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このままでは埒が明かないと分かったのだろう。蒼くんは渋々口を開いた。
「彼女は、島尾 真白さん」
「いいお名前ね。私は城山 麗美と言います。蒼の継母です」
麗美さんは蒼くんの脇をすり抜け、私の隣に立った。慌てて彼女の方に向き直る。
「初めまして。いつも蒼くんとは仲良くさせて頂いてます」
ペコリ、と頭を下げる私をじっと見つめていた麗美さんは、赤い唇を引き上げた。
名前の通りすごく綺麗な人だけど、目が全然笑っていない。
「そうなの。では、青鸞のクラスメイトでいらっしゃるのかしら」
「いえ、私は多田小学校です」
「多田? そんな名前の学校があったかしら」
同じ地域にある公立の学校名を本気で知らないのか、それとも強烈な嫌味なのか。
どう答えればいいのか戸惑っているうちに、蒼くんが私の腕を取って自分の傍に引き寄せた。
それからしっかりと私の手を握り込む。
彼の端正な横顔は、すっかり強張っていた。
「早速、身上調査? 別にどこの誰だっていいだろ。あなたには関係ない」
「残念ながら、関係はあるわ。夫が不在の間は、私が貴方の行動に責任を持たなくてはいけないの。それに、このお嬢さんがうっかり勘違いでもしたら、可哀想でしょう?」
「勘違い?」
蒼くんが怪訝な顔で聞き返すと、麗美さんは私に視線を移した。
「たとえば、……そうね。あなたがこの子のことを好きなんじゃないか、とか」
「それは勘違いじゃないな。俺は真白が好きなんだから」
堂々と宣言した蒼くんに、私は心底ギョっとした。
麗美さんもお手伝いさんも、流石に驚いている。
「ちょ、ちょっと蒼くんっ!」
小声で窘め、蒼くんの手を振りほどこうとした。
だけど思ってたより強く握られていた手は、なかなかほどけない。
「相手にされてないのは俺の方だよ。これで気が済んだだろ。さっさと出て行ってくれる?」
「……島尾さん、と言ったかしら」
扉を指さした蒼くんを無視し、麗美さんは私に向かって優しい口調で語りかけた。
「蒼にはもう決まった相手がいるのよ。それに初等部を卒業したら、ドイツに行くことになっているの。あと二年しかないけれど、それまでは仲良くしてあげてね」
「あ……はい」
麗美さんの放った言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
決まった相手って、どういう意味?
ドイツに行くって、どういうこと?
「俺は認めてない!」
「あなたの意見なんて聞いていないわ。おばあ様もお父様も賛成していらっしゃるんですから。きちんと伝えておかなきゃダメじゃない。あのね、島尾さん。私の姪が、この子の婚約者なのよ」
そうか。城山の家ってすごいな。小学生のうちから、婚約者がいるなんて。
今日は沢山のことが起こり過ぎた。
感情の防衛本能が働いたのか、どこか絵空事のように感じてしまう。
そういえば亜由美先生のコンサートの時、母方の従姉妹が一緒に来てるって言ってたっけ。
「もういい。出て行って」
蒼くんは声を低め、私の手を離すと、まっすぐ入口に向かった。
彼は大きく扉を開け放ち、麗美さんを睨み付ける。
「そうね。……お邪魔してごめんなさいね、島尾さん」
麗美さんはあっさり謝罪し、くるりと踵を返した。
最後まで気持ちが読めない人だ。
言葉ほど怒ってるわけでもないし、面白がっているわけでもない。
ただ、淡々と義務を果たしているような言動。
彼女が出て行くまで、蒼くんは一言も口をきかなかった。
やがて静かに扉が閉まり、部屋には私達とお手伝いさんらしき人が残される。
「……私なら、大丈夫だよ」
先回りして明るく請け負う。
「知らない子が、不在の間にあがりこんで大切なピアノを弾いてるとかさ、お母さんも気分悪いって」
「真白は何も悪くない。普段は俺のこと空気扱いしてる癖に、こんな時だけ保護者ぶりやがって――。アイツの言ったこと、全部忘れていいから」
蒼くんは「見苦しいとこ見せてごめん」と謝ってくれた。
私はただ「いいよ、大丈夫だよ」と答えることしか出来なかった。
婚約者、そしてドイツ行きについて、蒼くんは何も説明してくれなかった。
聞いたってどうすることも出来ないのに、無性に寂しい。寂しがる権利なんてどこにもないのに。
複雑かつ身勝手な気持ちから目を背け、感情に蓋をする。
私達の会話が途切れた頃合いを見計らって、お手伝いさんが「坊ちゃま」と声を掛けてきた。
ここでもか……。
