幕間~紺の厄日~
Lacrimosa dies illa,
qua resurget ex favilla
judicandus homo reus:
Huic ergo parce Deus.
pie Jesu Domine,
Dona eis requiem. Amen.
微かな音の連なりが鼓膜を叩く。それはやがて明確な形を持ち、歌になった。
――モーツァルトのレイクエム?
そう、涙の日だ。
朦朧とする意識の中、私はうっすらと目を開けた。
金色の髪をかすかに揺らし、あの男が枕元に腰掛け、まるで子守唄を歌うかのように口ずさんでいる。
天使のように澄み切った声だ。
悪魔が持つ声がこれほど美しく透明なものだなんて、誰が思うだろう。
邪気のカケラもない幼い少年のような歌声に、思わず苦笑が浮かんでしまう。
「気がついた?」
こちらを一度も見ないまま、男は言った。
コクリと頷くと、彼は体の向きを変え、私の体に手をかざす。
そして、まるで摂った食事を反芻するかのように目を細めた。
「すごく素敵だったよ、コン。真白もね」
男の口から出た名前に、カッとなる。
あの子に、なにを――。
飛び起きて詰問したいのに、体が動かない。声も出なかった。
「ふふ。私がもらったのは、キミ達の絶望だよ、コン。激しい痛みと未来への絶望が、ワタシを満たしてくれた。ゲームの途中でこんな美味しいものを味わえたんだから、迂闊なキミにはお礼を言わないとね」
ギリギリと睨みつける私に、彼はわざとらしく溜息をついた。
「そんな目で見ないで欲しいなぁ。そもそも、コンが悪いんだよ? 契約を破ろうとするから。ゲンミツに約束は守らないと、この世界を保てなくなる」
ワタシだって契約の元にいるんだから、と彼は困ったように言った。
まるで困っていない癖に、そういう振りをするのが好きなのだ。
人間くさい仕草を好んでしようとする男に不快感が湧く。
「あと、5年だね。……たった5年しか遊べないなんて、残念だなあ」
彼は私の髪に優しく触れ、トビーにそっくりな碧色の瞳をまたたかせた。
「紅い王子様には君の加護がある。蒼の騎士様にも、別の加護が。さあ、どうなっちゃうかな?」
くつくつ、と肩を震わせ、彼は愛しげに私を見つめる。
「そうそう。言ってなかったけど、キミの愛しい恋人もちゃんと呼んであるんだよ?」
愛しい恋人。そう言われて思いつく人は、一人しかいない。
まさか、彼を……?
恐怖と怒りが同時に襲ってくる。……なんて真似を。
巻き込まない約束だったのに。あの人はもう関係ないのに!
指一本動かせないことがもどかしくて堪らない。荒れ狂う激情を吐き出すことができず、私はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
鬼のような形相になったであろう私を見て、彼は嬉しそうに頬を緩めた。
「ああ、心配しないで。厳密には、『キミの恋人のコピー』だ。ホンモノじゃないよ、もちろん。同じ世界の人間と二重契約する事は許されてないからね」
コピーの意味はよく分からなかったが、あの世界にいる彼はどうやら無事らしい。
私は深く息を吐き、全身の力を抜いた。
本物のあの人じゃないなら、どうということはない。
それに彼とは2度と会わないと決めていた。こちらの世界でも、同じことだ。
「本当に、そう言える? 今の彼を見ても、本当に? もし、本物じゃないから大丈夫、なんて思ってるんだったら、ワタシの能力を舐めているよ。コピーと言っても、見た目も中身もそのままなんだけど」
「…………っ!」
怒りを込めて全力で睨みつける。
「うわ、こわい。まあ、いいや。ネタバレしすぎるのも興ざめだし、その時を楽しみにしているね。……じゃあ、また」
男は金色の髪をサラリとかきあげ、謎めいた台詞を残してかき消えた。
「起きたのか?」
彼が消えてすぐ、隣の部屋からコウが姿を見せる。
その後ろから、おずおずと顔をのぞかせたのは真白ちゃんだ。
蒼褪めた頬に、涙の跡が見える。
苦しんだのだと一目で分かる顔だった。
あの男……! 絶対に、許さない。
強烈な殺意が胸の内に燃え上がる。
だが焦げ付くような炎は、すぐに消えた。
本来不可侵であるはずの真白ちゃんに手を出させることになったのは、私が不用意だったからだ。
感傷に押し流され、決まり事の境界線を越えようとしてしまった。
『許されなくてもいい。それでも私は――』
「あなたを、救いたかった」
あの時唇から零れそうになったのは、明らかにルール違反の言葉だった。
もう、あんな無様な弱音は吐かない。
私の身勝手な事情に、真白ちゃんは巻き込まない。
顔を歪め、唇を噛みしめた私を見て、二人とも酷く慌て始めた。
「まだ辛いなら、横になって!」
「そうだ。無理はするな」
口々に言って、私を労わろうとする。
まるで何もなかったかのように、発作的な痛みは消え去っていた。
全身を戒めていた力も消えている。私はゆっくりと身体を起こし、精一杯の笑みを浮かべた。
「大丈夫、もう平気よ」
そう言って、何でもないような顔をしてみせる。
「ごめんね、心配かけて」
「わ、私、紺ちゃんが死んじゃうんじゃないか、って」
真白ちゃんが両手をきつく握りしめて、言う。
「まさか! それは絶対にないわ。驚かせちゃって、本当にごめんね」
18歳になるまでは、私も彼女も「死」からは守られている。
途中でリタイアする可能性がないことは単純にありがたい。
ゲームが終わるその日まで、私はひたすら希望を見据えて生きるだけだ。
涙の日:対訳
涙の日、その日は
罪ある者が裁きを受けるために
灰の中からよみがえる日です
神よ、この者をお許しください。
慈悲深き主、イエスよ
彼らに安息をお与えください アーメン
オペラ対訳プロジェクトより
http://www31.atwiki.jp/oper/