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前世の記憶を取り戻した私は、同時に紅様への恋心も思い出していた。
そうだよ、この世界が『ボクメロ』なら、彼だっているはず!
液晶画面に阻まれていたせいで、紅様の囁き声は聴けても近づくことは出来なかった。
でもこの世界では、リアル紅様に会える可能性がある。
生きて、動いて、瞬きしてる紅様に。
この時の私は、城山 蒼という名のゲームに出てくるキャラにそっくりな子に会っただけだ。
それなのにここまで舞い上がってしまったのだから、その他のことも察して欲しい。
突然取り戻した前世の記憶の全てを消化できるほど、私の器は成熟していなかった。
体はまだ7歳の子供で、取り戻した18歳の思考はその体にぐいぐい引っ張られていく。
私は現実から自分に都合の良い部分だけを抜きだし、願望と擦り合わせた。
すでに出会いを果たした蒼くんが同い年だったということは、紅様だって同い年だということだ。
小学生の紅様か……。すっごく可愛いんだろうなあ。
お友達になりたい! などと恐れ多いことは考えてない。
きっと紅様は茶髪美少女ヒロインと出会うべくして出会うだろう。
私はその他大勢のモブキャラとして、彼を遠くから眺められれば、それでいい。
「そうだよ、本物の紅様に会えるかもしれないんだよ!」
ベッドの枕元に置いてあるテディベアの縫いぐるみを抱きしめ、愛らしい口元にキスの雨を降らせる。
ふっくらとしたテディベア君、愛称べっちんの両手を握り、私は部屋中をくるくる回った。
「Voi che sapete Che cosa e amor Donne vedete Sio Iho nel cor~」
胸には憧れに満ちたものを 感じているのです
それは時には喜びであり 時には苦しみです
恋とはどんなものかしら
僕の心に恋があるかどうか どうか教えて下さい
――モーツァルトの歌曲『フィガロの結婚』第二幕。
ケルビーノの歌う有名なアリア『恋とはどんなものなのか』を原曲のまま高らかに歌い上げながら、私はべっちんを捧げ持ち両膝をついた。
べっちんよ。
私が教えてあげましょう! この胸の高鳴りこそが恋なのだと!
息を弾ませながら、私はこれからの人生設計について思いを巡らせた。
せっかく前世の記憶を取り戻したのだ。
18歳で無残に途切れた人生のやり直しを、これから出来るということでもある。
もっと頑張れば良かった。あの時、もっとちゃんと真剣に考えれば良かった。
勉強にしろ恋愛にしろ、後悔は多い。今度こそ、悔いのない人生を送りたい。
やりたいと思ったことには全力を注ごう。
私は改めて決意し、小さな拳を握りしめた。
ちなみに、思い出せたのは前世の記憶だけだ。現役受験生だったというのに、勉強関係の知識はさっぱり思い出せない。
唯一思い出せたのは、『ボクメロ』攻略に関する音楽知識だけ。
思えば私は、紅様とのハッピーエンドを掴む為、あの頃必死に勉強した。音楽を。
その意味不明な情熱は、高校の音楽教師を怯えさせるほどだった。
「この部分の和声がおかしくないかチェックして貰えませんか?」なんて言いながら、自作の楽譜を手にしょっちゅう職員室に押しかけて来るんだよ? そりゃ怖かったと思う。
ピアノを習っているわけでもないのに、ひたすら楽典を勉強した。
お年玉とおこずかいを注ぎ込んで、沢山のクラシックCDを買い漁った。
楽譜だってすらすら読めるようになった。
その知識の殆どを引き継いで転生できたことには、何か意味があるに違いない。
紅様の専攻はヴァイオリンだった。
私もヴァイオリンをやればいいんじゃない?
唐突にひらめく。そうだよ。ヴァイオリンをやって青鸞学院に入ればいいんだよ。
そしたら、高校時代という煌めき溢れる青い春を、憧れの君と過ごすことが出来る。
たとえ認識されなくても、同じ空気を吸うことが出来る。
「おかあさーん!」
私は手早く着替え、ランドセルを肩にかけて階段を駆け下りた。
朝食をテーブルに並べているお母さん、新聞を広げているお父さん、TVで今日の運勢をチェック中の花香お姉ちゃんが一斉にこちらを振り返る。
「おはよう、ましろ。朝から元気がいいなあ」
「顔、洗ってきて。パンがもうすぐ焼けるわよ」
「ましろ、さっき何歌ってたの?」
それぞれが同時に話しだすものだから、何が何だか分からない。
私はランドセルを足元に置いてすぐ、フローリングの床に正座した。
「な、なにそれ……」
ポカンと口を開けて両親は固まり、お姉ちゃんも目を丸くしてこちらを凝視している。
「お願いします! 私にヴァイオリンを習わせて下さい!」
私は深々と頭を下げた。
ヴァイオリンという楽器には、分数サイズが存在する。
子供の成長に応じて、その体に合ったヴァイオリンを買い替えていくのだ。
レッスン代プラス楽器代。青鸞学院は私立だから、学費や寄付金なども含めれば、私にかかる教育費用は莫大なものになってしまう。
我が家はいたって普通の中流家庭で、父さんは係長に昇進したばかりのしがないサラリーマンだから、厳しいかもしれないけど。
でも、頑張るから! どんな努力でもするから!
