Ｎｏｗ Ｌｏaｄｉｎｇ １６
舞台に準備されたピアノは三台。
うち二台は舞台奥に並べられ、第一部で使われるスタインウェイだけが中央に引き出されている。
舞台に出て行く紺ちゃんの背中を、私は舞台袖から見送った。
予想以上の拍手が客席から聞こえてくる。
軽くお辞儀をし、紺ちゃんはピアノの前に座った。
ベートーヴェン ピアノソナタ第八番 悲愴 第一楽章
序奏付きソナタ形式の冒頭部分、紺ちゃんはフォルテ ピアノの指示通り、はっきりとした強弱をつけて鍵盤を鳴らし始めた。
重厚な和音の豊かな響きに、うっとりと聞き惚れる。
か細い体のどこから、そんなエネルギーが出てくるんだろう。目を閉じると、そこに小さな女の子はいない。円熟期を迎えた男性ピアニストのような力強さに、圧倒された。
変イからの急速な落下音型の煌めくような音の粒。
提示部のオクターヴのトレモロ・バスの細やかさ。
どの部分を取っても、申し分のないダイナミックでロマンチックな演奏だった。
――負けたくない。
私は強く拳を握りしめた。
負けたくないよ、紺ちゃん。
大好きなあなたの隣りに、いつか対等な私として立ちたい。
割れんばかりの拍手の中、軽く息を切らせた紺ちゃんが戻ってくる。
私は顔を上げて眩い光の中に足を踏み出した。
第二楽章。
アダージョカンタービレ（歌うように遅く）という指示のある緩叙楽章。
歌い上げるような上声部分を１６分音符が和声的にささえている主題から始まるこの曲は、早いテンポの第一楽章とは色んな意味で対照的だった。
３連音符による和音の刻みを基調とした主題を、私はあくまで抑え目に柔らかく弾こうと決めていた。
甘い旋律に感情を乗せるというよりは、俯瞰からひいてみる感じ。
さらさらと流れていく川のせせらぎをイメージしながら、余分な飾りのないシンプルな表現を心がけた。
一音一音を丁寧に。そして濁りのないように深く響かせる。
最後の一音が消えるのを見届け、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
少なくとも自分の思うようには弾けた。
客席からも大きな拍手が聞こえてきて、私はホッと胸を撫で下ろした。
舞台袖に戻ると、今度は亜由美先生が出ていく。
すれ違い様に垣間見えた先生の厳しい表情に息を呑む。
亜由美先生は、まっすぐにピアノだけを見据えていた。
年なんて、関係ない。
先生と生徒なんて、関係ない。
観客の前で演奏する時、私達は常に競い合うライバルなんだ、と思い知らされた。
第三楽章。
ロンド・ソナタ形式の最終楽章は、分散和音の伴奏の上に、悲しみを帯びた美しい主題が提示される。指示速度はアレグロ（速く）。
ピアノソナタの基本として、第一楽章と最終楽章は主調でアレグロ。真ん中にアダージョを置くというセオリーがある。
亜由美先生の透き通った高音の華やかさは群を抜いていた。
煌めく音の粒が空を舞い、流れるような主旋律が鮮明に曲の輪郭を際立たせていく。
３連音符の下降音型の響きの美しさも素晴らしかった。
一際大きな拍手に包まれ、先生が戻ってきた。
大きく手を叩く私と紺ちゃんを見て、亜由美先生はようやく頬を緩めた。
「さあ、連弾の準備をしてらっしゃい」
「はい、先生」
私と紺ちゃんは連れ立って、美容師さん達の待つ控室に戻ることにした。
他の皆の演奏も聞きたくてしょうがなかったんだけど、着替えて連弾の最終チェックをしないといけないんだよね。
この時ばかりは、自分が演奏者側であることが残念でならない。
カリスマ美容師さんご一行によって、再び私達はガラリと衣装と髪形を変えてもらった。
紺ちゃんには、鮮やかなグリーンに芙蓉の縫い取りのあるチャイナドレス。
私には真紅に鳳凰の縫い取りのあるチャイナドレスが準備されている。どちらもノースリーブのロングで膝上までスリットが入ったタイプだ。
なんでチャイナドレスかっていうと、私達の弾く組曲の中に「中国の踊り」って曲があるからみたい。
こんな時でもないと着られないよな～としみじみ思った。ちょっとしたコスプレ感覚だ。
髪の毛は、ハーフアップ部分を両サイドでお団子にしてリボンを結び、残りはヘアアイロンで真っ直ぐに伸ばし背中に流してある。お化粧も軽く直され、アイメイクを足してもらってあった。
