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 再び忙しない季節が巡ってきた。

 秋は、本当に学校行事が目白押しで辛い。やる気に全く体がついてこないのだ。

 木曜日のレッスン前、サロンでつい居眠りしてしまった時なんて、最悪だった。


「ましろちゃん、目の下に隈が出来てるわよ」


 いつも厳しい亜由美先生が、その日口にしたのはその一言だけだった。

 細かい指摘をする気にもなれないほど、私が集中力を欠いていたせいだと思う。

 一生懸命練習して仕上げたはずの「シンフォニア 7番」はミスタッチの連続だった。


 バッハのインヴェンションを終えた私は、随分前からシンフォニアに移っている。

 あと少しで平均律クラヴィーア曲集に取り掛かれるというところ。

 二声に比べ、三声は格段に難しくなる。他の曲と違い、左手の複雑なタッチが要求されるのも特徴だ。

 

 悔しい、あんなに練習したのに! 

 母さんのお迎えの車の中で、私はこっそり涙を零した。


 家に戻ってすぐ楽譜を広げ、今日ダメだった部分を重点的に練習する。

 左手が右手と同じくらい美しく響くように。

 ううん、そうじゃない。もう一度。今のはいい感じだった。感覚を忘れないうちにもう一度。

 二階に私の様子を伺いに来た母さんは、そっとドアを閉じ引き返していった。

 

 二学期もようやく最後の月を迎えた。

 桜子さんからクリスマスパーティへのお誘いを頂いたのは、玄田邸の離れで練習してる時だ。

 いつもはお手伝いさんがお茶を運んでくれるのに、その日お盆を持って現れたのは千沙子さんだったので、私はびっくりしてしまった。


 正直に言ってもいいですか。

 ドレッシーなワンピース姿でのお盆持ち、めちゃくちゃ似合ってないです。


「今年も真白ちゃんに、クリスマスパーティに来て欲しいなあって。でね、お願いがあるんだけど、桜子も私も、また真白ちゃんのアンサンブル演奏が聴きたいの!」

「え? で、でもあと2週間くらいしかないですよね」


 独奏なら、この間まるを貰えたショパンの革命のエチュードを弾けばいいかなって思うけど、誰かと合わせるなら時間が足りない気がする。

 それまで黙って聞いていた紺ちゃんは、千沙子さんに向かって眉をひそめた。


「母様。突然来て、無理を言うのはやめて」


 紺ちゃんは私が今、普段の練習に加えてラヴェルを研究していることを知っている。

 そこに無理やり合奏の練習をねじ込ませるのは悪いと気を遣ってくれたのだろう。

 亜由美先生にも「中学で一度コンクールに出たいです」と伝えてあった。

 先生はしばらく考えた後で、「分かったわ。出るからには一位を目指しましょうね」と答えてくれた。

 こんなに早めに言わなきゃ良かった、と後悔しそうになったくらい、亜由美先生のスパルタ度は増している。


「だって、去年の合奏がすごく素敵だったから、もう一回聞きたいんだもの。練習時間が足りないなら、簡単な曲でいいから!」


 人前で演奏するのに、簡単な曲を適当に合わせてお茶を濁すなんて真似、私達には出来ない。

 ううん、真剣に音楽をやってる人なら、きっと誰にも出来ないと思う。


「母様!」


 案の定、紺ちゃんの美しい眉は吊り上ってしまった。

 私は慌てて、紺ちゃんの腕に手を置いた。


「そんなに怒らないで。せっかくのクリスマスだもん。私も息抜きしたいなあ」


 紺ちゃんに叱られてしゅんとしていた千沙子さんは、途端に瞳を輝かせた。


「わぁ……! 真白ちゃん、ありがとう! 平日も離れを使って練習してくれていいからね。日曜日もいらっしゃいよ。紅と城山くんにも、パーティのことは連絡済みだから。真白ちゃんのオッケーが出たって知ったら、きっとあの子達も喜ぶわ~!」

