スチル21.入学式(紅・中学生)
蒼がいなくなった後も、私の日常は変わらなかった。
もうあの、人懐っこくて優しくて寂しがり屋の男の子は日本にいない。
私のつけた傷はいつか癒え、彼はまた新しい出会いに胸を躍らせるだろう。そうならない可能性から必死に目を背け、私は楽観的に考えようとした。
一度口から出てしまった言葉が戻ることはないし、一方的な『さよなら』をなかったことにもできない。私にできるのは、腹を括って前を向くことだけだった。
今日は中学校の入学式。
これからどんな三年間が始まるのか予想がつかず、私は少し神経質になっていた。
誰だって自分の未来なんて予測できないだろうが、そういう一般的な意味ではなく、『ボクメロ進行』的にどうなるのか分からない、という意味だ。
不本意ながら、私には『ボクメロ世界の主人公』という役割が与えられている。
……何度考えても、私の認知が歪んでいるとしか思えないあり得なさだが、これまで起きてきた事象はそれが真実だと告げていた。
ボクメロ世界から、正確にいえばボクメロの主人公の前から、攻略キャラが一人消えた。
このことが、主人公の人生にどんな影響を及ぼすのかさっぱり分からない。もしかしたら、すでにバッドエンドルートに入っているのかもしれない。どんな図太い人間でも、多少は神経質になるだろう。
中学の制服は紺色のセーラーだった。
えんじ色のタイを前で結んで、髪を丁寧に編み込む。
仕上げにリップを塗って、日焼け止め塗って、ハンドクリームを塗って。無心に支度することで、正体不明の不安を和らげようとする。
気づけば洗面台を占領していたようで、ふと顔を上げると鏡の端に父さんが映ってた。
「ひっ……! ご、ごめん。歯磨き?」
「ううん、まだいい。真白も中学生になっちゃったんだなあ、と思って」
どういう意味、と首を傾げたら、「花ちゃんもそうやって毎日おめかししてたから」という答えが返ってきた。
「真白もついに思春期突入か……」と眉尻を下げた父さんに、慌てて首を振った。
「違う、違う! 色気づいてるわけじゃなくて、私、式で新入生代表の挨拶するんだよ」
そのための身だしなみだと説明すると、父さんはカッと目を見開いた。
「代表の挨拶!? なんでもっと早く言ってくれないの? あらかじめ分かってたら、有給取ったのに!」
それが嫌だから黙ってた、とは言いにくい。
両親のことは大好きだけど、皆の前ではしゃがれるのは恥ずかしいんだよね……。
――あ、これがまさに思春期か。
続いて反抗期、という言葉が脳裏をよぎり怖くなった。
どちらも前世で経験済みだし、今考えれば黒歴史以外の何物でもない。二度目は勘弁して欲しい。
「ごめんね、父さん」
父さんに謝り、母さんに先に行くと声をかけてから、そそくさと家を出る。
門扉を閉めたところで、タイミングよく絵里ちゃんがやって来た。
「おはよー、真白」
「おはよう、絵里ちゃん」
幼馴染の絵里ちゃんから、名前を呼び捨てにされるのは何だか新鮮な気分。
中学進学を機に『ましろん』呼びを卒業することにしたんだって。理由は子供っぽくて恥ずかしいから。
皆こうやって大人になっていくんだな~としみじみしてしまった。孫のいるおばあさんか。
私の通う公立中学校は、多田小学校と多田北小学校の二つを統合した形で構成されている。新入生は、全部で250人くらい。
私と絵里ちゃんは、真っ先にクラス分けの掲示板を見に行った。
1年1組から8組まであって、かなりの人だかりが出来ている。
「おっはよ、真白! 7組だって!」
先に来ていた木之瀬くんが人ごみから抜け出してきて、早速教えてくれた。
「おはよう。クラス表、見てくれたんだ、ありがとね」
「木之瀬くん、おはよー。ねえ、私は?」
「戸田は、3組。間島も一緒だった」
「やったー! 木之瀬くん、ありがとう!」
彼氏と同じクラスと聞いて感激した絵里ちゃんは、木之瀬くんの手を掴んでぶんぶん振った。
