000.プロローグ
深淵という言葉が似合いそうな深い森の中、俺の腕の中で眠る少女――恋唄を眺める。
幸せそうな寝顔は、きっと良い夢を見ているんだろう。
うらやましい。
俺も意識を手放し、幸せな夢の中にフルダイブしたいものだ。
「うぅん、先生、それはリントヴルムで食べ物じゃないですよ」
なぜに俺が幻の生物を食べようとしなければいけないのか。
むにゃむにゃと恐ろしい寝言を呟く恋唄は、一向に目覚める気配はない。
俺は諦めて周りを見渡した。
「グルッルゥゥゥッ」
目の前では何匹ものオオカミみたいな獣が、俺たちを取り囲んで唸り声を上げていた。
獰猛な牙が覗く口端からは、興奮しているのか涎がダラダラだ。きっと激おこプンプン丸なんだろう。
それはそうだ。
確かに、仲間が突然落ちてきたオッサンのケツで圧死してしまったら、誰でも怒る。もちろん俺でも怒る。
と、俺のお尻の下でぺちゃんこになっているオオカミさんをチラリと見ながらため息をついた。
でも許してほしい。俺がやったのは事実だけど、ワザとじゃないんだ。不可抗力というやつだ。
「いや、ほんとゴメン」
一応謝ってみるが、オオカミたちには俺の熱い想いのこもった言葉が届かない。そもそも言葉を理解していないのか、唸り声を上げたままだ。
ああ、実家の愛犬元気かなぁ?
目の前のオオカミたちを見ていると、愛犬のことを急に思い出してきた。あいつもおもちゃを取り上げようとしたら、こんな風に唸っていたよな。
可愛らしさはダントツでウチの愛犬の方が上だが。
目の前のこいつらはオオカミっぽく荒々しい。まぁ、地球上の――俺の知っているオオカミさんと違う点があるとすれば、胴体一つにつき頭が三つついていて異様にでかいことくらいか。軽く見積もっても3メートルから5メートルはありそうだ。
あ、あとピンと逆向いている尻尾が、黒い炎に纏われているのも違うところだな。火の粉がキレイだ。
これはあれだね。
ケロベロスだかケルベロスだか忘れたけど、そういうやつじゃないかな。
冥府の番犬って感じで、ゲームやマンガでよく見たことがある。
おそらく実際には存在しない空想上の生き物のはずだけど、実際目の前にはしっかりと元気に生きてらっしゃる。まさにアンビリバボー。
生暖かい息が顔にかかる。やだ、生臭い。
でもおかげでこれがやっぱり現実の世界なんだと認識させられた。
つい数時間前までは平和な日本で普通の一般ピープルとして、安心安全に高校教師をしていたはずなのになぁ。
それが、今まさに襲いかかってこようとしている野蛮な獣の群れの中にいることになるとは。
人生、何が起こるか分からないものだ。
と、一人で人生とはなんぞやという哲学問題に想いを更けていたのが不味かったのか、ケルベロス達が臨戦体制に突入。
これはさすがにのんびりとはしていられない。
「おっけー、落ち着こう。こちらは誠意をもって謝罪したいと思うので、なんとか怒りを鎮めてもらえないだろうか?」
腕の中の恋唄を落とさないようにしっかりと抱き直し、立ち上がる。
その動きを何らかの戦闘準備と捉えたのか、ケルベロス達は後ろ足を掻き姿勢を低くした。いつでも飛びかかれるようにだろう。
「ただ、もしそれでも襲ってくるなら――ごめん。恋唄を守るって約束したから。抵抗させてもらうよ」
――覚悟を決める。
この世界に飛ばされ、女神から得た『力』。まるで生まれたときから共にあったようなこの『力』。
威圧されたのか、ケルベロス達が後ずさり――それに気づいた獣たちは己のプライドを傷つけられたと思ったのか、一斉に飛びかかってきた。
