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スチル23.真白&紺(ピアノ弾き比べ)

 一学期最後の日。

三者面談でオール5の通知簿を貰った私は、パートを休んで学校に来てくれた母さんにすごく褒められた。


「毎日頑張ってたもんね~。お友達も多くて、毎日楽しそうに過ごしています、って先生言ってたね!」


 母さんは当事者の私よりも嬉しそうだ。

 多分成績よりも、私が学校生活を満喫してることを母さんは喜んでいる。

 小学二年で前世の記憶を取り戻してからというもの、両親には多くの心配をかけてしまった。

 急に豹変した我が子を見て、どんなに驚いたことだろう。何が起こったのか知りたくてたまらなかったはずだ。それでも必要以上に干渉せず、父さんと一緒に見守ってくれた母さん。本当はいろいろと思うことがあっただろうに。


「母さん」

「ん?」

「……ありがとう。私、母さんの子供に生まれてきて良かった」


 思ったことはすぐに伝えないとダメ、ともう一人の自分に急かされた。

 いつでも言えると呑気に構えていたら、後からものすごく悔やむことになると私は知っていた。


「…………」


 母さんは、感極まったようにバッグからハンカチを取り出し、目に押し当てた。

 私の眦からも、いきなり大粒の涙が溢れてくる。

 大泣きしてるのは、きっと今の私じゃない。顔も思い出せないかつての母を恋しがる昔の私が、強く反応しているのだ。

 しゃくりあげながら学校から出てきた私と母を、部活でランニング中だった野球部の子たちが何度も振り返りながら走り去っていく。

 ファイ、オー! の掛け声は途切れ、蝉の声が一際高く耳に響いた。


 そして、非常にせわしない夏休みがやってきた。

 家と図書館と玄田邸のトライアングルルートに登校が加わったのだ。

 補習必須の生徒の為に設けられた学校公開日だが、それ以外の生徒も登校していいことになっている。絵里ちゃん達は「絶対にパス」らしいんだけど、松田先生に少しでも会いたい私にとっては見逃せないチャンスだった。

 夏休みのしおりを見て、担当教諭の部分をチェックする。3日も松田先生に会える!

 私はピンクの蛍光ペンで、日付にハートマークを入れた。

 あのノボル先生とのレッスンも始まるし、今年の夏休みはとても楽しくなりそうだ。

 

 休みに入ってすぐの日曜日。

 私と紺ちゃんは、亜由美先生の運転するジャガーに乗って、ノボル先生宅を訪問することになった。

 どんな豪邸なのかな~とわくわくしていたら、すごく普通のこじんまりとした一戸建てで驚いた。

 亜由美先生の友達だし、セレブに違いないと思っていた自分が恥ずかしい。


 表札は出ていなかった。

 亜由美先生の家から車で一時間という少し鄙びた街外れに、ノボル先生の家は建っていた。

 インターホンを押すとすぐ、ダダダッという足音と共に玄関が勢いよく開く。


「アユミッ!」


 出てきたノボルさんは、私たちなど目に入らないとばかりに亜由美先生を抱きしめた。


「ああ、本当にアユミだ! 連絡くれて、どんなに僕が嬉しかったか分かる?」

「今、分かったわ。ほら、もう放して。生徒たちがびっくりしてるじゃない」


 亜由美先生は、彼のエキセントリックな行動に馴れているのか、苦笑しながらノボルさんの背中を軽く叩く。

 ノボル先生の第一印象は、ヒョロ長い、の一言に尽きた。

 180センチは絶対に超えてるはずだ。体重は何キロなのか、怖くて知りたくない。おそろしく細身だし、普通の成人女性より軽そう。どんな顔かよく分からないほど、緑色の髪の毛はボサボサに伸びて目の下までかかっている。無精ひげに覆われた顎。黒縁のでっかい眼鏡。

 ……お世辞にも素敵な男性とは言い難い。


 コンクールの映像で見た時は、もっとこざっぱりとしていた気がする。顔は正直覚えていない。ピアノの音が強烈過ぎて、鍵盤を舞う指ばかり見てしまった。

 隣に立っている紺ちゃんも、困惑したような表情を浮かべている。

 というのも、ついさっきまで車の中の後部座席でこそこそと「カッコいいといいね」「ピアノ上手いってだけですでにポイント高いよ」なんていう女子トークを広げていたんです。

 変な方向に期待値上げ過ぎて、申し訳ない。


「それにしても、残念だなあ。アユミがウィーンに来ると知っていたら、僕も向こうに残ったのに!」

「無理しないでよ。あの人達と顔を合わせたくないから、この時期は日本に逃げてくる癖に」


 親密そうな二人の会話に置き去りにされ、私と紺ちゃんは顔を見合わせた。


「あ、あのー」


 親交を温めてる真っ最中のお二人の邪魔はしたくない。

 したくないんだけど、手土産がアイスなんです! 

