Now Loading 23
幕が上がるとそこには、目を見張るような豪華な空間が作り上げられていた。
煌びやかなドレスやタキシードを身にまとった歌手達が、楽団の奏でる軽やかな導入曲に乗って颯爽と舞台に現れる。
日常からいきなり異世界に飛ばされたようなこの感覚が、オペラの魅力の一つな気がする。
ポンテヴェドロ国の国王の誕生日を祝う宴が開かれたパリの公使館。
公使であるミルコ・ツェータ男爵は、元踊り子であるヴァランシェンヌを「妻は誰にでも優しくて無邪気なんだ」と自慢げに話すけれど、そのヴァランシェンヌはフランスの伊達男に口説かれてるところ。
伊達男・カミーユはヴァランシェンヌの扇を取り上げ「愛してる」と書きつけてしまう。
「あなたが口に出すなというから扇に書いたのです」と美しいヴァランシェンヌをかき口説くカミーユに対し「私は貞淑な人妻なのです」とつっぱねようとするヴァランシェンヌ。
その後始まる『ここには誰もいませんわ』の二重唱に、私はうっとりと聴き入った。
ヴァランシェンヌ役のマルタ・イステルの可憐なことといったら!
ほそい、そして美人! 神様は不公平だなぁ、と遠い目になってしまう。
男爵はおじいさんと言ってもいいくらいの年なのに、奥さんのヴァランシェンヌはすごく若かった。
カミーユ役のジークフリードさんは濃い顔立ちの男前。テノールの美声ももちろん素敵だし、ビジュアル的にはこっちのカップルの方が美しい。
この関係は終わりにして、誰かと結婚して欲しいと頼むヴァランシェンヌに、カミーユは切々と訴える。
『たとえ願いが叶わなくても、あなたへの想いは冷めはしない。危険は百も承知さ。僕はただ耐えるだけ。あなたへの想いは決して冷めないのだから』
明るいメロディに乗せて歌い上げるカミーユに、ズキンと胸が痛んだ。
片思いを貫こうとする伊達男に、松田さんを連想してしまったのだ。
こっそり隣を窺うと、松田さんは初めてみるオペラに驚いてるみたいだった。子供みたいに瞳を輝かせながら、じっと舞台に見入っている。
そしてハンナの登場。
ハンナ役のテレーゼ・リヒテンベルクは、息を飲むほどの美しさだった。
優美な顔立ちに、女性らしい曲線を描いた身体。陶器のような白い肌に、女性客の感嘆の吐息が聞こえる。
喪に服しているので、繊細なレースをあしらった黒のドレスに黒い羽扇、結い上げた真っ赤な髪にちりばめられているのは黒真珠。大富豪の未亡人、という設定にふさわしい素晴らしい衣装だ。
元恋人のダニロ役は、ヘニング・レーガー。若手の中ではずば抜けた歌唱力を持つと評判の歌手で、野性味を帯びた男らしい顔立ちをしている。
お互いに憎からず思っているはずなのに、ハンナは昔の破局の原因に拘り、ダニロは「今更求婚できるか。財産目当てだと思われるのは嫌だ」と意地を張る。
伯爵であるダニロと平民の娘であるハンナの結婚は、昔ダニロの叔父さんに猛反対された。無理やり別れさせられた後、ハンナが年寄の大富豪と結婚してしまったものだから、ダニロは傷心のまま独り身を通してる、という過去がある。
一方、ポンテヴェドロ公使であるツェータ男爵は、ハンナが誰と結婚するのか気が気じゃない。
彼女の持っている遺産が、他の国の男に掻っ攫われるのは駄目だ、というのだ。ハンナに群がる財産目当ての求婚者たちを、あの手この手で追い払うダニロ。
ヴァランシエンヌはカミーユをハンナの夫候補に推すんだけど、心の中ではハンナを好きになって欲しくないと思ってるみたい。このあたりの駆け引きも見どころの一つだろう。
誰もいなくなった部屋で、ワルツを踊るハンナとダニロで一幕目は終わる。
本当は惹かれあっている二人が、何も言わずに無言のまま踊るワルツは、最高にロマンティックだった。
二幕目が始まるまでに、20分の休憩が入る。
私はみんなに断って、トイレに行っておくことにした。
想像以上に素晴らしくて、感動の余韻が全身に残っている。一幕目がこれほど素敵だったのだ、二幕目のテレーゼのアリアや三幕目のカンカンのシーンが楽しみで仕方ない。
ワクワクしながらパウダールームから出たところで、私はラウンジのボックスシートに赤い髪を見つけてしまった。
