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「次ですよ、急いでください」
係りのお姉さんに急かされた私は、半ば駆け足状態で舞台袖を目指した。薄暗い通路の中、ロングドレスの裾に縫い取られた真珠が、まるで道しるべを標すようにキラリキラリと光る。
ステージからは富永さんの奏でるラフマニノフのピアノソナタ第二番が聞こえてきた。
やっぱり彼の奏でる低音の響きは格別だ。
ペダルの使い方もすごく上手くて、前の音の余韻を残しながらも次のフレーズを鮮やかに重ねていってる。
ラフマニノフのピアノソナタ第二番には、初稿版、改訂版、そして彼の友人のピアニストであるホロヴィッツが編纂した編曲版がある。どれを弾くのか気になっていたんだけど、富永さんは1931年に発表された改訂版を弾くことにしたみたい。
第二楽章は、ゆったりとしたテンポもあって奏者によっては退屈に感じられることもある展開だ。
だけど富永さんは高いテンションを保って、その静けささえも魅惑的な囁きに変えていた。
音の強弱の付け方がドラマティックなので、フォルテッシモの部分が殊更際立つ。
所定の位置にたどり着いた私は、呼吸を整えた後、残り少ない彼の演奏に聞き入った。
聖堂の鐘をモチーフにしたと云われる重厚な和音がお腹の底に響いてくる。
20分弱、楽章の切れ間を入れずに弾き続けることのできる体力もアピールポイントの一つだろう。本当に上手い、と改めて思った。
男性的な音が理想とされるラフマニノフのピアノ曲は、富永さんの情熱的な演奏スタイルによく合っていた。惜しいのは、やっぱり何箇所かにミスタッチがあったこと。
終盤の変則的なアルペジオや高音部からの下降音形でのミスは痛い。どのくらい審査に響くかは分からないけど、正直ホッとしてしまった。
ライバルの失敗を喜ぶなんて、最低だ。
だけど、醜くて目を背けたくなるようなそんな気持ちも、確かに私の一部だった。
これじゃトビーのこと言えない。
嫉妬、虚栄心、そして強すぎる自尊心なんかに心を占められれば、誰だって信じられないくらい残酷なモンスターになってしまうのかもしれない。
それが嫌なら、愚直で原始的な欲求に抗って、なりたい自分を目指すしかない。
最後の音が消えると、客席から惜しみない拍手が巻き起こる。
安堵の表情を浮かべた富永さんは、綺麗に一礼し、舞台から去っていった。
「ナンバー5。島尾 真白」
アナウンスの声が会場に響く中、私はドレスを軽く摘み上げ、くい、と顎を上げた。
今日この会場でピアノを奏でることが出来るのは、たった5人だけ。
これだけ大きなコンクールのファイナリストに選ばれただけでも、よく考えたら凄いことだ。
客席は薄暗くてはっきりは見えなかったけど、満席なのは分かる。
静まり返ったこの中のどこかに、亜由美先生や千沙子さん、桜子さん。そして紺ちゃん、紅、美登里ちゃんがいる。
蒼も今頃、パソコンの前で演奏を待ってくれてる。
私が自分の音を届けたい人は、生きて、耳を澄ませていてくれる。それがどれほどの僥倖か、今の私には分かってる。
客席に向かって深く一礼し、椅子の高さを調節する。
深く息を吸い、そっと鍵盤に指を乗せる。
控室での動揺が嘘のように、心は凪いでいた。
シューマン作曲 ピアノソナタ第二番 ト短調 Op.22
難所というか聞かせどころは2つある。
一つは、テンポの速さ。
出だしの指示速度はSo rasch wie möglich (できるだけ早く)だ。
ところが最後の方には、【もっと早く】【さらに早く】という指示があらわれる。
どれだけ速弾きさせたいんだ、と突っ込みたくなるんだけど、アパッショナータ(情熱的)に弾くことを求められるこの曲では、その速さが肝なのかもしれない。
もう一つは、左手で10度の音程を押さえなくてはいけないという点。
