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 9月になり学校が始まった。

 青鸞は来月から秋休みだ。紺ちゃんは紅と一緒にヨーロッパへ行ってしまうし、ノボル先生も今月末にはフランスに帰ってしまう。

 日中の日差しはまだまだ強いんだけど、夕方吹いてくる風はひんやりとしていて、夏の終わりを強く感じさせる。秋の訪れを告げる冷たい空気は、夕暮れの空の淡さと共に、私の感傷を強く刺激した。


 無性に寂しさが募るセンチメンタルなこの時期、私の楽しみと言えば、松田先生の授業だった。

 誰かとこのときめきを分かち合ってキャーキャー言いたくて仕方ない。

 先生ファンを見つけようと常にアンテナは立ててるんだけど、今のところ松田先生を推しているのは私だけのようだ。

 鬼平一筋の玲ちゃんは言うまでもないし、絵里ちゃん達にそれとなく話を振ってみたところ、なんと全員に「松田先生はない」と断じられてしまった。

 ええ~。……あんなに素敵なのに。みんなの目が節穴過ぎる。


 ピアノとドイツ語・イタリア語・そしてフランス語の習得で忙しくなってしまった今となっては、学校の勉強はほどほどでもいいかな、とも思う。

 元を辿れば「賢い子が好き」という紅様の好みに合わせたいという不純な動機だし。TVやラジオの講座をフル活用してるんだけど、3カ国語ともなると頭がパンクしそうになるし。

 でも今は、松田先生が褒めてくれるから、というまたもや不純な動機で勉強が止められない。

 笑って。全然成長してない私を笑って。


 花香お姉ちゃんはといえば、いよいよ来年は4年生。

 卒業と同時に幼稚園教諭一種という資格は取れるらしいんだけど、ピアノもある程度弾けないと駄目だというので、「私がみてあげようか?」と申し出た。


「え? 真白が? ご、ごめん、それは遠慮させて」

「なんで? バイエルくらいなら教えられると思うけどなあ」

「無理無理。勘弁して下さい!」


 花香お姉ちゃんってば、最後は涙目になっていた。

 どんな指導法を想像したんだろう。やだなあ。流石の私も、自分と同じことをしろとは言わないよ。



 あっという間に日々は流れ、美登里ちゃんはイギリスの学校に戻っていった。

 その前にドイツに立ち寄って、蒼に私と会った話をするのだという。

 最後に会った時、彼女は私の写真をそれは沢山撮った。何かというとすぐにスマホを向けてシャッターを切ってくるので、ちょっとした芸能人気分を味わった。……あんまりいいものじゃないな、これ。


「ねえ、もういいでしょ? いい加減、恥ずかしいよ」

「分かった、写真はもうやめる。あとは……そうだ! 声を録音していい? 真白の声を目覚ましにしたいから」

「え? 無理」


 な、なんというマニアックな……。

 私は思わず、一歩下がってしまった。

 美登里ちゃんはすかさず距離を詰め、拝むようなポーズでぐいぐい迫ってくる。


「そこを何とか! お願い!」


 両手を合わせ上目遣いでねだってくる美少女を前に、最後までNOを言える人はすごいと思う。

 私には出来なかった。だって、ものすごく可愛いんだもん。

 結局私は真っ赤な顔で、美登里ちゃんの用意した台詞を言わされる羽目になった。


『おはよう』『もう朝だよ』『早く起きて』『今日も1日頑張ってね』


 音声監督ばりに、美登里ちゃんは何度もリテイクを要求してくる。

 もっと可愛く! ハートマークを飛ばすつもりで! などなど。無茶な要求に私はほとほと困ってしまった。


「――ようし、こんなものかな。ありがとう、真白。これで盛大に貸しを作ってやれるわ。うふふふ」


 不穏な台詞が気になって「それ、本当に美登里ちゃんが使うんだよね?」と念を押す。


「当たり前でしょ。私を疑うなんてひどいっ」


 美登里ちゃんは器用に瞳を潤ませ、涙目で見つめてきた。

 くそー。自分の武器(チャームポイント)を知り尽くしてる美少女なんて最悪だ!


