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私達の席は、横並びで4つだった。
以前のオペラの時と同じく、かなりの特等席。
中央から若干左側に位置した席からは、ピアニストの手の動きがよく見える。
私と紺ちゃんが真ん中に座り、紺ちゃんの隣に紅様、そして私の隣に蒼くんが座った。
2人は親友なんだから、並んで座ったら? と提案してみたんだけど、即時に却下されたのだ。
「何が悲しくて、男の隣でせっかくのコンサートを楽しまなきゃいけないわけ?」
紅様の主張に心の中で反論する。
妹の隣ならいいの? シスコンっぷりが半端なくて怖いんですけど。
「俺はましろの隣がいい」
うん。蒼くんの返事は予想してた。
私はといえば、開演のブザーが鳴った途端、席順なんてどうでも良くなった。
第一部は、アンサンブルコンサート。
ピアノ三重奏、弦楽四重奏、木管五重奏と、バリエーションに富んだ構成で進んでいく。
息もぴったりのトッププロの演奏に、私達は盛大な拍手を送った。
30分の休憩に入ったので、パンフレットを見ながら紺ちゃんに話しかける。
「すっごいね~。当たり前だけど、CDとは全然違うし、来て良かったよ。第二部の独奏も楽しみ!」
「ほんとだね。これだけの出演者を揃えるなんて、主催者側も頑張ったよね」
パンフに載っている経歴を見るだけで、そうそうたるメンバーが揃っている。
私が感心しながら頷くと、紅さまがくすりと笑って肩をすくめた。
「なに他人事みたいに言ってんだよ、紺。主催は、お前の父親だろ」
トントン、と彼が指さしたパンフの裏表紙には誰もが知っている大企業の名前が記載されている。
玄田って、玄田グループのことだったんだ!
うわあ! 紺ちゃんってば、本物のお嬢様だよ!
「わざわざ口に出す事ないでしょ」
紺ちゃんはそっけなく答えた。あんまり言いたくなかったのかな。
「えーと、じゃあ二人の伯父さんに当たるのかな?」
彼女が養女に出されていることを思いだし、関係を頭の中で整理する。
紺ちゃんは何でもないことのように頷いた。
「そうだよ。私達の母の兄が現社長で、おじい様が会長を務めていらっしゃるわ」
「へえ~、すごいね」
あまりにも遠い世界過ぎてピンとこないけど、紺ちゃんのスペックがとにかくすごいということだけは分かった。
ビスクドールのように整った容姿、家柄、ピアノの腕。
三拍子揃った完璧な女の子を前に、溜息しか出てこない。
紺ちゃんは、お金持ちだからって偉そうにしないし、いつも親切で優しい。
特別なのは肩書じゃなくて、資質なのかもしれない。
黙って私と紺ちゃんのやり取りを見ていた紅様は、何故か不機嫌になった。
「すごいね、ってそれだけ? ……普通もっと僻んだり、羨んだりするだろ」
「ええ~。それこそ、勝手に決めつけ過ぎじゃない?」
あまりに理不尽な言いがかりに、つい唇がとがってしまう。
蒼くんは嬉しげに頬を緩めた。
「残念だったな、紅。ましろはそんな子じゃないんだよ」
「ハッ。どうだか」
強気に言い返したものの、紅様は明らかに戸惑っている。
私が紺ちゃんを妬まない理由が、本当に分からないのかな。
狭い価値観しか知らない彼が、少し可哀想になった。
「信じてもらえないかもしれないけど、私は今の家族が大好きなんだよね。どんなにお金持ちだろうが、権力を持ってようが、今の家族がいい。だから羨む理由がないの」
紺ちゃんの立場と取り替えてあげると言われても、答えは「NO」だ。
紅様は言葉に詰まり、俯いた。
耳が赤くなっている。自分の発言が恥ずかしくなったのかも。
そうならいいのに、と思った。
微妙な空気を和ませようと、紺ちゃんが口を開く。
