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三年になって大きく変わったこと。
それは、学年全体が受験体制に入ったことだ。
一学期は、テストづくめ。この一言に尽きた。
実力でしょ。中間でしょ。またまた実力でしょ。そして期末。
テストとテストの間隔が2週間くらいしかない。
塾に通ったり、校外模試を受けてる子たちはそれ以上にテスト漬けだろう。
学校側の『オラオラ、お前ら受験生だよな。今の偏差値つきつけてやんよ』といわんばかりの本気が感じ取れるスケジュールだ。
早いテンポで結果を次のテストに反映できるのって、私はいいと思うんだけどね。
グロッキー状態のクラスメイトに向かって本音を口にしないだけの常識は持ち合わせている。
ピアノのレッスンは、ベートーヴェンのソナタ、ショパンのエチュード、バッハのパルティータなどを順におさらいしている。そこにラヴェルやスカルラッティなどを挟んでいく感じだ。
弾いたことのある曲をもう一度やり直したり、協奏曲のピアノパートだけを練習したりすることもあった。
「真白ちゃんもそろそろ、オケと合わせる練習をしたいところよね。ショパンなら室内楽版を使えば管はいらないわけだし、プーランクなら20人程度のオケでいいし」
亜由美先生の言葉に、私はすかさず食いついた。
「はい。是非チャレンジしてみたいです」
「オケの都合がつけば、になってしまうけど。今年が無理でも、来年あたりには何とかしてみるわ」
「ありがとうございます!」
ピアノは独奏楽器だから、一人でコツコツ練習していくのに飽きがきたりはしないんだけど、音楽には『合わせる楽しみ』というものがある。
今までアンサンブルは紅達としかやったことないし、木管や金管と合わせるのはすごくいい経験になりそうだ。
「そういえば、夏にノボルの妹さんが来るんでしょう?」
「美登里ちゃんですよね。はい、そう聞いてます」
「彼女のフルートの腕はかなりのものらしいわよ。今度合わせて貰えるように、頼んでみたらどうかしら?」
確かに! 逆にどうして今まで思いつかなかったんだろう。
去年、ノボル先生と一緒に演奏したメヌエット、すごく素敵だった。
私は帰宅してすぐ、善は急げ、とばかりに美登里ちゃんにあてて手紙をしたためた。
一週間もしないうちに彼女から電話がかかってくる。
美登里ちゃんは私の頼みを快くOKしてくれた。
『ふふっ。これはソウが悔しがるわね! コンに当日の撮影を頼まなくちゃ!』
美登里ちゃんは電話口でやけに興奮していた。
「撮影か~。いいね! その方が後から細かくチェックできるもんね。曲なんだけど、ボルヌのカルメン幻想曲なんてどうかな?」
『そういう撮影じゃないけど、まあいいわ。カルメン幻想曲なら得意よ。楽しみにしてて!』
「うん! 私も頑張って練習しとく!」
『じゃあ、また夏にね、真白。be seeing you!』
慌ただしくも充実した一学期が終わり、夏休みに突入した。
もう8月も半ば過ぎ。日が落ちても、うだるような暑さは変わらない。
コンクールという大きな目標をクリアしてしまったせいだろう、実はあれ以来、気が抜けたようにやる気が低下していた。
「このままじゃやばい」という自覚はあったから余計に焦っていたんだけど、美登里ちゃんとの合奏が決まってからは、再び練習が楽しくなっていた。
カレンダーを横目で確認。美登里ちゃんとの約束は明日だ。
日本に着いた日に電話をくれた彼女は、相変わらずパワフルでエネルギーに満ちた声をしていた。
夏バテなんて言っていられない! 私も頑張らなくちゃ。
翌日、私は能條さんの運転するベンツに乗って、玄田邸に向かった。
ノボルさんは、亜由美先生のヨーロッパツアーを追いかけて回るらしく、日本には帰ってきていない。
先生不在の間のレッスンは、亜由美先生の恩師である斎藤先生にみてもらっている。
斉藤先生は60前の恰幅のいい紳士然としたおじ様で、丁寧な指導を施してくれている。エキセントリックなノボル先生とは真逆の、楽譜に忠実な指導法だ。
紺ちゃんは「ホッとするのと同時に物足りない気もしちゃうんだけど、真白ちゃんは?」とこっそり尋ねてきた。私もおおむね同意なんだけど、ノボル先生に調教されてしまった気がして、素直に認めるのには抵抗があった。
あんなはちゃめちゃなレッスンを全肯定してしまったら、真面目な斉藤先生が気の毒過ぎる。
ノボル先生の不在で兄の家が使えない美登里ちゃんは、本邸にお泊りしている。
彼女いわく『じじいが頑固で家の空気が悪いから、ホントは帰りたくない』らしい。
お金持ちにも色々あるな~って……この感想、もう何度目だろ。とにかくセレブも楽じゃなさそうだ。
ハンカチで汗をふきつつ離れに向かうと、すでに来ていた美登里ちゃんに熱烈な歓迎を受けた。
「真白ッ!!」
「うわっと。――おかえり、美登里ちゃん」
「真白に言われるとすごく嬉しいわね、その言葉。ただいま、真白」
しがみ付かれる形でぎゅうぎゅうに抱きしめられ、首筋にぐりぐりと柔らかな頬を擦り付けられる。
「もう、汗かいてるのに! 臭いでしょ、離れて離れて」
「ええ~、真白はいつもいい香りよ?」