 

 9月の最終日曜日。

 亜由美先生がようやく戻って来た。

 帰国して早々、亜由美先生は私達の最後のレッスンに立ち会えるよう、スケジュールを調整してくれた。

 その日は、玄田の車ではなく亜由美先生の車でノボル先生宅へと向かう。

 一階が見違えるように充実したことには驚いていた亜由美先生だけど、ノボル先生自身の変身ぶりにはあまり感銘を受けていないようだった。


「久しぶりね、ノボル。今回のこと、本当にありがとう」

「お安い御用だよ。……それよりえっと、ワタシを見て何か気づいたことない?」


 ノボル先生はもじもじしながら亜由美先生からのコメントを待っている。

 大型犬のようなその姿に、こっそり涙を拭わずにいられない。


「え? あ、そういえば、髪を切ったのね」

「そうなんだ! それに眼鏡もコンタクトにしたし、髭も剃るようにしたんだ。どうかな?」

「さっぱりしたんじゃない? 楽譜がよく見えそうでいいわね」


 ……ダメだ。全然通じてない。

 ノボル先生は、お湯をかけられた青菜のようにすっかり萎れてしまった。

 そんな先生を見て、紺ちゃんは「紅みたい」と呟いてる。

 どこが!? 

 純情で一途なノボル先生と俺様ホストを一緒にするなんて、ノボル先生に失礼すぎるよ。


 亜由美先生は、さて、と話を切り上げ、私たちに向き直った。


「今日は何を聴かせてくれるの?」


 さっきまでのおっとりした雰囲気はどこにもない。

 亜由美先生の指導スイッチが入ったことに気づいて、ゴクリと息を飲む。


「今日は、私からでもいい?」


 紺ちゃんの頼みに、私はすぐに頷いた。前は私からだったもんね。


「リストのラ・カンパネラを弾きます」

「そう。じゃあ、どうぞ」


 亜由美先生は近くの椅子に腰を下ろした。

 ノボル先生は、ゆっくり壁際まで下がりそこに背中を凭れさせる。

 今日は何も口を出さないよ、という意思表示に見えた。



 リスト パガニーニによる超絶技巧練習曲集第3番 ラ・カンパネラ


 リストは非常に手の大きなピアニストだったと言われてる。

 手の大きさは、ピアニストにとって非常に重要な要素だ。オクターブを軽々弾けるのか、そうでないのかでは表現の幅が違ってくる。私も紺ちゃんもピアノを始めた当初から、指を広げる訓練は欠かしていない。同級生の男子と比べても第一関節分くらい長い指は、密かな自慢だった。

 出だしの速度指示は「Allegro moderato(ほどよく快速に)」。

 メトロノームでいえば、110~130といったところ。ここをゆっくりめのアレグロで弾くのか、それとも速めのアレグロで弾くのかでだいぶ印象は変わってくる。

 紺ちゃんは、速めに弾くことにしたみたい。

 オクターブで弾くことが連続するこの曲は、強弱の付け方もとっても難しい。

 ff(極めて強く)からクレッシェンド(だんだん強く)と指示されてる部分なんて、一体どうすればいいの!? という気分になる。

 紺ちゃんは、全身を使ってダイナミックに表現した。

 叩きつけるような勢いで両手は鍵盤を舞っているのに、1音1音の粒が揃って煌めいているのは一体どういう魔法なんだろう。

 特に高音部のオクターブ奏法なんて、楽器の音じゃないみたいだ。星屑をばら撒いたら、こんな音が鳴るのかもしれない。最後の主題を繰り返す部分のクレッシェンドの迫力には、溜息が漏れそうになった。


