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二学期が始まった。
始まった途端、あっという間に月のカレンダーがめくられていく。
学校行事が多すぎるせいだ。
運動会、合唱祭、秋の遠足。前世でも、こんなに忙しかったっけ?
木之瀬くんは運動会の実行委員になり、学年リレーにも出て活躍していた。
足の速い子って、小学生のうちはとにかくモテるんだよね。
「ましろも一緒にやらない?」とのお誘いを受け、みんなにブーイングされながらも丁重にお断りした。
涼しげな目元やまっすぐ通った鼻筋なんかは、確かにSAZEのボーカルにそっくりだ。
高校生になったら、今よりずっとモテるんだろうな。
そうは思うものの、心は一ミリも動かない。
遠足も、木之瀬くんと一緒だった。
ニヤニヤ笑いながら私達を見てくる平田くんの口に、海岸の砂を入るだけ詰め込んでやりたい、と思ったことだけは強烈に記憶に残っている。
ピアノは、飛躍的に上達し始めていた。
ラヴェルのソナチネにも丸をもらえ、今は、同じラヴェルの『道化師の朝の歌』を練習中。
紺ちゃんに話したら、目を丸くされた。
「いきなり!? ちょっとそれはキツくない?」
「うん、楽譜も真っ黒だった。半泣き状態で、ちょっとずつ進めてるとこ」
「ソナチネ終わって、ソナタには進んでるんだよね。セオリー通りなら、もうちょっと後で挑戦する曲だと思うけど……」
亜由美先生曰く、私の今のテクニック的には十分弾ける、そうなのだ。
『ショパンやバッハや練習曲で基礎を固めるのと並行しながら、ましろちゃんには、どんどん難しい曲にチャレンジしていってもらいたいの。時間はかかってもいいから、頑張りましょう!』
確かに指先がもともと器用だったこともあって、早いパッセージや指回しはすぐにマスター出来てしまう。それより、譜読みがきついんだよね。
ひーひー言いながら楽譜を頭に叩き込み、何とか弾けるようになっても、そこから先が長かった。
楽譜通りまずは正確に演奏すること。自分なりの解釈を打ち出すのは、全て作曲家の指示通り完璧に弾けてから! というのが亜由美先生の方針だ。
「発表会の演目、ましろちゃんには物足りないんじゃない?」
発表会では、ベートーヴェンの悲愴を、紺ちゃん、私、先生の順番で披露することになっている。
私が受け持つ第二楽章は、今弾いている曲に比べるとテクニック的には簡単な部類だ。
ただ、亜由美先生には「発表会では、ましろちゃんらしい演奏を聞かせて欲しいな」と言われてる。
実力より下のテクニックで弾ける曲だからこそ、自分なりの曲想で弾き込めるはず、ってことなんだろうか?
いつもは、譜面の指示を無視するな! って厳しいのに、クラシックってまるで禅問答みたいだ。
10月に入ってすぐの金曜日。
蒼くんが学校帰り、家に遊びに来た。
少しだけ開けた窓から吹き込んでくる涼しい風が、蒼くんのサラサラの髪をなぶっていく。
私が勉強している隣で蒼くんは無心に折り紙を折るのが、いつもの過ごし方だ。
「そういえば、来週から秋休みなんだ」
蒼くんは、ふと目をあげ私を見て言った。
秋休み?
「そんなのあるんだ。何日くらい?」
「10日。……父さんに呼ばれてるから、ドイツに行くことになってる」
秋のドイツか。ドイツは緯度でみると、ちょうど北海道あたりに位置している。ここよりだいぶ涼しいんだろうな。
暦の上では10月に入ったというのに、日本ではまだまだ日差しの厳しい毎日が続いている。
長袖なんて着た日には暑くてやってられない。
パタパタ、とTシャツの胸元をつまんで風を送りながら、私は彼を羨んだ。
「いいなぁ~。ドイツも四季がはっきりしてるっていうから、きっと紅葉が綺麗だろうね。私もいつか見に行きたいなあ」
蒼くんはさっきまでの柔和な笑みをひっこめ、真面目な顔になった。
「真白と一緒なら、すごく楽しいと思う。いつか、一緒に行けたらいいな」
「へへ。じゃあ、大人になったら案内してね!」
脳天気に答えた私に向かって、蒼くんは曖昧に頷いた。
それから作りかけの折り紙へ視線を戻す。
いつもそんなにお喋りな方じゃないけど、今日は特別大人しい。
帰り際、蒼くんはなかなか私の手を放そうとしなかった。
「どうしたの? なんか、いつもと違う」
「……真白、俺さ」
「うん」
「今の母さんのこと、あんま好きじゃない。学校だってただ通ってるだけ」
「……うん」
「チェロを弾くのは好きだと思う。だけど……」
「蒼くん?」
繋いだ手が少し震えている。
蒼くんは視線を玄関のタイルに落としたまま、ポツリと呟いた。
「なんで、俺まだ子供なんだろうな」
「え?」
急に話が変わって、ついていけなくなる。
私が目を丸くすると、蒼くんはふっと表情を緩めた。
「ごめん、自分でも何言ってるか分かんなくなった。――またね、真白。ドイツ土産、楽しみにしてて」
そっと手を離し、蒼くんは踵を返した。
すごく悩んでるっぽいけど、まだ自分でも整理できてない内容なのかな?
