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スチル19.修学旅行(紅&蒼)

 楽しくも充実した夏休みが終わり、二学期がやってくる。

 二学期のメインイベントといえば、修学旅行だ。


 行先は、京都。

 私も一度は行ってみたいな~と憧れている日本の古都。

 もしかしたら前世で行ったことがあるのかもしれないけど、全く覚えてないから、ピアノのことがなければ純粋に楽しみだったと思う。


 先週のレッスン時、旅行でピアノの練習が出来なくなると報告した私に向かって、亜由美先生は優しい表情を浮かべた。


「確かに、3日もピアノに全く触れないのは、厳しいわね。……でもね、真白ちゃん。心の柔らかな今の時期に沢山の綺麗なものを見て、心の引きだしにその時味わった感動をためておくのは、ましろちゃんのピアノにとってもすごく大切なことなんだよ?」


 クマジャー先生には反発してしまった私だが、亜由美先生の言葉は素直に胸に沁みた。

 ……ごめんね、クマジャー先生。

 でも亜由美先生のアドバイスのお蔭で、私はようやく前向きになれた。


 紅葉は、まだ色づき始めたところかな。

 丸山公園、高台寺に清水寺。そして、二条城、神泉苑、壬生寺。金閣寺に銀閣寺。嵐山に嵯峨野。

 見たい場所は、きりがない程沢山ある。


 班は6人編成だった。

 うちの班は、女子が私と麻子ちゃんと朋ちゃん。男子が木之瀬くんと高田くんと溝口くんの6人だ。高田くんと溝口くんは、木之瀬くんとサッカークラブが同じみたい。

 「よろしくな」と爽やかに笑ってくれた二人は、班別学習計画を立てる時はいつも「地図の見方とか、時刻表とかマジでわっかんねー。島尾たちで決めてくれよ」と机にぐったり頬をつけた。

 彼らいわく、頭を使うと痛くなるそうだ。

 そのまま放置しとくと悪化の一途を辿るよ、と心の中で警告する。


 「寺? 興味ねー」な二人を除く4人で話し合い、一日目の班行動は金閣寺~竜安寺~仁和寺を巡る洛西コース。二日目は、銀閣寺~哲学の道~南禅寺を回る洛東コースを選んだ。