だめだ、色々あり過ぎて、もうお腹いっぱいです。これ以上はツッコめません。
「ああ、美恵さんもごめんね。飲み物持ってきてくれたんだろ。そこに置いてくれる?」
「はい。お持たせのロールケーキもございますが、どうされますか」
「一緒に食べるよ。な、真白」
「うん。……あの、ありがとうございます」
この人だよね、蒼くんが話してくれていた住み込みの美恵さんって。
だって、蒼くんの態度が全然違う。
「ずっとこれ持って立ってたのか。重かっただろ」なんて優しく声をかけてるんだもん。
「このティーコゼー、すごく可愛いですね」
「私が作ったんですよ。縫い物が好きなもので」
美恵さんはテーブルにお茶とケーキを並べてから、「お坊ちゃまが話して下さった通りの素敵なお嬢様で、私は嬉しゅうございます」と優しく話しかけてくれた。
「私もお名前だけは伺ってました。会えて嬉しいです」
「まあ、ありがとうございます」
蒼くんは、笑みを交わし合う私たちを嬉しそうに眺めている。
美恵さんだけでも、彼に優しい人がいて良かった。
蒼くんの素直さは、美恵さんが注いでる愛情で育まれたのかもしれない。
「アイツが家にいない日を調べて、連絡するから」
だから絶対また来いよ、と念を押す蒼くんと別れ、城山邸を後にした。
一緒にティータイムを過ごした後、私はお暇することにしたのだ。
蒼くんは不満げだったけど、私は麗美さんを気にせずにはいられなかった。
前妻さんの残したピアノを見知らぬ子どもが弾くなんて、少なくとも私ならいい気はしない。
もうここには来ない方がいいのかもしれない。
迎えにきてくれた母さんの軽自動車が目に入るなり、膝が崩れそうになった。
知らないうちにかなり緊張していたみたい。
車に乗り込む前、首だけ捻って大邸宅を振り仰ぐ。
城山邸の建坪って、我が家の何十倍くらいあるんだろう。
「おかえり、ましろ。どうだった、上手くいった?」
「……うん、まあまあかな。お迎えありがとね」
「どういたしまして。そうだ、スーパーに寄って帰ってもいい? ちょうど特売始まる時間に着けそうだし」
「もちろん」
後部座席におさまり、シートベルトを締める。
節約上手な母さんは、新聞の折り込みチラシのチェックを欠かさない。
今日は何が安かったんだろう、と考えながらぼんやり外を眺める。
城山家の人々はおそらく、チラシで食料品の値段を比べたりしない。
――結局は、住んでる世界が違うって話だ。
蒼くんの家には、あれから一度も行けなかった。
すっかり敷居が高くなってしまったし、蒼くんも学院のテストで忙しくなったからだ。
歩道橋で会う回数も減った。
「真白になかなか会えないの、すごくストレス!」
たまたま会えた日は、蒼くんは決まって会えない不満を訴えてきた。
「まあ、まあ。もうすぐ冬休みだし、23日はクリスマスパーティだし。楽しいこと考えよ」
「そうだけどさ。……真白は冬休みどっか行くの?」
「お姉ちゃんが受験直前だから、家族での遠出はないかな。学校の子たちと映画に行く予定を立ててるよ」
「いいなあ。俺も真白と同じ学校が良かった」
蒼くんは、短い冬休みもまたドイツで過ごすのだという。
日本にいて麗美さん達に振り回されるのはご免だ、と言っていた。
『麗美さん達』というのには、蒼くんの婚約者だという女の子も含まれるのかな。
麗美さんの姪だって言ってたよね。叔母さんがあれほど綺麗なんだし、きっと綺麗な子なんだろうな。
蒼くんと並べば、誰もが「お似合い」だと納得する子。
子犬のように懐いてくる蒼くんの手を、いつかは離さなきゃいけない日がくるんだと思うと、やはりどうにも寂しかった。
クリスマスパーティ当日。
朝から塾の特別講座を受ける予定の花香お姉ちゃんは、すでに泣きそうな顔で食卓についていた。
「真白、あとであのドレスに着替えるんでしょ? 髪はまかせといてね。ばっちりお姫様にしてあげるから!」
虚勢に満ちた張り切り具合が痛々しい。
「お姉ちゃんこそ、12時間特講だっけ。頑張ってきてね。飛躍的に学力が伸びること間違いなしだよ。だって12時間ぶっつづけで勉強するんだもん!」
立てた親指を突きだし激励すると、お姉ちゃんも弱々しく微笑ながら自分の親指を当ててきた。
「ありがと、真白。でも私、きっと生きては、戻れない。お姉ちゃんの分も、クリスマスパーティを楽しんできて……おく……れ」
「お姉ちゃんっ!」
テーブルに倒れ込んだお姉ちゃんに縋りついて、おいおい泣き真似をしていると「冷めないうちに早く食べちゃいなさいよ」と母さんの呆れ声が飛んできた。
