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「最近の真白は、毎日楽しそうだね」


 父さんが嬉しそうに目を細めて、晩御飯の時に私をしみじみ眺めてくる。


「うん。勉強もピアノも、すごく楽しい。友達はみんないい子だし、家は居心地がいいし。恵まれてる生活送ってるな~って、最近よく思うんだ。父さん達のお陰だよ。ありがとう」


 素直に感謝を述べると、母さんが目を軽く見開いた。


「真白も大人になったのねえ……。中学生になったら思春期やら反抗期やらで接しにくくなるってよく聞くのに。真白の場合は早熟だったのかしら? 小学校の時の方が大変そうだったね」


 どこかしんみりした口調で言った母さんに、父さんが相槌を打つ。


「確かに。今よりもっとピリピリしてて、いつもどこか不安そうにしてたな」

「あ~……そう、かな。ごめんね?」


 早めに思春期が到来したわけではなく、単に前世関係でのあれこれに振り回されていた、とは言えない。

 困った私は、お姉ちゃんに話を振ることにした。


「花香お姉ちゃんはどうだったの? 反抗期」


 何気なく口にした質問だったのに、両親が一斉にぶっと噴き出す。

 お姉ちゃんは真っ赤になって、「わーわー!」と叫んだ。


「私の話はいいよ。はい、この話はもう終わり!」

「分かった、分かった。言わないよ。真白は覚えてないみたいだし」

「良かったわね、花香ちゃん。黒い皮手袋して決め台詞練習してること、真白には見られなくて」

「ちょ、母さん!?」


 お母さん、それ全部言っちゃってる。

 ……そうか、花香ちゃんは文字通り中二病を患っていたのか。

 我慢しようと歯を食いしばったけど、一旦ツボに入った笑いが止まるわけもなく。


「くっ……黒い皮手袋……!」

「もう~、みんな忘れてくれたと思ってたのに~」


 花香ちゃんが悔しそうに地団駄を踏む。

 明るい笑い声が明るく響くリビングで、私は今世こそ皆を悲しませるようなことはしない、と強く誓った。


 

 楽しい時間が過ぎるのはあっという間だ。

 日々のあれこれに追われているうちに、私は中学二年生になっていた。


 十月に開催されるコンクールの概要も大々的に発表になり、いよいよか、と緊張してくる。

 梅雨を目前にした六月。

 私は亜由美先生の家で、コンクールにエントリーする為の録音に挑むことになった。


 サディア・フランチェスカコンクールの審査の流れはこう。

 まず音源審査で各部門30名ほどに振い落され、それから一次審査で半分の15名、準決勝で5名にまで絞られる。その後、ファイナルに残った5名で優勝を争うことになる。

 大抵の学生コンクールは、部門ごとで課題曲の難易度が分けられている。

 だが、このサディア・フランチェスカコンクールは違った。

 中学・高校・大学部門と全て課題曲は同じ。まずその時点で、中学部門に出場する生徒にとっては厳しいコンクールだと言える。

 一次審査の課題曲はまだ発表されていないが、私は紺ちゃんのボクメロ攻略ノートを読んですでに知っていた。数曲ある中から、『ショパンのエチュードOp.25-10』を選び、もうずっと練習を重ねている。まだ見ぬライバルへの罪悪感はあるものの、背に腹は代えられない。


 音源審査のエントリー曲を選んだのは、亜由美先生だ。


「音源の規定はないといっても、審査委員長を務めるのはサディア・フランチェスカよ。だから、チャイコフスキーの十八の小品あたりがいいんじゃないかと思うの」

「十八の小品というと、幻想的スケルツォですか?」

「それも悪くないけど、私はこっちを推すわ」


 亜由美先生のくれた楽譜は、第5番の瞑想曲だった。

 チャイコフスキーっていえば、管絃楽曲や交響曲、そしてピアノ協奏曲というイメージがあるけど、晩年に作曲したピアノの小品集もすごく素敵なんだよね。

 サディア・フランチェスカが有名になったのは、チャイコフスキー国際コンクールピアノ部門で優勝したことがきっかけだ。彼女自身、「一番好きな作曲家はチャイコフスキーです」と常々公言している。