手の大きさが非常に重視される一曲だといえる。シューマン自身も大きな手の持ち主だったというから自分基準で作曲したんだろう。
シューマンがピアニストの道を諦め、作曲家として生きていく事を決意した後にこの曲は作曲されたそうだ。愛妻クララとの結婚をクララの父に認めてもらえず苦悩した時期とも一致している。
挫折を味わいながらも決して諦めようとはしなかったシューマン。
どんなに苦しかっただろう。絶望したことだってあるはずだ。
だけど彼は音楽に、そして困難な恋に、手を伸ばすことを止めなかった。
第一楽章は切なくそして情熱的に。こんなに早く弾けたんだ、と自分でも驚くくらいの連打の中、音は大きさの揃った宝石のように煌めきながら、空を転がっていく。
そして続く第二楽章。ハ長調のロマンティックな主題を、愛を歌うように奏でる。
和音を美しく響かせながら、私は大切な人への手紙を綴るように丁寧に鍵盤を追った。
ドイツまで届くかな。届くといいな。いつでも君の幸せを祈ってるよって。
第三楽章はト短調に戻ってスケルッツオ。急速なテンポ、3拍子、二楽章から印象を一転させる切迫したメロディが特徴だ。ここは思い切りよく鍵盤を叩く。
そして最終楽章。どれだけオクターブ奏法のトレモロを美しく歌わせることができるか。
呼吸は苦しいし、腕の付け根は鈍い痛みを訴えてる。
最後の力を振り絞り、主題が浮かび上がるようにアクセントをつけ、波に揺蕩うイメージで疾走した。
私は負けない。
何度打ち倒されようと、必ず立ち上がって前に進んでみせる。
そんな思いを込め、ただひたすらシューマンの構築した見事な音の連なりを再現しようとあがく。
そうして辿り着いた最後の和音を打ち鳴らし、腕を上げる。
全力疾走した後のように、ぜいぜいと喉が鳴っていた。
倒れ込みそうになるのを堪え、譜面台の隣においたハンカチを取るのと、耳をつんざくような地鳴りがおこったのは同時だった。
地鳴りのように聞こえたのは、拍手だった。
椅子から立ち上がり観客席に向き直ると、次々に聴衆が立ち上がってくるのが目に入る。
ブラヴォーと叫んでくれている人までいた。学生コンクールとは思えない程、みんなが私の演奏に歓喜してくれていた。
そのことが嬉しくて嬉しくて、私は深々とお辞儀をし、ゆっくりと舞台を後にした。
全身が興奮で小刻みに震えている。
ドレスの裾を踏んで転ばなかったことが信じられないくらい、床はふわふわしていた。
『――サディア・フランチェスカコンクール/中学生の部 決勝
ファイナリスト5名はそれぞれ素晴らしい才能の片鱗を魅せた。日本人ピアニストは機械的で面白味のない演奏をするという古いイメージがまだ世界には残っているが、彼らが大人になった暁にはきっとそれらのイメージを払拭してくれるに違いない。(中略)富永翔琉と島尾真白の演奏は、その中でも際立った煌めきを放っていた。富永翔琉の、ラフマニノフのピアノソナタ第二番の持つ思索的な試みをダイナミックに表現した演奏は、聴く者を魅了する吸引力を持っていた。荒削りな部分も目立ったが、重厚で艶やかな彼の音色はいかにもラフマニノフらしかった。一方、島尾真白は緻密に計算し組み立てた演奏の中に、シューマンという作曲家を深く読み解いた解釈を披露してみせた。第一楽章での速弾きに度胆を抜かれたのは筆者だけではないはずだ。細かく批評するなら、気になる部分がないわけではない。ただ技術的に高い素養だけでなく、若干14歳にして彼女は独自の世界を持っている。決して斬新な解釈をしているわけではないのに、その音色がまるで初めて聴く曲のような新鮮さで我々に迫る理由は、それしかない』
(音楽評論家が雑誌に寄せたコメント抜粋)
30分間の休憩を挟んで、私たちは再び舞台袖に集められた。これから結果発表が行われるのだ。
富永さんは私を見て、にっこり微笑んでくれた。ああ、やっとコンクールは終わったんだ。そう感じさせてくれる穏やかな笑みに、私の肩からもストンと力が抜けた。
