Now Loading 35
結局、夏のセミナーにサディア・フランチェスカは参加しないことになった。
スケジュールの調整が上手くいかなかったのかな。
その情報をいち早く手に入れた亜由美先生から改めて「どうする?」と聞かれ、私は参加を断った。
課題曲の演奏ポイントや注意点を、審査員を務める講師の人達に直接指導してもらえるのは、とっても得難い経験だと思う。参加を諦めたのは、二度見してしまうほど高かった参加費のせいだ。
私はクラシックもピアノも好きだ。
だけど、普通のサラリーマン家庭に育っている私には、ちょっと分不相応なのかなと思うこともよくある。
参加費と得られる成果を天秤にかけ、結果セミナーを見送ったことなんてお見通しなんだろう。亜由美先生は私の顔をじっと見つめて、ためらうように唇を湿らせた。
「真白ちゃんは、初めて会った時からそうだったわね」
どういう意味だろう?
キョトンとしてしまった私の手を引き、先生はソファーに座るよう促した。
向かい合わせに腰掛けた後、先生は真剣な表情で私を見つめた。
「目的意識が高いことは決して悪いことじゃないのよ? ただ、必要か不必要か、やるべきかやらないべきか。それだけで物事を取捨選択していくのは、ある意味恐いことだと私は思うの」
何を言われているのか、すぐには頭に入っていかない。
それでも、先生が私のことをすごく心配してくれていることだけは、ひしひし伝わってきた。
「芸事はそれがどんな分野でも、本格的に極めたいと思うなら生半可な覚悟で挑めるものじゃない。だから、真白ちゃんのひたむきさは美点でもある。でも、もっと視野を広げてみたらどうかな。一見無駄に思えることでも、それが結局は人間の幅を広げることになるし、演奏の幅を広げることにもなるんじゃないかしら」
「えっと……セミナーを受けた方が経験を積める、ということでしょうか?」
断ったのがまずかったんだろうか。
恐る恐る尋ねてみたら、苦笑で返された。
「いいえ。それはそんなに大した問題じゃない」
亜由美先生は、細い腕を伸ばして私の頭を優しく撫でてくれた。
「いつか何もかもどうでもよくなるくらいの恋でもすれば、真白ちゃんも自分の殻を破れるのかしらね」
「ええっ!? いや、もう――」
恋愛は当分いいです。
本音が洩れそうになり、慌てて口を閉じる。
私はかつて、最愛の姉の恋をダメにした。
友衣くんとの関係を醜いエゴで潰してしまった苦い記憶が、喉元までせり上がってくる。
彼への想いが本当に恋だったのかと問われても、私はすぐには頷けない。
好きで好きで堪らないから、何がどうなってもいいから、くらいの覚悟と情熱で、二人を引き裂いたんだったらどんなに良かったか。
でもそうじゃなかった。私は浅はかな子供だった。
そして、それはきっと今でも変わっていない。
急に黙り込んだ私を見て、先生は明るい声で話を切り替えた。
「じゃあ、9月の一次予選まで私が今まで通り課題曲と自由曲をみていくということで構わないかしら?」
「はい! お願いします!」
亜由美先生のスパルタ特訓を受けられるのは、願ったり叶ったりだ。
余計なことを考えずに済む。
この世界がボクメロに酷似している謎や、私達姉妹だけが前世の記憶を持っている理由。紺ちゃんが今でも時々辛そうな理由も何もかも。弾いている間は考えなくてすむから、私はピアノに没頭しているのかもしれない。いや、もちろん好きじゃなきゃ続いてないだろうし、中途半端な気持ちで上を目指せるほど音楽は甘くないんだけどね。
深呼吸を繰り返し、しゃんとしろ! と自分に喝を入れ直す。
感じ、考え、私は確かにここにいる。
それ以上に自身の実在を証明できるものなんて、どんな世界にいようとありはしないのだ。
そしてそんな私が選んだのは音楽の道なんだから、このまま全力で努力していくしかない。
それしかないはず、だよね?
