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春休みももうそろそろ終わり、という頃。
私は前世の記憶を取り戻して以来初めて、学校の友達を家に連れてきた。
同じ地区に住んでる登下校友達の絵里ちゃんとは、幼稚園からの付き合い。
麻子ちゃん、咲和ちゃん、朋ちゃんとは、二年連続で同じクラスになったことをきっかけに仲良くなった。
「もうすぐ、4年かあ。みんな同じクラスになれるといいよね~」
「ホント! ほら、夏に林間学校あるでしょ? あれ、5人でグループ作るんだって! みんな同じクラスだったら、一緒の班になろうね」
「クマジャー先生は、好きな子同士では班を作らせてくれないって聞いたよ。くじ引きするんだって」
「ええ~、やだあ。それなら、違う担任がいいよ」
クッキーとジュースを小さな卓袱台に並べ、私も会話に加わった。
六畳の部屋に子供とはいえ5人がひしめいているもんだから、一層賑やかに感じてしまう。
『ましろんの部屋が見たーい!』と全員にせがまれたので、しょうがなくリビングから移動したのだ。
私はべっちんを真っ先にクローゼットの中へ避難させた。
大人げないけど、誰かに触らせるの嫌なんだよね。べっちんは私だけの癒しだ。
わいわい学校の話をしながら、みんなでクッキーをつまむ。
ちょっとしたことで、すぐにコロコロ笑う彼女たちに囲まれていても、違和感を覚える機会は減っていた。最近では、すっかり小学生を満喫している。
しばらくすると、絵里ちゃんがアップライトピアノに視線を移した。
「あ、そうだ! せっかくだし、ましろんのピアノ聴きたいな~」
「私も!」
他のみんなも口々に賛同する。
この中でピアノを習っているのは私だけなので、どんな感じか気になるのかもしれない。
「うん、いいよ」
おしぼりで手を拭き、ピアノの蓋を開けた。軽く鍵盤を叩いて、指慣らしをする。
「何、弾こうか」
「うわ~、なんかカッコいいっ!」
咲和ちゃんが瞳を輝かせながら両手を合わせた。
「ねえ、あれ弾けない? SAZEの新曲。キミスキの映画の主題歌の!」
「私も好き! 昨日もTVに出てたよね」
ちょっと前まで『アイレボ』一色だった皆だが、最近はアイドルへと興味が移っている。
SAZEというのは、4人のメンバー全員が16歳の美少年という売出し中の人気グループだ。
ちなみにキミスキというのは、『君のことを好きな僕が好き』という漫画のこと。
ドラマ化されてヒットしたので、今度は映画が公開されるらしい。
一度学校でこっそり麻子ちゃんに見せてもらったのだけど、余命わずかな少年が同じく余命わずかな少女に恋をして……という、何なんだかよく分からない漫画だった。
「楽譜ないし、適当になっちゃうよ?」
「それでもいいから!」
大のキミスキファンの麻子ちゃんまで、お願い、と拝んでくる。
花香お姉ちゃんがお風呂で最近よく歌っている曲なので、なんとなくは分かる。
毎週土曜日のソルフェージュのおかげで、聴音のこつも掴めてきていた。
原曲キーはたぶん、Dマイナー。
右手で、おおよそのメロディを奏でてみると、みんなが一斉に「それそれ!!」とはしゃぎ声を上げた。
左手のコード進行は、かなり適当。
Dというのはレの音のこと。長調だとレファ♯ラの和音が基本になるけど、キミキスの主題歌は短調なので、レファラの短三和音を使う。短7度のドの音を加えると、Dマイナー7になるってわけ。減三和音に減7度の音を加えた和音、レファラ♭シを混ぜると、カッコいい感じになる。
簡単に言うと、ピアノのコード進行にはおおよその決まりがあって、その中で右手のメロディにしっくり当てはまるコードを選べばいい、ってこと。
ボクメロの作曲パートをクリアする為、コード進行については、前世でかなり勉強した。
結局、付け焼刃の知識じゃ、歯が立たなかったわけだけど。