「……ましろちゃん、ご家族のこと大好きなんだよね」
「うん。両親はもちろん、お姉ちゃんだって最高! だから、今のままでいいんだ」
「お姉ちゃん?」
「うん。花香お姉ちゃん。可愛い名前でしょ? ちょっと抜けたところもあるけど、すごく優しくて可愛いの」
「……そっか」
紺ちゃんは言葉少なに答え、じっと私を見つめた。
悲しそうな、それでいて満足そうな不思議な眼差しだった。
……はっ! 姉馬鹿を披露してる場合じゃない。
せっかくだから、音楽の話がしたい。
こんな時じゃないと聞けない話を、皆から聞きたい。
「ごめんね、私ばっかり喋っちゃって。みんなの好きな曲ってどれだった?」
唐突な話題転換にも関わらず、紺ちゃんは小首をかしげながら、考えてくれた。
「どれも良かったけど、一曲あげるならニールセンの木管五重奏かな。ベルリン・フィルのメンバーだったでしょう? 圧巻だった。音の粒が綺麗に揃ってるだけじゃなくて、それぞれの楽器が個性的に空間を彩る感じ。もっと聞きたかったわ」
何とか立ち直ったらしい紅様が顔をあげ、話しに加わってくる。
「確かに。紺はやっぱセンスあるな。俺は、ハイドンのひばりかな。弦楽四重奏の定番だけど、息がすごく合ってて聞きごたえがあった」
なるほどね。長調の曲調が好きな紅様らしいセレクトだ。
「蒼くんは?」
蒼くんに尋ねると「ましろは?」と逆に聞き返される。
「う~ん。今まで悲しい曲ってそんなに好きじゃなかったんだけど、三曲目の、えーと」
「ラフマの三重奏曲第一番?」
パッと曲名を思い出せない私に、蒼くんが優しく教えてくれる。
「うん、それ。すごく良かった。いつか私も、あんな風に弾いてみたいなあ」
ヴァイオリンとチェロの歌うような主旋律を追う、煌めくピアノの音。
自分が鍵盤を軽やかに叩き、あの音を出せているところを想像し、うっとりする。
「そうか? 由来は不吉だし、辛気臭い曲なのに。同じピアノ三重奏なら、チャイコフスキーの偉大な芸術家の思い出の方がコンサート向きだと思うけどな。第一、ラフマニノフのピアノパートは超絶技巧を駆使しないと弾けない曲だぞ」
「そんなに突っかかるなよ、紅。ましろが弾いたら、どんな曲もきっと優しい曲になる。俺はいつか聞いてみたい」
紅様の憎まれ口を、蒼くんがすかさずフォローする。
そりゃ今のままじゃ無理だろうけど、夢は大きく持ったっていいじゃないか。
ほんとこの人、ムカつくなぁ。
「じゃあ、その時は蒼くんのチェロと合わせてね?」
「……ああ、いいよ。俺も頑張らないと」
蒼くんが頷くと、からかう気満々の表情を浮かべた紅様が身を乗り出してくる。
「ヴァイオリンが足りないみたいだけど?」
意表を突かれて、すぐには返事が出来なかった。
ムカつくんだけど、憎めないんだよね。
仲間外れは嫌なのかな?
もう、ほんと紅様ってば子供なんだから。……子供だったわ。
「頼んだら、一緒に弾いてくれるの?」
問い返すと、紅様はあっけに取られたように私を凝視し、それからニッコリ微笑んだ。
「いいよ。お前がどこかのコンクールで入賞するくらいの実力者になったらね」
「その言葉、覚えておいて下さいね」
ふん。めちゃくちゃ練習して、いつか追いついてやる。
その時の紅様の顔が今から楽しみだ。
私が悪役ばりの表情でほくそ笑んだのを見て、紅さまはギョっとした。
「ふふ。紅の負けね」
紺ちゃんが楽しげに言って、その話は終わりになった。
第二部が始まる少し前、ずっと気になっていたことを紺ちゃんに聞くことにした。
主人公が選択肢を間違え続ければ、【バッドエンド】でゲームは終わる。
でも、現実は?
タイトル画面に戻るみたいに、全部リセットされてしまうのかな。
それとも、世界が終わってしまう?
