スチル4.ホワイエ(紺&鳶・出会いイベント)
オペラといえば、声量、表現力共に豊かな歌手のイメージが強いけど、舞台装置の素晴らしさも見どころの一つだと思う。
『蝶々夫人』は当時大流行したジャポニズムが色濃く影響した作品だから、衣装もすごく楽しみだったり……。つまり何が言いたいかというと、早く始まれ!
抑えきれないわくわくに身を焦がしながら、私は赤い緞帳を見つめた。
『蝶々夫人』
このプッチーニの有名なオペラは、アメリカの海軍中尉・ピンカートンが現地妻を斡旋してもらう場面から始まる。
ピンカートンは「人生は楽しまなくっちゃ!」という非常に享楽的人生観の持ち主で、ここ日本でも着物姿のゲイシャといちゃこらしようと鼻の下を伸ばしてやってくる。
そこに現れたのが、このお話のヒロイン・蝶々さんだ。
没落したとはいえ、元は武士の娘である蝶々さんは、結婚を本物と勘違いし、なんとキリスト教に改宗までしてしまう。結果、伯父さんは激怒し、彼女は親戚全てから縁を切られる羽目に。
アメリカ領事のシャープレスさんは、清純な蝶々さんを悲しませるのは良くないとピンカートンに忠告するのだけど、彼は本気にするどころか、『私が本当に結婚する日と、花嫁となるアメリカ人女性にかんぱーい!』なんて言い出す始末。
そんなこととも知らない蝶々さんは、降って湧いた幸福に舞い上がる。
第一幕の見せ場である、蝶々夫人とピンカートンの二重唱は、本当に素晴らしかった。
甘い夜を共にした2人。束の間の幸福に酔いしれる蝶々さん。
生オケの演奏とぴったり重なる見事なハーモニーに、うっとりと目を閉じる。
『今の私にとって あなたは全てです。初めて会ったその瞬間から 私の全てになったのです』
ピンカートンを一途に慕う蝶々夫人の台詞が、胸に突き刺さってくる。
紅様に一目惚れした、かつての自分が嫌でも浮かんできた。
私もまさにそんな気分だった。
相手が二次元の推しだったところが、蝶々さんの比じゃなく痛いけど。
一時間弱の第一幕が終わり、客席の照明が戻る。
うっとりとハンカチを握りしめ余韻に浸っていた私の肩を、紺ちゃんが優しくつついた。
「先生がホワイエで飲み物でもどうかって。行こうよ、ましろちゃん」
ホワイエ、というのは休憩時間に飲み物や軽食を味わえる場所のこと。
実はこっそり調べてきたんだよね。休憩所って呼ばないところがかっこいいよね。
紺ちゃんとトビーとの出会いイベントは、この幕間に起こる。
トビー王子って、一体どんな人なんだろう。私は呑気に考えながら席を立った。
体の曲線を引き立てるシャンパンゴールドのスーツを身に纏った亜由美先生と、ビスクドールのように愛らしい紺ちゃんは、ホワイエの中でも飛びきり目立っていた。
私も一応よそ行きのワンピースを着てきてるんだけど、2人の小間使いにしか見えない自信があります。
先生はまっすぐにブッフェに向かい、ジュースを頼んでくれた。
よくここに来ていることが分かる迷いない足取りだ。席は予約してあったし、どこまでもスマートな立ち居振る舞いに溜息しか出ない。
「どうだった?」
先生に感想を求められたので、素直に「ピンカートンが嫌いです」と答えたら、鈴の音のような美声でころころと笑われた。
「二幕のアリア、楽しみだなあ。最後は泣いちゃうかも」
紺ちゃんの返事はすごく可愛くて、先生も私もニコニコしてしまった。
和気藹々と感想を述べ合い、ジュースを飲み終え、さてそろそろ戻ろうか、と亜由美先生が私達を促す。
立ち上がろうとしたところで、隣に座っていた紺ちゃんが、私の手を握ってきた。
紺ちゃんはひどく青褪めていた。驚きながら彼女の視線を追う。
ブッフェの入り口から、2人連れが入ってくるのが見えた。
一人は長身の男性で、同じくらい背の高い女性を連れている。
