スチル3.ピアノ教室(紅)
お風呂の中で、ぐいーっと手足を伸ばす。
いまだに自分の身体を見慣れない。
棒のようなふくらはぎを見下ろした後、まじまじと両手を広げて見つめた。
どこからどう見ても8歳児にしか見えないすべすべふっくらした小さな手。
転生なんて本当はしてないんじゃないか、とどこかで私は疑っていた。
明晰夢か何かを『前世の記憶』と勘違いしている可能性だってある。頭の隅でそう思っていた。
だけど、一人では証明不可能な事実は、突然現れた玄田 紺によって証明されてしまった。
それとも、二人とも頭のネジが緩んでる可能性はまだ残ってる?
「……ああ、もう訳分かんないっ!」
ザブンとお湯の中に顔をつける。
とにかく。
妄想だろうが思い込みだろうが、私はどうしても青鸞学院に入学して、紅様と接点を持ちたい。
怖いほどのこの執着心こそが、私がゲーム主人公であることの何よりの証拠なのだろうか。
不意に思い当たり、温かいお湯の中でゾクリと背筋が震えた。
レッスン日は、週に一回木曜日の5時からに決まった。
松島先生は、音大の講師をしながら、演奏活動も行っている若手ピアニストだった。
国際コンクールでの受賞歴もあり、これからの活躍を大いに期待されている。
……そんなすごい人が、どうして私みたいなド素人のレッスンを引き受けてくれたんだろう?
浮かんだ疑問は、母に貰ったツェルニーの楽譜を前に霧散してしまった。
いよいよ、始まるんだ! 私、ピアノを弾くんだ!
「母さん、父さん。本当にありがとう。絶対に途中で投げ出さないからね」
「うん。始めたからには頑張って、ましろ」
「父さん、音楽のことは正直よく分からないけど、発表会とかもあるんだろ? 必ず聞きに行くからな」
娘の我儘を聞き入れてくれた優しい両親の為にも、頑張らなくては!
ピアノをある程度ものにしたいのなら、スタートが8歳というのは、遅い方だと思う。
その分のハンデは、練習で取り戻すべし。
私は部屋に戻り、計画ノート兼ダイアリーを取り出した。
年月と共に忘れていきそうな紅様のイベントやプロフィールは、このノートに書き込んである。
知らない人がうっかり覗いたら、恐怖体験になりかねない別名ストーカーノートだ。
この世界が本当にリメイク版だとしたら、殆ど役には立たないんだけどね。
私は見た目も中身も平凡で主人公って柄じゃないし、なんとか前作の流れに持っていけないかなぁ。
次のレッスン日、紺ちゃんにそれとなく聞いてみよう。
あれだけの美少女だ、紺ちゃんなら、紅様との釣り合いはばっちり取れている。
2人が並んでいるところを想像し、私はだらしなく口元を緩めた。
――ところが。
木曜日、少し早めにレッスンに向かった私を待ち構えていたのは、紺ちゃんだけではなかった。
「あ、あのー」
ものすごく気まずい。
私は何故か、紺ちゃんと紅様に両脇を固められていた。
「なに?」
「なんだ?」
完璧なユニゾンが両脇から響き、鼓膜を振るわせてくる。
「コンちゃんと紅さ、じゃなかった成田さんは、お友達なんですか、ね?」
前に蒼くんにコンちゃんのことを聞いた時は「知らない」と一刀両断されたものだから、勝手に蒼くんの親友である紅様も、まだ彼女に出会っていないと思い込んでいた。
「ふふ。どうだろうな。マシロは、どう思う?」
紅様は艶やかに微笑み、小首を傾げた。
この場に誰もいなかったら、床に転がって悶えたかった。
「はぁ? 何言ってるの、コウ。分からないから、聞いてるんでしょ」
紺ちゃんは、私がサロンに入った時から不機嫌そうだった。
美しく整った美貌を曇らせ、私の頭越しに紅さまを睨みつける。
紅様はその視線を難なく受け止め、紺ちゃんにニヤリと微笑みかけた。
悪そうな笑みまでカッコいいよう。誰か私のお花畑思考を止めて!
「ほんと、コウが邪魔。せっかくましろちゃんに、色々話して置きたいことがあったのに」
「だから、それが何なのか、先に俺に教えれば良かったんだろ? そしたらわざわざ亜由美のところにまで押しかけなくて済んだ」
二人が何を言ってるのか、さっぱり分からない。
ただ、先生のことを『亜由美』と呼び捨てにした紅様の言葉に驚いた。
「……成田さんは、先生とも知り合いなんですか?」
「さっきからましろは質問ばかりだな。いいよ。じゃあ、俺も答えるから、ましろも俺の質問に答える。それでいい?」
吐息を多分に含んだ艶やかな声に、頭がぼんやりしてくる。
……ハッ! これって一種の睡眠術なのかも。相手は8歳児。
たった8歳の子供だぞ、真白しっかりしろ!
自分に言い聞かせながら頷くと、紅さまは穏やかな表情をガラリと変えた。
底冷えのする酷薄な瞳で、私をまっすぐに射抜いてくる。
「お前、なに企んでんの? 蒼だけじゃなく、紺にまで近づいて。いったい何が目的?」
刺々しい声は低く、敵意に満ちていた。
予想外の詰問に、感情が麻痺する。
――え。これって、私、疑われてる、の?