 選曲に瞑想曲を選び、ちょっとでも彼女の心証を良くしようという手なのかもしれない。


 楽譜を貰ったのは先月のこと。亜由美先生には先週、及第点を貰っている。

 今日はいよいよ、演奏を録音する日だ。


 チャイコフスキー作曲 18の小品op.72 瞑想曲


 ゆったりとしたテンポで始まる導入部。何度も現れる甘い主題を左手の和音を崩したアルペジオがロマンティックに支える。そして展開部。力強い上昇音形が現れ、チャイコフスキーらしい華やかなオクターブでの主旋律はダイナミックに奏でる。

 再び、テンポを落として再現部。この辺りを私は情感たっぷりに揺らしながら弾いてみた。

 最後のトリルは、出来るだけ音が濁らないようにデクレッシェンドをかけて、そっと指を離す。


 息を詰めて亜由美先生をみる。

 先生は指でOKサインを出し、静かに録音機器を止めた。


「良かったわよ。初回で決めてくるあたり、さすが真白ちゃんね」

「ありがとうございます」


 どうやら一発OKらしい。手放しで褒められ、つい頬が緩んでしまう。


「この出来なら予備審査で落ちることはないでしょう。エントリーシートはこちらで出しておくわ。後はコンディションを整えながら本番を待つだけよ」

「いろいろとありがとうございます」


 楽譜を片づけ、先生にペコリと頭を下げる。

 亜由美先生には何か何までお世話になりっぱなしで、申し訳ないくらいだ。


「気にしないでいいのよ。真白ちゃんは、いい演奏をすることだけに集中して。そうそう、夏休みにはコンテスタント向けに課題曲のセミナーが開催されるんですって。審査員数名がランダムで割り振られて、公開レッスンしてくれるそうよ」

「セミナー……。そこにサディア・フランチェスカもくるんでしょうか?」

「さあ。それはまだ発表になっていないけど、あり得ない話じゃないわね。参加費はかかるみたいだけど、真白ちゃんが受けたいならお母様に私から話してみるわ」


 参加費、か。きっと高いんだろうな。

 ただでさえ、ピアノの調律代、楽譜代、レッスン代と父さん達には無理をさせている。

 頼めばきっと嫌な顔なんてせずに「いいよ」って言ってくれるだろうけど、どうしてもすぐに頷けなかった。セミナー自体には憧れるけど、両親にこれ以上負担をかけたくないという気持ちの方が強い。


 困って口籠った私をしばらく見つめていた亜由美先生は、ふっと目元を和らげた。


「いいわ、こっちでもちょっと考えてみるから。申し込みの締め切りにはまだあるし、今すぐ返事をしなくても大丈夫」

「すみません。よろしくお願いします」


 深く一礼して、レッスンバッグを手に防音室を出る。

 ああ、お金が欲しい。そしたら悩まず、セミナーに申し込めたのになあ。

 しょんぼりしながら玄関に向かおうとした私の背中に、低く響く声がかかる。


「真白」


 この声は――。

 螺旋階段を降りかけていた足を止め、声のした方を見上げる。そこには制服姿の紅が立っていた。


「来てたんだ! ここで会うの、久しぶりだね」


 白い半そでシャツから覗く腕の引き締まったラインが眩しい。

 彼は会う度、大人びていく。男の子は大きくなるのが早いねえ、なんていう親戚のおばちゃんじみた感想を抱かずにいられない。


「今日、ここでコンクールの録音するって聞いたから。どうだった?」


 それでわざわざ? まさか、私を心配して?

