スチル13.傷跡(蒼)
12月に入って最初の日曜日。
私は母さんの運転する車に乗せてもらい、城山邸へやって来た。
手作りロールケーキを入れた紙袋を下げ、かじかむ手で玄関のチャイムを鳴らそうとしたところで、向こう側からガチャリと両開きのドアが開く。
うわあ、びっくり!
庭に監視モニターでもついてるのかな……ついてるんだろうな。
「いらっしゃい、真白!」
淡いベージュのセーターにジーンズ姿の蒼くんが嬉しそうに出迎えてくれる。
「こんにちは。これ、お土産だよ。手作りで申し訳ないんだけど、後で一緒に食べない?」
差し出した紙袋を受け取った蒼くんは、ひょいと中身を確認し、パアッと全開の笑顔になった。
「やった! 真白の作るロールケーキ大好き!」
「ちゃんとお砂糖控えめにしといたから」
「ありがと。早くあがって! 寒いだろ?」
お言葉に甘え、だだっ広い大理石敷きの玄関に入る。
入ってすぐの壁際にアンティークな木製のベンチがあったので、そこに腰かけロングブーツのジッパーを下ろした。
中は暑いくらいに暖房が利いている。
コートとマフラーも脱いで、腕にかけた。
今日はお姉ちゃんが白のニットワンピを貸してくれた。
半袖で、襟ぐりのところにファーがついてる大人っぽいデザインなんだけど、全体的にふわふわですごく可愛い。
「今日の恰好もいいね。よく似合ってる」
蒼くんがすぐに褒めてくれたものだから、すっかり嬉しくなった。
「お姉ちゃんに借りたんだよ。蒼くんに褒められたって報告しとくね。……そうだ、おうちの人に挨拶しなくても平気?」
「うん、今日は通いの人は休みだし、美恵さんは台所で仕事してるから。あ、後でお茶を運んできてくれると思うけど」
「……そっか」
お母さんのことを聞いたつもりだったのに、蒼くんの口からはお手伝いさんの話しか出てこない。
それ以上追及することも出来ず、私は蒼くんの案内で屋敷の東翼へと向かった。
蒼くん専用の練習室だという防音の部屋に入ってすぐ、私の目はグランドピアノに釘付けになった。
マホガニーの木目をそのまま生かした、美しい鏡面艶出し塗装のピアノ。
優美なフォルムの美しいピアノだ。これもシロヤマ製なのかな?
銘を探してみたけど、どこにも見当たらない。
「すっごく綺麗なピアノだね! これって、どこのピアノなの?」
蒼くんを振り返ると、彼は無表情のまま肩をすくめた。
「俺を生んだ母の為に、父が特注で作らせたシロヤマのピアノだよ。世界に一台しかないから、銘は入れなかったって話。婚約指輪の代わりに、母はこれをねだったらしい」
「そうなんだ! ロマンティックだね」
蒼くんの産みのお母さんは、ピアノを弾く人だったんだ。
つけられない指輪の代わりに相棒のピアノを欲しがるなんて、すごく素敵な逸話だ。
うっとりしながら、再びピアノに向き合った私の背中に、蒼くんの静かな声がかかる。
「真白もそんなピアノが欲しい?」
「そうだね、現実的じゃないけど、憧れるよ。だってピアノを弾く時、指輪は嵌められないでしょ。それなら、触れることの多いピアノをって気持ち、分かるなあ~。大好きな人が自分の為だけに作ってくれたピアノで、その人の為だけの一曲を弾くなんて、愛だよ、愛!」
「……そうだったら、良かったのにな」
蒼くんの返事は、自嘲を含んでいた。
生みのお母さんは、蒼くんがまだ小さい頃に家を出たとしか聞いていない。
詳しい事情を尋ねていいものか、ずっと迷ってきた。
この機会を逃したら、もう聞けない気がする。
私は思い切って踏み込んでみた。
「蒼くんのお母さんって、ピアニストだったの?」
彼は、わずかに首を傾げ、なんてことないように言った。
「ああ、話してなかったっけ。森川 理沙って聞いたことない?」
な、なんですと!?
