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ボンヌ作曲 カルメン幻想曲
フランスのフルーティスト、フランソワ・ボルンが、ビゼーのオペラ『カルメン』を独自にアレンジして作曲したのがこの『カルメン幻想曲』だ。
カルメン登場の音楽、そして第4幕より「カルメン、まだお前が好きだ」続いて「運命の動機」。第1幕より「行ってきておくれ、セビリアの街へ」そして同じく第1幕より 「ハバネラ」。第2幕より「ジプシーの歌」最後に第2幕 より「闘牛士の歌 」の7つを繋ぐように構成されている。
有名なのは、ハバネラ。そして闘牛士の歌かな。その部分だけを演奏する人も多いみたい。
初合わせということで、美登里ちゃんは聴衆である紺ちゃん達ではなく私の方を向いてフルートを構えた。さっきまでの和気藹々とした雰囲気から一転。ピンと張りつめた空気が漂う。
私は鍵盤に指を落とし、最初の連続音を鳴らした。両手で同じ和音を刻みフルートを待つ。
美登里ちゃんは真剣な表情で耳を澄ませていたが、自分のパートがくるとスッと息を吸い、軽やかにフルートを奏で始めた。
哀愁漂う八分の六拍子。よくそこまで息が保つな、という長さでトリルを吹き鳴らし、眩惑的な四拍子パートへ。高音の透き通るような音色の美しさももちろんだけど、低音のこっくりとした艶やかさも素晴らしい。
アッチェレランド(次第に速く)の部分は、お互いの目を見ながらテンポを調節した。ああ、もっと早くてもいいのか。ごめんね、美登里ちゃん。
そしてハバネラ。独特のリズムに乗って、フルートとピアノが同じ主題を掛け合う。ここはテンポ・ルバート(自由な速さで)。
生き生きと頬を紅潮させ、体をかすかに揺らしながら音楽の波を引き起こしていく美登里ちゃんをサポートするように、私も音色を寄り添わせる。
合わせる練習を繰り返して完成度を高めれば、ここは鳥肌ものの見せ場になるだろう。
一通り主題を繰り返した後は、凄まじいほどの装飾音をまぶした同じメロディが繰り返される。
ここはフルートの独壇場だ。美登里ちゃんの卓越したテクニックに圧倒されてしまう。
そして最後に、闘牛士の歌。軽快なメロディとリズム。駆け上がっていくフルートの音色を支えるように、クレッシェンド。最後の和音をズンと響かせ、腕を上げる。
紺ちゃんと紅は、すぐに惜しみない拍手をおくってくれた。
「美登里ちゃんっ、すごいっ!!」
フルートを置いた美登里ちゃんに、今度は私が飛びつく。
とてもじゃないけど、じっとしていられない。そのくらい素敵なカルメン幻想曲だった。
「どうやったらあんな風に吹けるの? 息ってどれくらい止められる? すごい肺活量だよね!」
「ちょ、ちょっと待ってよ、真白。calm down!(落ち着いて)」
美登里ちゃんに背中を軽く叩かれ、ハッと我に返る。
ごめん、と謝り、一歩下がった。今の完全に待てが出来ないワンコ状態だったよ、恥ずかしい。
「真白のピアノはすごく合わせやすいわ。こんなに気持ちよく吹けたのは、ノボル以来よ。しかも、初めて合わせたのに!」
美登里ちゃんの賞賛に、へへ、と顔が緩んでしまう。
紅は何故か、少し不機嫌になっていた。
「ピアノだけかと思ってたけど、どうやら楽器なら何でもいいみたいだな。演奏が終わる度に相手に抱きつくようじゃ、真白は迂闊にアンサンブルは組めないね」
呆れ声を上げる紅に向かって、イーッと鼻に皺を寄せてやる。
誰にでも、ってことはないよ! すごく上手い人にだけだよ!
紅も負けずに顰めっ面を返してくる。
にらみ合いを続ける私達の間に、美登里ちゃんが割って入った。
「はいはい、そこまで。仲良しなのは分かったから」
え? 今のやり取りのどこに仲良し要素があった?