 大きく目を見開いた私に向かって、紅は苦笑いを浮かべてみせた。


「亜由美にも用事があったんだよ。だからお前は、ついで」

「ですよね。あー、びっくりした。アハハ」


 ほっとした拍子に意味なく笑ってしまう。

 紅は短く息を吐き、「お前、ほんと分かりやす過ぎ」と呟いた。

 どういう意味かは分からないけど、悪口めいたニュアンスにムッと顔をしかめてしまう。

 紅は苦笑し、話を変えた。


「怒るなよ。それで? どうだったの」


 じゃあ怒らせるようなこと言わないでよ、と心の中で言い返し、質問に答える。


「結構いい感じに弾けたと思う。亜由美先生も、予備審査で落ちることはないだろうって言ってくれたし」


 私の返事を聞くなり、紅はふわりと微笑んだ。


「そうか。良かったな」


 悔しいけど、一瞬見惚れてしまった。

 計算され尽くした感のある、人誑しなあの笑顔じゃなかった。

 もっと幼い、あどけない笑みに胸が騒ぐ。


「なんだよ、じっと見て。今日はやけに大人しいな」

「い、いや、別に」


 疾しいことなんてないはずなのに、顔が赤くなるのが分かる。

 最近の紅はすごく優しい。嫌味も言わないし、変にからかったりもしない。

 一方的に身構えている私は肩透かしを食らいっぱなしだ。

 気のせいか、私達の間にふわっとした甘い雰囲気が漂ってる気がする。

 いや、完全に気のせいだな。血迷うなよ、真白。相手はあの紅様だぞ。

 こういう時は早めの撤退に限る。


「じゃあ、私もう行くね」

「迎えを待たないのか?」


 訝しげな紅に、私は首を振った。


「母さんに迎えに来て貰ってたのは、小学校までだよ。中学に入ってからは、自転車で通ってる」

「はあ? それ、聞いてないんだけど」


 ええ、言ってませんけど。

 紅への報告の義務はない。……ないよね?

 どう答えたものかと俊巡している間に、紅はスーパー過保護な提案をしてきた。


「家まで水沢に送らせる。自転車は後から家に運ばせればいいだろ」

「ええっ、いいよ! そこまでしてもらわなくても。今までだって普通に帰ってたんだし」

「――何かあってからでは遅いって、前に言わなかったか?」


 紅は微かな呆れを含んだ眼差しで、私を見下ろしてくる。

 ただでさえ低めの声なのに更に低くなって、まるで魔王様のようだ。

 これは逆らうとまずいやつ。厚意の裏にあるのは不安だと分かってしまうだけに、突っぱねられない。


「言ってたね。じゃあ、よろしくお願いします」

「……ちょっと待ってろ」


 紅は分かればいい、というように頷き、ズボンの後ろポッケからスマホを取り出した。そしてあっという間に水沢さんを呼んでしまう。

 私をベンツの後部座席に押し込めた後、紅はルーフに片手をかけてこちらを覗き込んできた。


「俺も家まで御供(おとも)しましょうか? お姫様」


 薄闇の中にわずかに残った淡いオレンジの光が、彼の艶やかな髪を照らす。

 まるで絵のように綺麗なワンショットだった。その時、私を襲った感情を説明するのは難しい。絵師様が渾身の力を込めたレアスチルを手に入れたような気分、とでも言えばいいのだろうか。

 でも、それだけじゃない。私のかつての推しは、確かに生きて目の前にいた。

 なんでこの人、こんなにカッコいいんだ。

 感嘆と悔しさがないまぜになった複雑な想いが胸いっぱいに広がる。


 見惚れてしまったことに気づかれたくなくて、私は精一杯の虚勢を張った。

 

「謹んで辞退いたしますわ、我が君」


 紅に負けないよう、わざと艶っぽく答えてみる。

 紅はあっけに取られたように小さく口を開き、それから自嘲めいた笑みを浮かべた。


「……お前は、時々すごく残酷だな、真白」

「なにそれ。どういう――」


 意味? と問い返したかったのに、鼻先で乱暴にドアを閉められる。

 今度は私が唖然とする番だった。


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