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続・とある女の告解

 妹が物言わぬ人になったのは、私が19の冬だった。

 春がきて20になり、一年が巡って21になる。

 その間には沢山のことがあったはずだけど、何一つ確かな記憶としては残っていない。

 成人式には出たのだろうか。目を真っ赤に腫らした母に、振袖を作ってもらったような気もする。

 

 父と母は、里香の回復を少しずつ諦めていった。

 毎日の習慣になっていた病院通いが、一日置きになり、二日置きになっていく。

 それはまるで、長い時間をかけて最愛の娘に別れを告げる儀式のようだった。


「花香は何も悪くない」

「花香。お願いだから、もう自分を責めないで」


 父と母を苦しめているのは、里香ではなく自分だと分かっていた。

 だけどどうしても、妹を諦めることは出来なかった。

 まだ18歳だった。

 一生懸命勉強していた。

 青春を謳歌することも、愛する人に愛される喜びを味わうこともなく、妹は死の淵に追いやられた。



◇◇◇◇◇



『里香!』


 道路越しに力いっぱい叫ぶ。


『花ちゃん?』


 パアッと明るい笑みを浮かべ、あの子は立ち止まる。

 目の前の暗い穴は、妹を飲みこんだりしない。


 ああ、良かった!! 今度は間に合った!!


 歓喜の声を上げたところで、いつも夢から覚めてしまう。

 うすぐらい闇の中に浮かぶ天井をしばらく見上げ、のろのろ起き上がって、隣の部屋のドアノブを回す。

 空っぽのベッド。きちんと片づけられた勉強机。


 いったいどこにいったんだろう もうよなかの2じなのに


 しばらくぼんやり立っているうちに、ようやく思い出す。

 里香は二度とこの部屋には戻らないという、受け入れがたい現実を。


 同じ夢をみるのは何度目だろう。

 10を越えた辺りから、涙は出なくなった。100を越えた辺りから、数えるのはやめた。

 私は終わりのない悪夢の中を生きている。



   ◇◇◇◇◇



 植物人間になった里香の回復の望みは、ゼロに近い。

 体はゆっくりと衰弱していき、ちょっとした感染により数年のうちに亡くなってしまうケースが多いそうだ。

 それでも実際に目にする里香は、ただ眠っているように見えた。


「里香――来たよ」


 消毒を済ませてから病室に入り、青白い手を握ってみる。

 ほら、この子の手は、まだこんなに温かい。

 今にも目を覚まし、ふわりと笑ってくれそうなこの子を、どうして諦めきれるだろう。


「花ちゃんって言って、里香。は、な、ちゃん、って」


 私の身勝手なお願いに、理香はしらんぷりだ。

 そうだよね。ゴメンね。

 気持ちを切り替え、今日の空の色。持ってきた花の種類。母さんと父さんがどうしているか。思いつく全てのことを語りかける。

 何も言うことがなくなると、帰りの時間になってしまう。私は一方通行の話題を必死で絞り出した。


 病室を出ていく時が一番辛かった。


「……私ね。里香のこと、ずっと待ってるよ」


 ゆっくり手を離し、何度も振り返りながら外に出る。

 じわじわと閉ざされていく扉の向こうで、里香は眠っている。視界が白い扉で塗りつぶされれば、今まで目にしていたもの全てが幻のように思えた。

 この瞬間が一番嫌いだ。

 

 私は病院通いの合間を縫って、ネットや人伝えで仕入れた情報を確認する為にあちこちを訪れた。

 亡くなった人と話せる電話。亡くなった人からの手紙が届くポスト。

 里香はまだ生きている。だからだろうか、どんなに調べても彼女を引き戻す方法は見つからなかった。

 分岐点は、私が24を迎えようとしていた夏。

 私はついに、“彼”を見つけることが出来た。



 その日、私は一番会いたい人に会えるという隣の県のとある橋までやってきていた。

 お盆の決められた一日だけ、その橋のたもとに柘榴(ざくろ)のお供えをすると、今生では二度と会えない人に会えるというのだ。

 私は人づてに教わった時間にそこへ向かい、柘榴を供えて一心に里香の名前を唱えた。


 ――お願い、里香。私はここだよ。戻ってきて。


 地元では有名な願掛け橋らしく、私の手に柘榴があるのを見て取ると、人々はそっとその場から離れていく。

 蜩の鳴く逢魔が時。

 辺りに人気(ひとけ)はない。

 誰もいなかったはずの橋の上に、突如として一人の男が姿を現わした。

 空中に漂う夏の(おり)がふわりと形になったような、そんなさりげなさだった。


「キミのその願いは、人に許された境界を越えているよ、ハナカ」


 金の髪を風に舞い上がらせ、その男は整った唇をにい、と引き上げた。

 一目でおかしいと気づいた。人間の気配がない。形だけ人に見せかけた得体の知れない生き物が、そこには立っていた。

 強烈で異質過ぎる存在感に、全身の毛が逆立つ。


「それでも、キミは望むの? リカが戻ることを」

「――望むわ」


 私は躊躇わなかった。

 全身の毛が逆立つほど怯えていたが、それと同じくらい歓喜していた。

 彼は、私が求め続けた『希望』だった。

 