ところが私の並々ならぬ決意は、我に返った母さんに一笑に付されてしまった。
「急に何かと思ったら。あんなお金のかかる道楽させられる程、うちに余裕ないわよ」
「ごめんな、ましろ。父さんが不甲斐ないばっかりに……」
項垂れる父さんのしょんぼりとした顔を見て、冗談抜きで我が家の経済にゆとりがないことが分かった。
――私はモブキャラだから、そんな都合よく物事が運ぶわけないんだ。
ショックに襲われながら、深々と溜息をつく。
そっか、そうだよね。
乙女ゲーの世界に転生してきたといっても、ただの通行人その一なら、紅様との接点ゼロの人生を送ることだってあるよね。
「だよね、ごめんね、駄目元で頼んでみただけなんだ」
よろよろと立ち上がり、食卓につく。パンもハムエッグも、味がしない。
「どうして急にヴァイオリン?」
お姉ちゃんが心配そうに私の顔を覗きこむ。
まさか『乙女ゲーの推しキャラに会いたいから』とも言えず、私は曖昧に笑って誤魔化した。
時間がきたので、ランドセルを背負って家を出る。
「おっはよー」
近所に住んでいる幼馴染の絵里ちゃんが、後ろから追いかけてきて軽く体当たりしてきた。
「おはよう」
私は気を取り直して挨拶を返した。
周りから見れば、私は昨日と同じ7歳の島尾真白だ。元々のキャラクターから逸脱することは出来ない。
急に前世が云々かんぬん言い出せば、カウンセリング送りは確実な気がする。
「ねえ、見た? 昨日のアイレボ!」
エリちゃんのすべらかなほっぺが、興奮で赤く染まっている。
アイレボというのは、今、小学生女子の間で大流行中のアニメのこと。
『アイドルレボリューション☆キラキラステージ』というタイトルで、ツインテールの平凡な少女がある日突然アイドルになっちゃう! という夢物語。
よくある一種のシンデレラストーリーなのだが、大手玩具メーカーが強力にバックアップしている為、ローティーンの女の子とその保護者は巨大な市場として多額のお金を吸い上げられている。
かくいう私も、ショッピングセンターに連れて行ってもらう度に、お母さんに渋い顔をされながらトレーディングカードゲームに夢中になった。
――今思えばなんてもったいないことを。あのお金で、楽譜何冊買えたかな。
「見るの忘れちゃった」
昨日はそれどころじゃなかった。
絶対あの顔、どこかで見た、って晩御飯の間もお風呂の間も、ずっと蒼くんのことを考えていたのだ。
「うっそー! ましろん、それやばいって!」
「そうなんだよ。どんな話だったか、学校に着くまでに教えて!」
アイレボへの興味はすっかり消えてしまっているけど、話を合わせないわけにはいかない。
いかにも残念、という表情を作ってみせると、絵里ちゃんは勿体ぶりながら「昨日は、ルンちゃんのステージ衣装の早着替えが凄かったんだよ。あの新作衣装のカード欲しい」などと教えてくれた。
昨日までの私なら、見逃したことが悔しくて歯噛みしただろう。
ルンちゃんみたいになりたくて、髪形だって真似してた。
たった一晩明けただけなのに、目に入るもの全てが今までとは違って見える。
あと11年待たないと元の年齢に戻れないって、かなりキツイ。
私がそんなことを考えてるとも知らず、絵里ちゃんはにこにこしながら話しかけてきてくれた。
授業中、私はうずうずしながら担任の先生を見つめた。
ああ、早く帰って勉強したい。掛け算とかやってる場合じゃない。
焦ってしまうのは、例のファンブックのせいだ。
ここにきてもまだ、私は諦めていなかった。
ファンブックに載っていた紅様の好みのタイプはなんと「頭のいい子」。
前世では落ちこぼれ気味だったけど、今からしっかり勉強すれば、間に合うんじゃないかな。
偶然知り合う可能性はゼロじゃないんだし、その時紅様に少しでも良く思われたい。
「なんだ、島尾。トイレなら我慢せず行ってこい」
いかつい風貌でいつも紺色のジャージ姿の男性教諭は「クマジャー先生」と呼ばれている。
生徒思いの優しい先生なんだけど、40を過ぎても独身な理由が今、分かった。
クラス中がドッと笑いに包まれる中、私は「違います」と蚊の鳴く様な声で答えるしかなかった。