思わず真顔になってしまう。
私は気を取り直し、美登里ちゃんに尋ねた。
「次は、部分ごとに細かく合わせていかない? そしたら、もっと良くなると思うんだ」
「そうね。でも、ちょっと休憩しない?」
喉乾いちゃった、という美登里ちゃんに、紺ちゃんが立ち上がり、インターホンで飲み物を頼んでいる。それが終わると、紺ちゃんは美登里ちゃんに近づき、そっと耳打ちした。
「頑張ってね、美登里ちゃん。真白ちゃんはここからが長いわよ。怖いくらいの完璧主義者だから」
その紺ちゃんの警告、ちゃんと聞こえてますけど?
「Are you serious?(マジで?) ソウをからかうネタにしようと思って引き受けたけど……そっか……ピアニストだもの、変人じゃないわけないわよね」
美登里ちゃんまで! それどんな偏見!?
抗議しようと口を開きかけた私の脳裏を横切ったのは、ノボル先生でした。
……うん、確かにね。
中学最後の夏休みは、レジャー三昧で終わった。
結局8月の終りまで日本にいた美登里ちゃんに連れ回されたのだ。
遊園地、美術館巡りに花火大会。こんなに遊んだの、今の人生では初めてかもしれない。
美登里ちゃんは生まれて初めてファーストフード店に入ったそうだ。
お小遣いの範囲内で遊びたいと私が主張した結果、彼女達はトレイにハンバーガーとジュースを乗せ、おそるおそろるプラスチックの椅子に腰を下ろす羽目になった。
一目でハイブランドと分かるお洋服に身を包んだ紺ちゃんと美登里ちゃんは、周囲からものすごく浮いていた。周りの人からガン見されてたし。うん、ごめん。ちなみに味はあんまりだったらしい。
「こんなに遊んでていいのかな~。受験生なのに、ってそろそろ後ろめたいんですけど?」
私がぼやくと、美登里ちゃんは「だって」と頬を膨らませた。
「この3人で思いっきり遊べるのも、今年が最後かもしれないでしょ?」
「最後? なんで?」
「だって高校でマシロにステディが出来たら、そっち優先になるに決まってるもん。デートを邪魔したりしたら、後が怖いし」
そんな出来るか出来ないか分からないエア彼氏に遠慮しなくったって。
一笑に付した私を見て、美登里ちゃんと紺ちゃんは意味深に目配せしあった。
「そうだね。どっちを選んだとしても、真白ちゃんは独占されるよね」
「独占って言い方、可愛過ぎない? 完全監視だよ」
……なんだろう、ひそひそ声に背筋がゾクっとしたんですけど。
秋は静かにやってきた。
最後の体育大会、そして文化祭と学校行事が目白押し。日頃の受験ストレスを発散させるかのように、皆は真剣に取り組んでいた。ええ、真剣過ぎるほど、真剣に。
円陣を組んで「3組、ファイオー!!」なんて気炎を上げるクラスメイト達のテンションといったら凄かった。まあ、対象が何であれ一生懸命取り組む方が楽しいに決まってるよね。
男子の棒倒しを女子がチアの恰好して応援して異様に盛り上がったり、合唱コンクールの為に朝6時に学校に集まって朝練したり。これぞ青春、という毎日を送った。
去年に引き続き、文化祭でピアノを弾くことになったんだけど、今回は先生たちのリクエストもあって、ショパンの華麗なる大ポロネーズ、そしてリストのため息を披露した。
クラシックだけの演目で大丈夫かな? という心配は杞憂でした。静まり返った体育館の中、私の奏でるシロヤマの音色だけが立ち昇っていく。盛大な拍手に包まれて、ミニリサイタルは幕を閉じた。
そして、あっという間にやってきた冬。
テスト漬けの毎日が再び始まり、学校は受験一色ムードへ突入。私も年明けの推薦入試に向けて、ソルフェージュを強化することになった。
簡単な面接だけだよとトビーは言ってたけど、準備を万全に整えておくにこしたことはない。
だってトビーの言うことだよ? 鵜呑みにするなんて危険な真似、とてもじゃないけど出来ない。
初見の練習も重ねておく。
音楽学校の試験には必ずと云っていいほどある『初見』。
やり方としてはまず、調性、拍子、テンポを確認した後、ざっと音符の並び方を見る。このくらい離れてたら5度の和音だなとか、読み慣れてくると目を通しただけで音の並びが頭に入ってくるようになる。本番は受験生全員が知らない曲じゃないとダメだから、学校の先生の手書きの楽譜であることが多いんだって。
ずらりと並んだ面接官の見守る中、楽譜を読む時間を何分か与えられ、はいどうぞ、と弾かされる。楽譜を素早く読み取る技術だけじゃなくて、心臓の強さも試されることになる。
幸いなことに、私は初見も暗譜も苦手ではないから、何とかなるだろう。
クリスマスは、紺ちゃんと一緒にランチクルーズに出かけることになった。
クリスマスクルーズって響き、すごく素敵じゃない?