紺ちゃんの眼差しは、その男性をひたと捉えていた。
憧れの君に出会えたというより、仇敵を見つけたみたいな厳しい表情に驚いてしまう。
男性は亜由美先生に向かって軽く手をあげた。
「It’s been such a long time.Ayumi」
サラサラと流れる金髪は上等な絹糸のよう。
長い前髪を二つに分け、片方は耳にかけている。
碧色の瞳は甘く煌めき、高い鼻梁と薄い唇はこれしかないという絶妙なポジションに配置されている。
中性的で繊細な美貌……。間違いない。この人が、トビー王子だ。
「トビー! 本当に久しぶりね。いつ日本に帰ってきてたの?」
亜由美先生は私達を気遣ったのか、日本語で答えた。
「つい最近だよ。姉もアユミに会いたがってたから、そのうち連絡がいくんじゃないかな。……今日はずいぶん可愛いお連れさんと一緒なんだね?」
トビー王子も状況を察したのか、日本語になる。
日本語もすごく上手い。耳触りの良い低音がすごく魅力的だ。
「うちの生徒たちよ。こちらは紺ちゃん。すでにコンクールでの入賞経験もある将来有望な子なの。こちらは真白ちゃん。最近ピアノを始めたばかりなんだけど、とっても筋が良いの。今日はいい勉強になると思って連れてきちゃった」
「そうなんだ。よろしくね、コン、それにマシロ。音楽を続けていくには強力なライバルが必要だ。君たちが将来有望なピアニストに育つのを、楽しみにしているよ」
まるで台本を読んでいるかのように、滑らかな語り口だ。
憧れの君に会えたというのに、紺ちゃんは完全に普段通りだった。むしろ冷ややかといってもいいくらい落ち着き払っている。
私が紅様と初めて遭遇した時なんて、挙動不審の塊だった。
紺ちゃんの場合、イベント進行を知っているからかもしれないけど、それにしても……。
「忙しいあなたがわざわざ足を運んで見に来るなんて。もしかして、仕事の一環かしら?」
亜由美先生が尋ねると、王子は軽く頷いた。拍子に金絹のような髪がキラキラ揺れる。
「まあ、そうかな。いや、どうなるかはまだ分からないけど」
将来的に音楽学校を経営する話が、すでに出てるのかもしれない。
何となくだけど、彼の口ぶりからそう思った。
「じゃあ、もう行くね。連れを待たせているから。さよなら、可愛いピアニストさんたち」
トビー王子は軽やかなウィンクを投げかけ、踵を返した。
気障な仕草がおそろしく決まっている。映画スターみたいだ。
少し離れたところで待っていた女性を優雅にエスコートし、去って行く彼の背中を、紺ちゃんは固い表情のまま見送っていた。
「先生、今の方は?」
とっくに誰かは分かってるけど、聞かないと話の流れ的に変だ。
私が尋ねると、先生はしまったというように額に手を当てる。
「ごめんなさい、うっかりしてたわ。彼は私の友人の弟なの。山吹 鳶さんっていうのよ」
揃って頷く私達を見下ろし、先生は首を傾げた。
「あら、驚かないのね。かなり変わった名前でしょう?」
紺ちゃんは愛らしく眉を顰め「私には同意を求めないで下さいね、真由美先生」と唇を突き出した。
確かに紺ちゃんの名前もかなり珍しい。
思わず笑ってしまった私を肘で小突き、紺ちゃんもくすくす笑った。
どうやら、トビーの恋人のことは気にしてないみたい。
固い表情は、連れの女性のせいかと思ったけど、違うのかな。
「紺ちゃん、大丈夫?」
「え? 何が?」
「その……鳶さん、女の人と一緒だったから」
先生に聞かれないよう、小声で話した私を驚いたように眺め、紺ちゃんは瞳を細めた。
「あの年とルックスで彼女がいない方がおかしいでしょ。全然気にしてない」
「そうなんだ」
「彼の攻略方法は分かってるし、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