……7歳児に『トイレネタ』で笑われる18歳。つらい。
耳が痛くなるほどの騒音の中、苦痛しか感じなかった半日をなんとかやり過ごし、絵里ちゃんと並んで校門を出た。
小学生って、ほんっと五月蠅い。
口の中がカラカラに乾くんじゃないのってくらい、ひっきりなしに皆が喋るもんだから、まさしく耳元にたかってくる蠅の集団ようだ。
昨日まで自分もその蠅だったことを棚にあげ、内心大きな溜息をつく。
小学校の先生ってスゴイわ。よほどの子供好きじゃないと勤まらない職業だな。
「ねえ、今日遊べる? たっくん達がくじら公園でドッジボールやるって言ってたよ。ましろんも、もちろん行くよね?」
絵里ちゃんが意味深な目つきで、口数の少ない私を覗き込んできた。
たっくんというのは、二年生の女子の間で人気度ナンバーワンを誇る男子の名前。足が速くて、ドッジボールが上手い。
その二つの条件さえ満たせば、7歳のガキンチョの心なんて簡単に掴めてしまう。
私も昨日までは、ちょっといいなあと憧れの眼差しで見てたっけ。
「私はいいや。エリちゃん行ってきなよ。たっくん、今日も絵里ちゃんの髪の毛引っ張ってきてたでしょ。気になってるからじゃないの? 小学生男子は好きな女子ほど苛めるんだって」
今更7歳児に混じってドッジボールは出来ない。
本音を抑えて当たり障りなく断ろうと返事をする。
絵里ちゃんは不思議そうに私を見つめ、何故か大笑いし始めた。
「やだあ! ましろん、うちのお母さんみたい!」
……早く家に帰りたい。
「ただいまー」
誰もいない家に私の声だけが響く。
首から下げた鍵を使って玄関を開け、芳香剤の香りのする靴箱に小さなスニーカーをしまった。母さんは近くのドラッグストアのレジ打ちのパートに出ているし、お姉ちゃんはいつも19時くらいまで帰ってこない。
台所を覗くと、手作りホットーケーキがお皿に乗っていた。
ランドセルを片付け手洗いうがいを済ませて、やけに広く感じるリビングのソファーに腰を下ろす。
しーんと静まり返った中に1人ぼっちでいるうちに、無性に気持ちが沈んでいった。
さっきまで、早く家に帰りたいと思ってたのに。
考えないようにしていた前世での色んなことが、堰を切ったように溢れてきそうで、私は瞬きを繰り返した。
……いやだ。深く考えたくない。
「いただきまーす」
わざと明るい声を上げ、両手を合わせてフォークに突き刺したホットケーキに齧り付いた瞬間。
ボタボタと大粒の涙が両頬を伝って流れてきた。
――前世でお母さんが作ってくれたのと、同じ味。
当たり前だ。
ホットケーキミックスを使えば、誰が焼いたってこの味になるに決まってる。
なに、泣いてんの。馬鹿じゃないの。
分かっているのに、涙が止まらない。
受験頑張れって毎晩夜食を作ってくれたのに、お母さん、ごめん。
成人したら一緒にお酒飲もうなって楽しみにしていてくれたのに、お父さん、ごめん。
「だからゲームなんか止めとけって言ったのに!」ってお姉ちゃんは泣いたかな。
ゲームショップの真ん前のマンホールに落ちたんだから、きっと原因が何か分かっただろうな。
もう会えない。
どんなに会いたくても、私が彼らを置き去りにしてしまったんだから。
わんわん泣きながら、私はただひたすらホットケーキを食べ続けた。
口を動かすのをやめたら、心が壊れてしまいそうだった。
今度こそ、家族みんなより長生きしよう。
そして幸せになろう。
それが、今の私に出来るたった一つの償いなんだから。
固く決意しながら、私は気が済むまで泣いた。
カーテン越しに差し込む光がオレンジ色に変わった頃。
疲れた顔をして帰宅した母さんが、洗濯物を片付け、父さんのワイシャツにアイロンまでかけている私をみてぎょっとした。
7歳児の頼りない手だと舐めてもらっちゃ困る。器用さには自信があります。
「ええっ!? なんで今日はお友達と遊んでないの? も、もしかして……い、いじめ……いじめられてるの? 大変、お父さんに電話しなくちゃ!」
母さんは、震える手でバッグから携帯を取り出し、父さんの番号を呼び出そうとした。
普通にお手伝いしてただけだよね?