 どこまでも澄んだ青い瞳が、夕暮れの光を反射して真っ赤に染まる。


「言ったね? じゃあ、取引開始だ。キミの妹とキミ自身の命をかけて、ワタシとゲームをしよう」


 男は嬉しそうに破顔すると、ゲームとやらの内容について説明し始めた。


 私の心はとっくに壊れていたのだろう、素直に男の存在とその言葉を飲み込み、真剣に耳を傾ける。

 翌年の一月。里香が事故にあったのと同じ日に、私はこの世界から離脱することになった。

 新しく彼が作った別の世界に移動し、彼の決めたゲームの参加者になるという。

 別の世界、と聞いた瞬間、興奮がスッと冷める。


「異世界に移動? そんなことが出来るとは思えない。もっと現実的な話をしてよ」


 不機嫌に言い放った私を見て、彼は肩をすくめた。


「ものすごい侮辱だけど、今は甘んじて受けておこうか。キミはまだ契約者じゃないからね。ゼロから1を創造できるのは、神だけだよ? でもすでにある雛型(ひながた)に添って世界を造るのは、たいして難しいことじゃない」

「……そうなの? もしかして、あなたは悪魔なの?」


 男の理屈は欠片も理解できないが、まるきりの嘘を言っているようにも見えない。

 彼が悪魔なら、私の魂と引き換えに里香を取り戻せるかもしれない。

 期待を込めて、男を見つめる。


「ワタシの呼び方はなんとでも。善悪の判断なんて、人間の手には余るだろう? キミが好きなように呼べばいい」


 男はただの妄想狂で、私をからかってるだけなのかもしれない。

 そんな可能性が脳裏を過ぎったのは一瞬、だからなんだ、と思い直す。

 私に選択肢などない。

 

「もっと詳しく聞かせて」

「そうこなくっちゃ。ん~、そうだな。舞台は音楽恋愛シミュレーションゲームにしようか。リカが夢中になっていた例のゲームだよ。その方が面白いだろう?」


 男は気味が悪い程、リカのことを知っていた。

 次第に、男を信じる分量が大きくなる。


 私はあれこれ質問し、里香に割り振られた役と、自分に与えられた役を確認した。

 音楽学校の理事長ルートをクリアすればキミの勝ちだ、と彼は説明した。


「キミが勝てば、真実の全てをリカに打ち明け、彼女に選ばせることが出来る。その世界に残るか、元の世界に戻るかをね」


 男は、ものすごく楽しそうだった。

 久しぶりの合法的な賭けだから血が騒ぐ、とも言っていた。

 私はもう、彼の話をまともに聞いてはいなかった。

 ついに里香を取り戻せるチャンスが巡ってきたのだ。

 嬉しくて嬉しくて、発狂しそうだった。

 私はギラギラと瞳を輝かせ、その場で頷いた。


「分かった、やるわ」

「うんうん、いい子。君は反吐が出るほど、優しい子だね。キミのお相手の攻略キャラには、僕のカケラを混ぜておこう。そしたら、もっと楽しめる。安心して、すごく綺麗で残酷な子だよ。忘れないでね、ハナカ。君はその子に恋する可愛い少女になるんだ」

「……努力はする」


 即答出来なかった原因は、友衣(トモ)だ。あれから5年が経つというのに、私はまだ彼に恋情を残していた。なんてみっともない……。これ以上考えまい、と拳をきつく握りしめる。

 私の表情の変化を見て、彼は舌なめずりした。


「ふふ。すごくいいね。キミの中にある絶望と身勝手な自己犠牲は、なかなか美味しそうだ」


 彼は契約の(しるし)として、私の首に彼の長い爪を喰いこませた。

 ずぶずぶと喰いこむ音に、血の滴る感触が重なる。

 死んでしまうかと思うほど苦しくて、生理的な涙がぼろぼろ零れた。

 だけどその苦しみさえ、里香の為に払うことを許された贖いの証だと思えた。

 苦痛が強ければ強い程、滴る血の代わりに歓喜が身体中を巡る。


 彼は私の血に濡れた爪を、今度はゆっくりと自らの心臓に突き立てた。

 愉悦の笑みが、その口元に浮かぶ。


「これで、契約は結ばれた。向こうの世界でキミとリカが18になるまで、死からは守ってあげる。だけど忘れないでね。ワタシはいつでも君の傍にいるって」


 愛を囁くような甘い声を、私は今でも鮮烈に思い出せる。



   ◆◆◆



「……ん。紺!」

「あ」


 軽く肩を揺すぶられ、ぼんやり隣に視線を移すと、兄が心配そうにこちらを覗き込んでいた。

 海鳴りのような拍手はまだ鳴り止まない。観客全員があの子のアンコールを望んでいるかのように手を叩き続けていた。


「大丈夫か?」


 質問の意味がすぐには分からず、小首を傾げる。

 コウは黙ったまま、大判のハンカチを右手に握らせてくれた。


 一体なんだろうと瞬きし、ようやく頬が濡れていることに気づく。

 兄は私から目を逸らし、涙を見なかったことにしてくれた。


 ――魂を直接掴まれるようなピアノの音色だった。


 あの子はいつでも明け透けに自分を曝け出して、私たちに今感じていることを伝えようとしてくる。

 そんな彼女の渾身のシューマンに聴き入っているうちに、いつのまにか記憶の海に引き込まれていたみたい。思い出さないように努めてきた色んなことが、一気に蘇ってきた。


 そう、私にとってあれは【前世】などではない。

 今この時に連なっている、地続きの【過去】

 楽しそうに笑ったり、しかめっ面でふくれたり、生き生きとピアノを奏でたり。生きて動いているあの子を見る度、閉ざされていくあの扉を思い出さずにいられない。


 ねえ、里香。

 二度と会えなくても、もういいよ。私のことは、忘れてしまっていい。

 どちらの世界でもいい、どうか幸せに生きていって。

 (あがな)いが必要だというなら、その全てを私が払ってみせるから。


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