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薄闇のベールが空の端を覆い始めている。
山の空気は急に冷えてきて、むき出しになった私の肩をひんやり包んだ。
「マシロ、その服寒くない? 髪も濡れてる」
蒼くんは心配そうに問いかけてきた。
水沢さんは、後部トランクからふわふわのバスタオルを取り出し、私に差し出した。
「よろしければ、こちらをお使い下さい」
「あ、ありがとうございます」
遠慮なく受け取り、広げて頭からかぶる。
お団子をほぐし、タオルの上から叩いて水気をふき取ることにした。
「お風呂あがったばっかで、バンガローにも戻ってなかったの。羽織るもの持って来れば良かったよ。急な話で、バタついちゃった」
急な話、の部分に嫌味を込めて紅さまの方を見ると、ハッと鼻で笑われる。
「これくらいのサプライズで慌てるなんて、可愛いね」
「驚いてるのは、紅くんの傍若無人さにだよ」
腕時計に目を落とし時間を確認する。
キャンプファイアーが始まるまで、2時間を切った。
「ごめん、そんなに時間ないの。用事があるなら、早く言って? 先生たちにいないのバレたら、流石にまずいから」
「大丈夫。目的地は、すぐそこだよ」
紅さまが顎で指示した方向には、大きな白亜の建物が見えた。
「うちの会社の保養所だ。調律済みのグランドピアノが置いてある、って言えば分かる?」
「え!? ……も、もしかして、ピアノ練習できる、の?」
「言っただろ。どうにもならないことはないよって」
紅様は得意げに瞳を煌めかせた。
悔しいけど、脱帽だ。わざわざ手配してくれたことに、涙が出そうなほど感激した。
「ありがとう! うわぁ、めちゃくちゃ嬉しい。ほんと、嬉しい!」
蒼くんは眩しげに私を見つめ、それから紅様を睨んだ。
「お前、ほんと腹立つ」
「ごめんね?」
2人の意味不明なやり取りは置いといて。
「どれくらいかかりますか?」
水沢さんに尋ねると、彼は腕時計に目を遣った。
「移動には5分もかからないかと。先程の場所へ何時にお戻しすればよろしいでしょうか?」
自由時間は21時まで。
22時消灯までの一時間の間に、キャンプファイアーと各班の今日の反省発表が行われる予定になってる。先生たちは、キャンプファイアーの準備で忙しい。
自由時間は本館の遊戯室やバンガローで過ごすように、とのお達しがあったけど、いちいち見廻りして点呼を取ったりはしないはずだ。
「ホントに近いんですね。21時10分前には戻りたいです。紅くんも、いいかな? よろしくお願いします!」
「慌ただしいけど、仕方ないね。早速行こうか」
水沢さんがすかさず後部座席のドアを開けてくれる。
最初に紅さま、そして私、最後に蒼くんの順で乗り込んだ。
広い革張りシートのしっかりとした弾力に驚きながら、深く腰掛ける。
ちょこん、とスニーカーの足が浮いた。
「これ、良かったら羽織って。風邪ひいたら大変だし」
蒼くんは着ていた紺色の半袖パーカーを脱ぎ、渡してくれた。
外より車の中の方がマシだけど、やっぱりちょっと寒い。
「えっと……借りちゃっていいの?」
「もちろん。汗臭かったらごめん」
私は有難く厚意を受け取ることにした。
袖を通してみると、サイズが大きく、肩が落ちて七分袖になってしまう。
蒼もやっぱり男の子なんだなあと感心した。
羽織った瞬間、ふわり花の香りが漂った。……汗臭いとは。
「ちゃんと洗って返すね」
肌触りの良さに、内心ビクビクする。
これ、絶対高いよね。汚さないよう気をつけなきゃ。
「気を遣わないで。真白には大きかったんだな……。すごく可愛い」
「え? あ、ありがと」
ぶかぶかのパーカー姿の私に萌えたらしい蒼くんのストレートな台詞に、つい赤くなってしまう。
「邪魔して悪いけど、もう着くよ」
紅様の声に、窓の外を見る。
車は保養所の大きな玄関前まで進んでいた。
眩しい外照明に目を細めながら、ひとけのない保養所の中に入ってゆく。
中にも明々と電気が灯っているのに、私達以外誰もいない。
「もしかして、この為だけにわざわざ開けた、とか言わないよね?」
心配になって聞いてみる。
「変な気を回さなくていい。平日だし、社員への開放はもう少し先ってだけ」
