幕間~蒼とミドリの攻防戦(蒼視点)~
久しぶりに美登里が自宅を訪ねてきた。
認めてはいないが、一応俺の婚約者ってことになっている相手だ。会わずに追い返すことは出来ない。
彼女の気紛れは筋金入りで、訪問前にアポイントを取ってきた試しはない。俺が逃げ出せないよう、彼女の訪問はいつも突然だ。
「ソウ! 来てあげたわよ」
「頼んでない」
そっけなく即答した俺を見て、美登里は何故かほくそ笑んだ。
いつものヒステリックな反応を予想していただけに、驚いてしまう。拍子抜けするのと同時に、警戒心が湧いてきた。
付き合いだけは無駄に長い。彼女がこんな顔をする時は、大抵ロクでもないことを考えている時だと分かった。
「また何か企んでるのか?」
「失礼ね。そんな嫌なことばっかり言ってると、日本のお土産あげないわよ?」
美登里は『日本の』という部分をわざと強調し、勝ち誇るような表情を浮かべる。
彼女がイギリスを離れて帰国したことは初耳だった。美登里は実家を嫌っている。そんな彼女がわざわざ里帰りするなんて、と意外には思ったものの、それだけだ。
日本が懐かしくないわけではないけれど、本当に欲しいものはどこにも売っていない。
「土産はいらない。用ってそれだけ?」
最低限の礼儀は払った。これ以上、同席する必要はないだろう。
腰をあげようとしたところで、俺は息を飲んだ。
向かい合せに座ったミドリが、ローテーブルに写真を並べ始めたからだ。
ただの写真なら、何てことない。
だけどそこには、片時も忘れたことのないたった一人の女の子が写っていた。
ミドリと頬をくっつけて照れくさそうに笑う真白。
同じジュースに2本ストローを指して、ミドリと一緒に飲んでいる真白。
薄着の真白は、最後に見た時よりうんと大人びていて、眩しいほど輝いていた。
「まさか、お前――」
「日本に行ってきた、って言ったでしょ?」
得意げに眉をあげるミドリを見て、最悪の想像が脳裏をよぎる。
俺は無意識のうちに立ち上がり、テーブルに両手を叩きつけていた。
「なに、勝手な真似してんだよ! 真白に近づくな!」
本気で脅したつもりだったが、ミドリはフンと鼻を鳴らして笑う。
「見くびらないでよ。何かするのなら、直接あなたを狙うわ。真白はすごくcuteな子だった。私、大好きになっちゃった」
「……は?」
言ってる意味が分からずに聞き返すと、ミドリはポーチから端末を取り出し、おもむろに掲げてみせる。
「今後一切、私にムカつく態度を取らないって約束するなら、このデータをあげてもいいわよ」
「お前、なに言って――」
『おはよう』
ミドリが操作した途端、小さな端末から懐かしい声が聞こえてきた。
時が止まったみたいだった。喘ぐように息を吐く。
待って。この声は。嘘だろ、まさか――。
『もう朝だよ』
『早く起きて』
『今日も1日頑張ってね』
上手く息が出来ない。
懐かしくて、恋しくて、たまらなかった。
真白と過ごした日々が怒涛の勢いで脳裏に流れていく。
真白。真白、真白。
会いたい。
会いたくて、たまらない。
機械越しの声にさえ、こんなにも反応してしまう。
気を緩めたら、どうにかなってしまいそうだった。
ミドリは俺の過剰な反応に、大きく目を見開いた。
何か言いたそうだが、それどころじゃない。
俺の胸の中は、狂おしいほどの愛しさであっという間に埋まってしまった。
「……分かった。約束する」
掠れた声で、ようやく呟く。
ミドリは、呆れたように肩をすくめた。
「ここまで効果があるとは思わなかった。……そんなに好きなら、どうしてこっちに来たりしたのよ」
「お前には」
関係ない、といいかけて、思いとどまる。
ミドリが満面の笑みを浮かべ、これみよがしに端末を振っているのが目に入ったからだ。
溜息をつきたいのを我慢して、自分に言い聞かせる。
真白の声、欲しいだろ? 欲しいよな?
「彼女に言われたんだ。ドイツに行った方がいいって。俺はもう、彼女に振られてる」
渋々事情を話す。
美登里は長い睫毛を瞬かせ、感心したように口を開いた。
「……あなた、まともに話せるのね」
小憎らしい言い方に神経を逆撫でされたが、ぐっと堪える。
美登里は満足したのか、ふっと頬を緩めた。
「まあ、いいわ。約束は約束だし、真白だけが写ってる写真と音声データはあげる」
「ありがとう」
素直に礼を述べる。
美登里がどういうつもりかなんて、考える余裕はなかった。
真白の写真も、彼女の優しく甘い声も、今の俺には最高のプレゼントだ。それらが手に入るなら、美登里が靴を舐めろと言い出しても、きっとそうした。
美登里は自分が言い出した癖に、さも嫌そうに眉を顰めた。
「そんなに喜ばないでよ、調子狂うじゃない」
「まともに話せと言ったのはそっちだろ。一体どうすれば気が済むんだよ」
呆れた気持ちで問い返す。
美登里は「婚約を解消してくれたら、と言いたいけど、お互い今は動けないわよね」と独り言ちた。
それから、急に真面目な顔になる。
「いつかは日本に帰るんでしょう?」
俺はこくりと頷いた。
美登里は眉を顰め、話を続ける。
「その時真白に恋人が出来てたとしても、バカな真似はしないでね。あなたが犯罪者になろうが、城山がスキャンダルにまみれようがどうでもいいけど、真白が傷つくのだけは嫌だから」
ミドリの顔は、今まで見たこともないほど真剣だった。
真白を気に入った、という言葉は満更嘘でもなかったらしい。
「真白を傷つけるくらいなら、俺が消える。彼女が笑って暮らせるのなら、何だってする」
独占欲がないとは言わないが、それでも彼女の幸せを壊そうなんて思うはずがない。
ただ見ていたいだけだ。
彼女が幸せそうに笑うところを、どんなポジションからでもいいから見ていたいだけなんだ。
「おもっ! っていうか、あんた本当にソウ!? 偽物なんじゃないの? ……だめ。これ以上深淵を覗く勇気はないわ」
ミドリは身震いすると、そそくさと帰り支度をして引き揚げていった。深淵ってなんだ。
重い、と言われた言葉に、不思議と納得してしまう。
俺が抱えている想いは、傍から見れば正気を疑われるくらいのものなんだろう。
だが、どうにもできない。
真白は俺の夢や希望、憧れを具現化したような人だった。
写真に目を落とせば、すぐに美登里との会話は頭の中から消えていく。
ピアノに向かっている1枚に目を留め、俺はその写真をカード入れにしまうことに決めた。
日本へ戻るまで、残り2年と半年。
なかなか時間は過ぎてくれないけど、次に会った時真白にがっかりされないように、俺もこっちで頑張ろう。
離れていても、真白はいつも俺に元気をくれる。
そのことが、本当に嬉しかった。