スチル30.直接対決(コンクール決勝)
学校が秋休みに入ったという美登里ちゃんは、予告通り日本に帰ってきた。
携帯のディスプレイに表示された彼女の電話番号を、思わず二度見してしまう。
コンクールの応援の為にわざわざ来てくれたのか、と恐縮する私を、彼女は豪快に笑い飛ばした。
『大した手間じゃないのに、真白ってば大げさなんだから』
イギリスと日本の距離も、美登里ちゃんにかかれば東京―大阪間くらいになる。
1万キロ近く離れてるよね、確か。セレブって怖い。
美登里ちゃんは、ノボル先生所有のこじんまりとした建売住宅がいたく気に入ったらしく、日本にいる間はそこで寝泊まりするという。
田園調布にはでっかい本宅があるというのに、何とも酔狂な話だ。
「美登里ちゃん、自炊できるの?」
『出来るわけないじゃない』
無駄に自信に満ちた声で、美登里ちゃんは答えた。
家事は本宅のメイドさんを呼んでさせるつもりらしい。食事に洗濯にお掃除。その都度呼ばれちゃうのか……。心の中で見知らぬメイドさんに手を合わせる。どうか通勤手当に色をつけてもらえますように。
『ねえ、コンクール明けの日曜日はフリーなんでしょ? コンも誘って3人で遊びに行きましょうよ! 祝勝会を兼ねてさ』
「そうやって盛大にプレッシャーかけるのは止めようよ~。残念会になったらどうするの」
美少女2人に挟まれて、がっくりと肩を落とす自分の姿が浮かんできた。ビジュアル的にも切なすぎる。
『またまた~。謙遜は日本人の美徳っていうけど、今どき流行らないわよ? ネットに上がってたセミファイナルの映像を見たけど、真白が一番上手かったじゃない。本番でよっぽどのことをやらかさなきゃ、真白で決まりよ』
よっぽどのことって何だろう。
褒め言葉はふんわりと耳を通り過ぎ、嫌な想像だけが耳に残る。たとえば、暗譜が全部吹き飛んで大勢の観客の前で真っ白に燃え尽きる私。真白がまっしろに。もうだめだ。
「うん……頑張る」
「take it easy! 真白」
朗らかな声でエールを残し、美登里ちゃんは通話を切った。
部屋の壁にかかっているペールグリーンのコンサートドレスを、もう一度眺めてみる。
千沙子さんと桜子さんが、ついさっき届けてくれたばかりのドレスは、キラキラと輝いて見えた。
ノースリーブでシンプルなAラインのドレスなんだけど、金糸の縫い取りのアクセントとして胸や裾に散りばめられている真珠の輝きが眩しい。準決勝では紺ちゃんに窘められ、無難なワンピースを準備せざるを得なかった彼女たちの本気が感じられる。すっごく悔しそうだったもんな、あの時。
はぁ……このドレス、一体いくらするんだろう。考え出すと、胃がキリキリ痛む。
眠れそうになくて、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
枕元に置いた玲ちゃんの御守りとみんなの寄せ書き色紙に手を伸ばす。べっちんを小脇に抱え、私は何度も彼女たちの文字を目で追った。
明日の決勝で全てが決まる。
優勝を逃せば、青鸞に入学する可能性は絶たれる。
音楽学校には行かずプロのピアニストになった人だっているんだから、道が閉ざされるわけじゃないけど、それでも――。
やっぱり夢が叶わなくなるのは、辛い。応援してくれてるみんなの期待を裏切りたくない。どうしよう。あがらずちゃんと弾けるかな。準決勝での富永さんの鮮烈な音が脳内をリピートしていく。
結局眠れたのは、深夜2時を回ってからだった。
コンクール会場前の街路樹は、赤や黄色に色づき始めていた。
以前来た時はまだ夏の余韻を残していたのに、すっかり秋の風景だ。頬を撫でる風の冷たさと合わせ、時の流れの早さに急かされるような気分になる。
今回は、決勝に残った五名全員に個別の控室が準備されていた。
ドレスに着替え、花香お姉ちゃんに髪を結って貰う。
鏡に映った私の顔色はお世辞にもいいとは言えなかった。
「まだ呼ばれるまで時間があるわね。どうする?」
亜由美先生に問われ、私はふうと溜息をついた。
「ちょっと外の空気を吸ってきてもいいですか?」
私の演奏は一番最後になっている。
一番目のコンテスタントが、もう舞台に上がった頃だろうか。他の人の演奏を聴く余裕はなかった。引きずられそうで怖い。
「いいわよ。15分くらいしたら、戻って来てね」
「はい」
「真白、頑張ってね! 客席で応援してるから」
「うん。ありがとう、お姉ちゃん」
ドレスの裾を持ち上げ踏まないように気を付けながら、控室を出た。
たしか裏庭に休憩スペースがあったはず。そこで気持ちを落ち着けよう。
行先を決めて歩き出した私は、廊下を角を曲がったところで一番会いたくない人物と遭遇してしまった。
トビーだ。彼が出て来た部屋のプレートには、富永さんの名前があった。
「こんにちは、真白。今日のドレス、すごくよく似合ってるね」
トビーは私を見ると、にっこり微笑みそう言った。
「こんにちは。ありがとうございます」
軽く会釈をし、彼の脇を通り過ぎる。
そのまま逃げ切れるんじゃないかという淡い期待は、背後に感じるトビーの気配にあっさり打ち消された。
くそう、なんでついてくるの、この人!