ピアノを習ってて、森川理沙を知らない子なんていないと思う。
彼女はそれくらいの有名人だ。
チャイコフスキー国際コンクールを日本人で初めて、しかも最年少で受賞した女性ピアニスト。
引退する十数年前までは、TVや国内外の音楽祭で引っ張りだこだったという。
彼女の残した数々の名盤は、今でもすごく人気がある。
情熱的でいてどこか儚げな演奏は、一度聴いたら忘れられない。
「聞いたことないもなにも、私、アルバム全部持ってるよ!」
蒼くんは唇の端を曲げ、「そっか」と呟いた。
「そいつが、俺の母親。森川理沙の引退理由は、俺だよ、真白」
あまりにも衝撃的な発言が続いたせいで、上手く頭が働かない。
「え、え……でも、引退は、手を怪我したせいだって――」
「母さんは俺を産んだ後、体調を崩して二年近く療養したんだ。思うようにピアノに触れられなくなった母の精神状態は、悪くなった。最後は、療養施設を抜け出そうとよじ登った柵から転落。両手に大怪我を負った。その時の怪我で、ピアニストとしての生命線を断たれたんだよ。命より大事だったピアノを失った母は、今でも父さんと俺を憎んでる」
一息に、蒼くんは説明した。
予想も出来なかった悲しい過去に、すぐには声が出てこない。
――そうか。……そうだったのか。
蒼くんはピアノが好きじゃないんだ。
自分から母親を奪ったピアノを聴くのが、ずっと辛かったんだ。
私がピアノを始めると知った時の顔。亜由美先生のコンサートに行った時の様子。
過去の蒼くんの言動が、次々と脳裡に浮かんでくる。
「ごめん……知らなかったとはいえ、私、すごく無神経なこと――」
やっとの思いで声を押し出し、私は深く頭を下げた。
他に謝罪する術を思いつかない。
「謝るなよ! 真白の同情が欲しくて、話したわけじゃない!」
蒼くんは堪えきれないように大声で叫び、私の両肩を掴んで顔を上げさせた。
そのまま両腕を私の背中に回し、きつく抱きしめてくる。
頭二つ分大きい蒼くんの腕の中で、私はあっけに取られた。
やがて、じわじわと蒼くんの叫びが心に染みてくる。
謝るな、と蒼くんは言った。
同情はいらない、と。
「真白……ましろ」
蒼くんは涙声で、何度も私の名前を呼んだ。
彼の胸に頬を押しつけ、体の力を抜く。
蒼くんは、寂しいんだね。
寂しくてたまらないんだね。
「お願い……真白だけは、俺から離れていかないで。どこにも行かないで」
掠れた蒼くんの声に、私は何も言えなかった。
しばらく私をぎゅうぎゅうに抱きしめた後。
ようやく気が済んだのか、蒼くんは恥ずかしそうに体を離した。
私が差し出したハンカチでごしごしと目元を拭い、はあ、とひとつ溜息をつく。
「めちゃくちゃカッコ悪い。それに、ごめん……いきなりあんなことして」
「びっくりしたけどね。大丈夫だよ」
へへと笑ってみせたのに、蒼くんのしょんぼり顔は明るくならない。
私はわざと偉そうに、腰に手を当ててみる。
「紅くんに何やってんの? って怒られそう。蒼を泣かすなんて最低だね、って」
片眉を上げ、『へえ、あの蒼が泣くなんて、一体何をやったの? 真白』と、紅様の声真似をしてみる。
蒼くんは噴きだし、くつくつ笑いだした。
「なに、それ。マジで似てるんだけど」
「でしょ? 嫌味言われ過ぎて、完コピ出来るようになってさ。……私たちがこうやってウダウダしてるのを見たら、『合奏するなら早くしたら? 俺も暇じゃないんだけど』とか言ってくるよ」
「言いそう! やばい、明日紅の顔みたら、絶対笑う」
屈託なく笑う蒼くんに、私はホッと胸を撫で下ろした。
彼には幸せになって欲しいな、と強く思う。
私には何も出来ないけど、紅様の物真似くらいなら、いつでもやってあげる。
「下手な演奏して紅に馬鹿にされたら腹立つし、練習しようか」
何度か深呼吸を繰り返し、気持ちを整えた蒼くんが提案する。
「うん! 頑張ろ!」
蒼くんが楽器の準備をしている間に、ピアノを触らせてもらうことにした。
指慣らしに短い練習曲をいくつか弾いてみる。
長い間誰も弾いてなかったとは思えない程、蒼くんママのピアノの音は温かくて素直だった。
調律は欠かしてないんだろうな。
手配してるのは、誰なんだろう。蒼くんパパ? それとも後妻さん?