 最終日の午前中に、清水寺と高台寺に参拝してお土産を買う予定。


「これでバッチリじゃない?」

「うん。上手く組めたよね!」


 朋ちゃん達とハイタッチして、達成感を分かち合う。

 拝観料も調べたし、バスの時刻表も手に入れた。乗り換え時間も全て調査済み。

 地図はもちろん頭に入ってる。

 出来上がった完璧な計画表を見て、クマジャー先生は目を丸くしていた。



「そういえば、二日目の自由行動ってどうすんの?」


 いよいよ明日出発、という日の昼休み。

 体育館での持ち物最終検査の後、木之瀬くんにこっそり聞かれた。


「絵里ちゃん達と一緒に回るつもり。京都駅か四条河原町をぶらぶらするって言ってたよ。木之瀬くんは?」

「うん……あのさ。今日の放課後、時間もらえない?」

「分かった」


 急に話題を替えた木之瀬くんに、胸がざわつく。

 放課後がくるまで、なんだか落ち着かなかった。


 修学旅行前に告白する子は多い。

 絵里ちゃんも間島くんに当たって砕けるって意気込んでた。

 木之瀬くんは4年の時から、私に好意をアピールしている。

 彼が中学生になる前に、けりをつけようと思っててもおかしくない。


 いやいや、全然違う話かもしれないよ、と先走る自分を諌めてみる。勘違いだったら、かなり恥ずかしい。

 でも、残念なことに私の予想は当たってしまった。


「知ってると思うけど、俺、ましろのことが好きだ」


 放課後、誰もいなくなった教室で、木之瀬くんはまっすぐ告白してきた。

 傾き始めた太陽の光が、私達の間をオレンジ色に染めあげる。

 夕陽に照らされた木之瀬くんは、ひどく大人びてみえた。


「ありがとう、気持ちは嬉しいよ、本当に。でも、私は木之瀬くんをそんな風に見たことがない。きっとこれからも友達にしか思えない。だから……ごめんね」


 木之瀬くんの表情は、みるみるうちに曇っていった。

 私の正直な返答が、彼を傷つけている。

 恋愛感情じゃなくても、彼には私だって情が湧いている。

 でも、気持ちを返せないのなら、ここできっぱり切らなきゃダメだと思った。


「――分かってたよ」


 木之瀬くんは前髪をくしゃりとかきあげ、苦い笑みを浮かべた。


「ましろが俺のこと、友達以上には見てないってちゃんと知ってた。でも、俺もいい加減すっきりしたくてさ。……きっぱり振ってくれてありがと。これで思い残すことないわ」


 最後の言葉は、私の為に言ってくれたんだよね。いい男だよ、木之瀬くん。

 への字に曲がってしまう唇を動かし、私は何とか笑みを浮かべた。


「友達にはなれない? 図々しい?」

「いや、全然。むしろ、助かる。……ほら、んな顔すんなって」


 木之瀬くんは手を伸ばし、私の髪をかきまわした。

 友達の距離感にふさわしく、甘さのかけらもない手つきに胸が熱くなる。

 こんな良い人なのに、なんで木之瀬くんじゃダメなんだろう。


「自由行動の話だけど、俺も平戸と一緒に参加するから。明日から友達としてよろしくな、真白」

「……うん。ありがとう」


 それから、途中まで一緒に帰った。

 友達なんだし、いい加減名前で呼んでよ、という木之瀬くんを私は初めて名前で呼んでみた。

 絵里ちゃん達はとっくに彼を下の名前で呼んでいたのに、私だけがどうしても呼べなかったのだ。


 お互いの間にしこりを残さないよう、私達はましろ、琳くん、と名前を呼び合い、肩をぶつけて笑い合った。


 そして、いよいよ修学旅行当日。

 長袖のチュニックに細身のジーンズ。歩きやすいスニーカーを合わせてカーディガンを羽織る。

 日中は暑いくらいかもしれないけど、夕方からはちょうどよくなるはず。


「ましろん、おっはよー!」


 大きな荷物を抱えて家を出ると、満面の笑みを浮かべた絵里ちゃんが待っていてくれた。


「おはよ。絵里ちゃんご機嫌だ。……あ、もしかして?」

「えへへ。実は、昨日告白したんだけどー。」

「だけど?」

「――付き合ってもいいって!」

「やったじゃん!!」


 きゃあきゃあ喜びながら手を取り合い、飛び跳ねる。

 絵里ちゃんがあんまり嬉しそうなので、私まで幸せな気持ちになった。

 