「紺ちゃん、めちゃくちゃ似合ってる！」
陶器のようなツルツルのお肌にけぶる様な菫色の瞳が、ドレスのオリエンタルな美しさに凄味を増し加えてて、もうね、誰とも比べられない至高の美って感じ。
興奮してる私を見て、紺ちゃんはクスクス笑った。
「ましろちゃんこそ！ ぎゅうってしたいくらい可愛い！」
紺ちゃんが蒼くん化している。
カリスマ美容師さまのお蔭で、私も２０００％増しで可愛くなってる。
鏡で見てみたけど、原型がどこにも見当たらないレベルだ。ヘアメイク技術の進歩って凄まじい。
「ましろちゃん」
「んー？」
着替えを終え、控室に戻る廊下の途中。
紺ちゃんはピタリと足を止め、私を真剣な目付きで見つめてきた。
「ましろちゃんの今日の演奏、すごかったよ。私はあんな風には弾けないなって思った」
急に何を言い出すんだろう。
それは私の台詞だよ、と言いかけ、口を噤む。
紺ちゃんの表情はピンと張りつめた糸を思わせた。
今にも切れそうな危うい緊張が、私にまで伝わってくる。
「亜由美先生が言ってたの。ましろちゃんは、独自の世界を持ってるって。それを全て表現出来る技術、経験、知識が揃った時、あの子はどこまで行っちゃうんだろうねって」
「そんな。買い被りだよ。……もし仮にそうだとしても、それは、私がボクメロのリメイクヒロインだからじゃないかな」
あまりにもほめ過ぎな気がして、謙遜する。
紺ちゃんは激しく首を振って、私の返答を撥ね退けた。
「本気でそう思ってないよね？ どれだけの時間、私達は練習を重ねてる？ 同い年の子達が遊んだりＴＶを見たり、お喋りしたりしてる時間、私達はずっとピアノに向かってるんじゃないの？ 努力の結果の成果を、『主人公だから』なんて陳腐な理由で括られたくない。ましろちゃんだって、そうでしょう？」
紺ちゃんは声を震わせ、言い募った。
そうだ。
確かにそんな言葉で括られたくない。
私たちがピアノにかける熱量は、そんな陳腐なものじゃない。
指が上手く動けば胸が高鳴り、イメージ通りの音が鳴らないと絶望で目の前が暗くなる。
もう嫌だ、やめたい、と思った次の瞬間には、ピアノが恋しくて堪らなくなる。
「うん……そうだね。私達、病気になっちゃったんだよ、きっと。ピアノ病」
「ピアノ病か……うん。真白ちゃんはそうかも」
羨ましそうに目を細め、紺ちゃんは再び口を開いた。
「私は違う。私のピアノは、目的の為の手段だから。きっとそう遠くない将来、ましろちゃんは私の手の届かない人になってしまう」
そこまで言って、紺ちゃんは唇を噛み締めた。
「でも、負けられない。高校までは絶対、私はましろちゃんに負けられないの」
紺ちゃんは、ひどく苦しげにその言葉を紡ぎだした。
必死に自らを鼓舞するような言い方に、私は何も返すことが出来ない。
紺ちゃんには何か秘密がある。
その秘密には、ピアノが関わっているということだけは、今のやり取りで分かった。
正直いえば、もどかしくてたまらない。
打ち明けて、心の重荷を減らしてくれたら、と願ってしまう。
だけど、どんなにせがんでも教えてはくれないという奇妙な確信をも、私は持っていた。
彼女が抱える秘密は、一人で守り通さなくてはならない誓約のようなものじゃないんだろうか。
紺ちゃんの控室は、届けられた大量の花で溢れかえっていた。
「うわ～、すごいね！」
「殆ど父絡みよ。部屋が狭くなっちゃっててゆっくり出来ないから、ましろちゃんのとこで打ち合わせしてもいい？」
紺ちゃんに頼まれ、二つ返事で頷く。
私の控室に入ってすぐ、紅さまと蒼くんの持ってきてくれた花束に目を留めた紺ちゃんは、にんまり口角をあげた。
「これ、もしかして紅と蒼くんから？」
「うん。紺ちゃんも貰ったんでしょ。何色のお花だった？ 紺色の花ってなさそうだし、ピンクかな」
「貰ってないよ」
「え？」
蒼くんからはないにしても、紅さまが最愛の妹に花束を渡さないなんてことがあるだろうか。
私が目をパチクリさせていると、紺ちゃんは嬉しそうに両手を合わせた。
「コウってば、なかなかやるわね」
「今度はどういう仕掛けなんだろう」