ヒールのある靴で走って、本番前に転ぶのは絶対に避けたい。
スニーカー履いてたら、全力ダッシュしてやったのに! 心の中で悪態をつきながら無言で歩く。
裏庭へと繋がる自動ドアを抜けると、爽やかな風が髪をなぶった。
空は澄み渡っていて、雲一つない。本当に今日はいい天気だ。
何度か深呼吸を繰り返し、意識からトビーを締め出そうと頑張ってみる。だけど――。
存在感がとんでもないことになってるトビーを透明人間みたいに扱うなんて、一般人の私にはハードル高すぎた。
「あの。……こんなところにいてもいいんですか?」
とうとう我慢できずに、口を開いてしまう。
いやダメだろ、という反語はトビーには通じなかった。彼は私の隣に並び、温和な表情でこちらを見下ろした。
「大事な本番前に君を一人にするなんて、ありえないよ、真白」
そうですか。私はむしろ一人になりたいのですが。
トビーをどうやって追い払おうか考えながら、ベンチに近づく。
「待って。そのまま座ると、せっかくのドレスが汚れてしまう」
トビーはスーツの胸ポケットから白い大判のハンカチを取り出し、木製ベンチの上に敷いてくれた。
流れるような一連の仕草は、悔しいくらい様になっている。やられた。これじゃ、一緒に座るしかない。
私は渋々お礼を述べ、ベンチに浅く腰掛けた。当然のように、トビーも隣に腰を下ろしてくる。
「今日のコンディションはどうかな?」
「……あまり良くないです」
隠したって仕方ない。
正直に申告すると、トビーは信じられないというように大きく目を見開いた。
「真白。君は、馬鹿なの?」
はあ!? 突然売られた喧嘩だけど、即、買っちゃうよ?
ただでさえナーバスになってる今の私に『自制心』なんていう高尚なものはない。
「ほら、そうやって思ってることをすぐに顔に出す。僕は、君の今日のライバル側の人間なんだよ。ちゃんと分かってる?」
これは自分を敵認識しろ、と迫ってるんだろうか。
言われなくても、随分前からあなたのことは警戒していますが?
「分かってます。でも、嘘はつけません。コンディションは良くないです。ですから、1人になりに来たんです」
分かったのなら今すぐ立ち去れ、と目に力を込める。
決して鈍感ではないはずの男は、私の訴えを華麗に無視した。
「君に一つ、頼みごとをしようと思っていたけど、どうやら必要ないみたいだね」
トビーは人を小馬鹿にするような冷笑を口の端に浮かべる。
「頼みごと?」
「そう。富永くんに勝ちを譲って欲しい。そう頼もうと思ってた」
驚き過ぎて、すぐには言葉が出ない。
正気なの!?
堂々と八百長を持ちかけてきたトビーを凝視すると、彼はわざとらしく肩を竦める。
「あくまで“思っただけ”だからね? 勘違いしないで、聞いて」
「聞きたくありません!」
私はすっくと立ち上がり、お尻にひいていたハンカチを掴んだ。
「これは洗ってお返しします。さようなら」
精一杯の軽蔑を込めて睨みつけ、彼の前を通り過ぎようとしたその時。
トビーはおもむろに足を組み替え、こう言い放った。
「僕の顔を立ててくれたら、君を青鸞の奨学生にしてあげる、と言っても?」
頭を横殴りされたような衝撃だった。
眩暈を感じ、思わずよろめいた私を支える手。華奢な見かけによらずがっしりとしたその大きな手が気持ち悪い。トビーの甘い香水の匂いに嘔吐しそうになり、慌ててハンカチを口元に当てた。
「君の望みは調べさせてもらったよ。青鸞に通いたいんだよね? 僕なら、君の願いを叶えてあげられる。悪い話じゃないだろう?」
トビーの声は気味が悪い程、優しかった。
これが……こんなものが、コンクールイベントだっていうの?