「そんな。いつもお世話になってますから。少しでも楽しんで貰えるよう、頑張ります」


 にこやかに答えながら、紺ちゃんとピアノ連弾じゃダメなのか、と内心がっくり膝をつく。

 あの2人にも根回し済みだなんて、これはイベントなのかもしれない。

 もしそうなら、普段の千沙子さんからは考えられない強引さにも、説明がつく。

 私達がどんなに抗っても、世界はボクメロ進行通りに進もうと、あらゆる整合性をねじまげていく。そんな気がした。


 桜子さんがお茶を置いて離れから出て行った後、紺ちゃんは私のカップに広西紅茶を注いでくれた。

 たっぷりのミルクを足して、ミルクティーにする。渋みがほとんどないその紅茶は、お花の蜜のような自然な甘さがあって、中国紅茶を殆ど飲んだことのなかった私を驚かせた。

「美味しい~。ホッとするね」

「口にあって良かった。冬は私、いつもこれなの。……母様がごめんね。彼女を庇うわけじゃないけど、これはイベントかもしれないわ」

「あ、やっぱり? 紅くんと蒼くんが絡んでるの、おかしいなって思った」

「うん……。真白ちゃんが主人公ルートを外れない限り、あの2人は嫌でもついて回るのかもね」

 私がピアノさえ止めれば、紅様とも蒼くんとも縁が切れるというのが、紺ちゃんの推論だ。

 多分、それは当たってるんだろう。

 分かっていても、ピアノを諦めることは絶対に出来ない。

「うん。でももう最近、それでいいやと思えてきちゃったよ。蒼くんは可愛いし、紅様も嫌いじゃないし。全くの無関係になる方が、寂しい気がしてきた」

「もう! すぐそうやって情を移すんだから」

 紺ちゃんは頬を膨らませて、文句を言った。

 親密な言い方にほっこりしながらも、不思議な既視感を覚える。

 こんな感じのやり取り、前にもしたっけ?

「真白ちゃんがそれでいいなら、私ももう気にしない!」

 紺ちゃんが明るく言い切ったので、その話はそこで終わりになった。


 温かな紅茶を楽しんだ後、私達は早速アンサンブルの打ち合わせをすることにした。

 離れに置いてある沢山の楽譜を、二人がかりでチェックしていく。


「ピアノ二台とヴァイオリンとチェロじゃ、流石に音のバランスが取れないよね。かといって、編曲するような暇もないし」

「ましろちゃんが良ければ、三人で三重奏は? ブラームス辺りだと、華やかでパーティ向けじゃない?」

「うーん。でも、それだとピアノが一台余るよ」


 私が唸ると、紺ちゃんはツンと細い顎を反らす。


「私はソロで許してもらうわ。母様たちは真白ちゃんの演奏を聴きたいんだもの。真白ちゃんが優しいからって調子に乗って、アイドルの追っかけ気分なのかな。ほんと、強引!」


 怒りを再燃させ始めた紺ちゃんを宥め、ピアノトリオに絞って楽譜を探すことにした。


「あ、これにしようかな。ブラームスのピアノ三重奏一番 第一楽章」

「うっわー。ましろちゃんってば、自分への追い込みが鬼畜レベル!」

「……だね。ちょっと厳しいか。好きな曲なんだけどな」


 難易度が高いだけあって、とにかく華やかで派手。

 ピアノもヴァイオリンもチェロも一歩も引かずにお互いの音を主張し合い、高め合っていくイメージの曲だ。


「メンデルスゾーンのピアノトリオも好きなんだけど、そっちも難易度高いし。ああ、迷う~!」

「1番でしょ。第3楽章が好きだなあ」

「あ、私も!」


 好きなピアノトリオの話で盛り上がりながら楽譜をあたるものの、なかなか選曲が進まない。

 結局、あとの二人にも意見を聞いてから決めることにした。

 紺ちゃんはその場で紅様と連絡を取る。

 蒼くんの都合もついたみたいで、日曜日、玄田邸に13時に集合、という段取りになった。


 