 こんなに可愛くて素直な子を泣かしたら、ぼっこぼこにしてやるからな、間島。

 心の中で固く決意し、私は「頑張ったね」とニコニコ笑う絵里ちゃんの頭を撫でてあげた。


 集合場所についてすぐ、私は皆を集めて昨日の木之瀬くんとのやり取りについて素早く打ち明けた。

 変にツッコまずスルー推奨、と頼み込む。


「ましろと琳くん、お似合いだと思ってたのになあ」


 咲和ちゃんは残念そうだったけど、事情を聞いた皆はしっかり頷いてくれた。

 内緒話を終えて、マイクロバスに乗り込む。


「ましろ、こっちだよ」


 すでに乗り込んでいた木之瀬くんが手を振ってくれる。

 班で固まって座ることになってるので、隣に来いってことなんだろう。

 私が木之瀬くんと一緒に座れば、麻子ちゃんと朋ちゃん、高田くんと溝口くんが隣同士で座れるもんね。


「琳くん、早いね~。よく眠れた?」

「うん、ばっちり。どしたの? 真白は眠そう」


 実は昨夜は紺ちゃんちの離れで、ずっとピアノを弾かせて貰っていた。

 心配した父さんが迎えに来るまでの5時間、ぶっ通しで練習してたから、その疲れが残ってるんだと思う。

 正直に打ち明けると、木之瀬くんはすごく驚いたみたいだった。


「22時まで!? そりゃ眠いわ。いいよ、寝て」

「んー。でも前も琳くんにもたれて爆睡したよね。今度こそ、ちゃんと起きてるように頑張るよ」

「ましろはいろいろ気にし過ぎ。俺も嫌だったら、ちゃんと言うから」


 優しい木之瀬くんのお言葉に甘え、私は移動のバスでは殆ど寝て過ごした。

 彼にもたれてぐっすり眠りこんだ私を見て、後ろの席の麻子ちゃん達は「……これで付き合ってないとか」「ねえ」とひそひそ話していたらしい。   


「本当に、すいませんでしたっ!」


 バスを降りてすぐ90度のお辞儀をした私を見て、木之瀬くんはふはっと噴き出した。


「なに、急に」

「琳くんにはもたれないようにしようって、気を付けてたのに! ほんっと申し訳ない~!」


 気がついたら、バスは京都に到着。

 そして気がつけば私は、琳くんの肩に頭を預けて思いっきり寝ていた。


 昨日振ったばっかりの男子を枕にして寝るとか、我ながらどういう神経してるんだと怖くなる。


「おっけー、分かった。じゃ、ホテルでジュース奢って」


 申し訳なさ悶える私の気を楽にしようと、木之瀬くんは冗談めかして言ってくれた。

 本当に良い子だ。こんな子を好きになれたら、色々楽だっただろうなぁとしみじみ思う。

 班のメンバーには、残念な子を見るような目で見られた。


「島尾って、もっとツンとしたお嬢キャラかと思ってた」

「俺も。なんつーか、いろいろ残念?」


 高田くんと溝口くんにまで、そんなことを言われる。

 っていうか、ツンとしたお嬢キャラって! 

 育ちはがっつり庶民なのに態度だけ高飛車だなんて、かなり嫌な奴だよそれ。


 ホテルに荷物を預け、先生から注意事項を説明された後、班別行動に移る。

 教科書に載ってた通りの金閣寺を見て歓声を上げ、竜安寺の枯れ山水にしんみりした。

 どうやってこんなに綺麗に掃き清めてるんだろうね~と朋ちゃんと感心しながら、竜安寺の縁側に腰を下ろす。

 ひんやりとした風が気持ちいい。

 休日はすごい人なんだろうけど、平日だからかゆったり回れた。


「修学旅行?」

「いいわね~、楽しんで!」


 乗り合わせたバスの中で温かな声を掛けられる。

 私達も「ありがとうございます」とにこやかに答えた。

 景色は綺麗だし、建物は重厚かつ玲瓏だし、自分たちであらかじめ調べた通りに移動出来たことにも充足感がある。


 来て良かった! 京都、最高!

