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第二部の金管・木管専攻のプログラムは、隣に座ってきたトビー王子が気になって、集中して聴けなかった。
――『しょうがないわよ。前作ヒロイン(わたし)のお相手はトビーって決まってるんだもの』
少し前に紺ちゃんが口にしたあの台詞が、頭から離れてくれない。
私たちを時折襲う『発作』そして、紺ちゃんが決して触れようとしない『前世での出来事』
私が殆ど覚えていないように、てっきり彼女も前世を覚えていないのだと思っていた。
でも、もしそうじゃなかったら?
私と彼女の決定的な相違点は『リメイク版のボクメロをプレイしたことがあるかどうか』ではなく、『前世の記憶を引き継いでいるか、いないか』ということになる。
そもそもどうしてゲーム世界に転生なんてしちゃったんだろう。
前世の記憶を持っている少女とか、そういう不思議な話は耳にしたことあるけど、自分の知っている物語世界に転生するなんて話、現実では聞いたこともない。
それに紺ちゃんがトビー王子をあそこまで意識している理由は、何?
攻略できなかったら、何が起こるの?
結論の出ない思索を巡らせているうちに、クラリネット専攻の宮路さんが舞台に現れた。
ぴったりとした深紅の赤いカクテルドレスが、彼女の彫りの深い容貌をより引き立てている。宮路さんが優雅に一礼すると、艶やかな黒髪がサラリと前に流れた。
プーランク作曲 「クラリネットソナタ 第一楽章」
プーランク晩年の名曲だ。流れるような旋律の美しさが特徴のはずなのに、所々の音が荒い。スラーの滑らかさもない。ビブラートを大げさにかけて誤魔化しているような印象を受けた。
演奏者に対する私的な感情が入ってるのかな?
自分が恐くなり、きちんと耳を澄ませてみる。
パンフレットを先に貰ってたから、演目の全ての楽曲は予習済みだった。もちろんポール・メイエと比べるのは酷だと思うけど、でも、それにしても……。
おざなりな拍手をおくる私を、チラリとトビー王子が見てくる。
彼はフッと頬を緩め、形の良い薄い唇を私の耳元に寄せた。
「It's just not beautiful. don't you think so? 」
私は膝の上においた手をきゅっと握りしめた。
トビーは分かってるんだ。宮路さんの実力を。分かっていて、この人は彼女を代表に選んだんだ。
激しい嫌悪感が背筋を這い登る。
どうしてそんなにこやかな表情で、自分が選んだ代表者の演奏を酷評できるの?
仕事の一環として青鸞の理事に就任したんだとしても、トビー王子だって音楽が好きなんだと思ってた。
トビーの台詞を黙殺し、舞台に集中するふりをする。
その後に出てきたフルート専攻の寺西さんも、宮路さんと似たような演奏内容だった。練習不足が如実に表れている。
第一部に出ていたヴィオラ科の宇都宮さんは、もっと上手かった。弦楽四重奏に参加してた彼女は、確かな技術を持って中音程をしっかり支えていた。残酷なほど分かりやすい技量の差に、居た堪れなくなった。
休憩なしで、ピアノ科の発表に移る。
プログラムによると、各学年から2名ずつ、計6名が演奏するみたい。第一部でも思ったけど、その発表順が謎なんだよね。
普通だったら、最高学年の一番上手い人が最後にくるはず。
紅は本当に上手かったけど、曲の難易度的にも上だった3年生を差し置いて最後ってどうなんだろう、と実は思っていた。第二部では、一番上手くしかも3年生だというフルート奏者が最後だったから余計に。
ピアノ科の最後は紺ちゃんだった。それはいい。
だって紺ちゃんが一番上手いに決まってる。でも最後から二番目が沢倉さんってどうなの。
演目はショパンの「夜想曲 第二番 変ホ長調」
アレクシス・ワイセンベルクの名盤をチェックしてきた私がいけないんだろうけど、どうにもこうにも聞き苦しい演奏だった。テクニック的には安易な曲だからこそ、独自の解釈を深めてじっくり聴かせて欲しいのに、テンポは速すぎるし音は平板。彼女の前の3年生の演奏が良かっただけに、がっくりきてしまう。
しょんぼり肩を落とした私を見て、トビー王子が再び小声で話しかけてきた。
「真白は、思ってることがすぐ顔にでるタイプなんだね。沢倉さんの家は資産家なんだよ。しかも両親とも親バカでね。学院のとてもいいパトロンなんだ」