 そして日曜日。

 今にも雪がちらつきそうな曇天の空の下、マフラーに顔を埋めるようにして玄田邸の正面玄関をくぐった。インターホンを押すとすぐにロックは解除され、総檜の立派な門が音もなく左右に開く。

 一見、文化財にでも指定されそうな純和風の大邸宅だけど、セキュリティばっちりのハイテク仕様のお家なんだよね。マフラーに顔を埋め、てくてくと離れへの石畳を歩いていく。

 約束の13時までには5分あったけど、紅さまも蒼くんもすでに来ていた。


「蒼くん、こんにちは。紅くん、久しぶり」


 週に一回は学校帰りに家に遊びに来る蒼くんはともかく、紅様とは夏休み以来だ。

 花火大会が最後だったっけ。


「久しぶり。……真白、すこし痩せた?」


 悠然とソファーに腰かけていた紅様は、座ったまま私を見上げ、微かに眉をひそめた。

 秋からずっと忙しくて、そういえば食欲もあまりなかったかなあ。

 言われるほど痩せてはないと思うけど。


「ピアノが大事なのは分かるけど、ほどほどにね」


 紅様にしては珍しく素直な言葉をかけてくれる。

 何だろう、怖い。

 頬をひきつらせた私を見て、紅様は短い溜息をついた。


「あのさ。いつになったら、そんな顔で見るのをやめてくれるの?」

「紅の場合、自業自得でしょ」


 紺ちゃんがそっけない口調で割って入る。紅様は黙ってしまった。

 何となく、紅様の態度が以前と違うような気がしてひっかかる。

 うーん、と心の中で眉を寄せながら蒼くんの隣に腰をおろした。


「こんにちは、真白」


 蒼くんは膝上の楽譜をめくる手を止め、私ににっこり微笑みかけてくる。


「こんにちは。……あ、これ、ショパンのピアノ三重奏?」

「うん。10分くらいの長さだし、どうかなと思って家から持ってきた」


 よく見ると、ところどころに小さな書き込みがある。

 綺麗に使ってあるけど、明らかに誰かのものだと分かる楽譜だ。

 城山家にあったってことは、もしかして――。

 蒼くんをじっと見つめると、彼はあざとく首を傾げた。


「新品じゃないと嫌? 母が家に残していったヤツなんだけど」

「とんでもないです! むしろお願いします、見せて下さい!」


 被せ気味に返事をしてしまった私を見て、蒼くんは明るい笑みを浮かべる。

 

「そこで敬語になるのが真白だな~って感じ」

「だって、世界の森川だよ!? ……ってごめん」

「いいよ。気にしないでくれた方が、俺は嬉しい」


 蒼くんはさらりと言うと、私の手の上にその楽譜を乗せてくれた。

 興奮した私は脇目もふらず、楽譜を最初からめくっていく。


 テンポ指示や曲想のところには、森川さんなりの解釈が書きこまれていた。

 「走り過ぎない」とか「左手注意」なんていう書きこみに、じっと見入る。


 うわ~、親近感! 

 森川理沙さんレベルのピアニストでさえ、こうやって試行錯誤しながら練習していったんだ。

 私ももっと頑張らないと!