学ラン姿の木之瀬くんは、小学生時代より更に大人びてイケメン度合いが増してる。そんな彼がモテないわけもなく、親し気に振舞う絵里ちゃんを見た他の女子達の目が物騒に光った。あ、これまずい。
絵里ちゃんの背中をつついて危険を知らせると、ハッとしたように慌てて手を放す。
「ご、ごめん。嬉しくて、つい」
「いや、俺はいいけど、間島に睨まれんのは困るかも」
「も、もう~!」
ほっぺを真っ赤に染めた絵里ちゃんは、本当に可愛い。思わず私の頬まで緩んでしまう。
幼馴染の愛らしさにニヤけていると、木之瀬くんがからかうように私の肩を小突いた。
「真白、今日は機嫌いいじゃん。新入生代表挨拶、頑張れよ!」
「思い出した。そのことで琳に文句言いたかったんだよね」
「俺は6組。隣のクラスだから、困ったことがあれば言ってこいよな」
「今、言いたいんだけど」
「あ、平戸だ。じゃあな!」
くそう。逃げたな。
元々クマジャー先生に代表の挨拶を頼まれたのは、木之瀬くんだった。
ところが彼は、私を生贄に差し出し、華麗に面倒ごとを回避したのだ。
『島尾がこの学校で一番の才媛だから、ってな。確かにそうだ。というわけで、島尾、頼むな!』
ガハハハと豪快に笑うクマジャー先生に頼まれたら、嫌とは言えない。しかも、卒業式で男泣きに泣いてた先生を見た後じゃ、とてもじゃないけど無理。
多田小と北小で交互に持ち回りする新入生挨拶。そんなわけで、今年は私がやることになった。
全校生徒と新入生の保護者が列席する中、厳粛に式は進んでいく。
入場する時、並んだ三年生の男子生徒を横目で見て、私は正直驚いた。
みんな、でっかい……。
180センチ近い子までいる。女子生徒も、三年生は一味違った。子供らしさが抜けて女性っぽいというか何というか。前世の私から見れば、それでも年下のはずなのに何故か気圧される。
中学生ってこんなんだったっけ? 内心首を傾げながら、暗記してきた挨拶を読み上げた。
「7組の、島尾真白だって」
「頭いいのかな」
「分かんない。でも結構可愛いよね」
ひそひそ喋ってるのは北小の子だろう。思ったより好意的に受け入れてもらえそうで、少しホッとした。
式が終わった後、その場に一年生だけ残された。各担当の教師を紹介する為だ。
一年生の学年主任。クラス担任。教科担任の順に紹介される。
「数学担当の松田 友衣です。よろしく」
あ、本当に松田さんがいる!
びっくりして思わず凝視してしまった私に気づいたのか、松田さんもチラとこっちを見た気がした。耳を覆っていた黒髪は、さっぱり短くなっている。
ひんやりした硬質な雰囲気は、ここが職場だからだろうか。もっと柔らかな感じの印象があったのは、花香お姉ちゃんや三井さんが一緒だったせいかもしれない。
私はそれから教室に行っても帰る間も、ずっと松田さんのことばかり考えていた。
どうしてこんなに、彼が気になるんだろう。
とびきりイケメンというわけでも、とびきり個性的というわけでもない。紅様や蒼が備えてる一目で人を惹き付けてしまうカリスマ性は皆無なのに……。
心の底に頑丈な鍵のかかった箱が沈んでいる。その箱の中に、理由が眠っている。
唐突に浮かんだイメージは、ゾッとしないものだった。
7組の担任は、社会担当の女の先生だった。気取らないさっぱりした雰囲気に好感を持つ。
同じ多田小の子がクラスの半分を占めているというのに、仲のいい子は誰もいない。
一瞬不安が増したけど、普通に挨拶出来る子はちらほらいるから、何とかなると思い直した。
「島尾さん、すごいね、新入生代表挨拶って!」
新しい教科書をいっぱいに詰め込んだバッグを抱え、よろよろと教室から出ようとしたところで、一人の女の子に声を掛けられた。私の後ろの席の子だ。
「趣味は時代小説を読むことです。推しは長谷川平蔵です」という自己紹介が強烈に印象に残っている。鬼平を推してる女子中学生なんて初めて見たし、二次元の男に惚れてる所に勝手に親近感を覚えたのだ。