しかも弦楽四重奏の生演奏付きだよ! テンションあがってもしかたないよね。
私以上に張り切った花香お姉ちゃんによって、良家の子女風な恰好へと大変身。光沢のあるクリーム色のワンピースを着た紺ちゃんと合流し、手を繋いで船に乗り込む。
昼食が用意された広間は広く、煌々としたシャンデリアの下、華やかに着飾った人々が楽しそうに談笑していた。
真っ白な制服姿のボーイさんに椅子を引いてもらい、席に着く。
糊のきいたテーブルクロスの上に食前酒が運ばれるタイミングで、広間の前にスタンバイした演奏者たちが優雅な音色を奏で始めた。
私達は未成年なので、乾杯! と掲げるグラスの中身はソフトドリンクだ。
「美味しいご飯を食べながら、シューベルトを聴けるなんて最高!」
「ふふ。本当だね」
紺ちゃんは、いつにも増して綺麗に見えた。
流れるような茶色の髪をさらりと耳にかけ、優雅な手つきでお肉を切り分けている。眼福だなあ。
「そういえば、真白ちゃんは協奏曲はやらないの?」
「来年あたり、亜由美先生が準備してくれるって言ってたけど、紺ちゃんは?」
「青鸞の大学オケとか何度か合わせたことはあるわ」
「うわ~、いいなあ~」
近くで聴いてみたかったな。
うっとり夢想する私を見て、紺ちゃんは微かに微笑んだ。そのまま、まるで目に焼き付けようとするかのように凝視してくる。
「……えーと。流石に恥ずかしいんですけど」
美少女にまじまじと見られるのってつらい。毛穴、開いてないよね? 産毛、いつ剃ったっけ。
耐え切れなくなって降参すると、紺ちゃんは口元をナプキンで押さえて笑い出した。
「もう。普段は飄々としてるくせに、変なところで照れ屋なんだから」
クスクス笑った後で、紺ちゃんは学院の話をしてくれた。
紅は、ファンクラブの子達を接待するのを止めたらしい。
三年になってからは、多忙を理由にデートも断ってたんだって。最近は学院でも、一人にして欲しいと頼むことが増えたそうだ。
苗字は違うけど紺ちゃんが双子の妹だってこと、ようやく学院中に浸透したのかな?
私が確認すると、紺ちゃんは「うん、流石にもう三年経つし、私と紅のことを知らない人はいなくなったよ」と明るく頷いた。
良かった~。心の底から安堵して、深い息を吐く。
私達はお互いの近況を報告しあいながら、最後のデザートまで美味しく平らげた。
「……帰りたくないな」
やがて船から降りる時間が来る。紺ちゃんはフロアを出たところで立ち止まり、ポツリと呟いた。
「どうしたの、急に」
人の波を避けようと廊下の端に寄り、立ち尽くした紺ちゃんを振り返る。
紺ちゃんはコートの前を右手でかきあわせ、寒そうに身を縮こまらせていた。
今にも消えてしまいそうな儚さが、紺ちゃんを縁どっている。
彼女は何度か口を開いては閉じ、を繰り返した後、絞り出すような声でこう言った。
「すごく楽しかったから。……このまま時間が止まればいいのになって思ったの」
「珍しいね、紺ちゃんがそんなこと言うなんて。寂しくなっちゃった?」
確かに私もすごく楽しかった。
名残惜しい気持ちでいっぱいなのは、私も同じだ。
「でもさ。きっとこれからだって、楽しいことはいっぱいあるよ。4月からは同じ学校に通えるんだし、またこうやってお出かけしよ?」
「――うん。そう、だね」
何も分かっていなかった私は、陳腐な慰めの言葉をかけ、紺ちゃんの背中を優しく撫でた。
思えばそれは、彼女が口にしたたった一度の弱音だった。
紺ちゃん――ううん、花ちゃんには、全ての結末が見えていたのかもしれない。彼女の覚悟の深さは想像でしか推し量れないけど、たぶんそう。
私には見えていなかった。
私に見えていたのは、これからもずっと紺ちゃんと一緒に笑い合って生きていく未来だった。