どちらにしても、悲しい話だ。
指を止め、両腕を伸ばしたところで、出窓に飾られてる小さな物体に気がついた。
あ……あれ、折り紙?
やっぱりそうだ、私の折ったヤツだ!
グランドピアノに、ツール・ド・フランス、オベリスク神殿。
ピサの斜塔は倒れないように細いつっかえ棒が立ててある。
それにしても初めて会った日、泣いてた蒼くんを励まそうとして渡した折り紙が、よりにもよってピアノとかね。完全に偶然だけど、今考えると本当に申し訳ない。
私の視線の先に気づいた蒼くんは「違うとこに移そうと思ってたのに、忘れてた」と顔を赤くした。
「え? なんで?」
「真白に引かれたくないなって。全部取ってあって更に飾ってるの、気持ち悪くない?」
「全然。むしろ嬉しい!」
ピアノに出会わなかったら、きっともっと折り紙に夢中になってたと思う。それくらい好きだ。
今でも、勉強やピアノの練習に煮詰まると、つい折ってしまう。
渾身の力で完成させた創作折り紙を大事に取ってくれてるなんて、オリガミニストとしては至上の喜びだよ。
蒼くんはほっとしたみたいだった。
「あー、良かった。……っとごめん、調弦したいからAの音くれる?」
「了解」
蒼くんはチェロを足の間に置いて座った。
私がポーンと鍵盤を叩くと、小首をかしげ耳を澄ませる。
「蒼くんもチューニングメーターを使わないんだね」
「ん? ああ、自分の耳で合わせた方が早いから。紅もだったろ?」
一般的に弦楽器は、A線を基準に他の三本の弦を完全5度音程に合わせないといけない。
蒼くんは何度か音を確かめてペグを回し、余分な力を抜いた自然な手つきで弓をひいた。
綺麗な重音が部屋に響く。
私は黙って蒼くんとチェロの対話を見つめた。
彼がチェロを扱う手つきは優しく、愛しげだった。
良かった。
いつだったか、チェロは好きだって言ってたあの言葉は、嘘じゃないみたい。
「よし、俺は準備いいよ。まずは、真白のピアノパートを確認したいな」
「分かった。テンポとか気になったら教えてね」
Lied ohne Worte D-dur Op.109
無言歌ニ長調作品109
私が聞いたことがあるのは、デュプレの演奏だ。
彼女の音を思い出しながら、そっと鍵盤を叩いてみる。
牧歌的なリズムの導入部はゆっくりと。転調してから後の部分はテンポを速め、チェロと交互に歌う部分は抒情的に。そしてリタルダンド。最後に元の主題に戻るから、またテンポを戻して弾く。
頭の中で鳴り響くデュプレの演奏に合わせ、私はピアノを弾いた。
「……こんな感じ。どうかな?」
「真白、ホントにピアノ始めたの最近?」
「うん。あ、でももうすぐ三年目に入るよ」
「いや、そんなレベルじゃないだろ。……そりゃ紅も合わせたくなるはずだ」
蒼くんは感心したように呟き、弦を持ち上げた。
「大体分かったから、合わせてみようか」
演奏会だったら、チェロの後ろか横に設置されるピアノだけど、今日は練習なのでお互いに向かい合う形になった。
蒼くんに合図を送り、最初から弾き始める。
チェロの最初の一音で、私の腕には鳥肌が立った。
音が深い!