みんながピアノに合わせて歌ってくるので、幼稚園の先生になった気分だ。
何回も歌って気が済んだのか、ようやく解放される。
「ちょ、なにこれ!? ましろん、こんな問題解いてるの!?」
ピアノの蓋を閉めると次は、朋ちゃんに高校レベルの問題集を発見された。
「ち、違うよ、お姉ちゃんのだよ。どんなのかな~と思って、借りてるの」
「そうなの? わあ……中、真っ黒。ましろんのお姉ちゃん、頭いいんだね!」
「え、えへへ」
こうなったら笑って誤魔化すしかない。
突撃お部屋訪問は、いろいろと心臓に悪かった。
そうこうしているうちに、新学期が始まった。
また5人とも同じクラスになれたのは良かったんだけど、担任もクマジャー先生だ。
3年連続同じ担任って、結構珍しい気がする。
「お、島尾。また今年も一緒に頑張ろうな!」
先生は底抜けの笑顔で、私の背中を軽く叩いた。
「お前はちょっと頑張り過ぎる傾向があるからな。もっとリラックスしていこう! 困ってることがあるなら、何でも相談に乗るぞ。気軽に言ってこいよ」
「あ、ありがとうございます」
どうやらクマジャー先生に私は、思い詰めるタイプの生徒として映っているみたい。
職員室で「あの子はちょっと変わってるので、卒業するまで私が見守りますよ!」とか言われてたりして……。
蒼くんには、相変わらず歩道橋で会っている。
「今日、ましろのうちに行きたいな。……ダメ?」
「私、勉強しなきゃいけないし、ピアノも練習しなきゃいけないし、蒼くんのこと構えないよ? そんなのつまんないでしょ」
「全然大丈夫。邪魔しないように、大人しくしてる」
上目遣いでお願いされると、つい負けて家に連れてきてしまう。
どんどん絆されてきてるのが、自分でも分かる。いいのかな、これで。
だけど、蒼くんがあんまり嬉しそうに着いてくるものだから、毎回まあいいか、になってしまうのだ。
「ピアノ、練習したいならしてきていいよ。ここで待ってるし」
蒼くんは気遣って言ってくれるけど、お客さんを放っておいて2階に上がるのには抵抗がある。
かといって、自室に蒼くんを入れるのも良くない気がして、彼が来る日はリビングで勉強することにしていた。
「ましろって、ほんと頭いいよな」
私が解いている問題集を覗き込み、蒼くんは目を丸くする。
そんな顔をすると、年相応に見えて可愛い。
「そんなに良くないから、頑張って勉強してるんだよ~」
ひらめきとかセンスとか、天賦の才は一切ない。
ただ、努力することが苦じゃないってだけだ。
それでも前世に比べれば、きっちり成果は上がっている。
努力すれば結果が出る。それが私のギフトなのかもしれない。
「そんな風には見えないな」
蒼くんは私の返事を謙遜と受け取ったみたいで、にっこり笑った。
まるで『俺のマシロはすごいだろ』と云わんばかり。
私はいつまで、彼の前を走ってあげられるんだろう。時々、無性に不安になる。
本当の同い年になった蒼くんの目に、私はどう映るのかな。
宿題を終わらせればすることがない彼には、折り紙の本を貸してあげた。
静かなリビングに、私のシャーペンを走らせる音と蒼くんの紙を折る音だけが響く。
彼はソファーの上で膝をかかえ、すっかりくつろいだ雰囲気で折り紙に集中している。
特に会話がなくても、私たちの間に流れる空気はいつだって暖かい。
蒼くんは自分の家にいるのが寂しいんだな、と嫌でも思い知らされた。
紅様にも時々遭遇していた。
彼の方は「遭遇」という表現がピッタリだ。
紅様がピアノ教室のサロンに来ることはなくなったのに、たまに出かける先々でバッタリ会ってしまうのだ。
基本、学校と家と亜由美先生の家をトライアングル状態で往復している私が出かける機会なんて、滅多にない。
それなのに、高確率で紅様と出くわす。
その日は「ああ、お味噌切らしてたんだった!」と嘆く母に頼まれ、おつかいに出かけた。