私はこんな方法でしか、自分の夢を叶えられないの?
「そんなに驚くようなことかな。でもまあ、今の君の状態でコンクールに挑むのは無理だよね。潔く棄権するのも一つの方法だよ」
トビーの歌うような声に、心がかき乱される。
悔しい!! しゃんとしろ!!
ガクガク震える自分の足に命令するのに、ちっとも言うことを聞いてくれない。
――『一緒にいきましょう、この道を。あなたには、その才能がある』
――『頑張ってね! 真白がめちゃくちゃピアノ頑張ってきたの知ってるから。絶対、大丈夫だから』
指の震えが止まらない。みんなあんなに親身に応援してくれてたのに。気持ちを立て直す時間がない。あとちょっとで、私は舞台に立たなきゃいけない。こんな状態で?
ああ、どうしよう。どうすればいいの。
泣きだす寸前まで追い詰められた私を救ってくれたのは、紺ちゃんだった。
いつだって、彼女が私の救世主だった。
「こんなところにいたのね、真白ちゃん。もうそろそろ準備しなきゃ。一緒に行こう?」
裏口に姿を見せた紺ちゃんの顔を見て、膝が崩れそうなくらいホッとした。
紺ちゃんは足早に私に近づき、トビーから私を奪還してくれた。
「大丈夫だよ。私に掴まって」
ただ頷くだけの私を抱きかかえるようにして、紺ちゃんは自動ドアに向かっていく。
彼女は最後までトビーの方を見なかった。まるで私達以外は誰も存在してないかのように、紺ちゃんは私だけに話しかけた。トビーに対して、私もこんな風に振る舞うべきだったんだ。そうぼんやり思う。
控室まで戻ると、紺ちゃんは私によく冷えたミネラルウォーターを渡してくれた。一口飲んで、口の中の気持ち悪さを拭う。亜由美先生はすでに客席へ移動したと聞かされた。
控室の中で帰りを待っていてくれた紅と美登里ちゃんは、紺ちゃんに支えられた無様な私を見て唖然としていた。
彼らが何か言う前に控室のドアがノックされ、案内の係りの人が顔を覗かせる。
「島尾さん。そろそろ舞台袖に移動をお願いします」
「……はい」
その時になってようやく、手の中に握っているのがトビーのハンカチだ、と気づいた。
気持ち悪い!
反射的に投げ捨ててしまう。
紅が私の仕草を見て、顔色を変えた。ハンカチの端にはトビーのイニシャルが刺繍してあったから、私が今まで誰と一緒だったのか分かったのかもしれない。
彼は険しい表情のままトビーのハンカチを拾い上げ、イニシャルを確認すると「くそっ」と小さく毒づいた。
「真白、これ使って」
美登里ちゃんが私に新しいハンカチを差し出す。震える手でそれを受け取ると、柔らかな両手にぎゅっと右手を包まれた。
「ソウも今頃、きっと応援してる。中継動画を見るんだって、すごく楽しみにしてたから」
本当は何があったか聞きたいはずなのに、美登里ちゃんはそれだけ言った。
――真白はすげえな。
眩しそうに私を見つめる幼い蒼が脳裏に浮かぶ。
ああ、彼にだけは無様な姿を見せたくない。
私は扉のドアノブに手をかけ、3人を振り返った。説明する時間はないから、せめて精一杯明るい声で言う。
「いってくるね」
みっともないなあ。手は震えてるし、視界は涙でぼやけてる。
紺ちゃんは私を食い入るように見つめ、ギリと歯を食いしばった。
紅は不安と後悔、そして激しい怒りが入り混じったような複雑な表情で、眉根を寄せた。そんな顔、初めて見たな。余裕のない紅の顔、初めて見た。思わずふふ、と笑ってしまう。
笑った瞬間、紅や蒼や紺ちゃんと音楽で肩を並べたいと心の底から願ったあの日の記憶が、ありありと蘇ってきた。
――そうだ。私の夢は、コンクールの優勝でも、青鸞への入学でもなかった。
尊敬する三人の隣に、胸を張って立てるようなピアニストになることだ。
その為に、私は私の全てを振り絞って、高みに登ってみせる。
手の震えはいつの間にか止まっていた。
◆◆◆◆◆
本日の主人公ヒロインの成果
イベント名:決断
攻略対象:なし
無事クリア