均整の取れた体つきといい、背中だけでも分かるイケメンっぷりといい、おそらく紅様だ。
……挨拶くらいはしとかないと失礼だよね。チケットは紅様のおじさんから貰ったんだし。
ちょっと考えて、声を掛けようと足を踏み出したところで、私は紅様が一人じゃないことに気が付いた。
彼の隣には、目の覚めるような青い髪をした女の子がいる。
ボブカットの髪の間からのぞく横顔がとても愛らしい。うっとりと彼を見上げる小柄なその子の髪を、紅様はさらっと掬って耳にかけた。ついでに甘い言葉でも囁いたんだろう、途端に彼女の頬がバラ色に染まった。
私は素知らぬ顔で、席に戻ることにした。
足早に紅様の近くを通り抜ける。急いで扉を押して、ホールの中に入ろうとした瞬間。
「真白!」
肘を誰かに掴まれた。相手が誰かは、振り返らなくても分かる。
「こんにちは。ごめんね、急いでるから」
早口で言って逃げようとしたが、紅様は私を強引に引き寄せ、脇に寄せた。
通行人の邪魔にならないように、という配慮なんだろうけど、その手を放せば済むことでしょうが!
紅様は無言のままだった。いつもなら、すぐに嫌味が飛んでくるのにどうしたんだろう。
しぶしぶ彼を見上げると、びっくりするくらい困ったような表情を浮かべていた。
スーツ姿の紅様は、とてもじゃないけど中学生には見えない。
艶やかな長めの赤い髪は、無造作に一つ結びにされている。一筋頬にかかるように落としてるのは、アレでしょ。ボタンを一つ開けて緩くネクタイを結ぶのと同じ計算でしょ。
こんなに色っぽく決まってなければ、悪口として成立するのに。
「紅くん。放して」
「え? ああ、悪い」
離れたところから、強い視線を感じる。
そちらに目をやれば、紅様の連れの女の子が、憎々しげに私を睨みつけていた。
そりゃあ、そうだろう。デートの途中で放り出され、肝心の相手はよその女の子を追いかけて行きました、だなんて洒落にならない。
「デートだったんでしょ。早く戻ってよ」
顎をしゃくって後方の少女に意識を促す。
ところが紅様は、私の忠告を無視し、まったく関係のないことを言い出した。
「コンサート、楽しんでるか?」
はあ? 楽しんでますけどなにか?
「この楽団、好きだって前に言ってただろ?」
そういえば、そんな話をしたことがあるような、ないような。
記憶力もいいんですねー、流石です。
「うん。あ、紺ちゃんのお父さんに紅くんからもお礼を言っておいて。本当にありがとうございます、って。来られて良かった。生で味わうことが出来て感動してますって」
「……ああ、分かった」
ようやく気が済んだのか、紅様は手を放してくれた。
「よろしくね。じゃあ」
「ああ。それと言い忘れたけど、今日のワンピースすごくよく似合ってるよ、真白」
「――それ、もしかして蒼の真似? やめてよね!」
どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだろう。
呆れた目で睨みつけると、紅様はきゅっと唇を噛んだ。
迷子の子どもを思わせる心細げな表情を浮かべ、黙って私を見つめてくる。
酷いことを言ったような気分になり、げんなりした。
「でもまあ、褒めてくれてありがとう。紅くんもいつも通りカッコいいよ。――じゃあ、デート楽しんで!」
最後の言葉は例の女の子に聞こえるよう大きめに言って、私は踵を返した。
逆恨みで刺されるのはごめんだ。用心するに越したことはない。
席に戻ると、お姉ちゃんが心配そうに私を見上げてきた。
「遅かったね。お手洗い、混んでた?」
「ううん。ちょっと紅くんに捉まっちゃって」
紅様を知っているお姉ちゃんは、「そうなんだ! 私も久しぶりに会いたかったなあ」などと呑気なことを言った。
「なになに? もしかして、真白ちゃんのボーイフレンド?」
からかうように三井さんが聞いてくる。
松田さんも、優しく目元を和ませていた。
それが何故かとても嫌で、つい声が尖ってしまう。
「違いますよ。ただの腐れ縁です」
「すごくいい子なのに。真白って、あの子にだけは手厳しいよね」
お姉ちゃんは紅い悪魔の外面しか知らないから、そんなことが言えるの!