「そういう問題じゃないの!」
美登里ちゃんはようやく満足したのか、ハグは終了。あけっぴろげに好意を示されて嬉しくないわけじゃないけど。西洋式の挨拶には、一生馴れない気がする。
「いらっしゃい、真白ちゃん。大丈夫、私もそれやられたから」
紺ちゃんが苦笑しながらスリッパを出してくれた。
ホントだ。よく見ると艶やかな茶色の髪が珍しく乱れている。
「……あれ、紅も来てる!」
奥の部屋に入ると、赤い髪がソファー越しに見えた。
紺ちゃん大好きのシスコン紅が、ちゃっかり居座っているではないですか。
今までも時々ここで鉢合わせてるし、今日ここにいることも不思議じゃないんだけど……。
「いらっしゃい、真白」
紅は一旦立ち上がると、私がソファーに座るのを待ってから再び腰を下ろした。
この紳士っぷりね! ほんとこの人はいつだって無駄にカッコいい。
「こんにちは、紅。なんか最近デート営業減ってない? 大丈夫なの?」
「会うなり、人をホスト扱いしないでくれる?」
さっきまでのにこやかな笑みを消し、紅はあからさまに不機嫌そうな顔になった。
胡散臭い笑顔よりこっちの方が好きだから、ついからかっちゃうんだよね。反省。
「ごめんね。でも今年に入ってから、よくここで会うからさ。ファンクラブの子とは日曜日に遊んでるの?」
「珍しく追求するね。そんなに気になる?」
紅は頬に落ちた髪をかきあげ、じっとこちらを見つめてきた。
声にはからかうような甘さが混じっている。
一連の仕草が色っぽ過ぎて、クラクラした。
ほんとなんなの、この人! いちいち動揺させてこないでよ!
身勝手な理由で吼えそうになったが何とか踏みとどまり、うん、と頷く。
「――え?」
紅様は、ポカンと口を開けた。
そんな顔をしてもひたすら魅力的だなんて、イケメン強すぎる。
私は声を強めてはっきり言った。
「気になるよ。理由があるなら、教えて」
中学生になったばかりの私なら、絶対に口にしなかった台詞だ。
あの頃は、紅を警戒しまくっていたし、何を言われても信用しなかった。
だけどあれから三年近くが経つ。
時を重ねるごとに、彼への評価は大きく変わっていった。
もう紅は私を『部外者』だとは思っていないと、素直に信じられる。
私が紅を大切に思うように、彼もまた私を大切に思っているんだって、今の私は心から信じている。
もしこの確信が錯覚で、本当は影で笑われているんだとしても、昔ほど傷つかない自信もあった。
私の視線をしっかり受け止め、紅は小さく息を吐いた。
「……理由は特にないよ。日替わりの恋人ごっこに飽きてきただけ」
完全に本音は口にしていないとしても、後半は本当のことだろうと伝わる言い方に、思わず笑ってしまう。
「なるほどね。お疲れ様です」
ペコリと軽く頭を下げてみせると、紅はクスクス笑い出した。
美登里ちゃんと紺ちゃんは、微妙そうな表情で私たちを見守っている。
「……なんだかよく分かんないけど。そこは責めるべきトコじゃないの?」
美登里ちゃんは紅を親指でさし、「自分を好きな女の子たちを弄んでる、最低野郎じゃない」と怒ったように言った。
「コウよりソウの方が、まだいいと思う。少なくとも女関係にはだらしなくないし!」
何も知らない美登里ちゃんや他の人には、確かにそう見えるだろう。
だけど、紅は本気で自分を好きな女の子には、絶対に自分から近づいたりしない。真剣に告白されたら、きっぱりと引導を渡す人だ。
ファンクラブのメンバーだって、本当に紅のことが好きなら、彼を誰かと分かち合うなんて発想は出てこない気がする。
彼女達は仲良くつるみながら、紅とのデートの日程を組んでいるという。
見た目がよくて甘い言葉しか吐かない便利な彼氏ロボット。それが彼女たちにとっての紅だ。
誰よりプライドの高い彼が、最愛の妹を守る為とはいえ、彼女たちの言いなりになっている。
そのことに無性に腹が立つこともあった。
私は美登里ちゃんに向かって、きっぱりと言った。
「それは違うと思う。紅は普段から俺様で偉そうだけど、誰かを残酷に傷つけることを好んでやる人じゃない。紺ちゃんを守る為にしてることだし、ファンの子もそれは分かってる。部外者が断罪するようなことじゃないよ」
まさか私が庇うとは思っていなかったんだろう。紅は唖然とした表情で私を見つめた。
吐いた台詞の恥ずかしさに、急にいたたまれなくなる。
自分だって部外者の癖に、なに、熱くなっちゃってんの、って感じですよね。すみません。
「ちょっと言い過ぎたね。ごめん、私も部外者だったわ」
「……ううん。誰にでも事情はあるよね。何も知らない癖に、勝手なこと言って悪かったわ、コウ」
美登里ちゃんは私の言葉を素直に受け止め、紅に謝った。
「気にしてないよ。美坂さんが不快に思うのも当然だから」
紅は軽く手を振り、にこりと笑った。
紺ちゃんは、私達の会話をハラハラした表情で見守っていた。
無事決着がついたのを見て安堵の笑みを浮かべる。
「じゃあ、この話はもうおしまいね。早速合わせてみよっか!」
空気を切り替えようと、明るく声を張る。
「いいわよ。マシロの音とあわせるの、楽しみだわ」
美登里ちゃんも弾んだ声で同意してくれた。