 紺ちゃんが鍵盤から手を離すと同時に、ノボル先生と亜由美先生は大きく手を叩いた。

 もちろん私も気づかないうちに、拍手してしまっている。


 本当に紺ちゃんはすごい。

 私はどこまであなたの背中を追いかけることになるんだろう。


 頬を上気させている紺ちゃんと無言ですれ違う。

 芸術に勝ち負けは存在しないのだとしても、せめて彼女に恥じない演奏をしたい。


「私はバッハのパルティータ第2番から、ロンドとカプリチオを弾きます」


 先生たちに告げた後、息を整え鍵盤に手を乗せた。


 バッハ パルティータ第2番ハ短調 BMV 826


 バロック組曲の中でも最高峰と言われる舞踏組曲だ。

 シンフォニア、アルマンド、クーラント、サラバンド、ロンド、そしてカプリチオ。

 ヨーロッパ各国の踊りの曲を組み合わせたもので、「多様と統一」というバッハの美学の粋を集めたものとも云えるだろう。2声の掛け合いで組み上げられたロンドから、3声の対位法で書かれたカプリチオ。

 卓越したテクニックと音から音をつなぐアーティキュレーションの緻密さが求められるこの曲を、私は細心の注意を払って弾きあげた。

 右手と左手を同じように使って、どちらが主旋律か分からないほど複雑に編み上げる。

 テンポは一定に。ペダルはなるだけ踏まない。でも、音の余韻はある程度保って。

 pの部分は柔らかく撫でるように。クレッシェンドもためを作らず音の強弱だけで表現する。

 最後の和音から手を離すと、部屋の中が静まり返った。


 ……あ、あれ? お世辞の拍手さえなし?


 亜由美先生の方を見ると、信じられない、というように私を凝視している。

 紺ちゃんは固く目を閉じ、両手を握りしめていた。


「Brava! すごく良かったよ、真白」


 ノボル先生だけが、ちょっと遅れて大きく手を叩いてくれた。

 亜由美先生は軽く首を振り、「バッハのパルティータをそこまで弾けるのなら、私はもう何も言うことはないわね」と言ってくれた。何とか及第点は貰えたみたいでホッとする。

 紺ちゃんも、気を取り直したようににっこり笑って手を叩いてくれた。


 良かった~。この2か月、必死に練習した甲斐があったな。

 ノボル先生に出された課題の他に、毎日のようにさらった曲がこのバッハだったのだ。


「来年の今頃、すごく大きな学生コンクールがあるみたいなの。それに出てみる?」


 私達の演奏が終わった後、亜由美先生はそう切り出した。

 ついにきた。

 心がぶるりと震える。先生が言ってるコンクールが、きっと青鸞入学への分岐点となるイベントだ。


「……コンクール、か。真白を今から枠に嵌めるのには賛成できないけどな」


 亜由美先生の言葉に、ノボル先生は眉を顰めた。


「でも、それが真白ちゃんの希望なの」


 亜由美先生はそう言うと、ノボル先生から私へ視線を移した。


「あなたが思ってるほど、コンクールの審査は透明性の高いものではないかもしれないわよ? どんな結果でも受け止められるというのなら、出ましょう」

「出たいです」

「そう。……紺はどうするの?」

「私はそのコンクールには出ません」


 私達がそれぞれ即答したものだから、亜由美先生は訝しげな表情を浮かべた。

 もっと驚いたり、躊躇ったりすべきだったのかもしれない、と今更ながらに思う。

 だけど先生のその言葉を、私達はずっと待っていた。


 私はどうしても今度のコンクールで結果を出して、青鸞へ進みたい。

 紺ちゃんは、私と争うことを避けたいのかもしれない。コンクールの結果がボクメロ進行通りになると信じているのなら、分かり切っている敗退を避けたいのかもしれない。

 本当のところは分からなかった。


「分かったわ。出るからには、全力を尽くしましょうね」


 亜由美先生はふっと表情をゆるめ、優しく微笑みかけてくれる。

 真相を打ち明けないままでいることは、ピアノに真摯な亜由美先生への裏切りに思えて急に苦しくなった。

 だけど、苦しかろうが辛かろうが、私達に「真実を話す」という選択肢はなかった。


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