 私は浮かれながらお寺巡りを満喫した。


 そして、すっかり失念してしまった。

 ここが『ボクメロ』の世界だってことを――。




 夜になり、宿泊ホテルのレストランで班ごとに夕食を取った。

 そのあと各自部屋で入浴を済ませ、21時半まで自由行動ということになっている。

 他の階への移動は禁止されているけど、他の部屋に集まって遊ぶことは許可されてる。

 3人一部屋で、15階が女子、16階が男子という分け方だ。


 レストランを出た後、班長の木之瀬くんがクマジャー先生に報告に行くと言い出した。


「そうなんだ。私も一緒に行く」


 私が申し出ると、木之瀬くんは怪訝そうに首をかしげた。


「え? 俺一人で大丈夫だけど」

「それはそうだろうけど、ほら。まだジュース奢ってないし」


 フロントの近くにちょうど自販機があった気がする。

 木之瀬くんは目を細め「律義だな~」と呟いた。


 同室の朋ちゃんと麻子ちゃんに、寄り道して部屋に戻ることを伝える。

 それから木之瀬くんと一緒に、ラウンジで待機中のクマジャー先生のところへ向かった。


 彼は順番を待っててきぱきと報告を済ませ、すぐに私のところへ戻ってくる。


「はい、終了。真白、お待たせ。ん~、何買ってもらおっかな」

「まだ決めてなかったの? コーラは? 好きでしょ、炭酸」

「まあね。けど今は腹がいっぱいだし、夜飲めるようにお茶にしよっかな」

「それもいいかも」


 和気藹々と話しながら自販機に向かおうと歩きだした私達の背中に、クマジャー先生の声がかかる。


「島尾! ちょっといいか」

「あ、はい」


 振り返り、私だけクマジャー先生のところへ小走りで戻る。

 先生は得意げな顔で、腰に手を当てた。


「ラウンジにでかいピアノがあるだろう? あのピアノ、20時から1時間だけなら弾いてもいいって、ホテルの支配人に許可を貰ったぞ。ただし、お客さんがいるから、練習曲じゃなくってちゃんとしたピアノ曲を弾くなら、って条件付きだった。……どうする?」


 私はポカンと口を開け、クマジャー先生の顔を見上げた。


 グランドピアノを弾かせてもらえる? この立派なホテルのラウンジで!?


 ものすごく嬉しいのと同時に、そんなことをして大丈夫なのか不安になった。


「先生……でも、いいんですか?」


 恐る恐る聞いてみると、クマジャー先生はポンポンと二回私の肩を叩いた。


「自然教室の時な。島尾が真剣なこと、すごく伝わってきたから、本当は頼みを聞いてやりたかったんだ。でも前日じゃどうしようもなくてな。だから今年は先生、前もっていろいろと根回し済みだぞ! びっくりしただろう?」


 ブハハハと豪快に笑う先生を見てるうちに、鼻がツンと痛くなってきた。


 私にとってピアノがどんな存在かなんて、どうせクマジャー先生には分かってもらえない。


 そんな風に思い上がっていた自分が恥ずかしい。

 先生はきっと校長先生や教頭先生、他にも沢山の人に私のことを頼み込んでくれたんだろう。


「あ、ありがとうございます! すごく嬉しいです!」


 クマジャー先生は顎をぽりぽり掻いている。

 ここまで感激されると思ってなかったのか、照れてるみたい。

 どこまで良い先生なんだ! 私もう泣きそうだよ。


「ごめん、ジュース明日でもいい?」


 傍で私達の会話を聞いていた木之瀬くんに謝る。


「もちろん。っていうか、俺もましろのピアノ聞きたい」


 彼は快く了解してくれた。

 木之瀬くんにはラウンジで待ってもらい、先生と一緒にフロントへ挨拶をしに行く。

 支配人だという50過ぎのダンディーなおじさまは、私を見てにっこりと微笑んだ。


「島尾さんですね。実は私、あなたのピアノを一度聞いてるんですよ」


 支配人さんの言葉に、私は大きく目を見開いた。

 ええ!? いつ、どこで、どうやって!?

 思ったことが全部顔に出たのか、先生も支配人さんもクスクス笑い始める。


 なんでも支配人さんは、亜由美先生の大ファンである奥様に引っ張られ、去年の発表会をわざわざ聴きに来て下さったそうだ。

 そこで、私と紺ちゃんのピアノにいたく感動した、と言ってくれた。


「あれからまた上達されたのでしょうね。楽しみです」

「ありがとうございます。頑張ります」


 支配人さんの後をついて、グランドピアノのところまで行く。

 わあ……! シロヤマのSXアルファだ!