「ごめんね。せっかくピアノ練習していたのに」
「全然おっけー。ぱぱっと行ってくる」
家から自転車で10分ほど漕げば、まあまあ大きなスーパーに着く。
もっと近くにコンビニもあるんだけど、コンビニって高いからね。
「日が暮れかけてきたけど、大丈夫? 寄り道しないで帰って来てね」
「了解! じゃあ、いってきまーす!」
130センチ台だった身長も、今では145センチまで伸びた。
お下がりの洋服も、大人っぽいデザインが多くなってきている。
その日の恰好は、7分袖のカットソーにマイクロミニのショートパンツ。ひざ丈ブーツに足を突っ込み、自転車にまたがる。
スーパーで買い物を済ませた後、家に帰る途中で、人の良さそうなスーツ姿の若い男性に声をかけられた。
「ちょっとごめん! 君、ここら辺の子?」
「そうですけど。……なんですか?」
自転車は止めたけど、降りない。
変質者だったら困るからだ。
少し距離を取ったまま怪訝そうに答えると、その人は相好を崩した。
人懐っこい笑みに、少しだけ警戒心が薄れる。
「あー、良かった。お客さんの家がなかなか見つからなくて、困ってたんだ。住所はこの辺のはずなんだけど……」
若者はごそごそとビジネスバッグを探り、折りたたんだ地図を取り出した。
どうやら、この辺りを回っている営業マンのようだ。額ににじんだ汗が痛々しい。
ご苦労様です、と心の中で呟き、自転車から降りた。
「コーポみかづき、っていうんだけど」
「ああ、それなら……」
咲和ちゃんの家の近くだ。ここからはスーパーを挟んで真逆の方向にある。
この辺りは住宅が多く、道が入り組んでいる。初めて来た人には見つけにくいのかもしれない。
彼の持っている地図を覗き込み、一緒に「コーポみかづき」の場所を探していると――。
「真白!」
突然大声で名前を呼ばれ、飛び上がりそうになった。
「……この子に、何の用?」
紅様だ。
走って来たのか、前髪が全開になっている。
彼は私の腕を引っ掴むと、背中の後ろに押しやった。
「大丈夫か?」
紅様に小声で確認される。
驚き過ぎて心臓が止まりそうになったよ、あなたのせいでね!
「え――えっ!? 違う、違う! 僕は怪しいものじゃないです」
自分の置かれている状況を察したのか、青年は慌てて胸の内ポケットから名刺入れを取り出した。
「戸崎ホームの斉藤と言います。約束しているお客さんの家が分からなくて、この子には場所を聞いてただけなんだよ」
気の毒に、完全に気圧されてしまってる。
紅様は名刺を一瞥し、くるりと振り返った。
それから、少し離れたところに停まっている大きな黒のセダンに向かって、声をあげた。
「水沢!」
車の脇に待機していた二十代後半の男性が素早く近づいてくる。
ダークグレーのスーツを隙なく着こなした凛々しい佇まいの人だ。
「戸崎ホームの斉藤さんだ。アパートを探しているそうだから、そこまで乗せていってやって。俺は、この子を家まで送ってくる。また連絡を入れるから、適当なところで拾って」
「畏まりました」
深く追求することなく、水沢と呼ばれた運転手らしき人は、一礼した。
「え? いや、そこまでして貰わなくても!」
「紅様のご厚意ですので、遠慮なさらないで下さい」
慌てて辞退しようとする斉藤さんを連れ、水沢さんは車へと戻っていく。
「……あのね、真白」
唖然としたまま一部始終を眺めるしかなかった私に向き直り、紅様は腰に手を当てた。
その時ようやく腕を放してもらえた。
大きな手の感触が、痺れるように残っている。
「こんな時間に、そんな恰好で、知らない男に近づくんじゃない」
何故か、説教が始まった。
遅ればせながら私は、何が起こったのか把握した。
車で移動中の紅様は、たまたま私を見かけ、不審者に絡まれてるのではないか、と判断したのだろう。
自分の服を見下ろしてみる。
ブーツとショートパンツの間の太腿が出てるくらいで、至って普通だ。