亜由美先生の高校時代の恩師も、なんと今回のコンクールの審査委員を務めているらしい。
その人を通じて色んな情報を持ってきてくれる亜由美先生のお蔭で、私は安心して練習に打ち込めた。
一次予選ではショパンのエチュード集第10番を弾きたいと希望を伝えたら、曲についての審査基準なんかも聞いてきてくれた。
テンポと強弱記号を楽譜通りにきっちり表現できているか。
演奏者の技術的レベルをはかるのに適した曲だからこそ、自由な曲想表現よりも音色の美しさ、正確なタッチを重視するとのことだった。
どんな演奏が求められているかが先に分かっていれば、練習は格段に楽になる。
そして夏休み。
予告通り日本にやってきた美登里ちゃんから連絡を貰って、私と紺ちゃんは久しぶりにノボル先生の家に遊びにいくことになった。
夏休みが明ければ、あっという間に一次予選がやってくる。
遊んでいる場合か? と正直不安にもなった。
ああ、約束しなければ1日練習できたのに、とかつい考えちゃう自分が憎い。
せっかく誘ってくれたのに、美登里ちゃん、ごめんね!
亜由美先生にもらったアドバイスを胸のうちで繰り返し、迎えにきてくれた車の中で「これも経験。何事も経験」とぶつぶつ呟いていたら、紺ちゃんにドン引きされた。
「真白ちゃん……。今度はどんな考えに取りつかれてるの?」
「人生の幅を広げる為に、試行錯誤するつもりなの」
「幅を広げるって?」
「自分に不必要だと思ってることでも、実際やってみたら自分の糧になるって亜由美先生に言われて……」
紺ちゃんはすかさず眉を顰め、「こら!」と叱ってきた。
うう、つい本音が。
「真白ちゃんはここ最近、ずっとピアノ漬けだったでしょう? 美登里ちゃんも私も心配してるんだよ。真白ちゃんはすぐ、こうなっちゃうから」
目の両端に手をあてるポーズをした紺ちゃんに、やっぱりかと苦笑を返す。
「ごめんね。なんでだろう、練習してないと焦っちゃうんだよ」
「ストイック過ぎ! まあ、それがり――」
紺ちゃんはハッと気づいたように唇を噛んだ。私は気づかない振りで窓の外に視線を移す。
「真白ちゃんらしいな、って思うけどね」
りか。
そう言いかけた紺ちゃんは、見事な精神力で自分を立て直し、何事もなかったかのように言葉を紡いだ。
「うん、気を付けるね」
二度と前世の話をしてはならない。
あの雪の日の約束を、私もちゃんと守ってる。
ノボル先生の家に到着してチャイムを鳴らすと、すぐに美登里ちゃんが飛び出してきた。
「久しぶり~! 2人とも会いたかったよ~!!」
思いきりハグされ頬にキスされるという熱烈な歓迎を棒立ちのまま受け、ようやく中に入れてもらえる。
美登里ちゃんは長い海外生活ですっかり外国ナイズトされちゃってる。そんな彼女がゲームの進行通りにいけば日本の女子高生になるなんて冗談みたいだ。
ああいうことは気軽にやっちゃダメだよ、って釘さしとかなくて大丈夫かな。
「あれ? ノボル先生は?」
家には美登里ちゃんしかいなかった。
不思議に思って尋ねてみると、美登里ちゃんはニヤリと口角をあげる。
「今日はアユミとデートなんだって」
彼女の爆弾発言に、私と紺ちゃんは一斉に「うそっ!?」と声を揃えてしまった。
美登里ちゃんも、でしょ~? びっくりでしょ!? というような顔で頷いている。
「二人のランチの場所は、ばっちり把握済よ。ねえ、こっそり様子を見に行かない?」
出たよ。ブラコン。
美登里ちゃんはお兄さんのことが大好きで、将来はノボル先生みたいな人と結婚したいとまで言っている。浮世離れした天才ピアニスト(実家は大財閥)か……。探すのは至難の業だろうな。