二幕目は、ハンナのアリアで始まった。
白い民族衣装に身を包んだテレーゼは、白薔薇の女王様を思わせた。煌びやかな髪飾りから垂れる長いヴェールも美しい。
『Vilya o Vilya Du Waidmagdelein』――ヴィリアの歌は有名なアリアだから、聞き手の方も耳が肥えている。それでもテレーゼの表現力は、会場を圧倒した。人の声も一つの楽器なんだとしたら、テレーゼの声は間違いなく一級品の名器だ。
オペラと違って、オペレッタでは「リフレイン」と呼ばれるアンコールが許される歌がある。
高らかに歌い上げたテレーゼに、万雷の拍手が送られた。Bravaの声も飛んでいる。舞台上の役者さん達も一斉にテレーゼに拍手をしていた。
あまりに熱狂的な反応に、テレーゼさんははにかんだ笑みを浮かべ、軽く右手を上げた。
それを合図に、もう一度楽団がアリアの序奏を奏で始める。
わあ! リフレインだ!
私は両手を握りしめ、目を閉じてうっとりとアリアに聞き入った。
その後のハンナの屋敷でのマキシム再現のシーンの踊りも凄かったし、三幕目のカンカンのシーンも最高だった。オッフェンバックの「天国と地獄」に合わせ、会場から手拍子が送られる。背後で華やかに色づけされた噴水が高々と打ち上げられる。
そしてようやく、想いが通じ合うハンナとダニロ。
喪を示す黒のガウンを脱ぎ捨て、情熱的な赤いドレス姿をあらわにしたハンナを愛しげに受け入れるダニロに、私は思わず溜息を洩らした。甘くメロディアスなメリーウィドウワルツに乗って、歌い踊る二人。
歌もダンスも、とにかく凄い。もちろん、音楽も。
贅沢な非日常の空間を、観客全員も全力で楽しんでいるのが分かる。
最後の幕が下りた時には、感激のあまりうっすらと涙が出た。
「すっごく楽しかった! オペラって、もっと退屈なものかと思ってたよ~!」
帰りの車の中で一番興奮していたのは、お姉ちゃんだった。
「オペレッタはどっちかというとミュージカルの始祖みたいな感じだから。特にメリー・ウィドウは分かりやすい喜劇で、楽しいよね」
「うんうん。チケットを貰って来てくれた真白様に感謝です~!」
「よい。苦しゅうないぞ」
私たち姉妹のおどけたやり取りに、三井さんも松田さんも笑っている。
ちょうど夕方過ぎになっていたので、4人でご飯を食べに行ってから、家に戻ることにした。
運転しないといけない三井さんに気遣ってか、松田さんは飲まなかった。
「なんだよ、トモイ。気にせず、飲めって」
「いや、大丈夫。っていうか、島尾の前で飲めるかよ」
苦笑した松田さんにこそっと聞いてみる。
「本当はお酒が好きなんですか?」
「ああ。これ、学校では秘密な」
酒飲みだと思われたくない、と小声で頼んできた松田さんに、私の胸は小さく音を立てた。