スチル15.???
五月に入り、いよいよ発表会が近づいてきた。
日程は今月の最終土曜日。場所はなんと市民ホールだという。
「し、市民ホールですか? えっと、小ホールですよね?」
亜由美先生はにっこり微笑んで、首を振った。
「まさか。もちろん大ホールよ。今週と来週末も押さえてあるから、リハは二回出来るわね」
大ホール!?
たしか1500人くらい収容できるって聞いたことある。
それって、ピアノ教室の発表会に使うホールじゃなくない?
先生相手にツッこむわけにもいかず、私は口をぱくぱくさせた。
「ふふ。もうチケットは完売済みよ。真白ちゃんは、ベストの演奏をすることだけ考えようね」
私の動揺っぷりを勘違いしたのか、亜由美先生はそう言った。
いや、もちろんチケットどうするのかな、とは思った。
でも今、私の頭の中は1500もの人の前で弾く、ということで一杯だ。
……っていうか、もう完売!?
亜由美先生のネームバリューのお蔭だし、先生の演奏目当てで聴きにくる人ばかりなんだろうけど、半端ないプレッシャーを感じる。
ブーイングされたらどうしよう。……いや、流石にそれはないよね。そっと席を立つくらいだよね。
ああ、それもキツイ。
「曲目の順番、気になるでしょう? 先に渡しておくわね。はい、どうぞ」
なめらかな手触りの上質な紙で出来た多色刷りのプログラムを手渡される。
私は「頑張ります」と蚊の鳴く様な声で答えるしかなかった。
家に帰ってさっそくプログラムを開いてみることにした。
すごくしっかりした紙だ。
端で指を切ったら大変だから、キッチンにあったゴム手袋を装着し、ページをめくっていく。
曲目順をこんな感じ。
【第一部】
1.べートーヴェン ピアノソナタ第八番 悲愴
第一楽章~玄田 紺 / 第二楽章~島尾 真白 / 第三楽章~松島 亜由美
2.ショパン 練習曲集作品10 第12革命
宮下 凛子
3.ブラームス 間奏曲 作品118の2
杉谷 葵
4.バッハ 六つのパルティータ BMV826
桜沢 加南子
【第二部】
5.チャイコフスキー くるみ割り人形組曲より二台のピアノによる連弾
玄田 紺 / 島尾 真白
6.モーツアルト 3台のピアノのための協奏曲 ヘ長調 K.242
桜沢 加南子 / 杉谷 葵 / 宮下 凛子
7.リスト ハンガリー狂詩曲 第六番
松島 亜由美
パタリ。
プログラムを閉じて、そのままテーブルに突っ伏す。
これはすごい。聴きやすい有名どころをズラリと揃えてきている。
私はこのパンフレットで、リンちゃん、と先生が呼んでいる中学生のフルネームを初めて知った。
プロフィールを確認すると、全員がコンクール入賞経験者。
完全に私一人が浮いている。
「ましろー、何たそがれてんの。それにその手、どうした?」
花香お姉ちゃんが、軽い足取りで二階から降りてくる。
いつもより念入りにメイクしている。
ナチュラルメイクの方がより時間がかかること、私は姉に教わった。
「んー……、なんでもない。それよりお姉ちゃん、今日すごく気合入ってるね! もしかして、デート?」
「ふっふっふ。よくぞ聞いてくれました!」
お姉ちゃんはバッグからスマホを取り出し、一枚の写真を見せてくれた。
「大学の先輩で、4年の三井真治くん。私の彼氏です! これから一緒にご飯に行くんだ」
「……どっちと?」
画面には、2人の若い男に挟まれてダブルピースを決めてるハイテンションな女子大生が映っている。
写真撮る度、受けを狙いにいくの、もうそろそろ止めたらいいのに。
せっかくの可愛い顔が台無しだ。
「もちろん私と心が通じあってる、って一目で分かる方だよ~」
「ふぅん」
「…………すみません。調子に乗りました。紺色のキャップを被ってる方です」
そういえば、先月かな。野球観戦に誘われたってはしゃいでたっけ。
それにしても、まだ5月に入ったところだよ?