 発表会の連弾で使ったピアノの姉妹モデルで、中規模用のコンサートピアノ。

 音の立ち上がりが素直で響きが明るいのが特色だって聞いたことがある。知識としては知っていても、触るのはこれが初めて。


「さっそくいいですか?」


 Cの音を鳴らして響きと弦の返しを確かめた後、支配人さんに聞いてみる。


「いつでもどうぞ」


 彼は鷹揚に頷いた。

 ちらほらとロビーに点在するお客さんが、ピアノの音に気付いてこちらを見てくる。


 よし! 気合を入れ直し、大きく深呼吸をひとつ。

 まずは、ブラームスで指慣らししよう。


 間奏曲 作品118の2

 ゆったりとしたリズムに乗せて、優しい主旋律を囁くように奏でる。

 情熱的になり過ぎないように、遠く離れた恋人に送る手紙をイメージして鍵盤を撫でていく。

 右手の高音は綺麗に響かせ、左手は温かみを帯びさせるように繊細なタッチで。

 途中の展開部は、たっぷりと揺らす。そして最後再び現れた主題を高らかに歌い上げた。


「素晴らしい!」


 支配人さんは思わず手を叩いてしまったみたい。

 コンサートじゃなくてただの練習だから、拍手はいらないのに。

 それでもやっぱり嬉しくて、つい笑みがこぼれてしまう。


 木之瀬くんとクマジャー先生を見てみると、唖然とした顔で私を凝視していた。


 あ、あれ? もしかして、ブラームスはいまいち?

 じゃあ、分かりやすくショパンなんてどうかな。


 エチュード Op.10―4 嬰ハ短調

 鍵盤の上を腕が舞い踊るように行き来する。

 ディナーミクを十分にきかせて、さざ波のような装飾音は一音一音を際立出せるように。

 フォルテッシモの部分は体全体を乗せて深い音を響かせる。

 最後の部分は思い切りよくダイナミックに。二連続の和音を豊かに響かせ曲を締めると、いつの間にか周りに集まってきていたお客さんたちから大きな拍手が起こった。


「上手いわねぇ」

「どこの子なのかしら?」

「有名な子なの?」


 囁き声が耳に入ってきて、ちょっと驚いてしまう。

 えーと。なんだか大事になってきてませんか……ね。

 このまま弾き続けていいのか分からない。


 縋る様な気持ちで支配人さんを見上げると、頬を紅潮させた彼は「もっと、もっと」と言わんばかりの身振りで促してきた。


 これ、いいから続けて弾けってことだよね。支配人さんがいいって言うならいいのかな。

 それにしても聴衆の反応があるって、良いな。

 普段の練習よりうんと、集中力が研ぎ澄まされる。

 心は凪いだ海のように静かで、耳の奥にはこれから奏でる音楽だけが鳴り響いた。


 次はこの曲にしよう。

 ベートーベンのピアノソナタ第17番Op.31―2「テンペスト」


 このソナタを作曲した頃、ベートーベンは悪化する難聴に絶望し、自殺さえ考えていたといわれている。

 「テンペスト」という曲名は、お弟子さんがこの曲をどう解釈すればいいか尋ねた時に、ベートーベン自身が「シェイクスピアのテンペストを読め」と言ったという逸話に由来するそうだ。


 せっかくだから、第一楽章から通して演奏することにした。

 切迫した緊張感に満ちた主旋律。

 時折姿を見せる柔らかで静かなフレーズは、絶望の中、垣間見える希望のようだ。

 怒涛の激しさを見せる第一楽章から一転して、第二楽章。

 ソナタの定石を踏まえて、ゆったりとした美しい導入部から、まるで子守唄みたいに温かな展開部。

 

 立って聞いていた人たちが、それぞれ近くのソファーに腰を下ろし始めた。

 脚を組み、リラックスして耳を傾けてくれている人もいる。


 そして第三楽章。

 連続する16分音符が切ない主旋律を構成する。

 テンペストといえば、この第三楽章を思い浮かべる人が多いんじゃないかな。

 スタッカートは鋭く研ぎ澄まし、低音は重々しく響かせる。ト短調からイ短調、ニ短調、ハ短調、変ロ短調、変イ長調、そして再び変ロ短調、目まぐるしく転調を繰り返しながら主題が何度も提示される。