ふわりと微笑んでお礼を言う紺ちゃんは、ひどく大人びて見える。
彼女が大丈夫だと言うなら、きっと大丈夫なんだろう。
自然とそう思える説得力みたいなものが、紺ちゃんの言葉にはあった。
さて、と。これで今日のイベントは終わり。
肩の力を抜いた私は、ホワイエを出てすぐのところで、自分の目を疑う羽目になった。
「紺! なんだ、亜由美と来てたのか!」
スーツ姿の紅様が数メートル先に立ってこちらを見ている。
とっさに亜由美先生の背中に隠れようとしたけど、間に合わなかった。
私を認識した紅様の眦がきりきりと上がっていく。
おぞましい害虫でも見つけたかのような嫌悪の眼差しに、正直いってかなり傷ついた。
「……あれ。俺の目がおかしいのかな。いるはずない奴の姿まで見えるんだけど」
「それ、私のことかな?」
落ち込んでる場合じゃない。なけなしの勇気をかき集め、一歩前に出る。
こうなったら直接対決だ。コソコソ逃げ出すのは絶対に嫌だった。
「察しはいいみたいで、良かった。俺が前に言ったこと、もう忘れたのかと思ったよ」
「忘れてないけど、あなたに指図される覚えはないよね」
「……開き直ったのか。図々しい女だな」
あまりの言われように頭が真っ白になる。
立ち尽くした私を庇うように亜由美先生が前に出た。
先生は止める間もなく右手を振り上げ、ペチン、と紅さまの頬をぶった。
「いい加減になさい、コウ。紺に聞いたわよ。あなたの気持ちは分からないでもないけれど、失礼にも程があるわ」
亜由美先生が庇ってくれた!
親戚筋の紅様じゃなく、弟子になったばかりの私を!
驚きと感激で、言葉が出ない。
更には紺ちゃんまで私の前に出て、紅様を非難した。
「前も言ったでしょ。真白ちゃんは、私の大切な人なの。勝手な先入観で、私の友達を侮辱しないで」
紺ちゃんの華奢な背中が、怒りで張りつめている。
まだ知り合って間もない私を、どうしてそこまで擁護してくれるんだろう。理由が分からず、あっけに取られてしまう。
紅さまはぶたれた頬を押さえようともせず、ただじっと紺ちゃんを見つめ返していた。
赤くなった、小さな頬。
彼だって蒼くんと同じ、まだ8歳の男の子なんだ。
8歳の男の子の癇癪を真に受け、一喜一憂してしまう自分が恥ずかしくなる。
目の前の紅様は、ゲームの紅様じゃない。
そんな当たり前のことをようやく実感できた。
「これ、濡らしてほっぺ冷やした方がいいよ。……成田くんには信じて貰えないと思うけど、私は紺ちゃんに危害を加えたりしないから。約束する」
ワンピースのポケットからハンカチを取り出し、彼に差し出す。
きっとそっけなく断られるだろう。それでも、放ってはおけなかった。
紅様の心の傷は、いまだ生々しく痛みを訴えているのだと、その表情で分かったから。
彼を好きになった女の子たちは例外なく、紺ちゃんの存在を許容しなかった。
紺ちゃんを刺したのは、紅様が通っていたヴァイオリン教室の子だったそうだ。
紺ちゃんの脇腹にはその時の傷がまだ残っている。
最愛の妹を危険に晒してしまったことを、彼はどんなに悔やんだだろう。
それからどれだけも経たないうちに、紅様の大切な人たちの前に突然現れた私。
自分への好意を隠そうとしない私を、紅様が警戒するのは当たり前だ。
「……ごめん」
紅さまはか細い声でそう言うと、私のハンカチを受け取ってくれた。
謝ってくれるとは思ってもみなかったので、心底驚いた。
しゅんと萎れてしまった彼に、同情心が湧いてくる。
「うん。じゃあ、仲直りしよ」
「もともと仲良くないのに、どうやって?」
……それな。
◇◇◇
本日の主人公の成果
攻略対象:成田 紅
イベント:やっぱり犬猿
前作主人公の成果
攻略対象:山吹 鳶
イベント:金を生む幼木
クリア