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 その日は、すごく暑かった。

 朝起きてすぐにカーテンと網戸をあけると、ムッとするような熱風が頬に当たる。

 雲一つないどこまでも高い空を見上げ、私は瞼と睫毛を焼き切ろうとするような陽光を浴びた。


 いつもなら顔をしかめてカーテンを引いてしまうところなんだけど、今朝はその眩い日差しにさえ気分が高揚してくる。

 そう、今日は補習日。松田先生に会える日だ。


 夕方からはノボル先生とのレッスンが入っているので、紺ちゃんとは補習後、校門前で待ち合わせすることにした。


「補習? 真白ちゃん、もしかして……」


 朝方かかってきた電話で『3時まで学校で補習受けるから』と話した途端、紺ちゃんの声はたちまち曇った。あれ。もしかして、赤点を疑われてる?


「ち、違うよ? 補習対象者じゃないんだけど、せっかく学校が開放されてるんだから、利用した方が得かなって。クーラー代も節約できるし!」


 安心してもらおうと説明したのに、ますます紺ちゃんの声は暗くなる。


「節約って……。真白ちゃん、家にいる時、もしかして暑いの我慢してるの?」

 

 え、こんどはそっち?


「ご両親が日中いないのなら、その間はずっとうちに居ればいいのに」

「それはさすがに悪いよ」


 紺ちゃんは、私の返事に酷くがっかりしたようだった。

 気持ちは嬉しいけど、親戚ですらない紺ちゃんにそこまで甘えることは出来ない。

 いくら仲が良くても、そこはけじめをつけないと。


「ただでさえ、週に2回もノボル先生のところまで送り迎えして貰ってるんだよ? 紺ちゃんには、感謝してもしきれ――」

「そんなこと言わないで!」


 キッパリとした声で紺ちゃんは私の言葉を遮った。

 驚いて口を噤んだ私の雰囲気を察知したのか、彼女は小さく溜息をついた。


「ごめん。ちょっと疲れてるのかな。……でも、本当に気にしないで。全部、私がしたくてしてることなんだよ」


 精一杯自分の気を引き立たせるような声だった。胸が痛くなるような、声だった。


「――ねえ、紺ちゃん。前から気になってたんだけど、何か一人で背負ってない?」

「え。ど、どういう意味?」

「リメイク版のボクメロのことで私に伝えにくいことがあるとか……。うーん、違うかな。とにかく、すごく悩んでることがあるんじゃないかなって。あ、でも、こうやって私が心配するの、迷惑?」


 実はずっと気になっていた。

 トビー王子とのやり取り。発表会での思いつめた表情。花火を見に行った日の紺ちゃんの青白い横顔。

 彼女が発するSOSのサインは、随分前から至る所にちりばめられていた。


 だけど、もしそれがすごく個人的なことで、誰にも触れられたくないことだったら?

 安易に踏み込んで、傷つけたくない。


 長いこと、携帯の向こうは静まり返っていた。

 ようやく、紺ちゃんのか細い声が聞こえてくる。


「真白ちゃん」

「うん?」

「私はずっと、真白ちゃんが幸せになれたらいいな、って思ってるの」

「……うん」

「許されなくてもいい。それでも私は――」


 ゲホッ、ゲホッ。

 急に紺ちゃんが咽て咳き込み始めた。

 まるで血を吐くような激しい咳の音がしたかと思うと、苦しそうに喉が鳴る音を最後に無音になる。

 私は慌てて、携帯を耳に強く押し当てた。


「紺ちゃん!? 紺ちゃん!! 大丈夫!?」


 呼びかけても反応はない。突然通話も切れてしまった。


 どうしよう、今の何!? 

 急いで紺ちゃんの自宅の方に電話をかけてみる。

 何コールしても、誰もでてくれない。

 あんなに大きな家で、沢山の使用人だっているのに、どうして誰も出ないの!?


 私は、半泣きで紅様の番号を呼び出した。頼りたくないとかそんな事言ってる場合じゃない!

 紅様は、2コール目ですぐに出てくれた。


「真白? どうしたの。お前から電話なんて珍しいね」


 いつも通りの彼の声に、私はボタボタと涙をこぼしてしまった。

 最悪の想像が脳内いっぱいに広がり、小刻みに手が震える。


「こ、紺ちゃんが」

「……っ! まさか泣いてるのか? どうしたんだ、真白!」

「ちがっ。私じゃなくて、紺ちゃんが! ゴメン、忙しいとは思うけど、すぐに玄田の家に行って見てきてくれない?」


 涙を堪えながら手短に咳のことと、通話が突然切れたこと。

 そして、家に電話をかけたけど通じないことを説明した。

 紅様は「分かった。お前は心配するな」と早口で答え、通話を切った。


 補習のことなんて、頭から吹っ飛んでしまう。紺ちゃんが心配で、どうにかなりそうだ。

 私はべっちんを胸に抱き上げ、うろうろと部屋の中を歩き回った。

 だってあんな咳、普通じゃない。

 もしかして、紺ちゃんってどこか悪いの? それを、私に隠してたの?