いつか話してくれたらいいな。
そんなことを思いながら、私は彼の背中を見送った。
11月に入って、ようやく秋めいてきた。
小さな庭に植わっているサルスベリの葉は紅く色づいている。この季節が一番好きだ。空気が澄んでいて、空が高い。
毎日自分で決めたノルマに追われているせいか、10日なんてあっという間だった。
蒼くんはすぐに帰ってきて、沢山のお土産を届けてくれた。
LindtのチョコやLeysiefferのバウムクーヘンに、家族全員大喜びだった。
お姉ちゃんと母さんはもちろん、実は父さんも甘いものに目がないんだよね。
「みんなすーっごく喜んでたよ! 本当にありがとう」
遊びに来た蒼くんに、改めてお礼を言う。
レースのカーテン越しに差し込む黄色い光が、ソファーに座る蒼くんの髪を艶やかに照らしている。
すっかり大きくなってしまった彼は、もう足を曲げてソファーの上に座ることは出来ない。
「真白は?」
「もちろん、私が一番嬉しかったに決まってる!」
「ははっ。決まってるんだ」
蒼くんの曇りのない笑顔に釣られて、私も笑った。
しばらくドイツでの観光話や料理のことなんかを興味深く聞く。
旅行前は憂鬱そうだったけど、今はすっかり元気でホッとした。
「あ、そうそう」
蒼くんは瞳を輝かせ、おもむろにスクールバッグを探り始めた。
「これ、真白にもう一つプレゼント」
彼が取り出したのは、一冊の楽譜だった。
無言歌ニ長調op.109――メンデルスゾーンが作曲したチェロとピアノの二重奏。
甘い旋律がチェロの優しい響きに映える、私もお気に入りの曲だ。
「わあ、ありがとう! この曲大好きなんだ~。ねえ、これって、もしかして」
「うん。真白が良かったら、一緒に弾いてくれない?」
夏に紅様と一緒に音を合わせた話をしてから、蒼くんは「いつか俺とも合奏して」と言ってくれていた。
蒼くんのチェロをずっと聴いてみたかった私にとっては、チャンス到来だ。
「喜んで! 頼まれるまでもないよ!」
楽譜をぎゅっと胸に抱きしめながら即答すると、蒼くんは安堵したように頬を緩めた。
「良かった。断られたらどうしようって、ちょっと緊張した。……でもあんまり期待されると困るかな。合奏経験豊富な紅と違って、俺はピアノと合わせたことなんて殆どないから」
「そうなの?」
初等部とはいえ、音楽教育に特化した青鸞学院のことだ。
多重奏のカリキュラムも授業に組み込まれてると思っていた。
「ああ。アンサンブルは必須だから、そういう時は紅と組んでる」
その言い方があんまり嫌そうだったものだから、私は思わず笑ってしまった。
「そんな顔したら、紅くんが拗ねるよ」
「だって、アイツ面倒くさいんだ。自分が上手いからって、他人にもレベル高い要求、平気でしてくるし。普段は人当たりいい癖に、音楽では別。絶対に妥協しないんだ。紅も自分の面倒さが分かってて、下手な子とは絶対に組もうとしない。どんなにせがまれても、『ごめんね』って笑顔で躱して終わりだよ」
――え? そうなの?
知らなかった……。私、よくあの時合奏してもらえたなぁ。
「紅の話はいいじゃん。いつ合わせる?」
焼きもちを妬いて口をとがらせる蒼くんの頭を撫でてから、私はカレンダーに目を向けた。
12月の23日には花丸で印がついている。
その日は成田邸でクリスマスパーティをしよう、と紺ちゃんに誘われているのだ。
どうしてわざわざ成田邸で?
疑問に思った私に、紺ちゃんは「だって、クリスマスパーティだよ? 和風なうちじゃ雰囲気台無しだもの」と肩をすくめた。
言われてみれば確かに。あの純和風邸宅に似合うのは、電飾で飾られたモミの木じゃなくて、雪吊りされた松だよね。
そのクリスマスパーティで、一曲披露して欲しいと頼まれたことを思い出す。
気軽に請け負ったものの、まだ何を弾くかは全然決めてない。
――そうだ!