それまでの自分がまったく何もせず、呑気に遊び歩いていた小学生だったことをすっかり失念していた私は、母さんをひどく驚かせてしまった。
「ちょ、ちょっと待って! 違うから、落ち着いて!」
「ましろ、何か困ってるんじゃないの? 朝もそういえば変だったし……。何があったって、母さんはましろの味方なんだよ。だから、何でも相談して」
どんな妄想が脳内を駆け巡っているのか、母は涙目で私をぎゅうっと抱きしめてきた。
おっけー。まずはその腕の力を緩めようか。
「なんにもないって! クマジャー先生が言ってたの。お母さんは毎日家族の為に頑張ってるんだから、お手伝いをするのは大事なことだぞって。だから私も今日からやってみようかなって」
――学校の先生が言っていた。
この台詞が保護者に与える安心感は絶大だ。
「そうだったのかぁ。熊沢先生は、優しいね。ましろも偉いよ! 人生の先輩からのアドバイスを素直に聞けるって、なかなか出来ないことだから」
私は母のこういう部分が好きだ。『先生や親の言うことを聞きなさい』って上から押しつけてこないところ。にっこり笑顔で頷いて、アイロン台を片づけた。
熊沢先生って、と内心ツッコんでおく。
母さん、クマジャー先生の本名は武光 伸夫だよ。
とりあえず、お手伝いは完了。私は二階にあがって勉強することにした。
学校の宿題を瞬殺で終わらせ、姉の部屋から中学の時の教科書をこっそり拝借してくる。
勝手に部屋に入って悪いと思ったけど、背に腹は代えられない。直接頼んだら、質問攻めにされてしまう。前世の記憶とか乙女ゲーとか、あまりにも突拍子が無さ過ぎる。誰に言っても信じては貰えないだろう。
久しぶりに入った姉の部屋は汚部屋と化していた。
床が見えない! せめて脱いだ服くらいはハンガーにかけようよ。
触られたくなさそうな私物は避けつつ、ゴミを捨て、軽く片づける。窓を開けて部屋の換気をするのも忘れない。
自室に戻り、教科書を広げる。一度も開いたことがないんじゃないだろうか、というほど綺麗な教科書だった。
お姉ちゃん、よく高校生になれたな……。
気を取り直し、アンダーラインを引きながらじっくり読み込んでいく。
数学・国語・英語あたりは大丈夫そうだけど、社会と理科が難しい。暗記科目は駄目だな。殆ど忘れてる。今度、本屋さんに行って問題集を探してこなくちゃ。
「ましろー、御飯よー」
母さんの呼ぶ声に慌てて時計を見てみると、すでに7時を回っている。
ちょうどいいタイミングで、父さんが帰ってきた。
私が飛びつくと「ただいまあ」とふにゃりとした笑顔で抱きとめ、頭を撫でてくれる。
お姉ちゃんも、嬉しそうな顔で二階から降りてきた。
「母さん、朝あんなに怒ってたのに、部屋片づけてくれたんだね!」
茶目っ気たっぷりの表情でウインクを飛ばし、「ありがとう!」なんて言って敬礼のポーズを決めてる。
だらしなくて面倒くさがり屋のお姉ちゃん。
同時に、大らかで無邪気な花香お姉ちゃんは、いつも私たちを明るく照らしてくれる。
母もそんな姉を叱りきれず、苦笑しながら首を振った。
「私じゃないわよ。……もしかして、ましろ?」
「うん。母さんのお手伝いばっかりじゃ不公平だから、学校を頑張ってるお姉ちゃんのお手伝いもしたんだよ」
教科書借りパク事件のことがあるから、妙に後ろめたい。
自分でもあざといかな? と思うくらいの甘えた口調で言ってみた。
それを聞いたお姉ちゃんは、感極まったのかいきなり抱きついてくる。
「もうっ、なんていい子なの! ほんっと可愛い! お姉ちゃん、一生ましろについて行くからねっ」
それから何故か、父さんと声を合わせての「ま・し・ろ! ま・し・ろ!」コールが始まった。
わー。すごい姉馬鹿。
前世の姉もそうだった。
溺愛と言っていいほど、私を可愛がってくれていた。
涙が出そうになって、私は慌てて席についた。
一生懸命、ハンバーグをほおばる。
前世の父さんもよくこうやって私を褒めてくれた。
母さんも優しかった。
家族みんな、めちゃくちゃ仲が良くて、私達はいつも4人で笑い合ってた――。
「ほらほら、騒いでないで冷めないうちに食べてよ」
黙り込んだ私を気遣い、母さんがさりげなく2人を窘めてくれる。
幸せと悔恨が入り混じった複雑な気持ちで、私はひたすら口を動かした。