「こんな時間って、まだ5時過ぎだし、これくらい普通の恰好だよ。斉藤さんだっけ。濡れ衣着せられたの、気の毒過ぎる」
「口答えは許さない。とにかく、気を付けろ。ほら、さっさと行くぞ」
流石は俺様。こっちの言い分に聞く耳を持たない。
――でも多分、心配してくれたんだろうな
いつも綺麗に整えられている短めの髪が、ぴょこんとはねている。
車から降りて、駆けつけてくれた。
紅様は、自分の周りの人間が傷つけられることを酷く嫌がる。
その周りの人間に、自分もカウントされていることが何だかすごく嬉しくて、胸の奥が痛くなった。
「お手数おかけしました。以後気を付けるね」
私は自転車を押しながら紅さまの隣に並び、「ごめん」と謝った。
「……分かればいい。一応、お前も女の子だろ。世の中には変わった嗜好のヤツがいるから、気をつけないと」
ああ、惜しい。
あと少しでトキメキ台詞になるはずなのに、『一応』と『変わった嗜好』が余計だ。
「はーい」
「語尾は伸ばすな」
「はい」
夕日に照らされ、歩く二人の影が長く伸びる。
出会った頃はそんなに差がなかったのに、いつの間にか紅様の方がうんと背が高くなってたんだな。
庇ってくれた背中もしっかりしてたな。
そんなことばかりが浮かんで、何だか泣きたくなった。
梅雨に入り、天気の悪い日が続いている。
最近、リビングに大きな顔で鎮座しているのは、室内物干しくん一号と二号だ。
カーテンレールは、ハンガーにかけられたバスタオルで埋め尽くされている。
カーテンをひかなくても、外から見えるのはタオルの微妙な花柄だけという有様で、とてもじゃないがお客様は呼べない。
蒼くんは、家に来られなくなってがっかりしていた。
私は私で、ピアノの音色がいまいちぱっとしないことに心を痛めている。
「アイネ、ごめんね。もうちょっと頑張ろうね」
ピアノは木材で出来ている楽器なので、湿気が大敵なのだ。
嘘みたいな話だけど、本当に音色が曇る。
だから除湿機がものすごく欲しいんだけど、小学生のおこづかいじゃ手が出ない。
そんなアイネで今、練習しているのは、ソナチネとツェルニーの50番。
この二つはもうすぐ終わりそう。
「花の歌」はだいぶ前にマルをもらえたので、その時購入した楽曲集から「乙女の祈り」そして「ベニスの船歌」へと進んでいる。ブルグミュラーは飛ばすと先生が決め、ショパンとバッハの楽曲集が新しく追加になった。
来年は教室の発表会がある。
「私が教えるのは、基本的に音大を目指してる子だけだから、発表会は毎年は開いていないの。どうしても、コンクール優先になってしまうのよね。日程の調節とか難しいし、私の方もいろいろ予定があるものだから……真白ちゃんの親御さんにしてみたら、張りあいないわよね」
「そんなことないです! 気にしないで下さい」
申し訳さそうな先生に向かって、私は勢いよく首を振った。
ただでさえ忙しい先生を、煩わせたくない。
亜由美先生は今度、【若手ピアニストの競演】というコンセプトで開かれる大きなコンサートへの出演が決まっている。
国内の有名なオーケストラと共演すると聞き、私はとても興奮していた。
「先生のコンサート、すごく楽しみにしてます! 来年までにもっと上手くなれるよう、発表会を当面の目標にしますから」
「ふふ。じゃあ、発表会のプログラムを今からしっかり考えておくわ。ましろちゃんの上達は早いから、この先が楽しみ」
亜由美先生が微笑むと、部屋全体が明るくなる気がする。
美形双子との血の繋がりを、こういう時にすごく感じる。オーラがあるっていうのかな。
「あの……前から気になってたんですけど、どうして私を教えてくれることになったんですか?」
楽譜をしまい、部屋から出る時にふと聞いてみた。
実は母にも同じ質問をしてみたことがある。
母は『有名なピアニストさんが隣町で教室も開いてるっていうから、ダメ元で電話してみたのよ。そしたら、即オッケー。生徒さんが多いと収入になるからかしらね~』と言っていた。