敵意か憎悪か恐怖か、濁った瞳から感じるのはいろんな感情が混ざり合った殺意の塊だ。
もう純度100パーセントの「殺してやんよ」感でいっぱいだ。
「うぉっ?」
初めて感じる四方八方からの殺意に、背筋がひゅんってなった。
確実に大丈夫だと分かっていても、これは怖い。
温室育ちの俺は、ケンカすらしたことがないのだ。もちろん格闘技なんて習っていない。中高と弓道を部活でやったことがあるくらいだ。
だから怖がっても仕方ないよね。
知能が高いのか狩り慣れているのか、一斉に飛びかかってきたくせに迫る速度にはムラがあった。
たとえ一頭目を躱したところで、次、次々のどいつかが避けきれない致死の一撃を当てる、必殺の陣形なんだろう。
じゃあ、躱さなければ良い。
「グラ――ァッ!?」
最初の一頭が俺の喉元に喰らいつこうかという迫った瞬間、恋唄を片手で抱き直し――空いた俺の手がケルベロスの口吻を掴んでいた。
俺とケルベロスには数メートルの体格差があり、直接攻撃できるのは3つの頭の内の1つだけだ。
両隣のケルベロスの目が驚きで見開くのが見えた。どういうことですか、と状況が全く理解できていないことを瞳が物語っていた。
それを無視し、そのままなるべく優し目に放り投げる。軽く500キロは超えているだろう巨大な体躯を、軽々投げることができた。
「ィギャンッ!?」
優しく放り投げたはずだったが、投げられたケルベロスは悲鳴を取り残して直線上に飛んでいき、何本か大木を根元からへし折っていった。
大の大人が十数人かかって取り囲めるかといった大木だったが、轟音と共に簡単に折れてしまっている。
投げた本人が言うのもなんだが、大丈夫だろうか。
そんな想いとは裏腹に、跳びかかってきていたケルベロスは他にもいたので同じように掴んでは投げ飛ばす。
ヤツらのタイムラグが逆に仇となったな。
俺の元に迫るのにコンマ数秒以下の差が生まれ――それだけの時間があれば掴んで投げ飛ばすくらい、恋唄を抱えていたとしても今の俺には造作もない。
結局7匹投げ飛ばした時点で、残りのケルベロス達は跳びかかってくるのを止めてくれていたようだ。
残りの5匹は驚愕と困惑でどうしたら良いのか分かっていない感じで、仲間同士ガウガウ言っている。
おいおいどーする、話が違うじゃねーか、と言ってそうな気がする。
「できればここで引いてくれないかな? ほら、まだみんな生きてるしさ」
恋唄をしっかりと抱き直しながら、そう提案してみる。
数十メートル先まで投げ飛ばされたケルベロス達はピクピクしているが、なんとか生きてくれているようだ。今の俺の視力なら、どんなに離れていても呼吸のために動く胸の揺れすら目視できていた。
「ガァァァァァァッ!!」
俺の提案を蹴るように、一際大きな声で叫んだケルベロスの一頭。
そいつの魔力が爆発的に高まるのと同時――初めて触れる魔力の質や流れが完全に理解できている俺の状況については、ひとまず置いておいて――突如そいつの3つの頭の前に、幾何学的な紋様の魔方陣が光と共に展開された。同時に尻尾の黒い炎も急激に大きくなる。
「……これが、魔術か」
魔方陣を構成する術式は78段の階層で編纂されている。幾分無駄な流れや重複した式がありもったいないが、それでもこの規模の術式を一瞬で構築する技術と魔力には、正直賞賛を覚える。そしてそれが完全に理解できてしまっている俺自身に、正直引く。あの女神様、半端ない。
冥闇系統魔術、規模は第七階梯。半径1キロ程度の範囲内に塵も残さず灼き尽くす漆黒の炎を墜とす魔術、か。
このまま放たれても俺たちは大丈夫だけど、森への被害が洒落にならないと思う。