 恐る恐る声を発した私を見て、亜由美先生は慌ててノボルさんを押し戻した。


「早く、中にいれて? この子達、アイスを買ってきてくれたの。アイス好きでしょ?」

「うん。大好き! ありがと」


 最後の言葉は、どうやら私たちに向けて言ったらしい。

 文字通り何もないガランとしたリビングに通され、私たちは急いでアイスを食べる羽目になった。それも立ったまま。

 本当は5つともノボルさんにあげようと持ってきたんだけど、そうはいかなくなったのだ。


「信じられない。冷蔵庫とソファーくらい買いなさいよ! お金がないわけじゃないんだし!」


 亜由美先生は呆れ顔で、部屋の中を見回している。

 私と紺ちゃんとノボルさんは、溶けそうなアイスを蒸し暑さに耐えながら、必死に食べた。

 アイス好きというのは本当らしく、一個目をぺろりと平らげたノボルさんは、早速二個目のアイスに取り掛かりながら、亜由美先生の言葉に首を振った。


「どうせ秋までしかいないんだし、面倒だよ。僕はピアノが弾けりゃいいんだ」

「またそんなこと言って! あんまり心配させないで、ノボル」


 亜由美先生は多分、無自覚に口にしたんだろうけど、ノボルさんのボサボサの髪の間からわずかにのぞく頬は、真っ赤になった。

 ああ、そういうことか。

 ノボルさんは、亜由美先生が大好きなんだ。だからこんな急な話なのに、私たちのレッスンを引き受けてくれたんだ。


 何とかアイスを片づけ、ピアノのおいてあるという二階に案内してもらう。

 二階は全部の部屋の壁を取り払い、完全防音の工事済みだった。

 一階とは違い、クーラーも利いてたし、ソファーもある。

 中央にはスタインウェイのコンサートピアノが二台並んでいた。


「先にここに通してよ!」

「ごめん。でもこの部屋は飲食禁止だよ」


 うっすらと汗をかいてしまった私たちは、亜由美先生の言葉に深く同意したんだけど、ノボルさんは「ここはピアノを弾く場所だからね」と言って譲らない。

 亜由美先生は早々に諦めたのか、ピアノに近づき音を確かめ始める。


「この子達がどのくらい弾けるか、先に聴いておく?」

「そうだね。アユミの生徒さんだし、僕が気を付けないといけない事があれば教えておいてもらいたいな」

「楽譜に忠実に弾かせて」

「……それ、あんまり得意じゃない」

「分かってる。でも、まだ崩させないで」


 亜由美先生とノボルさんの纏う雰囲気は、あっという間に変わった。ピンと空気が張り詰める。

 指導者の顔で、亜由美先生は私たちを見た。


「紺は、ベートーヴェンの月光ソナタの第三楽章。真白ちゃんは、ラヴェルの水の戯れを弾いてみて。どちらが先でもいいわよ」


 紺ちゃんは、緊張した面持ちで私を見た。


「どうする? 真白ちゃん」

「紺ちゃんの後はハードル高いな。先に弾いてもいい?」

「いいわよ」


 私はノボル先生に「どっちのピアノを使ったらいいですか?」と尋ねてみた。

 心臓はバクバクで、手のひらはすっかり汗ばんでいる。

 ノボルさんは、ふっと相好を崩して、私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。


「好きな子と遊んでおいで。大丈夫。誰もいない、と思えばいい」

「え?」

「ラヴェルを弾くんだろ? 真白とピアノとキミの頭の中にある音楽だけを意識に入れればいい。僕やアユミやコンを意識から消すんだ。分かる?」


 さっぱり分からないのですが。

 助けを求めるように亜由美先生を見ると、困ったように顎に指を当てていた。

 だけど、ここはノボルさんに任せると決めたのか、何も言ってくれない。


 わけがわからないまま、右手のピアノの前に座った。ひとまず鍵盤を一つ叩いて音を出してみる。

 あ、あれ? 