紅様は軽く私の質問をいなし、多目的室まで案内してくれた。
部屋の奥に置いてあるグランドピアノが目に入った瞬間、他に何も考えられなくなった。
「わぁ……! 実はシロヤマのグランドピアノに触るの、初めてなんだ! 嬉しいな~」
シロヤマは、素直な反応と高音の柔らかさで、すごく人気のある国内メーカーだ。
すでに天屋根は開き、ピアノの蓋も開いている。
そっと真っ白な鍵盤を撫で、三人を振り返る。
「時間ないし、すぐに練習させてもらってもいい?」
「了解。外に出てた方がいい?」
「私は気にしない。どっちでもいいよ」
紅様は昨日も一緒にいたからか、私の反応に全く驚かなかったんだけど、蒼くんは大きく目を見開いた。
「すぐに練習? せっかく来たのに?」
「うん、だってその為に来たんだし」
私の頭の中は、いかに効率よく練習するかでいっぱいだった。
一時間半は、ピアノに触れるかな。
いつもの練習量に比べたら少なすぎるけど、全く指を動かさないでいるよりずっといい。
軽く両手をマッサージし、スケール練習に入る。
ある程度滑らかに指が回るようになってきたところで、暗譜済のツェルニーの練習曲を数曲か弾いてみた。気になる部分は、何度も確かめるように繰り返し練習する。
パンパン。
乾いた破裂音に、ハッと意識が引き戻された。
音のした方には、紅様と蒼くんがいた。結局、ここに残ることにしたみたい。
手を叩いたのは、紅様の方だった。
蒼くんは頬を強張らせ、じっとこちらを見つめている。
「残り30分だよ。練習曲じゃ物足りないな。俺達に何か聴かせてくれない?」
「え……」
「それくらいいいだろ? それともまともに弾けるのは、昨日のブラームスだけ?」
紅様の挑発にカチンとくる。
耳の肥えてる2人に聴かせられるレベルじゃないけど、このまま引き下がれない。
大して多くないレパートリーの中から、シロヤマのピアノに合う曲を懸命に探す。
バッハって感じじゃないよね。ショパン……うん、ショパンかな!
頭の中で選曲を考えていると、それまで黙っていた蒼くんが口を開いた。
「コウ。昨日のブラームスって、なに?」
「ああ、言ってなかったか。昨日、学校帰りに偶然会って、家に呼んだんだよ。真白はずっとピアノを弾いてたから、蒼が心配するようなことは何もないよ」
ニッコリと余裕の笑みを浮かべた紅さまを睨みつけ、蒼くんは腕を組んだ。
「真白を振り回すな。暇つぶしなら、余所を当たれって言ったよな?」
「蒼に言われる筋合いじゃない、と答えたはずだ」
……また始まった。
私はピアノに向き直り、ラの♭の黒鍵を叩いた。
なおも言い争おうとする二人の声がピタリと止む。
楽器が鳴れば、口を噤む。そんな風に訓練されている彼らへの賛同で、胸が温まる。
もう、素直に認めよう。
私は、この2人が好きだ。
共に音楽の道を歩む2人を、貴重な同志として特別大切に想ってる。
鳴らした音が消えてしまう前に、すかさず続けてメロディを奏でる。
――ショパンの作品64-1変ニ長調「子犬のワルツ」
テンポ指示は Molto vivace とても早く、だ。
装飾音のトリルが華やかなこの楽曲は、蒼くんのイメージ。跳ねるように軽快に鍵盤を叩く。
観客がいてくれるせいか、普段より指がよく回った。
シロヤマのピアノとの相性も良くて、とても綺麗に音が響いていく。
ちょっと強めに叩きすぎたかな? という高音も、ピアノが柔らかくフォローしてくれた。
次は、同じショパンのワルツ第7番嬰ハ短調Op.64-2。
冒頭部分で繰り返される切ない主題の後に現れる甘いメロディは、紅さまのイメージ。
煌めく様な高音へと駆け上がる部分はロマンチックに。途中の低音はドラマチックにテンポを揺らして弾いてみる。
二曲続けて弾き終え、私は鍵盤から指を離した。
「いいね。すごくいい」
紅様は素直な賞賛と共に拍手をしてくれた。わあ、珍しい。
蒼くんは無言のまま立ち上がったかと思うと、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
どうしたんだろう。
私は座ったまま、隣にやってきた彼を見上げた。
どうしてそんなに悲しそうなの?