亜由美先生が収入の為に生徒を取る必要がないって、母は知らないみたい。
実際、教室に通っているのは、紺ちゃんと私を含めて5人だけだった。
「実は、紺に頼まれたの。もし島尾さんって人から電話があったら、是非教えてあげて欲しいって。すごく才能のある子だからって言ってたわ。ましろちゃん、紺のお友達なんでしょう? 滅多に頼みごとなんてしてこないあの子が、あんまり真剣だったから、勢いに押されてしまったのよ」
私は、その言葉に衝撃を受けた。
――紺ちゃんが口添えを?
初耳だ。
ということは。
紺ちゃんはまだ、私と出会ってもいない時期から、私の存在を確信していたことになる。
私がゲームの進行通りに、ピアノを習い始めるだろうと予測していた。
その事自体は、この世界が『ボクメロ・リメイク版』だと知っていたのならおかしくないけど。
それにしては、私と初めて会った時、やけに興奮してたような……?
何となく、腑に落ちない。
何かを見落としているようで、スッキリしなかった。
「紺の言ってたことは正解だったって、すぐに思ったわ。ましろちゃんは努力できる才能を持った子だから、上を目指せると思う」
優しく微笑み、亜由美先生は私の両手を取った。
「一日4時間くらいかな? 頑張って練習してるよね。週末はもっとでしょう? 練習始める前と終わった後はしっかりマッサージして、腱を痛めないようにしてね」
ほっそりと美しい手が、宝物を扱うかの様に私の手を包む。
紺ちゃんに抱いた疑問が、一瞬でどうでもよくなった。
先生に会えて良かった。紺ちゃんが根回ししてくれて、良かった。
「はい」
胸がいっぱいになって、そう答えるのが精一杯だった。
レッスン室を出てサロンに入ると、すでに紺ちゃんが来ていた。
今日は黒の半袖ワンピース姿。髪はハーフアップに纏め、赤いリボンを結んでいる。これぞお嬢様という見本のような恰好で、紺ちゃんは楽譜を広げていた。
「紺ちゃん、こんにちは」
「ましろちゃん! こんにちは」
紺ちゃんは私を見る度、ものすごく嬉しそうな顔をする。
「今日こそもっと早く来ようと思ったのに、遅れちゃった。……あ~あ。ましろちゃんとのお喋りタイムなしなの、つらい」
唇をきゅっと引き結ぶ仕草は、見てる私の目が潰れそうなくらい愛らしい。
こんな可愛い妹がいたら、そりゃ紅様もシスコンになるよ。
「先生のコンサート、紺ちゃんも行くでしょ? その前に、一緒にお買いもの行かない? 先生に何か当日プレゼントしたいなと思っててさ」
コンサートへの差し入れはお花が定番だけど、先生のところには物凄い量の花束が届くだろうから、違うものを持っていこうと考えてる。
小学生のお小遣いで買える花束なんて、埋もれちゃうだろうし。
本当は一人で行こうと思ってたけど、がっかりしている紺ちゃんを元気づけたかった。
転生者同士、もっと仲良くなりたいという気持ちは元から持ってる。
そういえば紺ちゃんって、前世の話を全くしてこない。
どうやってあの『ボクメロ』をクリアしたのかとか、どんな生活してたのかとか、聞きたいことは山ほどあった。
お買いものデートの時に色々聞けるかな。
「え? いいの? 嬉しい……嬉しい!」
紺ちゃんは予想以上に喜んで、私を驚かせた。
「じゃあ、明日電話してもいい? 待ち合わせ時間とか、どこへ行くかとか色々決めよ?」
「たまには私からかけるよ。毎回紺ちゃんから電話して貰ってるし」
固定電話との通話料って、馬鹿にならない気がするんだよね。
「ふふ。そんなこと気にしないでよ。真白ちゃんは、ほんと律儀だよね」
どこかで聞いたことのある言い方だ。なんだかすごく懐かしい。
『……は律儀だよね。真面目過ぎるとも言うけど』
なに、これ。なんなの。
ものすごく、胸が痛い。引き絞られるように、胸が痛む。
誰だった?