企む……って。
この先起こるであろう紅様の恋愛イベントを見てみたい、というのはその企みの内に入るのかな。
「コウ!」
紺ちゃんが怒って立ち上がったのと「ましろちゃん、どうぞ?」というおっとりした亜由美先生の声が聞こえたのは同時だった。
「今日は初めてだから、運指っていう指の動かし方の練習をしてみようか」
亜由美先生が椅子の高さを調節してくれ、すぐ隣に腰かけた。
ふわん、といい香りがする。ブルガリのオード・トワレかな。
先生の美しい指が鍵盤をゆっくりと撫でるように滑っていく。
私は出来るだけ忠実に、先生のタッチを模倣してみた。
「あれ。ましろちゃん、本当にピアノは初めて?」
頷くと先生は「もしかして、楽譜も練習してきた?」と尋ねてくる。
「はい。どの曲からやるのか分からなかったので、とりあえず前から順番に5曲だけ」
亜由美先生は、ポカンと口を開けた。
美人はどんなに表情を崩しても、美人だと感心してしまう。
「今日は右手だけ、左手だけ、って順番で練習して、最後に両手でゆっくり合わせる練習しようかなって思ってたんだけど……」
「テンポがどれくらいか家にメトロノームが無いので分かりませんでしたが、一応楽譜の通りの音だけなら出せると思います」
すでに暗譜済みだった一曲目を、ゆっくりめに弾いてみると、亜由美先生は感激したように頬を上気させた。
「すごい! よっぽど練習したのね!」
その後先生はきりりと表情を引き締め、私の顔を覗き込む。
「ましろちゃんはもしかして、将来ピアニストになりたいなって考えてたりする?」
「いいえ。あの、そこまでは。……ただ、青鸞学院の音楽科に憧れてるんです。それで……」
身の程知らずだという自覚はある。
言葉の終わりは、消え入りそうなくらい小さい声になってしまった。
「なるほどね。そっか~。……うん、じゃあ一緒に頑張っていこう! 先生も、そのつもりでやるから」
亜由美先生の目つきが変わり、纏う空気が張り詰める。
さっきまでとは全然違う。
私はごくり、と息を呑んだ。
「まずは、手の置き方。指先の力は十二分にあるみたいだから、そっちに頼ってる部分があるね。もっと手の平を柔らかく使って――」
私と先生は、目の前の楽譜に完全に集中してしまった。
気が付くと、アラームが鳴っている。レッスン時間の60分は、わずか10分のように感じられた。
「お母さんに夜、先生が電話しますって伝えてくれるかな? 音大を目指す子たちには、土曜日にソルフェージュを教えているの。ましろちゃんも参加した方がいいと思う」
「はい。分かりました」
ペコリと一礼し、挨拶をしてからレッスン室を出た。
ふう……。つ、疲れた……。でも、楽しかった!
次のレッスンまでに頑張ることがハッキリ見えてきて、私は浮き浮きしながらサロンに戻った。
「ましろちゃん。コウのいうことは、とりあえず無視でいいから」
私と入れ替わりに紺ちゃんがサロンを出て、レッスン室へ向かう。
すれ違いざまに耳打ちされ、わけがわからないまま彼女の華奢な背中を見送った。
静かに扉は閉められ、広々とした豪奢な空間に、私と紅様だけが残される。
さっきの彼の牽制を思い出し、私は紅様から離れたところにちんまり座った。
「ましろはお迎え待ち?」
「……はい」
さっそく紅さまは何事もなかったように尋ねてくる。
紅さまと会うのはまだ2回目なのに、どうしてあんなこと言われたんだろう。
考えたいのに、紅様の冷ややかな視線が気になって考えがまとまらない。
うう……母さん、早く来て!
「ふうん。――ね、さっきの返事、まだ聞いてないんだけど」
ああ、やっぱりその話に戻るのか。
「特に何も企んでません。本当に、変なこととか考えてません。ほ、ホントに何も目的とかなく」
懸命に弁解してみるものの、まず今なぜここにいるのか、という理由からして疾しい私の言動は、挙動不審という言葉がぴったりだった。
ピアノを始めた動機を追求されたら、有罪確定だ。
「そうか。分かった」
「……はあ。良かった」
「違う。お前に何を聞いてもムダだって分かったって言ったんだよ」
紅様は声に怒りを含ませ、私を睨み付けた。
ええっ!? なんでそんなに怒ってるの!? 怖い、怖すぎる。
本気で意味が分からない。
もしかして、私の存在自体が許せない感じなの?
もしそうなら、どうしていいか分からないくらいへこむんですけど……。
「いいか。これだけは言っておく。蒼や紺に下手な真似したら、絶対に許さない。分かったな」
紅さまは吐き捨てるように言い残し、優雅な身のこなしでサロンを去っていった。
下手な真似って、なに?
どうしてそこまで威嚇されなきゃいけないの?
紅様の態度から分かったのは、私が彼にものすごく嫌われているということだけだった。
◇◇◇
本日の主人公の成果
攻略対象:成田 紅
セカンドイベント:警戒
クリア