 テーブルを挟んで向かい側に陣取っていた紅様が、唐突に口を開いた。


「まさか、蒼。理沙さんの話を真白にしたのか?」

「ああ。随分前だよな。去年の今頃だったっけ」

「え? ……うん、そのくらいだよね」


 何故かショックを受けた様子の紅様を、まじまじと見つめる。


「そんなに驚くような話?」


 私の質問には答えず、紅様は挑むように蒼くんを見つめた。


「……本気ってこと?」


 蒼くんも負けじと紅様を見返している。


「俺は前からそう言ってる」

「婚約者はどうするつもり。美坂美登里だっけ。彼女のこと、真白には言ってあるの?」


 紅様が口にした女の子の名前に、ドキリと心臓が跳ねる。

 蒼くんの婚約者は、美坂 美登里さんって言うんだ。


 え、でもそれって――。

 紺ちゃんも同じことに気づいたらしく、無理やり2人の会話に割って入った。

 彼女の顔は、衝撃で強張っていた。


「城山くんの婚約者って、美坂 美登里ちゃんっていうの?」

「え? ……ああ。今の母側のいとこだよ」

「そんな。だって、彼女は――」


 紺ちゃんは大きく目を見開いて絶句した。

 彼女が飲み込んだ言葉は、きっとこう。


 ――|ヒロイン(真白ちゃん)のサポートキャラなのに。


『ゲームの進行通りにこの世界が進むなら、青鸞で一緒になる美坂美登里ちゃんって子が、ましろちゃんの手助けをしてくれるはず』


 紺ちゃんの台詞が蘇り、ますます混乱してくる。

 サポートキャラであるはずの美坂さんが、蒼くんの婚約者なの?


「紺、急にどうしたんだよ。大丈夫か」

「……ごめんなさい。何でも、ない」


 紺ちゃんは深呼吸を繰り返し、強張らせていた肩から力を抜いた。


「聞いたことある名前だったから、ちょっと驚いただけ」

「ああ、美坂財閥のお姫様だからな。もしかして、紺と同じ学校?」


 紅様の問いかけに、蒼くんが答える。


「いや。美登里は普段イギリスにいる。日本には滅多に戻ってこないんだ。……それに、紅と真白には前にも言ったけど、親や祖母が勝手に決めてるだけで、俺もあいつも全然納得してないから」


 蒼くんは不機嫌さを隠そうともせず、吐き捨てるように言った。

 紅様は険しい表情を浮かべ「そういう問題じゃない」と言い返す。


「親が決めたって事実を、お前はもっと真剣に受け止めるべきだって言ってる。もし真白が大人になって、お前に本気になったら? 傷つくのは真白だ。中途半端な状態でこいつを振り回すな」

「いつ俺が真白を振り回したんだよ。その言葉、そっくりそのままお前に返してやる」


 気づけば二人とも立ち上がり、一触即発の雰囲気になっている。

 これは、いつものじゃれ合いじゃない。

 私は慌てて割り込み、彼らの注意を逸らそうと声をあげた。


「はい、ストップー! 紅くん、落ち着いて。蒼くんに婚約者がいること、私もちゃんと知ってるよ。大丈夫、本気で蒼くんとどうこうなるなんて思ってないし、振り回されてるとも思ってない。それは、蒼くんにも紅くんにもね。それより、曲決めしよ! ね? 時間もないし、急がないとパーティに間に合わないよ」


「そうね。どうなるか分からない先の話を今したって、しょうがないわ」


 紺ちゃんも援護射撃をしてくれて、何とかその場は収まった。

 紅様はゆるく首を振りながら座り直し、呆れたように溜息をついた。

 蒼くんは黙り込み、頬を強張らせている。


 ……それにしても、びっくりした。

 あそこで紅様が私を心配するような発言をしてくれるとは思わなかった。

 もしかしたら、蒼くんを挑発する為だけに放った言葉かもしれないけど、真摯な口調にほろりときたのは事実だ。


 蒼くんは、ますます盲目的に私に執着してる気がする。

 私だって友達としては大好きだし、蒼くんに幸せになって欲しいとも思ってる。

 だけどそれは、恋愛感情じゃない。


「俺は、嘘ついてないよ、真白」


 本気にしない、という私の言葉に、蒼くんはざっくり傷ついていた。


「ごめんなさい。そういう意味じゃなくて、あの……」


 口籠りながら謝ると、彼は切なげに口の端を曲げた。


「いや、俺の方こそ、ごめん。真白を困らせたいわけじゃないんだ」


 蒼くんとこの手の話をする度に、募っていく罪悪感。

 気持ちに応えられないのなら、距離を置くべきだ。

 頭ではそう思うのに、なかなか実行に移せない。


 ――『……真白はどこにも行かないで』


 あの日の蒼くんの表情を思い出さずにいられない時点で、どうしようもない。

 突き放すことも、手を取ることも出来ないまま、ただ傍にいることしか出来なかった。


 