大切な誰かに向かって話しかけるような甘い旋律を、蒼くんのチェロは優しく歌い上げた。
鼓膜を振るわせるビロウドのような響きが、一転して悲しげな旋律に変わる。
私も蒼くんのチェロに負けないように、左手は柔らかく右手の高音は浮き出るように、鍵盤を追った。
そして元の主題が現れる。蒼くんの合図でゆっくりとしたテンポに戻し、少し揺らす。
この辺りは合わせる練習がいるな。呼吸を掴みやすいように、最後は蒼くんがリードしてくれた。
鍵盤から手を放し、私は盛大な拍手を送った。
「すっごく綺麗で優しい演奏だった! 蒼くんのチェロ、本当に良かったよ!」
「ありがと。真白のお蔭だと思う。いつもとは音のノリが違ったし」
「そんなことないよ。蒼くんの実力だよ!」
夢中になって褒める私を見て、蒼くんは苦笑した。
「ほんと、真白は俺に甘いよな」
「え? そんなことないでしょ」
「いや、絶対にそう。結局真白は俺を突き放さないし、いつだって肯定してくれる」
切なげに瞳を伏せ、蒼くんはチェロを撫でた。
「それって、ダメなこと?」
友達の域を超えていると注意されたのだろうか。
恋愛的な好意を持ってなくても、大切な友達にはこれくらい当たり前な気がする。
「いや、俺にとってはいいことだから。……あのさ、途中のとこ、ちょっと音がずれたよな。もっかい合わせない?」
「私も思った。慣れるまで、蒼くんから合図出してもらってもいい?」
「了解」
それからしばらく一緒に練習していると、控えめなノックの音が聞こえた。
「多分、美恵さんだ」
チェロを立て掛け、蒼くんは扉に近づいた。
ガチャリと重いドアノブを回し、扉を開ける。
ところが、そこに現れたのはお手伝いさんではなかった。
すらりとした背の高い美女が、初老の女性を従え、部屋の中に入ってくる。
外出していたのか、彼女は上品なシルバーのスーツを着ていた。
たっぷりとした黒髪が、エキゾチックな美貌を更に引き立てている。
「……母さん」
「ピアノの音が聴こえたから、まさかと思ったけど……。お友達が来てるの?」
「そうだよ」
「紹介してちょうだい?」
私は慌てて椅子から立ち上がり、2人の前に進み出た。
蒼くんは思わぬ人物の登場に動揺したのか、棒立ちになってその美しい人を睨みつけている。
これは紹介されるのを待っててもダメみたい。
自己紹介しようと口を開きかけた瞬間――。
「あらあら。ピンクの髪に、焦げ茶色の瞳のピアニストさんってわけ。私の記憶違いかしら。誰かさんによく似ていらっしゃるわ」
「ぜんっぜん似てないよ」
蒼くんが動き、私を隠すように目の前に立ちはだかる。
「真白をあいつと一緒にするな!」
「どうしたの、そんなに興奮して。そんなに大切なお友達なら、きちんと私にも紹介できるでしょう?」
彼女の甘いソプラノの声には、一切の感情が籠っていなかった。
どこまでもフラットな眼差しが、こわくなる。
気づかないうちに、私は蒼くんのセーターの裾を握りしめていた。
◇◇◇
本日の主人公の成果
攻略対象:城山 蒼
イベント:初めての音合せ
クリア