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 紺ちゃんが目を覚ますのを待っていたら、十二時近くになっていた。

 ノボル先生のレッスンまでに一度家に戻ろうと腰を上げた私を、紅と紺ちゃんは引き留めた。


「ノボル先生のレッスンは4時からでしょう? ちょっと早めに出て、真白ちゃんの家を回ってから行けばいいじゃない。ね?」

「そうしろよ、真白。せっかく来てくれたんだ。昼を食べていけばいい」


 すっかり血色のよくなった紺ちゃんを見て、今日の補習のことをようやく思い出す。

 今からダッシュで帰ればちょっとの遅刻で滑り込めるかもしれない。

 本音を言えば、これ以上紅と一緒にいるのが気まずいというのもあった。

 散々みっともないところを見せてしまった。ここは一時撤退して、態勢を立て直したい。


「そう言ってくれるのはありがたけど、学校の補習もあるし、やっぱり一回帰るね」


 私の返答に、紅は目を見開いた。


「補習ってまさか、お前……」

「赤点じゃないから。自慢じゃないけど、中学レベルのテストで赤点とかありえないから」


 この人に見下されるのだけは我慢できない!

 むきになって言い返した私に、彼は訝しげな視線を向ける。


「なら、なんでわざわざ学校に行くわけ?」

「そ、それは……」


 動機が不純すぎて、すぐには答えられない。

 松田さんに夏休み中一回も会えないのは寂しい。ちょっとでもいいから、顔が見たい。

 罪悪感を覚える謂れはないはずなのに、そんな風に思った自分に後ろめたさを覚える。


 口籠った私を見て、紺ちゃんは華やかな笑みを浮かべた。

 彼女はそれはそれは嬉しそうな顔で、私と紅を見比べる。


「もしかして、学校で好きな人と待ち合わせしてる、とか? それだと引き留めるのも悪いよね」

「ち、ちがうよ! 好きっていうか……とにかくそんなんじゃないから!」


 松田先生のことは、すごく気になる。

 顔を見ると嬉しくなるし、言葉を交わせば胸が弾む。

 だけどそれは、調律の甘いピアノが奏でる曲を耳にした時のような不安感を伴う感情だった。これを『片思い』だと言ってしまっていいのか、自分でも分からない。


 困り切った私は、紺ちゃんから目を逸らし俯いた。

 これで話が終わればよかったんだけど、私の隣に座っていた紅は「は?」と低い声を出した。

 私の頬に手を伸ばし、ぐい、と両手で挟んでくる。そしてそのまま強引に自分の方を向かせ、私の顔を覗き込んだ。


「真白。今の話は、本当?」

「ち、ちがうって言ってる」

「高校までは、彼氏は作らない。そう言ったのはお前だろう? どういうつもり?」


 どういうつもりか聞きたいのは、こっちの方。

 どうしてそこまで踏み込んでくるのか、訳が分からない。

 私は気力を振り絞り、にやりと笑ってみせた。


「そんなムキになることないじゃん。なに、もしかして紅ってば、私のことが好きなの?」


 あえてストレートに聞いてやる。

 『うぬぼれもいい加減にしろ』――きっとそう言い返してくると思ったのに、紅は一瞬眉を顰めて視線を落とし、それからおもむろに私を見つめた。

 菫色の瞳に濃い影が落ちて、紅の表情が切なく曇る。

 演技だと分かってるのに、私は思わず彼に見入ってしまった。


「そうだ、と言ったら?」


 少し掠れた声が耳朶を掠める。

 いつも通りの反応に、どこかでホッとした。

 その手には乗らないって、何べん言ったら分かるんだろ。


「質問に質問で返すような人の言葉は信じません!」