その時の私達の声があんまりピタッと重なったもんだから、思わず顔を見合わせて噴き出してしまう。
連弾も今くらい息が合うといいのに、と話しながら、お互いの楽譜を再確認した。
最後までチェックし終わったタイミングで、休憩時間の終わりを告げるアナウンスが聞こえてきた。
いよいよだ。
「じゃあ、ステージで」
「うん、ステージで」
勢いに気を付けながら、軽くハイタッチ。
私と紺ちゃんは上手と下手に分かれ、舞台袖に向かった。
アナウンスを待って、向かい合わせにセッティングされたピアノの前に進み出る。
お揃いのチャイナドレスを着た私たちに、客席から盛大な拍手が送られた。
さっきよりもうんと気が楽だ。ここまで来たら、思い切り楽しみたい。
「頑張って」
譜捲りを担当してくれる葵さんが小声で激励してくれる。
「はい。よろしくお願いします」
しっかり頷き、紺ちゃんの合図を待った。
チャイコフスキー作曲 くるみ割り人形組曲
もともとはバレエ音楽用に作曲されたオーケストラの為の曲。それをチャイコフスキー本人がピアノ用に編曲し直したのが、この組曲だ。
小序曲～行進曲～こんぺい糖の踊り～ロシアの踊り（トレパーク）～アラビアの踊り～中国の踊り～葦笛の踊り～花のワルツの全八曲で構成されている。
クリスマスの時期に街で流れてることも多いから、誰でも一度は耳にしたことがあるんじゃないかな。
出だしは、明るいメロディを軽快に。
こんぺい糖の踊りでは、テンポを緩めてちょっと不思議な感じに。
そしてトレパークは、勢いをつけて走りきる。
心配していたズレは全くと言っていいほどなく、私は弾きながら思わず笑みを浮かべてしまった。
なにこれ、めちゃくちゃ楽しい！
客席の好意的な反応まで、手に取るように分かる。
神経が最大限に研ぎ澄まされて、紺ちゃんと背中合わせに座ってるように感じた。
後から加南子さんに「息継ぎのタイミングまで同じで、怖かった」と言われたほど、私達はお互いの音に寄り添っていた。
二人で沢山のキラキラが詰まったおもちゃ箱をひっくり返し、鮮やかに空間を彩っていく。
最後の花のワルツは、ロマンティックにゆったりと。
さざ波のようなアルペジオで駆けあがり、軽やかなワルツのリズムを刻む。
紺ちゃんの手を取りエスコートするように私が低音部を奏でると、紺ちゃんがくるくると弾むように主旋律を歌い上げた。
最後の一音から同時に手を離し、立ち上がって中央に歩み出る。
二人で手を繋いでお辞儀をすると「ブラボー」の声が聞こえた。
沢山の人が立ち上がって拍手してくれてる。
私と紺ちゃんは息を切らしながらお互いを見つめ、これ以上なく満たされた気持ちで微笑みあった。
先輩方によるモーツアルトの連弾も、亜由美先生のハンガリー狂詩曲も、息を飲む素晴らしさだった。
発表会だというのにアンコールの拍手が鳴りやまないので、先生は苦笑しながら舞台に出ていった。
客席に向かって軽く一礼した後、先生はピアノの前に座る。
てっきり挨拶だけして戻ってくるのだと思っていた私達は驚いた。
プログラムに載っていない最後の曲は、ショパンのノクターン第八番。
最初の一音で、ぶわり鳥肌が立つ。
極上のシャンパンから立ち上る泡を思わせる美しい音の粒子が、薫り高くホール全体に広がっていった。
明るい舞台の中央で、亜由美先生の白い腕が鍵盤の上を優雅に舞う。
客席は静まり返っていた。呼吸さえ忘れたように皆がうっとり聴き入っている。
静かな音は柔らかく空に舞い、溶けるように消えていった。
いつまでも聞いていたい。そんな優しいノクターン。
私の初めての発表会は、感動の涙と共に締めくくられた。
来場者への挨拶の為、全員でロビーに出る。
沢山の人が待ち構えていて、あっという間にみんなバラバラになった。
いち早く私を見つけてくれたお姉ちゃんは、ハンカチ片手に駆け寄って来た。
「ましろ！ 頑張ったね！！ お姉ちゃん、感動して泣いちゃったよ～」
「えへへ。来てくれてありがとう。――初めまして、島尾真白です。姉がいつもお世話になっております」
姉のすぐ後ろにいる、背の高い二人の男性にもペコリと頭を下げた。
多分、緑色のショートヘアの方が、例の彼氏だ。
いかにもモテそうな甘いマスクで、にこにこ笑っている。