 何かが引っかかって、私は軽く何音か和声を鳴らしてみた。

 うーん。綺麗でよく響く良い音なんだけどなあ。


 気になって、左手のピアノの方も試してみることにした。

 私の様子を、紺ちゃんが心配そうに見つめている。

 おなじスタインウェイのはずなのに、こっちの子の方が好きだと思った。『好きな子と遊んでこい』ってノボル先生も言ってたし、こういう直感はきっと大切にした方がいい。

 私は椅子の高さを調節して、鍵盤に手を乗せた。


 ラヴェル作曲 水の戯れ

 ピアノを弾きながら作曲していない、といわれるピアニスト泣かせの難曲だ。

 ハープを思わせるパッセージ、運指が困難なアルペジオによって、水の生む美しい世界が構築されている。ロマン派的な情動に満ちた旋律を排除し、ピアノの響きだけで美しさを表現しようとしているのも、ラヴェルの特徴といえるだろう。

 自然倍音だけでなく、不協和音さえ取り入れた多種多様なアルペジオを、どこまで滑らかに弾けるか。『きわめて優しく』の指示通り、私はただ自分の指の後から立ち上る音の流れだけに意識を集中させた。

 

 最後の音が消えるのを待って、私は椅子から立ち上がった。

 誰も言葉を発しない。自分ではうまく弾けたつもりだったけど、どこかまずかったのかな。

 血の気が引くような思いで、ノボルさんを見つめる。

 彼は鷹揚に頷いて、「コン。キミの番だよ」とだけ言った。

 そっか。まだ紺ちゃんが弾いてないから、寸評はもらえないんだ。


 紺ちゃんは、私と同じピアノに座り、相変わらずのテクニックと表現力でベートーヴェンの月光第三楽章を弾きこなした。

 私たち二人の演奏が終わると、ノボルさんは「どちらもすごく良かったよ」と褒めてくれた。

 亜由美先生は、何も言わずノボルさんを見つめている。

 そんな先生の視線に押されたのか、ノボルさんは短く息をついて、私の方を見た。


「キミはどうして、左のピアノを使ったの?」

「音が……上手く言えないんですけど、拗ねてる気がして」


 正直に伝えると、ノボルさんはぶはっと噴きだした。


「うはは。ご、ごめん。……面白い子だね、真白。右は僕が小さい頃からずっと使ってる子。そして君が弾いたのは、この家にお客さんが来た時に使ってもらってる子なんだよ。そっかー。拗ねてるかあ」


 笑いながら、ノボルさんは右手のスタインウェイの前に立ち、軽くショパンの黒鍵のエチュードの出だしを奏でた。途端に、煌めく薫り高い音が辺りに満ちていく。


「今は、どんな音に聞こえる?」

「嬉しそうな音です」


 何といっていいか分からず、とっさに頭に浮かんだままを答えると、亜由美先生まで笑い出した。


「引き受けるよ、アユミ。久しぶりに楽しくなりそうだ」


 ノボルさんは私と紺ちゃん両方と握手をしてくれた。

 驚くほどふっくらと柔らかい手だった。


「私の演奏は、どうでしたか?」


 帰り際、紺ちゃんは思いつめた表情を浮かべ、ノボルさんに尋ねた。


「良かったよ。紺の悲壮なまでの覚悟は、ベートーヴェンによく合ってる」


 ノボルさんの答えに、紺ちゃんは目を大きく見開いた。

 悲壮なまでの覚悟? 

 意味が分からず、私はノボルさんと紺ちゃんを交互に見遣る。


「ただ」


 ノボルさんは、肩をすくめて紺ちゃんの視線を受け止めた。


「このままじゃ、遅かれ早かれ、キミの音楽は壊れてしまう。気を付けて」


 紺ちゃんはきゅっと唇を噛みしめ、俯いたまま、ただ頷いた。


   ◆◆◆◆◆


 本日の主人公ヒロインと前作ヒロインの成果

 攻略対象:なし

 前世関連イベント発生「警告」

 クリア


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