世界の命運を握るのが私なんだとしたら、あまりにも荷が重い。
紺ちゃんは私と同じ転生者だけど、私よりもこの世界に詳しい。
彼女は確固たる方針のようなものを持って、行動している気がする。
「ねえ、紺ちゃん。私がコンクールに出なかったら、この世界はどうなると思う?」
彼女の耳元に顔を近づけ、小声で質問してみた。
「どうにもならないわ。何も変わらない」
紺ちゃんは、ゆるく首を振った。
ここまで確信を持って答えられるのは、この世界の行く末を知ってるからじゃないだろうか。
やはり彼女は、私とは違う。
紺ちゃんは、自分が何故ここにいるのか、分かっている気がする。
「私が青鸞に入学できなくても、世界は続くの?」
「もちろんだよ。ピアノだって、頑張る必要ない。ましろちゃんは、自由なんだよ。好きに生きていっていいの」
紺ちゃんの声は、とても小さくそして静かだった。
強い決意を、その穏やかな表情の下に隠そうと懸命になっているんだって、どうしてなんだろう、分かってしまった。
トビー王子と対峙した時の紺ちゃんを、再び思い出す。
「――何か隠してるんだね、紺ちゃん」
「うん。でも誓って嘘はついてない。全部は言えないってだけ。……信じて、ましろちゃん。あなたは自由に選べるんだって」
ましろちゃん『は』。あなた『は』。
繰り返す紺ちゃんの口調は、悲しくなるほど優しくて、私はただ頷くことしか出来なかった。
第二部が始まったので、一旦考えることを止める。
紺ちゃんとは短い付き合いだけど、彼女が決めたことを容易く覆すとは思えない。
言えないという言葉が、真実なんだろう。
話せる時がきたら、話してもらおう。もうそれでいい。
すっぱり割り切って、演奏に集中することにした。
私が一番楽しみにしていたのは、第2部の最後を飾る男性ヴァイオリニストだ。
日本人なんだけど、活動拠点はNY。ご両親も兄弟も音楽家、というサラブレッド。
ヴァイオリンを顎の下に挟んで構えた姿を見ただけで、瞳が潤んでくる。
ほんと感動だよ、本物をこの目で見られる日が来るなんて!
夢中で演奏に聴き入る私の手に、蒼くんがそっと手を重ねてきた。
――ん?
横目で確認してみれば、明らかに拗ねている。
可愛すぎて、いっそ腹が立ってくる。
曲に集中できなくなるから、やめて欲しい。
蒼くんの手に気を取られているうちに、最後の演目が始まった。
1音目で、意識が全て彼の演奏に向く。凄まじい吸引力だった。
24のカプリース~24番
パガニーニの作曲したヴァイオリン曲の中でも難曲中の難曲とされている一曲だ。
出だしからとても力強い。硬質で挑戦的な弾き方がとても魅力的で、胸が熱くなる。
最後の音がホールの天井に吸い込まれるように消えていくのを待って、耳が痛くなるほどの拍手が沸き起こる。
こんなにも沢山の人を夢中にさせる豊かな音楽に、魂が震えた。
私も思いきり手を叩き、いつか同じ場所へ辿りつきたいと強く願う。
蒼くんの手はいつの間にか外され、彼の膝の上に押し付けられていた。
会場の外に出ると、傾いた太陽がオレンジの光を広げ、辺りを柔らかく包んでいた。
帰りは紺ちゃんが家まで送ってくれることになっている。
彼女は蒼くんにも声をかけた。
「城山くんも良かったら、一緒にどう?」
「そうしたいんだけど……ごめん、待ち合わせしてて」
気乗りしないんだけどな、と続けてぼやいた後、彼は私に小さな箱を握らせた。
「ん? どうしたの、これ」
「後で開けて。一日遅れちゃったけど、バレンタインのお返し」
照れくさそうに笑って、蒼くんは手をあげた。
「またね、ましろ。今日は一緒にいられて、嬉しかった」
甘すぎる台詞を平然と残し、颯爽と去っていく。
彼の背中を呆然と見送った私に、紺ちゃんが遠慮がちな声をかける。
「お返しって……もしかして、蒼くんにチョコあげたの?」
「えっ、ちがっ。いや、違わないのか、な?」
動揺し過ぎてしどろもどろになってしまった私を見て、紅さまが意地悪な表情を浮かべた。
「蒼にはあげたのに、俺にはくれなかったってわけ?」
欲しくもない癖に、よく言うよ!
「来年もまだ知り合いだったら、義理は果たすね」
「ああ、よろしく。手作りはマジで勘弁しろよ。ゴディバより、ピエール・エルメがいいな」
「あはは。面白くなーい」
「今の、冗談じゃないから」
私達の舌戦に、紺ちゃんはとうとう笑い出してしまった。
「紅ってば、ものすごくましろちゃんのこと気に入ったのね」
「は?」
紅様は目を丸くし、それから少しだけ赤くなった。
「馬鹿言うな。そんなわけないだろ」
なんで今、照れたの!?
好きな子ほど苛めるとかいうベタな落ちじゃないよね!?