 結局、演目はショパンのピアノ三重奏曲ト短調作品8~第一楽章に決まった。

 コンサートで演奏されることはあまりない三重奏だけど、交響的に書かれている作品で私は気に入ってる。

 ショパン独特の装飾音こそ少ないものの、主題と応答の古典的な掛け合いが美しい。


 それぞれのパート譜を紺ちゃんにコピーしてもらい、早速練習に入った。

 楽器持参で来ていた2人も、手早くチューニングを済ませ、それぞれの楽譜をさらい始める。

 紺ちゃんが譜捲りを買って出てくれたので、有難くお言葉に甘えた。


 CDを何度も聞いたお蔭で、ある程度の進行は頭に入っている。

 森川さんの書きこみを確認しながら、ざっと音を拾い上げていった。


 ヴァイオリンとチェロの音が聴こえるなあ、と頭のどこかで思う。

 離れが広いこともあって、殆ど気にならない。

 三つの楽器が様々な音を鳴らす中で、私達はみんな自分の音だけに集中していた。


 

 翌週の日曜日。

 私達はとりあえず一度合わせてみることにした。

 紺ちゃんがいるので、音のバランスをみてもらえるのが有難い。


「足を引っ張るなよ、真白」

「紅くんこそ、高音外さないでね」


 ふふふ、と威嚇の笑みを投げつけあってる私達を交互に眺め、蒼くんは肩をすくめる。


「どっちでもいいけど、張り合って走り過ぎるなよ」


 私と紅くんは、グッと返事に詰まった。


 Allegro con fuoco(速く 情熱的に興奮して)という指示のある曲だけあって、ドラマティックな旋律が曲を支配している。

 まずはヴァイオリンが主旋律を奏で、追いかけるようにピアノも同じ主題を繰り返す。

 二つの楽器の掛け合いをチェロがしっかりと支えてくれる。


 初めてにしては、なかなか上手くいったと思うけど、二ヵ所にミスタッチがあった。

 うーん。やっぱり難しいなあ。

 ショパンは得意な方だと思っていたけど、主張すべき部分と影に回る部分の弾き分けも甘い気がする。

 全曲通して情熱的に鍵盤を叩くと、やり過ぎイメージになるのが悩みどころだ。


「ごめん、もう一回いい? ちょっとテンポを落として細かい部分を確認させて」


 私が手をあげると、紅様は軽く頷き、蒼くんを見遣る。


「いいよ。蒼、大丈夫?」

「いつでも」


 紺ちゃんに部分的なダメ出しをされながら、私達は三重奏を完成させる作業に夢中になった。


「――今日は、この辺にしておいたら? 気になる部分を各自で弾きこんでくれば、来週はもっと上手く合うでしょうし」


 紺ちゃんの鶴の一声で、ひとまず今日の練習は終了。

 すでに時計は4時を回っている。

 私は真っ先に、強張った指をほぐすことにした。


 長時間に渡ってめまぐるしく動かしていたせいで、手の平が凝り固まってる。

 親指から順番に指の付け根を揉みほぐしているところへ、ヴァイオリンを片付けた紅様がやってきた。


「力任せに押したら、逆に痛めるよ」

「え?」

「お手本を見せてあげる。ほら、貸して」

「いいよ。自分でやるから」


 紅様は強引に私の手をもぎ取ると、長い指でマッサージを施し始めた。

 紺ちゃんにいつもやってあげてるのか、すごく手馴れてて上手い。


 普段の言動から想像もつかない程、紅様の手は優しく温かかった。

 はっきり言ってめちゃくちゃ気持ちいい。


「ありがとう。……でもなんで?」


 ここまでしてくれるの、という後半部分を如才なく読み取り、紅様は静かに答えた。


「お礼だよ。忙しい中、母さん達の我儘に付き合ってくれてる。それに」


 掠れた小声で、紅様はぼそっと続けた。


「俺も、真白の音は好きだから」


 なんて返事をしていいのか分からず、聞こえない振りをする。

 そんな風に褒められたら心が動いてしまう。

 それも承知であえて口にしたのなら、紅様は本当にずるい人だ。



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