「お疲れ様。いい演奏だったよ」
「富永さんの演奏も素敵でした。先に演奏したかったです」
口を尖らせて本音を零すと、富永さんは唇をわざと曲げて私を睨むふりをする。
「よく言うよ。緊張なんてこれっぽっちもしてなかったじゃない」
「そんなことないです、ほんとキツかったですよ」
原因はおたくの理事長です。演奏直前に滅多打ちにされましたからね、ええ。
あのまま無様な演奏を晒す羽目になってたら、逆上してトビーを物理で滅多打ちにしたかもしれない。
『学生コンクールのファイナリスト、逆恨みで関係者を暴行!?』的な新聞の見出しが浮かび、寒気がした。
他のコンテスタントはみな、強張った表情で人を寄せ付けないオーラを放っている。仲良く立ち話をしてる私達が気になるのか、好意的でない視線をあちこちから感じた。
彼らの視線はもう気にならない。コンクールではライバルかもしれないけど、私達の根っこは同じ。ピアノに憑りつかれた同好の士だ。
やがて舞台の上にサディア・フランチェスカを始めとする審査委員があらわれた。
ざわめいていた客席が、急に静まり返る。
サディア・フランチェスカが中央に進み出、準備されていた壇の上のマイクに話し始めた。
早口なイタリア語を隣に立った通訳さんが、丁寧な日本語に置き換えていく。ざっと要約すると、こんな感じ。
【こうして日本で大々的なコンクールを開くことが出来て、光栄に思っている。特に今日は皆さんの若さ溢れる勢いのある演奏を聴けたので、自分まで若返ったような気持になれた。素晴らしいピアノを披露してくれたファイナリストの皆さんには特にお礼を言いたい】
サディアは確か、もう50を過ぎているはず。
もっと落ち着いた声を想像していたんだけど、まるで少女のように細く愛らしい声で彼女は言葉を紡いだ。一通りの謝辞を述べた後、彼女は手もとのリストに視線を落とした。
いよいよ入賞者の発表だ。
息を詰めて、次に発せられるであろう入賞者の名前を待つ。
流石の富永さんも、拳を握ってじっと一点を見つめていた。
私はといえば、あんなに勝ちたいと執着していたのに、今は誰が優勝してもいいや、という達観した気持ちになっていた。
もう終わってしまったことについて四の五の言ったって仕方ない的な開き直りなのか何なのか。やり切った感が強いからかもしれない。
あの演奏が今の私の精一杯だ、と胸を張って帰ろう。
「今日の審査は本当に難しかったです。最後まで意見が分かれ、二位、三位の該当者はなし。同点で一位が二人という結果になりました」
通訳さんが説明すると、会場がどよめいた。
記念すべき第一回目のコンクールで、入賞者が2人だけなんて予想もしてなかったんだろう。
ここ舞台袖でもファイナリストたちの間に動揺が走る。溜息をついたり、ハンカチを握りしめたり、反応は様々だ。
もっと私も何か感じるべきなんだろうけど、昨日眠れなかったこともあり、早く家に帰りたいな、と場違いなことを考えていた。
ヒール靴に痛めつけられたつま先を解放したい。靴もドレス脱いで、早めにお風呂入って。それから今日はもうピアノも勉強もお休みして、ふかふかのベッドに飛び込もう。そうしよう。
「マシロ・シマオ。カケル・トミナガ」
たどたどしい日本語で、サディアは誰かの名前を呼んだ。
となりの富永さんが小さくガッツポーズを決めるのを、ぼんやり眺める。
彼に肩を軽く叩かれ、ようやく自分の名前も一緒に呼ばれたことに気がついた。
「ほら、行こう!」
「へっ?」
背中を押され、彼の前を歩かされる。
ライトに煌々と照らされた舞台に進み出る私達を迎えるように、大きな拍手が沸き起こった。
「Congratulazioni!」
サディアに握手を求められ、そのまま親しげなハグを受ける。
憧れのヴィルトゥオーゾに称えられ、自分がどこにいるのかも分からなくなった。
ただ押し寄せる拍手の音だけが、いつまでも耳に残った。