんな頃を思うと驚くぐらい、社会人の6年、3年、なんてあっという間に過ぎていった。社会人1年も2年も変わらないし、3年も10年も変わらない気がする。
「その小学校の長い6年と同じ日々をもう一緒に過ごしてるんですよ」
「もう6年かぁ」
社会人になって、出会って付き合い始めてあっという間に時間は過ぎていた。大きな喧嘩もなく、今もこうして一緒にいるのは一重に、穏やかな彼女のお陰だろう。
「ずっと一緒にいる親だって、基本的に皆20歳で側を離れるわけじゃないですか」
「まぁね」
「そう考えると凄いですよね」
きらっきらの、俺を大好きだと叫んでいる瞳が助手席から向けられる。
「これから何年も、何10年もそれ以上に一緒に時を重ねるんですよ」
「あぁ」
「凄いですよね」
くすくす嬉しそうに笑いながら、いつものように、肩をぺちぺち叩いてくる。
今日も彼女の俺への愛が止まらない。
「あぁ~あ。こんなんで、もしあなたが居なくなったら、私はどうなるんでしょうね」
浮かれ発言をするくせに、悲観的なことも想像するのが、彼女ならではだ。もれなく、現実的なことまで想像してくる。さっきまで、何10年も一緒なんて浮かれ発言をしていたのに、今じゃ隣で早くに別れることになったら…なんて想像で勝手に悲しんでいる。
飽きようのない、俺の妻。
きっと、彼女が居なくなって堪えるのは俺も一緒だろう。もしかすると、彼女以上に、俺は引きずるかもしれない。
そんな事を言ったら、彼女の愛が溢れだして止まらないだろうから、絶対に言わないが。