 むりやり彼の大きな手を引きはがし立ち上がる。

 私たちのやり取りを息を詰めて見守っていた紺ちゃんは、大きなため息をついてソファーの背にもたれ掛った。

 やっぱり、帰ろう。

 紅と遊んでる場合じゃない。

 今日を逃すと、またしばらく松田先生には会えないんだから。


「ごめんね、紺ちゃん。お邪魔しました」

「分かった。能條(のなが)に送らせるから、ちょっと待って」


 紺ちゃんは玄関までついてくると「お昼に食べて」と可愛い紙製のランチボックスを持たせてくれた。

 紅は何が気に入らないのか、眉間に皺を寄せた顔で紺ちゃんの隣に立っている。


「じゃあ、また後でね、紺ちゃん。学校の正門前で待ってる」

「うん、補習頑張ってね。今日は本当にありがとう」


 紺ちゃんと喋った後、紅の方に向き直る。

 紅は無言で私の言葉を待ってるみたいだった。


 甘えさせてくれたこと、そして落ち着かせてくれたことには、一応お礼を言っとかないと。

 パニックがすっかり治まったのは、紅が何も言わずに抱きしめてくれたからだ。

 彼の対女子スキルの高さに、あの時ばかりは感謝した。


「紅」

「なんだよ」

「ありがとう。紅がいてくれて助かった」

「……ああ」


 紅は私の言葉に驚いたように目を丸くした。

 そっけない返事とは裏腹に、耳がほんのり赤く染まっている。

 『女慣れしてる俺様が垣間見せるギャップ』というやつに、胸がトクンと高鳴る。


 そこまで計算で出来ちゃうなんて、本当に怖い。

 伊達に小さい頃から女の子をはべらせてない。

 細かな演出に感心しつつ、バイバイ、と手を振って豪華な玄関を出る。

 背後から紺ちゃんのクスクス笑う声が聞こえてきた。


 紺ちゃんが持たせてくれたランチボックスを大急ぎで食べて、歯磨きを済ませ、鏡に全身を映してみる。

 夏の制服は半そでの白いセーラーだ。透け防止の裏地がついてるプリーツスカートは暑いけど、結構可愛くて気に入っている。

 最後に水色のタイを整えてから、玄関に向かった。本当はシャワーを浴びて、髪の毛をブローしてから行きたかったけど仕方ない。


 学校まで行くと、ギリギリ間に合ったみたいで、まだ先生は来ていなかった。

 補習対象の子が10人ちょっと。それ以外の子もチラホラいる。


「よ、島尾。なんでお前が来てんの?」


 教室に入った途端、同じクラスの男子に声をかけられた。

 長めに伸ばした銀色の髪、耳に空いたピアスホール。いかにもチャラそうな恰好の田崎くんだけど、根はいい子みたいでいつもフレンドリーに話しかけてくれる。


「勉強しに、だよ。もちろん」

「はあ!? マジかよ!」


 嘘だよ。って言ったら、驚くだろうなあ。

 そんなことを思いながら笑って「ほんと、ほんと」と答える。


 私は窓際に席を取り、ガラスに額をくっつけるようにして下を覗いてみた。

 この教室からは、ちょうど先生たちの駐車場が見える。グッドタイミングで、松田先生が運転する青色の国産車が入ってきた。うちの父さんと同じで物を大事にする性質なのか、車はいつもピカピカに磨かれている。


 運転席から降りてきた松田さんが視界に入った途端、胸がきゅう、と締め付けられる。

 自分でも不思議だけど、これはやはり認めるしかない。

 どうやら私は、松田先生に恋をしているらしい。


 昨日はお休みで夜更かししてたのか、もうお昼過ぎだというのにちょっと眠そう。

 あ、耳の後ろの髪に寝癖がついてる。

 ごしごしと手をグーにして瞼を擦るとか、大人なのに可愛い仕草は反則です!