その隣にいるのが、松田さんかな？
この世界では珍しい黒髪黒目という外見だけが特徴の真面目そうな人だ。
カッコいいのは文句なしに三井さんの方。
花香お姉ちゃんってば、相変わらず面食いだなあ。
「わあ、しっかりした妹さんだね。めちゃくちゃ美人だし。あ、申し遅れました。三井といいます」
「松田です」
２人とも軽く自己紹介してくれる。
花香お姉ちゃんは、三井さんのお世辞をしっかり聞き取り、相好を崩した。
「でしょう？ 頭もいいしピアノも上手いし、ホントに自慢の妹なんだ～」
姉馬鹿全開なことを言いながら、お姉ちゃんは私の肩を抱き寄せてくる。
嬉しいけど、かなり恥ずかしい。
「せっかくだから写真撮りたい！ お願いしてもいい？」
お姉ちゃんが差し出したスマホを受け取ったのは、手を出そうとした三井さんではなく松田さんだった。
「俺が撮るよ。三人で入ったら？」
「わあ、いいんですか？ ありがとうございます！」
お姉ちゃんは松田さんに向かって満面の笑みを浮かべた。
「いや、このくらいいいよ」
そっけなく答えた松田さんの表情に、ひっかかりを覚える。
んん？ もしかしてこの人……。
注意深く見守ってると、写真を撮った後、松田さんは慎重過ぎるくらい慎重に、そっとスマホを返した。
まるでお姉ちゃんと指が触れあわないよう、最大限の注意を払ってるみたい。
「結構うまく撮れたと思うよ」
「どれどれ？ ……ほんとだ！ 松田さん上手いですね～」
嬉々として画面をチェックする無邪気なお姉ちゃんを、松田さんは眩しそうに見つめている。
２人が話している間、三井さんは私に話しかけてきていた。
ピアノ、いつから始めたの？ とか凄く上手いね、とかそんな話。
適当に相槌を答えながら、気付かれないように姉と松田さんを観察する。
理由は分からないけど、松田さんが気になって仕方なかった。
「父さん達が控室で待ってるって言ってたよ。また家でゆっくり今日の話聞かせてね」
「分かった、ありがとう。三井さん、お花ありがとうございました」
三井さんのくれたブーケを抱え、私は三人と別れた。
ピンクの大輪の薔薇とライスフラワー、薄い黄色のスプレーカーネーションにユーカリの緑でアクセントをつけた可愛いブーケだ。
本当にそつのない人だなあ。
三井さんに感心しながらブーケを眺めていると、紅様と蒼くんがやって来た。
「ここにいたのか」
「ましろ、お疲れ」
２人が来たことは、周囲のざわつきですぐに分かった。
今日は正装してるからか、余計に羨望の視線が凄い。
「どうだった？」
私が尋ねると、紅様は「８０点」そして蒼くんは「めちゃくちゃ良かった」と一斉に返事をしてくれた。
蒼くんには及第点を貰えたみたいだけど、紅様の点数の基準がよく分からない。
「８０点って、いい方？」
不安げな声になってしまった私を眺め、紅様はフッと笑みを零した。
最近、紅様はたまにだけど、今みたいにすごく優しい目をする。
悪いものでも食べた？ と聞きたくなるから止めて欲しい。
「うそ。１００点だよ」
「素直に褒めてよ！！」
思わずツッコんでしまう。
私のしかめっ面を見て紅様は噴き出し、幼い笑顔になった。
不覚にもキュンとしてしまう。普段からそんな顔してれば可愛いのに。
「もう帰るの？ せっかく綺麗な恰好してるのに」
控室で両親が待っていると話すと、蒼くんが名残惜しそうに私の両手を取った。
「中華、食べに連れて行きたかった」
「いいね、それ」
口を挟む紅様には「紅には言ってない」と噛みついてる。
私は蒼くんの手を優しく握り返し、やんわり手を離した。
「父さん達をあんまり待たせたくないんだ。先生に挨拶してから帰るね。今日はお花、ありがとう」
「……分かった」
蒼くんは渋々引き下がった。寂しさ混じりの落胆が伝わってきて、胸が痛くなる。
どうしてここまで私に拘るんだろう。
まるで雛の刷り込みだ。
あの日、歩道橋の上でピアノの折り紙を渡した瞬間、私は蒼くんの懐きスイッチを押してしまったんじゃないだろうか。
「今度、また一緒に遊ぼうね」
背伸びをしてよしよし、と頭を撫でると、蒼くんは恥ずかしそうに微笑んだ。
「あんまり甘やかすと、蒼の為にならないよ」
紅様は呆れ声で、父親のような台詞を吐いた。