「そんなことない、他の子に押し付けられただけだよ。えーと、杉下さん、だよね?」
「うん。玲でいいよ。私も真白って呼び捨てにしていい?」
元々社交的なのか、にこにこ笑いながら話しかけてくる。紫の綺麗なセミロングを片側でまとめた、大人っぽい女の子だ。
「もちろん! 仲良い子達とクラス別れちゃったから、実はちょっと不安だった」
声をかけてくれてありがとう、と言うと、杉下さんは茶目っ気たっぷりに肩をすくめた。
「一緒、一緒。私も仲いい子達とはクラスが分かれてさ。話しやすそうな子いないかな~って探してたんだ」
気持ちいいくらい率直な言い方をする杉下さんに、私はすぐに好意を持った。
母さんはもう先に帰っているし、絵里ちゃんは間島くんと一緒に帰ると言ってたので、自転車置き場まで杉下さんと一緒に行き、そこで別れる。
「明日からよろしくね、真白」
「うん、よろしくー。バイバイ、玲ちゃん」
呼び捨てでいいと言われたのに、恥ずかしくて呼べなかった私を見て、玲ちゃんは笑ってくれた。
中学生活一日目。なかなかいいスタートを切れた気がする。
不安に思うことなんて、本当はないのかもしれない。
前世と同じように、年相応の可愛らしい悩みや迷いに困ることはあっても、対処しきれないような事案に直面することなんてないのかも。
朝のナーバスな気分はなりをひそめ、元来の能天気さが顔を出す。私は明るい気持ちで自転車のペダルを踏んだ。
もうすぐ自宅、というところで黒のベンツが視界に入る。
家の前に横付けにされてるあの車は――。
嫌な予感がひたひたと胸を浸す。
後部座席から降りてきた人物を見て、せっかく上がっていたテンションが急降下した。
「帰ってきたか」
「紅くん……」
もう彼にも会えない、と紺ちゃんに言伝を頼んだのは、一月の半ば。
こうして紅様を見るのは、3か月ぶりということになる。
制服が変わったからなのか、ちょっと会わないうちにまた背が伸びてるからなのか。紅様は、私が昔一目惚れしたファンブックの『成田 紅』にすごくよく似てきた。
その事実に、胸が苦しくなる。
好きで好きでしょうがなくて、紅様の為に音楽を一生懸命勉強した昔の自分のことだけは、何故か忘れていないせいだ。紅様に恋をした記憶は、他の思い出全てが消えた今もなお、はっきりと私の胸の奥に刻まれている。
「会えないって、紺ちゃんから聞いたでしょ」
それだけ言って、玄関に駆け込もうとする私の腕を、紅様は素早く掴んだ。
「納得できない。ちゃんとした理由を言えよ」
「それは――」
蒼にあんな仕打ちをしておいて、彼の親友である紅様に合わせる顔がないと思ったのと、会ったら蒼が嫌がると思ったから。
それに何より、蒼を思い出してしまうから。
三人で音を合わせた日のこと。一緒にご飯を食べに行った日のこと。海に行った日のこと。
紅様がいるところに、蒼もいた。
「……いいよ、話す。そしたら、納得してくれる?」
「内容次第だな」
偉そうに言い放つ紅様に、思わず笑ってしまう。
自分だって、蒼がいなくなって寂しい癖に。
そう思って、ふと気が付く。そっか。紅様だって、寂しいんだ。
私にまで避けられたことに、もしかしたら傷ついたのかもしれない。
「じゃあ、家に上がる?」
「いや、突然邪魔するのは良くない。適当に流させるから、車で話さないか」
「分かった。荷物おいて、母さんに言ってくる」
ちょっと待ってて、と言い残し、玄関に入ろうとした私の腕を、紅様はなかなか放そうとしなかった。
「紅くん?」
「……っ! 悪い」
いぶかしげに見上げると、まるで熱いものに触れたように慌てて手を放す。
どんな時もスマートな彼らしくない振る舞いだ。
酷く混乱してるような複雑な表情を浮かべ、紅様は自分の手に視線を落とした。
◆◆◆
本日の主人公ヒロインの成果
攻略対象:成田 紅
イベント名:待ち伏せ
無事、クリア