トビーは愉快そうだった。私は無性に悲しくなった。
長年憧れていた学園の、最も嫌な面を見せつけられた気分だった。
いつか青鸞に入って、音楽漬けの日々をめいっぱい楽しむ。その夢を叶える為、私は脇目も振らず毎日のカリキュラムをこなしてきた。
きっと青鸞の子達もみんな私と同じだって、馬鹿みたいに信じていた。真剣に音楽に向き合う人ばかりじゃないって、今の今まで考えもしなかった稚拙な自分にも呆れてしまう。
だけどそんな沈鬱とした想いは、次の紺ちゃんの演奏で見事に吹き飛ばされた。
ノボル先生の指導を受けて、紺ちゃんは変わった。
鬼気迫るパッショネイトな演奏はそのままに、どこかゆとりが生まれている。
そのゆとりが聴き手に、作曲家が紡ぎあげた世界をじっくりと味わう余裕をくれるのだ。
舞台上で誰よりも光り輝いている彼女からは、音楽を奏でることの喜びが強烈に伝わってきた。
ああ、なんて眩くて美しい光。
今まで聴いたことのあるどの「熱情」より、紺ちゃんの奏でたその曲は私の心を動かした。
満足げに微笑み万雷の拍手に応える紺ちゃんに、私も手が痛くなるほど拍手を送る。
紺ちゃんがステージから姿を消した後、私は手を止め、おもむろにトビーの方を見た。
紺ちゃんは、違う。あなたのお気に入りの子達とは、何もかもが違う。
音楽への想いも、練習量も、覚悟も全て。
トビーはあっけに取られた表情で、舞台上の紺ちゃんを見つめていた。
彼があまりにも驚いているものだから、挑むような気持は吃驚にとって代わられた。
「まさか……まさか、ここまで変わるなんて」
トビー王子の悔しそうな声に、私は深い満足感を覚えた。
思わずニヤリと浮かんだ笑みを、素早くトビー王子が見咎めてくる。
「意地悪だね、真白は。僕の驚いた顔がそんなに面白い?」
「面白いです。スカっとしました」
トビーは将来の青鸞学院の理事長だ。嫌われるのは得策じゃないと分かっているのに、口が止まらない。
多分私は、ものすごく腹を立てていたんだと思う。
私が宮路さんや沢倉さんだったら、あんなふがいない演奏はしなかった。もっと必死に練習して、必死に仕上げて今日のステージに挑んだ。
私がトビーだったら、寄付金の額で演奏者を決めたりしなかった。真剣に音楽に取り組んでいる子を選んで、その努力にふさわしい賞賛を受けさせてあげた。
どれだけ自分が傲慢なことを考えてるかなんて、分かってる。
それでも悔しくて悔しくて、堪らなかった。
「正直なところ、紺ちゃんや他数名を除けば、期待外れでしたから。ずっと青鸞に憧れていたので、こんなものかとガッカリしていたところです」
「言うね」
トビー王子の碧眼がキラリ、と煌めく。
「そこまで言うからには、真白はよっぽどピアノに自信があるんだね。……面白い。じゃあ、証明してみてくれるかい?」
「……どういう意味ですか」
獲物に狙いを定めたような底冷えのする眼差しに、ごくりと息を飲む。
トビーは私の腕をつかみ、自分の方へ力強く引き寄せた。
「言葉通りだよ。来年、大規模なコンクールが行われる。そこで優勝して、君の実力を証明してみせて」
――そういうことか。ここでトビーと出会ったのは、偶然ではなかったんだ。
おそらく、彼のやり取りは現実がゲームのシナリオ通りに進む為の必須イベント。
トビーの言う『大規模なコンクール』というのは、『サディア・フランチェスカコンクール』のことだろう。
ウィーン出身の有名な女性ピアニストを審査委員長に招いて行われる、日本では初めてのピアノコンクール。『ボクメロリメイク版』のヒロインが臨むコンクールだ。
私はトビーをまっすぐ見つめ返した。
「分かりました。受けて立ちます」
どこまでやれるか分からない。だけど、負けたくない。ここで引き下がりたくない。
全身の力を込め、トビー王子の視線を受け止める。
時間にすれば、一分もなかっただろう。睨み合っているうちに、ホールの照明が戻った。
観客は立ち上がり、ざわめきながら出口に向かっていく。
私も外に出て家に電話しなきゃ。トビーに一礼した後、通路に出た。
これで終わりだと思ったのに、何故かトビーは私を追ってきた。
「真白のこの後の予定は? 特にないなら、一緒に食事でもどうかな?」
ひえ~。私は心底驚いた。ついさっきまで睨みあっていた生意気な子供を、食事に誘う?