 まさか――――。


「いやだ……嫌だよ、紺ちゃん。どこにもいかないでよ」


 声に出したら、余計に不安になって泣けてきた。

 しばらく考えた後、自転車で玄田邸まで行ってみようと思いつく。

 一時間以上はかかるだろうけど、このままじっとしているよりはマシだ。


 携帯と財布をポーチに突っ込み、玄関を出ようとしたところで、黒いベンツが角を曲がってきた。

 短くクラクションを鳴らされ、足を止める。


「真白様。紅様の命でお迎えに上がりました」


 目の前で停止した車から、水沢さんが降りてくる。


「水沢さんっ!」


 紺ちゃんが。紺ちゃんが。

 どう説明していいか分からず口をパクパクさせるだけの私の肩を、水沢さんはそっと押して促した。


「どうか、お乗りください。お嬢様は大丈夫です。今から玄田の家までお送りしますので」

「よ、よろしく、お願いします」


 涙をこらえようと唇を噛みしめる。

 水沢さんが開けてくれた後部座席のドアからひんやりした車内に乗り込み、ハンカチで口元を押さえた。とりあえず、落ち着かなくちゃ。紺ちゃんは大丈夫だって、水沢さんは確かにそう言ったんだから。


 じりじりと車で運ばれること30分。ようやく玄田邸に着く。

 水沢さんと一緒に玄関に入ると、すぐにお手伝いさんが現れて紺ちゃんの部屋に通してくれた。


「私はここで。紅様もすでにいらっしゃってます」

「ありがとうございました」


 深々と水沢さんにお辞儀して、部屋の扉をノックする。


「入って」


 中から聞こえた紅様の声は落ち着いていた。

 最悪の事態にはなっていない。私はホッとしながら、ドアノブを回した。

 ピアノの置いてある部屋とは反対側の続きの間から、紅様が姿を現す。


「今、眠ったとこだよ。連絡、助かった。誰も倒れた紺に気づかなかったらしい。電話もお前の言ってた通り、なぜかしばらく通じなかったみたいだ」


 ソファーに座るよう手振りで示され、私は黙ってそこに腰掛けた。

 紺ちゃんのことが気になって、じっと出来ない。そわそわ落ち着かない私を見て、紅様は苦笑をこぼした。


「泣いた跡。ちゃんと拭けてないよ」


 そう言って隣に腰掛け、親指で目元をぬぐってくれる。

 弦を扱う紅様の指先は硬かった。その仕草に少しでも色気が含まれていたなら、私は彼を突き飛ばしただろう。だけど、紅様はひたすら私を心配していた。


「お願い、正直に話して。紺ちゃんってどこか悪いの?」

「いや。随分前から、咳と発熱の発作が起きてるんだが、体はどこも悪くないんだ。精密検査も何度も受けてる。結果は異常なし。精神的なものが原因なのかもしれない、と主治医は言ってる」


 原因不明の発作? それって、私の頭痛と同じってこと?

 激しい頭痛。検査。そして異常なし。転生者、という共通点がそこに関係してるとしたら――。


 嫌な予感に、震えが止まらなくなる。私達、どうなってるの。

 おかしいと思ってた。私と紺ちゃんだけに前世の記憶があるなんて。

 私達に有利なことばかりじゃないんじゃないの? 

 もしかして紺ちゃんは、この異変の原因を知ってるの?


     『……ごめん、ごめんなさい』

     ちがう、なかないで

     そうじゃない、わたしがわるいの、わたしはだって

     ――本当は全部、知ってたんだから』


 ズグン、ズグン。

 何か大事なことを思い出しそうになる度に、この強い痛みは襲ってくる。

 なんにもないはずの空白な過去から、強烈な後悔の残留思念だけが襲い掛かってくる。

 吐きそうなほど、頭が痛くなった。


「真白、落ち着け。紺は大丈夫だから」


 ガクガクと震えはじめた私の肩に、紅様は腕を回そうとした。

 その腕を押し返す。自分でも笑ってしまうほど、力が入らなかった。


「やめて。たぶん、私今、汗くさいよ?」

「何言ってるの。もしそうだとしても、紺を心配して慌てたからだろ」


 真白はいつでもいい香りだよ、とかさ。

 甘い台詞なら幾らでも出てきそうなものなのに、何故か紅様はいつもの気障な台詞を吐かなかった。

 彼の瞳には、純粋な心配だけが浮かんでいた。


 もう、いいや。疑うの、疲れた。

 私は力を抜き、彼の腕に身体を委ねた。

 素直にもたれかかった私に、紅様は驚きを隠せないでいる。

 

 私は激しい痛みから逃れようときつく目を閉じ、広い胸元に頬を寄せた。紅も混乱しているのだろう、彼の心臓は早鐘を打っていた。


 紺ちゃんを失ってしまうかもしれない。

 私自身、どうなってしまうのか分からない。

 もしかしたら、未来なんてないのかもしれない。

 18で、また私の生は終わるんじゃないの?


 痛みの中、私は突如として姿を現した絶望に揺さぶられる。

 父さん、母さん、お姉ちゃん。怖いよ、助けて。


 今だけは、誰かに抱きしめて欲しかった。

 バラバラに飛び散りそうな体を、誰かに繋ぎとめて欲しかった。ここにいるのが蒼じゃなくてよかった、とどこかで思った。どこまでも優しいあの子を惑わせたくない。私に母親を重ねてる蒼を、失望させたくない。


「……紅……ごめん、許して」


 紅が小さく息を飲むのが分かる。

 私を好きじゃない紅になら、甘えても許される気がした。計算高さでいえば、私の方が上かもしれない。中学生の紅への罪悪感を、無理やりにねじ伏せる。

 この世界も、異質な自分も、紺ちゃんの急変も。

 何もかもが怖かった。


「お前も紺も、俺に何を隠してるんだ」


 紅は小さく呟き、それでもゆっくりと私を抱えなおしてくれた。

 こういうところ、すごく損してると思う。

 都合よく俺を利用するな、と突き放せばいいのに。

 痛みと恐怖が退いていくまで、彼は無言のまま壊れ物を扱うような手つきで私を抱きしめてくれた。







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