思わず、彼に手を伸ばす。私は、ぎゅっと彼のTシャツの裾を掴んだ。
いつも明るい蒼くんが、今夜はすごく儚くて、今にも消えてしまいそうで不安になる。
「……良かったよ、すごく。もう一曲、リクエストいい?」
「私に弾ける曲なら」
「ショパンのノクターン第2番なんだけど」
「あ、それなら大丈夫」
ショパンの楽曲集の中でもそんなに難易度の高くない一曲だ。
誰でも一度は耳にしたことがあるんじゃないかな、ってくらい有名な曲。
鍵盤に向き合うと、蒼くんは数歩下がって私の演奏を待った。
装飾音で飾られた右手の旋律を、ゆったりとした左手の和音が支える。
espressivo――感情豊かにという指示のあるロマンティックな曲なんだけど、あんまり感傷的に弾くのは好みじゃない。
大げさなくらいに溜めて弾くのではなく、あくまでサラリと、でも歌うように甘く弾いてみた。
夜を想う曲、か。今のシチュエーションにピッタリの一曲だよね。
最後の一音が空に舞い、ふわりと溶ける。
蒼くんは今度こそ大きく拍手をしてくれた。顔色は、さっきよりずいぶん良くなってる。
「その曲、何回も聞いてきたけど、今、初めて好きになった。弾く人によって違うんだな。当たり前のことだけど、やっと納得できたよ。真白が弾けば、どんな曲も俺には優しい曲になる」
な、なんという殺し文句!
いや、もうこれ絶対イベントだよね。夜想曲がフラグだったの!?
前作ボクメロで蒼くんイベントを一つも見てないから、本当にそうなのか確信は持てないけど、、蒼くんの台詞も眼差しも、ハチミツ並みに甘すぎる。
「え、えっと――」
「確かになかなか良かったよ。お前にはショパンも合ってるんじゃない?」
紅様までそんなことを言う。
今日は彼まで優しくて、調子が狂ってしまう。
結局何も言えずに、私はもごもごと口ごもった。
「俺もリクエストを弾いてもらいたいけど、そろそろ時間みたいだ。今度のお楽しみに取っておくね」
そう言った紅様に、また蒼くんが突っかかる。
「……今度? まだマシロに構うつもり?」
「別にいいだろ。真白が嫌がるならともかく、お前に口を出す権利はない」
私をダシにじゃれ合いの喧嘩するのは、いい加減止めてほしい。
何と言って止めようか思案しかけたその時、多目的室のドアが開いた。
「島尾様、お時間でございます」
「ありがとうございます、水沢さん」
今回もナイスタイミングです!
私はピアノの蓋を丁寧に閉め、すっくと立ち上がる。
「2人とも、同じくらい大事な友達だよ。それ以上でもそれ以下でもないし、これからも気持ちは変わらないから」
それだけ伝えて、水沢さんの後に続く。
「大事な友達だってさ、蒼」
「コウも良かったね。天敵認定から外れたみたいだよ、おめでと」
まだ言ってる。
きっと、あれが彼らのコミニュケーションの取り方なんだな。もうほっとこう。
予定通り、キャンプファイアーの始まる10分前にバンガローに戻ることが出来た。
流石は水沢さん、一分の誤差も無い。
しかも日の落ちた山道は危ないから、と私の手を引き、きちんと元の場所まで送り届けてくれた。
何から何まで完璧な大人の男性って感じで、素敵だなぁ。
「水沢さんっておいくつなんですか?」
「私ですか? 今年、29になります」
29歳! やっぱり大人だった。
日頃やんちゃな小学生に取り囲まれているせいか、もし恋愛するなら水沢さんのような人がいいな、と思ってしまう。
俺様でもワンコでもない普通の人がいい。切実に!