そんなことを私に言ったあの人は。
頭の中が途端に靄のような困惑で、覆い尽くされる。
「紺? 入っていいわよ」
遠くから、亜由美先生の声が聞こえた。
その声を合図に、パチン、と膨らみかけた風船が割れ、意識が現実に引き戻される。
チリチリと焦げ付くような微痛が、こめかみに走った。
「……ましろちゃん? 大丈夫?」
気づけば、すぐ目の前に紺ちゃんの不安げな瞳がある。
「あー、うん。平気、平気。なんかボーッとしちゃった」
「それならいいけど……。あんまり無理しないでね」
紺ちゃんは名残惜しそうに私を振り返りながら、レッスン室へ入っていった。
迎えにきてくれた母さんの車に乗りこみ、傾きかけた太陽の光に目を細めた瞬間、私は違和感の原因に思い当たった。
――前世の記憶が、薄れかけてる。
『ボクメロ』に関してのあれこれだけを鮮明に残したまま、他の記憶がほとんど消えかけていることに気づき、愕然とする。
あれ?
私ってどこに住んでたっけ?
どんな家だった? 通ってた学校は? 仲の良かった友達は?
母さんと父さん、お姉ちゃんの名前は? 顔は?
……私の、名前は?
「――っ!!」
たまらず、両手で顔を覆う。
どうして?
いつから?
前世の記憶を取り戻してすぐは、あんなに鮮明に思い出せてたのに!
「ましろー? 気分悪いの? ……酔っちゃったのかしら。窓を少し開けるわね」
運転席からかかる母さんの声に、答えることが出来ない。
大好きな母さん。
でも、同じくらい大好きだったはずのもう一人の母さんを、私は思い出せない。
優しい人だったような気がする。ううん、これは記憶じゃなく、そうであって欲しいという願望だ。
家に着いてすぐ、二階へ駆け上がった。
ベッドに倒れ込み、縋るようにべっちんを抱きしめる。
「……こんなの……こんなの、やだよ!」
深い、深い喪失感に打ちのめされる。
何を忘れたかも、もう思い出せないのに、悲しくて寂しくてたまらない。
ボロボロと涙がこぼれてくる。
嗚咽を噛み殺しながら、私はべっちんのふかふかのお腹に顔を埋め、泣き続けた。
ごめんね、みんな。
私は全部、忘れてしまう。
必死に掴もうとする思い出の残滓が、細かな欠片となって溶けていく。
せっかく前世の記憶を取り戻したのに、ちゃんと覚えていられないなんて。
家族を残して死んでしまった私は、どれだけの不孝を重ねてしまうんだろう。
沢山あったはずの家族の幸せな思い出は、まるで最初からなかったみたいに、私の中から消えた。
忘れたくないと泣いた記憶さえ、その夜を最後にふつりと消えた。