 美しいメロディの中に絶望とそして諦めきれない音楽への渇望を詰め込み、私は鍵盤を追った。

 意外なほどあっさりと終わる最後の音から指を離す。

 上空に立ち昇った余韻は、沢山の拍手に包まれた。


「流石、ましろ。ますます上手くなってる!」

「ああ、なかなか聴かせるテンペストだったよ」


 大きな拍手の波の中、聞こえてくるはずのない二人の声が聞こえてきて、私は椅子から飛び上がった。


「ええっ!? ――な、なんでここ、ここ」


 あわあわと慌てる私を可笑しそうに見つめながら、優雅に歩み寄ってくるのは、どこからどう見ても紅様と蒼だ。


 なんでこんなとこにいるわけ!?


「落ち着いて。鶏みたいになってるよ」


 相変わらずの紅様節にムカっとくる。

 おかげで少し落ち着いた。

 それにしても、どこにでも湧いて出てくるなあ。

 ピアノを弾くと寄ってくる仕様なの?

 そういえば、ボクメロの正式タイトルって『僕に聞かせて君の音楽』だったっけ……。


「島尾。お友達か?」


 クマジャー先生が声をかけてくれたので、私は慌てて先生の傍に避難することにした。


「えっと。一応、そうです」

「一応?」


 紅様の秀麗な眉がピクリと上がる。

 クマジャー先生の影に隠れるように身を寄せた私を、琳くんが「どうしたの、大丈夫?」と小声で気遣ってくれる。

 うう、常識的なその優しさが身に沁みるよ。


「友達です。すごく仲のいい友達です」


 急いで言い直したものの、紅様の冷ややかな眼差しは変わらない。

 彼はおもむろに手を伸ばし私の腕を掴むと、有無を言わせず自分の傍に引き戻した。

 力強く引き寄せられ、思わずよろめいた私を、隣から蒼が支えてくれる。

 そんな蒼も、挑戦的な表情で琳くんを見ていた。


 胃が! 胃が痛いです、先生!


「僕たち、青鸞学院の生徒なんです。新しいコンサートホールのこけら落とし公演に招待されて、ここへ。まさかホテルで友人に会えるなんて驚きました」


 紅様は、先ほどの冷徹な顔を綺麗に隠し、打って変わった優等生面でクマジャー先生に挨拶した。

 僕、ってなに。鳥肌立ったわ。

 青鸞学院の名前と制服に、クマジャー先生は警戒を緩め、相好を崩す。


「そうだったのか! 青鸞にも友達がいるなんて、島尾はスゴイな! ピアノの腕前にも驚かされたし、先生さっきからびっくりしっぱなしだぞ」


 琳くんは困惑したように「え、でもましろ、怖がってないか?」と聞いてきた。


「ましろ、ね」


 紅様の微かな囁き声が耳を打つ。

 ドス黒いオーラが蒼からも立ち上り始めている。

 勘弁して下さい。バッドエンドだけは許して。


「そ、そんなことないよ。ここで会えると思ってなかったから、驚いただけ。えーっと。ちょっとお話してから、部屋に戻るね」

「ん、分かった。じゃあ、明日な」

「おやすみ、琳くん」


 あっさり引いてくれた彼にホッとして、思わず親しい呼び名が口から転がり出てしまう。


「りん、ね……」


 今度は蒼がボソリと繰り返す。

 ――これは、詰んだな。

 思わず遠い目になった私の背中を紅さまがそっと促した。


「さあ、行こう。あっちでゆっくり話そうね」

「うん、そうしよ? 真白には色々聞きたいことあるし」


 2人はそれは美しく微笑んだ。



 ◇◇◇


 本日の主人公の成果

 攻略対象:城山 蒼 & 成田 紅

 イベント名:君の音に誘われて

 クリア




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