新入生をたぶらかす手の早さといい、チャラそうな外見といい、すぐには信用できない。
ふん、と私は鼻を鳴らした。
「ホントにこの人でいいの? 気を付けないと。お姉ちゃんみたいに性格が良くて美人な子には、変な虫がたくさん寄ってくるんだよ」
「……妹馬鹿」
「なんか言った?」
「いえ、何でもありません。でも、真治くんの事は信じてあげて! あ、ダジャレじゃないよ」
「…………」
「あ、あれ? 違うんだって! 彼って軽そうに見えるけど、すごく真面目なんだよ」
「そうなんだ。こっちの人は?」
いかにも理系! という雰囲気の神経質そうな眼鏡の若者を指差す。
取り立てて美形ではないけど、賢そうな印象を与える一重の目。通った鼻筋に薄い唇。
黒い髪は長めのレイヤーで、裾は短く切り揃えられてる。
正直に言えば、パッと見た時、こっちの人が姉の彼氏だと思ってしまった。
「こっちは真治くんの友達で、松田友衣くん。松田くんは教員目指してるんだって。すごく頭いいんだ」
松田 友衣?
――ともいくん?
画面をじっと見つめれば見つめる程、どこかで見たことある、という気持ちが膨れ上がってくる。
やがて既視感は強烈なハレーションを起こした。
白い閃光が脳内を満たし、頭が割れそうに痛くなる。
「うっ……」
「ましろ? ましろ!!」
「ごめ……吐きそう……」
「ええっ、吐くほどキライなタイプ!?」
違うよ。そんなんじゃなくて、ただ――
上手く思考が纏まらない。頭が痛くて堪らない。
慌てふためいたお姉ちゃんに介抱されながら、私はよろよろと二階に上がった。
手汗でぬめったゴム手袋を何とか外し、床に放り投げる。
『初めまして』
『……とは、付き合ってるんだ。……も知ってると思ってた』
『どうして……なかったの!?』
『違うよ……じゃないから』
切れ切れの場面が脳裏に浮かんでは消える。
あれは……あの人は……。
ベッドに倒れ込んだ私を見て、お姉ちゃんは顔を歪めた。
「ましろ、どっか悪いんじゃないの。年明けくらいからちょっと変だったし。ねえ、もう一回、ちゃんと病院行って調べて貰おうよ」
前世の記憶を取り戻してすぐ、豹変した幼い娘を心配した両親は、色んな病院を渡り歩いた。
だけど、どの病院でも何の異常もみられなかったのだ。
脳に腫瘍が出来てるとか、そういうのじゃない。
この激しい頭痛は、前世に関わる何らかのサインだという妙な確信がある。
そもそも私、なんであんなに『ボクメロ』にハマったんだっけ?
ふとそんな疑問が脳裡をよぎる。
現実逃避。人生二度目の恋。
いくつかのキーワードが浮かんだところで、暴力的なまでの眠気に襲われる。
――『オヤスミ』
聞き覚えのある甘い声に誘われ、私は意識を手放した。
◇◇◇
「それは、まだ流石に早いから」
男は呟き、眠りに落ちたマシロの額に手をかざした。
本来ならば、起こらないはずのエラーだ。
コンが試みた細やかな反抗は、世界に小さな綻びを残したらしい。
主人公が己のいる世界の成り立ちを知ることは、絶対のタブーだ。
知らないからこそ、主人公は主人公らしく振る舞うことが出来る。
懸命に、健気に、生きることが出来る。
主人公にかかった負荷を拭い去るついでにもう一つ、更に強力な忘却術を施す。
マシロから抜き取った過去の痛みは光を帯び、丸い球体を形作った。
キラキラ光るその球体を胸に当ててみる。
男は、痺れに似た強い快感を覚えた。
――ああ、なんてキミたちは素晴らしいんだろう
期待、喜び、慕情、信頼。
眩い正の感情と、鏡合わせのように生まれてくる絶望、悲しみ、猜疑、不安。
彼女たちに巣食うあらゆる種類の感情が、形を変えて男の糧となり力となる。
「さあ、もっと、もっとワタシと遊ぼう?」
開きかけた新たなカードを強引に伏せ、男は小さく微笑んだ。