すごいな、この人の神経。何もかもが規格外だ。
「え、えっと……」
ここはどう振る舞うのが正解なんだろう。
正直に紺ちゃん達との予定を打ち明けて、トビーも誘うべき? それともきっぱり断るべき?
ゲームだったらクイックセーブを使ってどちらの選択肢も試せるけど、この世界は現実だ。
なのに出会う人は攻略キャラと同じ姿だっていうんだから、わけがわからない。
考えているうちに時間切れになったらしい。
背後から「真白!」と切迫した低い声が飛んできた。
驚いて振り向くと、私服に着替えた紅が、一段飛ばしに階段を下りてくるのが目に入る。
紅も走ることあるんだ、なんて一瞬場違いな感想が浮かんだ。
これで助かったのか、よりピンチになったのかは分からない。
だけど私の前に立ってくれた紅の背中を見て、膝が震えそうなくらい緊張していた自分にようやく気がついた。
「……山吹理事。どうしてこの席に? チケットをお持ちではないでしょう?」
「そうだね。君が5席とも押さえてしまったから、ここだけ空白で気になってたんだ。それで近くまで来てみたら真ん中にいるのが真白だったから、つい声をかけてしまってね」
そうなの? 紅が、私の両隣にわざと誰も来ないようにしたってこと?
驚きの連続に、ぽかんと口が開いてしまう。
紅はトビーを見据えたまま、小さく舌打ちした。
「特に意味はありませんよ」
ないのか。あー、びっくりした。
うっかり痛々しい勘違いするところだったよ、あぶない!
「へえ。僕はてっきり、彼女を君のファンからガードしたいのかと思ってたよ。それとも、舞台からでもすぐに彼女が分かるようにしたかったとか?」
「言ったはずです。意味はないと」
紅はきっぱりとトビーの言葉を退けた。
それから、私に視線を移す。目が合うと紅は、張りつめた表情を緩ませ、心配そうに眉根を寄せた。
「大丈夫か? 真白。顔色が悪い」
「うん。人に酔ったのかな、頭がぐらぐらする。外の空気を吸ったら良くなるかも」
これ以上、面倒事に巻き込まれたくない。その一心で紅を見上げる。
紅は私の意思を読み取ってくれたようで、すぐに頷いてくれた。
「分かった、外に出よう」
紅は私の肩に手を回し、そっと出口へと促す。
「すみません、理事。俺達はこれで失礼させていただきます」
「そうなんだ。食事でもと思ってたんだけど、残念! じゃあ、またね真白」
トビーはあっさり引き下がり、最後にパチンとウィンクしてきた。
「……N'oubliez pas de me rencontrer dans le concours du piano. 」
捨て台詞はフランス語だった。
まるで私がフランス語を勉強してるって知ってるみたい……。
どういうこと? 私がコンクールを目指して色々準備してきたことに気づいてるの?
頭の中がぐちゃぐちゃでよく分からなくなってくる。
紅も面食らった顔で、颯爽と去っていくトビーの後ろ姿を見送っていた。
「最後のあれ、どういう意味だ」
独り言のように零す紅に、思わず翻訳してしまう。
「――ピアノコンクールで私に会うのを忘れるな、だって」
「あんなに早口だったのに、聞き取れたのか?」
紅は驚愕の表情で凝視してきた。すっと腰をかがめ、覗きこむようにして私を捉える。
「お前はいったい、なんなんだ」
疑心と切なげな色が浮かんだ紫の瞳には、強張った表情の少女が映りこんでいる。
ねえ、紅。それは誰より私が聞きたいことなんだよ。