お前らの住処を自分たちで壊してどうするんだと呆れるが、他のケルベロス達がその答えを教えてくれる。
「ゥオオオオオオオオオオオンッ!!」
何頭もの高吠えが鳴り響いた瞬間、ガキンと金属音が響く。
俺達と魔術を放とうとしているケルベロスを取り囲むように不可視の魔力の壁が構築された。
「結界か?」
壁となっている魔力の質的に、次元転移系ではなく空間断絶系――つまりは魔術の効果をこの結界内だけに押し留めようということだろう。
魔術を放った本人にはその魔術の効果が及ばないよう術式が構成されているので、俺だけが一方的にダメージを受ける形だ。
一瞬にも満たない時間でよく考えられている。
「ガァッ!!!」
にやり、と三つの頭が同時に笑い、自信満々に魔術が放たれた。
黒い炎で作られた、まるで隕石のような炎の塊が轟音と共に襲ってくる。
「……キャウン?」
このままそれを喰らうこと――それは、恋唄の服が燃えてしまうことになってしまう。
正直、それはそれでアリかなと思ってしまうが、今後の関係を考えるとそれは悪手だ。事故だと言い張ったところで――もしかしたら許してくれるかもしれないが、俺が罪悪感で何日か悩んでしまいそうだ。
だから。
迫ってくる大炎の塊を。
「破ッ!」
大声で、吹き飛ばした。
それは大地を揺るがし、取り囲んでいた結界が木端微塵に砕け散り、「んな馬鹿な」と呆けた顔をしてる魔術を放ったケルベロスを弾き飛ばす。
指向性を正面に向けていたため、向こう数百メートルの大木が大砲で撃たれたように円形に削り取られていた。
声に魔力を纏わせることで、それが巨大レーザーみたいな攻撃兵器となる。
言ってしまえば俺の保つ魔力の塊をぶつけただけだ。単純だからこそ、絶対的に魔力の量と質で勝負が決まる。
さすがにそれを見たケルベロス達はキャインと悲鳴をあげ、尻尾を股の中に隠しながら散り散りに逃げていった。
尻尾燃えているけど、股に隠して大丈夫なのか?
まあ何はともあれ。どうやら危機は脱したようだ。
「ふひぃぃ……」
変なため息がもれる。初めての命のやりとりだ。
余裕ぶっこいていたものの、生きた心地がしなかった。
やっぱり、争いは良くないな。
平和が一番。ラブアンドピースだ。
――スキル【感知】を獲得しました。
――スキル【格闘術】を獲得しました。
――スキル【千里眼】を獲得しました。
――スキル【冥闇系魔術】を獲得しました。
――スキル【冥闇耐性】を獲得しました。
――スキル【炎耐性】を獲得しました。
小さな鈴の音とともに、あの女神の声がアナウンスのように聞こえる。
なるほど、これが『スキル』か。
身体に小さくない変化を感じながら、とりあえず近くにあった無事な大樹の下に座り込み、未だすやすや幸せそうに眠る恋唄を横たえる。
どんな夢を見ているんだろう。
地面が冷たかったからか身じろぎをしたが、まだ起きる気配はない。
周りを見渡すが、倒したケルベロス達の姿もなかった。逃げる最中に仲間が回収していったのかな。案外仲間思いの良い奴らなのかもしれない。
あー……でも、どうせなら今後の食料にしたかったな。
いや、でも犬に近い形の生き物は食べられないか……。
改めて周りを見渡す。
深い深い森の中。
近くに人里があるかどうかも分からない。
食料、無し。
水も無し。
言ってしまえば、俺も恋唄も持ち物は今着ている服だけだ。
どうしようかなぁ……。
ため息をつきながら、空を見上げる。
大きな木に隠れて空は見えなかった。
代わりに、ここに飛ばされてしまったこれまでが思い出された。