「そんな可哀想なこと、しちゃダメ」
紺ちゃんは、出されたアイスティーにストローをさしながら呆れ顔で窘めた。
「だって、気になるんだもん! コンだってコウが女の子とデートするって言ったら気になるでしょ?」
「ならないわ。コウが色んな女の子とデートするのは、日常茶飯事だもの」
平然と答えた紺ちゃんに、美登里ちゃんは「sugar!」と毒づいた。
本当はshitって言いたかったんだろうなあ、と他人事のように二人のやり取りを眺める。
すると美登里ちゃんの矛先はこっちに向いた。
「真白は?」
「え? 私?」
「コウがふらふらしてても、真白は平気なの?」
紅が何をしようが、私には全く関係ないんだけどな。
内心首を捻りながら、答える。
「……う~ん、紅も相手の子も可哀想だとは思うけど。紺ちゃんの安全を確保する為に何かしたいって紅の気持ちも分かるし、部外者の私がとやかく口を出す問題じゃないかな」
私の返答を聞いた美登里ちゃんは、ホッとしたように頬を緩めた。
「あ、そう。それくらいの気持ちなのね。じゃあ、ソウにもまだチャンスはあるってわけだ。ねえ、コウみたいな節操なしは放っておいて、ソウにしときなさいよ。あいつは怖いくらいに一途よ。うん、怖いくらいに。真白以外の女なんて、ソウにとってはゴミ同然なんだから」
怖いを連発するあたり、本気で推しているのかどうか微妙なところ。
あと、人をゴミ扱いする人は私もやだな。
そこまで婚約がイヤなのかと同情してしまうくらい、彼女は私の顔を見るたび、蒼を勧めてくる。
「美登里ちゃんも知ってるでしょ? 私は蒼に、許してもらえたのが不思議なくらいの酷い仕打ちをしちゃったんだよ? 今更、無理だよ」
「……真白って、実はものすごく残酷な人?」
美登里ちゃんがすっと目を細め、真剣な声で尋ねてくる。
ん? それ、前に紅にも言われた気がする。
「残酷なこと言ってるつもりはないんだけどな」
納得がいかなくて、自然と唇が尖ってしまう。
美登里ちゃんは苦笑し、肩をすくめた。
「私はそういうドライな真白も好きだけど、あまりにも淡々と切り捨てちゃうからさ。若いうちは、皆もっと悩んだり迷ったりするもんじゃない?」
「悩んで迷って答えが出るのならそうするけど、無理なこともあるでしょう。悩む時間がもったいなくない?」
美登里ちゃんは、紺ちゃんと顔を見合わせて溜息をついた。
「ダメね……。コウもソウも、完全にピアノに負けてるじゃない」
「そこが問題よね。真白ちゃんの優先順位って、ほぼピアノに占められてるんだもの。恋愛話の入り込む隙間がないのよ」
仰る通りです。そんな余裕はどこにもありません。
やけに気の合っている2人に向かって、私はふんと頬を膨らませてみせた。
美登里ちゃんがイギリスに帰るという二日前。
彼女とノボルさんを招いて、玄田の家でさよならホームパーティを開くことになった。
介入したがるお母様ズを紺ちゃんが必死に阻止する。
紺ちゃんが止めなければ、ありえないくらい大規模なパーティになってしまったことだろう。
『ノボルミサカがくるのなら、オーケストラを呼んで協奏曲を』とか言い出してたんだって。こわっ!! それホームパーティじゃなくてコンサートじゃん!
でもまあせっかくだから、と私と紺ちゃんは餞別に連弾をプレゼントすることにした。
麻のジャケットを羽織り、ちゃんと髭を剃ってきたノボル先生は、いつもの10割増しでカッコよかった。
以前うっかり失言してしまった私たちは「今日も素敵です」と言うにとどめた。
これで、髪が伸び放題のもじゃもじゃじゃなければ言うことないんだけどな……。
よく考えたら、あのもじゃ頭で亜由美先生とデートしたんだよね?
