なかのさん
会社の同僚に、みんなから『なかのさん』と呼ばれている中年女性がいる。
入社したての俺は、ある日、仕事で分からない所があったため、この『なかのさん』に声を掛けた。
「なかのさん、ちょっと、この件について聞きたいのですが」
「…………」
俺の声が聞こえなかったのか、『なかのさん』は、まったく反応がなかった。
「なかのさん!」
今度はやや声を張って呼んでみたが、『なかのさん』は、またも反応を見せず、淡々とパソコンのキーボードを打ち続けるだけだった。
どうしたものかと途方に暮れていると、「だめだよ、重村君。彼女の苗字は『なかの』じゃないんだから、いくら『なかのさん』と呼んでも、返事はしてくれないよ」と、他の社員が教えてくれた。
「えっ! 苗字が『なかの』じゃないって、どういうことですか? だって、みなさん、彼女のことを『なかのさん』と呼んでるじゃないですか」
「それはだね、『なかのさん』というのは、彼女のニックネームなんだよ。だから、君みたいな新入社員が、いきなりニックネームで呼ぶと、彼女もいい気はしないんじゃないかな」
「ニックネーム? では、本名はなんて言うんですか?」
「小平だよ」
「そうですか。では、今度から『小平さん』と声を掛ければいいんですね。でも、苗字が小平なのに、なぜみなさんから『なかのさん』と呼ばれてるんですか?」
「それはだね…… まあ、俺が言うより、直接彼女と話してみれば分かるよ」
さっき教えてもらった通り、俺は「小平さん、ちょっといいですか?」と声を掛けてみた。
すると『なかのさん』は、「重の村君、私に何か用?」と、今度は俺の声に反応してくれた。
「先程は失礼しました。僕は小平さんの苗字を『なかの』だと思い込んでいました」(重の村? 今、俺のことを重の村って言わなかったか…… まあ、いいか。聞かなかったことにしよう)
「ああ、そのことならもういいのよ。無視した私も悪いんだから。でも、会社に入りたての新人にいきなりニックネームで呼ばれて、カチンときたのは事実だけどね。はははのはっ!」
小平さんは豪快に笑い飛ばしたが、その目はまったく笑っていなかった。
しかし、俺はそのことよりも、『はははのはっ』という笑い方が気になって仕方なかった。
入社から一ヶ月が経過し、そろそろ仕事にも慣れてきた頃、会社で飲み会が開催された。
初めての飲み会で、俺がどの席に座ろうか迷っていると、「重の村君、こっち空いてるわよ」と、小平さんが声を掛けてくれた。
俺は、またも重の村と呼ばれ少し嫌な気分になったが、むろん顔には出さず、黙って小平さんの隣に座った。
「重の村君て、よく見ると、かわのいい顔してるわね。肌もピチのピチだし、本当うらやましいわ」
「……それはどうも」(かわのいい? ピチのピチ? 何言ってんだ、このおばさん)
宴会が終盤に差し掛かった頃、赤ら顔した小平さんが、「ところで、重の村君。下の名前は何て言うの?」と聞いてきた。
「高至です。字は背が高いの高に、夏至の至です」
「ふーん、高至かあ。いい名前ね、高の至君」
「……はあ、それはどうも」
「ところで、高の至君。この後二人で飲みなおさない? この近くに私行きつけのバーがあるの」
「……ええ、分かりました」
宴会が終わると、俺は小平さんとともに、彼女行きつけのバーへ向かった。
バーに着くやいなや、小平さんは「ねえ、高の至君。私のことどう思う? こう見えても私、まだ独の身なのよ。だから、高の至君と恋の愛関係になったとしても、ちっとも不思議じゃないのよ」と、思いの丈をぶつけてきた。
その時俺は、吐き気を催す程の気持ち悪さを覚えるとともに、彼女がみんなから『なかのさん』と呼ばれている理由が分かったような気がした。
小平さんは話をするとき、まったく関係のない所で『の』を入れるくせがあるからだ。
つまり、会話の中に『の』、なかに『の』……
『なかのさん』だー!!
その後『なかのさん』は、酔っぱらった勢いで、今まで以上に会話の中に『の』を入れて喋り続けたため、話の内容はちんぷんかんぷんだった。