ボクメロには関わらないと決めたはずなのに、何故かイベント目白押し状態で不安になってくる。
彼らといると、ドキドキしたり悲しくなったり、とにかく心が忙しい。
友達状態の今でさえ、そうなのだ。
恋愛状態になったら、何も手につかなくなるんじゃないだろうか。
制御不能な感情に振り回されるのは、嫌だ。
私はこのまま心穏やかに、音楽の道を進んでいきたい。
キャンプファイアーの集合場所に駆け込むと、先に朋ちゃんたちが私を見つけてくれた。
「お帰り、ましろん!」
「ただいま~。ごめんね、朋ちゃん! 先生に何か言われた?」
「ううん、だいじょうぶ。絵里ちゃんたちと部屋でトランプしてたんだけど、見廻りもなかったよ」
ホッとして胸を押さえる。
勝手に抜け出してピアノ弾いてました、なんて言ったらクマジャー先生は激怒するに違いない。怒るとすごく怖いんだよね。
「おかえり。あのスーツの人、知り合いだったんだ」
いつの間にか近くに来ていた木之瀬くんに聞かれる。
「うん、友達の……お兄さん! たまたま上の保養所に来てたみたいで、ピアノ貸してくれるっていうから練習してきちゃった」
流石に運転手さんとは言えない。余計に話がややこしくなる。
そのまま事実を伝え、頼んでみる。
「そっか。その友達って、男子?」
「え!? う、うん」
どうして分かったんだろう。性別が判断できるような話、してないよね?
私の困惑は、全部表情に出ていたらしい。
木之瀬くんは「そのパーカー。そいつに借りたのかな? って」と首を傾げる。
そういえば、蒼くんのパーカーを羽織ってたんだった!
「先生には言わないで欲しいんだけど」
口止めを頼むと、木之瀬くんはにっこり笑った。
「もちろん、先生には黙ってる。島尾が怒られたら、可哀想だし」
さらりと答えた木之瀬くんに、嫉妬してる様子は見られない。
なんだ、良かった。好きって言っても、軽い気持ちだったんだ。
「ありがとう、助かる!」
ホッと胸を撫で下ろした私に向かって、彼は爆弾を落とした。
「いいよ。その代わり、明日の昼の自由行動は、俺に付き合ってね?」
――そう来たか! この子、策士だ!
なんでこんな小学生らしからぬ輩ばかりが周りに寄ってくるんだろう。
渋々「分かった」と返事をしながら、私はがっくり項垂れた。
そのままキャンプファイヤーを共に眺め、次の日も一緒に遊び、帰りのバスではなんと疲れて寝オチしてしまった私に肩まで貸してくれた木之瀬くん。
悪い子じゃないことは痛いほど分かった。
だからと言って、心が動くかといえばまだ別の話だ。
「島尾、お疲れ!」
父さんの車を待ってる間、先にお迎えが来たらしい木之瀬くんが挨拶に寄ってくれた。
「お疲れ様ー。バスではごめんね! 重かったでしょ」
「いや、全然。寝顔見れてラッキー、みたいな?」
茶目っ気たっぷりに笑う彼に、ハハハと乾いた笑いを返しておく。
今どきの小学生って、こういう甘い台詞を標準装備してるもんなの?
私の知ってる小学生男子って、川で魚探してる系なんだけど。
「オレ、島尾のこと好きみたい。友達になってくれる?」
別れ際、木之瀬くんはとうとう告白してきた。
非常に上手いのは「みたい」と語尾を濁し、相手に負担をかけないようにしつつ、「友達になれ」という断りづらい提案をしてくるところ。
「いいよ」と答える選択肢しか残されてないやつだ、これ。
「もう友達だと思ってたよ」
苦肉の策でそう答えてみる。
「やった! じゃあ、ましろって呼んでもいい?」
なるほど。畳み掛ける連続攻撃なのか。
私は「別にいいんじゃない」と他人事のように返事をするのが精いっぱいだった。
くたくたに疲れてるし、早く帰って勉強したいし、もうどうでもいい。
「オレのことも名前で呼んでいいからね」
「ばいばい、木之瀬くん」
その手には乗るか。ニッコリ微笑み、私は手を振った。
少し離れたところで、私と木之瀬くんの攻防戦を見守っていたイツメンから、微妙な溜息が漏れる。
色恋話の大好きな彼女たちには、物足りない決着なんだろう。
「もったいないなぁ。木之瀬くんの何が不満?」
木之瀬くんが去った後、麻子ちゃんが唇を尖らせながら聞いてきたので、私は「年」と即答した。
「ええっ!? じゃあ、何歳ならいいの?」
「……29歳くらい」
目を丸くした絵里ちゃんにそう答えると、周囲は悲鳴に包まれた。
ああ、もう冗談だって!