す、すごいな。もちろん亜由美先生が。
パーティは和やかに進み、いよいよ演奏披露という段になる。
私と紺ちゃんは二台のピアノに分かれて座り、楽譜越しに目を合わせた。
ラフマニノフ ピアノ組曲第二番 ワルツ
交響曲第一番の初演を失敗したことで精神的に大ダメージを受けていたラフマニノフが、ようやく自信を取り戻し作曲を再開し始めた頃の作品だ。
三拍子と二拍子が入り乱れる独特のリズムには、どこかロシア風の哀愁が漂っている。ダイナミックな和音やアルペジオが華やかに、ロマンティックな主旋律を彩っている。最後の高音の連打は愛らしく。
紺ちゃんとは、シャンデリアの煌びやかな大ホールで、軽やかに舞い踊る若い恋人たちのイメージだよね、と話し合って練習した。
コンクール用の曲ばかりに没頭していると、無性に違う曲が弾きたくなる。ちょうどいいタイミングで息抜きが出来たので、私もすごく楽しんで演奏できた。
紺ちゃんと向い合せのピアノに座るのは、発表会以来3年ぶり。
彼女と呼吸を合わせ、音色を交わす。内緒話をしてクスクス笑いあった遠い日の記憶に、甘く満たされ涙が出そうになる。
クレッシェンドでフォルテッシモに持っていく中盤は、紺ちゃんに手を引かれ、明るい空に駆け上がっていくような幻想さえ見えた。
演奏が終わると、ノボル先生も美登里ちゃんも立ち上がって拍手してくれた。
「excellent!!」
美登里ちゃんは頬を上気させ、自分のフルートケースに走り寄った。
「あんな演奏聞いちゃったら、じっとしていられないわ。ノボル、合わせて!」
「いいよ。何にする?」
ノボル先生はふわりと笑って立ち上がり、ピアノへ向かう。
あのノボル ミサカをあっさり合奏の伴奏者に指名できるのは、世界広しといえど美登里ちゃんくらいだろう。あ、亜由美先生もか。
「そうこなくっちゃ。ビゼーのアルルの女がいいな。メヌエットにしよっと」
美登里ちゃんは手早く純金のフルートを組み立てながら、歌うように言う。
うっ。黄金の光が眩しい! 500万くらいはしそう。
いいなあ、500万あったら家のローンの残額がだいぶ減るだろうなあ。
「真白ちゃん、口」
紺ちゃんが肘でつついてくる。私は慌ててポカンと開いていた口を閉じた。
美登里ちゃんはそんな私をおかしそうに眺め、おもむろにフルートを構える。
彼女は、ゆったりとした美しいメロディを、息継ぎの苦しさなんて感じさせない滑らかさで吹いていった。あくまで美登里ちゃんが主役。ノボル先生は、邪魔にならないように控えめに柔らかく伴奏を寄り添わせている。
上手い。これはすごいわ。
クリスマスコンサートで聴いた青鸞のフルート専攻の誰より、美登里ちゃんは上手かった。
音色の柔らかさといい高音の透明感といい、天上の調べみたい。
私と紺ちゃんは、手が痛くなる程の拍手を惜しみなく送った。
演奏の後は軽食をつまんだり、CDを選んでかけたり、ノボル先生にリクエストしたりして過ごした。それはとても楽しく充実した時間だった。
「空港まで見送りに行けなくて、ごめんね」
「いいの、気にしないで」
玄田邸を辞する時、美登里ちゃん達とちょっと早めの別れの挨拶を済ませる。
「ファイナルを見に、10月にまた来るからね、真白!」
美登里ちゃんにバチンとウインクを飛ばされる。
その前に、一次予選と準決勝があるのに。勝ち抜くと信じてるからね、というエールの含まれた一言に、私は思わず笑ってしまった。
「ラヴェルを弾くから、楽しみにしてて」
私がそう言うと、ノボル先生までにっこり笑ってくれた。