はい、すみません。パーティが楽しみ過ぎてテンション上げ過ぎました。
「ふうー。私もいい加減、現実と向き合わなきゃな」
お姉ちゃんもため息を吐きつつ、パンに噛り付いている。
今日のパーティが楽しみな理由は二つ。
一つは、紺ちゃんとゆっくり会えること。
亜由美先生の家で顔は合わせてるんだけど、話せる時間は殆どなくて、挨拶と軽い世間話だけで終わってしまう。
彼女は今や私にとって、なくてはならない親友だ。
この世界に紺ちゃんがいてくれて良かった、としょっちゅう思う。
本気のピアノ仲間だからって要素もあると思う。もちろん、転生仲間つながりも。
でも、それだけじゃなくて。
紺ちゃんと一緒にいると、ものすごく心が安らぐのだ。
そんな紺ちゃんと今日は一日過ごせるとあって、私は浮き浮きしていた。
もう一つは、久しぶりにお下がり以外の服を着ること。
新調してもらったわけじゃない。ただでさえ、お姉ちゃんの塾やら校外テストやらで物入りの我が家だ。
実は新しいドレスは、例のあしながおばさま達からのプレゼントだった。
『私達の我儘でパーティに呼んじゃって、ごめんね☆ ましろちゃんのドレス姿を見てみたい~♪ という気持ちを抑えられず、作っちゃいました! 当日は、あなたの王子様がお迎えに上がります。千沙子&桜子より♡』
実際のお二人は上品でマダム然とした落ち着いた物腰なのに、メッセージカードになると途端にはっちゃけたノリになるのは何故だ。
今回送られてきたのは、ノースリーブのロングドレス。
首もとの大きなリボンは淡いベージュで、他の部分は綺麗な水色。ウエストから裾に向かって緩やかに広がっている。
ドレスだけじゃなく、真っ白なカシミアのロングコートと銀色のサテンのパンプスまで同梱されてた。
『ましろちゃんの演奏を聴かせて頂くのを、本当に楽しみにしています。ドレスはほんのお礼の気持ちですので、遠慮は無用です』
千沙子さんからは、駄目押しの電話までかかってきたらしい。
セレブマダムの軽いお礼は、結果として庶民をビビらせてしまうことに、早く気づいてもらいたい。
今日のパーティでは、プレゼント交換をすることになっていた。
「そんな高いものは買えないよ!」と血相を変えた私に、紺ちゃんは「やだ、私たち小学生なんだし、当たり前じゃない」と答えた。
セレブのプレゼント交換って、万単位なのかと思ってた。
なんだ、それなら安心だ。
悩みに悩んだ挙句、私はカシミア・シルクの毛糸玉を奮発し、カラフルなかご編みのマフラーを編むことにした。
ベースに選んだのは淡いベージュと濃いキャラメル色。アクセントには紺色と水色と赤色。これ、みんなの名前の色を入れてみたんだよね。紺ちゃんに当たるとは限らないから、フェミニンになり過ぎないよう気を付けながら図案を考えた。
裏も表になる複雑な編み方だったけど、私の敵ではない。
猛スピードで編み棒を動かし、二日もかからず完成させた。
包装紙とリボンでラッピングすれば、立派なプレゼントの出来上がりだ。
お迎えの約束は11時。
先に髪だけアレンジしてもらい、その後ドレスに着替える。
仕上げに色つきのリップクリームを塗って、両親に見せに行く。
毎度のことながら「可愛い」だの「綺麗」だの大騒ぎになった。
親馬鹿の贔屓目と分かっていても、褒められるのはやっぱり嬉しい。
そうこうしているうちに、時計の針が11を指し、玄関のチャイムが鳴る。
「わあ、時間ピッタリ。多分、水沢さんだ! 行ってくるね~」
「待って、真白。いつもお世話になってるんだし、私達もご挨拶するわ。ほら、あなたも」
「そうだな」
コートを羽織り、プレゼントの入った紙袋と楽譜の入ったレッスンバッグを持って、玄関に向かう。父さんと母さんもついてきた。
ストッキングを破かないよう、そうっとパンプスに足を突っ込み、ドアを開けたところで、私は自分の目を疑った。
「こんにちは、ましろ」
そこにいたのは、水沢さんではなかった。
黒のタキシードに黒のロングコートを羽織った紅様が、薔薇の花束を抱えて立っている。
長めの前髪をワックスで流した彼は、とてもじゃないが小学生には見えない。
「お迎えにあがったよ、俺のお姫様」
気障すぎる台詞をサラリと口にし、嫣然と微笑んだ紅様を見て、父さんは絶句した。
背後の母さんの喉からは感嘆の溜息が洩れている。
『当日は、あなたの王子様がお迎えに上がります』って――
紅様のことだったの!?
予想もしなかった人の登場に、私は呆然と立ち尽くした。