 玲ちゃんが見たら「冴えねえ~!」と一刀両断されてしまうであろう姿でさえ愛しい。

 私の自慢の花香お姉ちゃんを、ずっと好きで居続けてるという部分は、全くネックにはならなかった。そんな一途な彼だからこそ、惹かれたのかもしれない。


 両想いになりたい、とかそんな身の程知らずな野望は全くない。

 『推し』という言葉が一番近い。

 毎日機嫌よく過ごしてくれたらいいな、と遠くから願うような気持で、私は先生を好きになった。


「ほら、席に戻れー。さっそく始めるぞ」


 それからどれだけもしないうちに、松田先生が教室に姿を見せた。

 固まってお喋りしていた子たちも、それぞれ好きな席を選んで座っていく。


「真白ちゃん、だよね? ここ、いいかな」

「もちろん。美里ちゃん、だっけ」

「うん、覚えててくれたんだ!」


 私の隣には、オレンジ色のショートヘアの女の子がやってきた。

 玲ちゃんと同じソフトテニス部で、木之瀬くんと同じ6組の子だったと思う。何度か玲ちゃん絡みで話したことがあった。


「まさか真白ちゃんが来てるとは思わなかった。びっくりしちゃったよ」

「いや~、家だとなかなか集中できなくて」

「私も! 分からないところあったら教えてもらっていいかな?」

「うん、あんまり頼りにならないかもだけど、私で良かったら」


 美里ちゃんはふにゃり、と笑ってくれた。

 先生は手早く出席を取り、お手製の数学プリントを補習対象者に配り始めた。

 すごく基礎的な問題ばかりのプリントだったけど、先生の自筆プリントは貴重だ。後からじっくり筆跡を愛でたい。


「ん? 島尾もいるのか?」

「はい、欲しいです」


 私が即答すると、松田さんはちょっとだけ首を傾げて「お前には物足りないと思うんだが」と呟いた。


「まあ、いいか。解けた奴から持って来い」


 最後の言葉を全員に向かって言い、先生は教壇に戻っていってしまう。

 私は早速、プリントを解くことにした。基礎的な問題というだけあって、ほんとに簡単だった。

 三分経ってない……。

 横目で美里ちゃんを見ると、まだ半分くらいのところを解いている。

 田崎くんは「わっかんねえ!」とすでにお手上げ状態みたい。

 この空気の中で、私一人が先生のところにプリントを持っていくのはなかなか勇気がいる。

 どうしよう、と途方に暮れていると、前から視線を感じた。

 松田先生が可笑しそうに私を見ている。ほっぺが熱くなるのが分かった。


 ちょいちょい、と指先で手招きされたので、素直に立ち上がり先生のところまでプリントを持っていく。


「まじかよ!」

「つか、教えろ!」


 教壇にたどり着くまで、男子たちがぶーぶー文句を言ってくる。


「お前らはいいから、黙って解け」と呆れた声を上げる先生に、無言のままプリントを見せる。

 松田さんは、すっとプリントに視線を走らせ、手慣れた様子で丸をつけていった。

 全問正解のプリントに very good と赤ペンで書き込んだ先生は、その後少し考え、プリントの裏に新しい問題を書いてくれた。


 ※ a、b、c、d、eは1から9までのいずれかの自然数で、下の2つの条件 (ア)(イ)を満たしている。

  (ア)a>b>c>d>e

  (イ)(a+e)(b+c+d)=273

 この時、①a+e の値を求めよ。また②dの値を求めよ。


 問題を書き終え、先生はにっこり微笑んで私をもう一度見つめた。

 いたずらっ子みたいな無邪気な笑顔に、私も思わず微笑んでしまう。

 難しい問題を出して、手こずらせてやろう、っていうんですね、先生。

 でもこのくらいの問題では、困ってあげませんよ?


 ①273=3×7×13

  a+e=13の時、のこりの3つの和は21になる。

  よって答えは13

 ② 条件 (ア)より、aとeの差は4以上であるから、a=9、e=4になる。

  b+c+d=21より、b=8、c=7、d=6になる。

  よって答えは6


 迷わず答えを書きつけると、松田先生は眉を上げ、それから音を立てないように小さく手を叩く真似をしてくれた。それだけで嬉しくて、胸が弾む。


「残り時間は宿題でもなんでも好きに勉強しなさい。ないとは思うが、数学で分からない問題があれば持って来い」

「はい、先生」


 快活に返事をして足取りも軽く席に戻る。

 私を待ち構えていた美里ちゃんにこっそり「先生と何をやり取りしてたの?」と尋ねられる。

 先生と私の秘密のやり取りが気になったみたい。


 もしや、美里ちゃんも松田先生ファン?

 同担、大歓迎だよ! 一緒に推そう!

 私はニコニコしながらプリントの裏を見せてあげた。

 ところが問題と答えを見るなり、美里ちゃんは「聞かなきゃ良かった」と机に突っ伏してしまう。

 ええ~。ここ、お茶目な先生に萌えるところだよ!


 

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