蒼くんとの二重奏で参加するの、どうだろう。
夏のプールはすごく楽しかった。
クリスマス会に蒼くんも来れば、今度は4人で和気藹々と楽しめるかもしれない。
蒼くんに経緯をざっくり説明して、「どうかな? もちろん紺ちゃんと紅くんに了承得なきゃだけど、蒼くんなら歓迎してくれそうだよ」と誘ってみる。
「紅の家でクリスマスパーティ?」
蒼くんは綺麗な眉を寄せ、ちょっと考えてから頷いた。
「……分かった。紅には俺から言っとく。じゃあ、マシロが空いてる日に、俺の家で一緒に練習しよう」
「そうしよっか。12月に入るまでには、ピアノ譜を全部さらって弾けるようにしておくね。絶対に頑張って仕上げようね!」
指切り。
小指を差し出すと、蒼くんは眉間の皺をほどき、同じく小指を絡めてくれた。
「指切りげんまーん、嘘ついたら……針千本は痛いから、う~んと何にしようかな」
「なんだよ、それ」
プッと蒼くんは噴き出し、いいことを思いついた、と瞳を煌めかせた。
「嘘ついたら、真白は俺からずっと離れない」
「そんな大ごとはダメ!」
「ちぇ」
断ると、今度は分かりやすく頬を膨らませる。
無邪気な蒼くんに、私はにこにこしっぱなしだった。
彼がどんな気持ちでそんな約束を持ちだしたのか、考えることもしなかった。
そして12月。
すっかり風は冷たくなっている。
マフラーなしでは登下校が辛くなってきた。
私は相変わらず、学校と自宅、そして亜由美先生のお家をトライアングルで往復している。
変わったことと言えば、またもや学校帰りの紅さまに捕まり、成田邸で紅茶をご馳走になったこと。
執事の田宮さんが「またお会い出来ましたね」と嬉しそうに出迎えてくれた。
「はい! また来ちゃいました」
社交辞令かもしれないけど、浮かれた気分になる。
紅様はむう、と顰めっつらになった。
「気のせいかもしれないけど、俺への対応とかなり差がない?」
「え、だって、田宮さん優しいもん」
「俺も優しいだろ?」
「優しさの定義について話し合おうか」
私達の言い合いをすぐ傍で目撃した田宮さんは、目を丸くし「本当に紅様は、島尾様のことがお好きなのですね」と感心したように呟いた。
いやいや。ちゃんと見て下さいよ、どこがですか。
紅様に連れられ二階にあがる。今日は、音楽室ではなく応接間へと通された。
すぐにメイドさんが温かな紅茶を運んでくる。
アッサムのオータムナルで淹れたミルクティーは、こっくりと甘くてとても美味しい。
お互いの近況を軽く報告しあった後で、紅様がそうだ、と声をあげた。
「蒼に23日のこと、話したんだって?」
「ああ、うん。流れで。いけなかった?」
「どんな流れだよ。まあ、後から文句言われるよりいいけど」
「でしょ? 蒼くんと一緒にメンデルスゾーンの無言歌、弾く予定なんだ。楽しみにしててね」
紅様は、私をじっと見つめた後、おもむろにティーカップを目の前のテーブルに戻した。
彼は優雅な所作で立ち上がり、私のすぐ隣に移動してくる。
「なあ、ましろ」
――近い。
じり、と下がると、紅様はその分距離を詰めてくる。
とうとうソファーの端まで追い詰められ、睫の長さまではっきりと分かるくらいにまで、顔を近づけられた。
「な、なに!?」
一気に警戒を高めた私の髪を一房掬い、紅さまは綺麗過ぎる笑みを浮かべた。
「俺が自分から家に誘う女の子は、お前だけだって知ってた?」
「あー。そうですか」
「一緒に音を合わせたいと思うのも、真白だけだ」
掬い取った私の髪に軽く口づけ、紅さまは切なげに瞳を細める。
「なのに、真白はいつまで経っても俺に冷たい。蒼の話は嬉しそうにする癖にね。ひどいと思わない?」
「思わない。だって紅くんがそれを望んでるんでしょ」
彼がゲームを仕掛けているのは、丸わかりだった。
ほんとに性格捻じれてるな、この人。
口説き文句を真に受けて、私も……なんて言おうものなら、『なーんてね。本気で口説かれたとでも思ったわけ?』ってオチをつけてくる気満々だ。
「私が紅くんを好きになったら、満足するどころか失望すると思うな」
「……マシロは賢いね」
「紅くんは性格悪いね」
「うん。自覚してる」
ふいと身を起こした紅さまは、何故か嬉しそうだ。
屈折のしようが半端じゃない。
優しくて親切で温和な桜子さんとは、全然似てない。
……もしかして、父親似なのかな。
まだ見ぬ紅様パパを想像してみる。
色気たっぷりの美貌を武器に、皮肉と気紛れを振りまく美丈夫がすぐに浮かんだ。
どうか23日は仕事で留守にされてますように。
紅様をさらにパワーアップさせたような成人男性相手じゃ、流石に太刀打ち出来ません。