ありえない想像に、胸の奥が掻き混ぜられる。
悔しいことに、ほんの一瞬、少しだけ嬉しいと思ってしまった。
そう思った自分を殴りたくなった。
春休み直前のレッスン日。
私は足取りも軽く、亜由美先生宅の玄関を開けた。
どんどん弾ける曲が増えている。毎日の練習の成果が出ていることが、嬉しくて堪らない。
階段を登る度、レッスンバッグの持ち手につけたチャームがキラキラ揺れる。
蒼くんから貰ったのは、音符型のチャームだった。
シルバーで出来たト音記号の先端には、キラキラ光る模造ダイヤがついている。
元はネックレスのトップみたい。普段ネックレスなんてつけないので、レッスンバッグにつけることにしたのだ。
「こんにちは、ましろ」
「うわ」
サロンには先客がいた。
紅様が長い脚を組み、ソファーにもたれて音楽雑誌をめくっている。
コンサートの帰り際、意味不明な態度を取った彼に、私の警戒度はレベルMAXだった。
これ以上彼に振り回されない為にも、はっきりさせたい。
「あのさ……」
この間の態度は何だったの?
ストレートに聞けばいいだけなのに、上手く言葉が紡げない。
紅さまは怪訝そうに眉を上げた。
「なんだよ。言いかけたんなら最後まで言って。あと、挨拶忘れてる」
「こんにちは。ごきげんよう。まさかとは思うけど、成田くんって私に興味があるの?」
半ば自棄になって一気に言い切る。
「…………は?」
まさに青天の霹靂という表情で紅さまは私を見つめた。
どうやら私の勘違いだったらしい。穴を掘って隠れたくなる。
「とうとう頭まで……。今度は、どんな妄想に取りつかれたんだ。きちんと話してみろ」
紅様は眉間に皺を寄せ、ポンポンと自分の隣を叩いた。
隣りに座れの合図らしい。
私は恥ずかしさを噛み殺しながら、しぶしぶそこに座った。
「だってコンサートの帰り、耳が赤くなってたじゃない。紺ちゃんに私とのこと、からかわれた時。それに、『今度は』ってどういう意味!? そんなしょっちゅう妄想に取りつかれてる人みたいに言わないで」
「最初に会った時、『私の運命の王子様』って顔で俺のこと、涎たらして見てたヤツが偉そうに言うな」
頬がカァッと熱くなる。
今、そこを突いてきちゃうわけ!?
ああ、神様。今すぐ、私とこの人の記憶を消して下さい。
「さすがに涎は垂らしてなかったよ!」
「否定すべき部分はそこじゃないだろ。……あのね、真白」
紅様は悠々と足を組み替えた。
腕をソファーの背もたれ部分に伸ばし、私を眺める。
年齢にそぐわない仕草も、彼なら様になった。大人びた雰囲気のせいかもしれない。
思わず見とれそうになり、慌てて唇を引き結ぶ。
「紺とは滅多に会えないんだ。あの時は、久しぶりに会った妹の屈託ない笑顔に嬉しくなったんだよ。俺の可愛いお姫様は最近沈みがちで、滅多に笑ってくれなくてね」
うわぁ……。真性のシスコンですよ、この人。
紺ちゃん大丈夫か。お尻をずらして、紅様から距離を取る。
「それを自分への好意だと勘違いするなんて、真白はバカだね」
とうとうバカだとはっきり言われた。
それなのに、彼の表情と口調はものすごく優しいものだった。
混乱してしまい、何も返せない。
「しかも馬鹿正直に直接聞いてくるなんて、ほんとバカ」
紅様はくすくす笑いながら、黙り込んだ私を見つめた。
しっかりと視線が絡み、彼の綺麗な顔が視界の中心で輝く。
私の胸は性懲りもなく高鳴った。
仕方ないんですよ。顔の好みだけはもう、自分でもどうにも出来ない。
開き直って、思う存分鑑賞することにした。
しばらく見つめ合った後、紅様はふわり目元を和ませた。
「……蒼がお前を好きになったわけ、なんとなく分かった」
「は?」
唐突な結論に、変な声が出る。
好きって? 一体、何が分かったの!?
「あれだけアピールされて気づかなかったのか? 鈍感なのか、鈍感な振りが上手いのか……ほんとは何も考えてないだけだったりして」
紅様は私の困惑をばっさり切り捨て、レッスンバッグについた音符のチャームに触れた。
「これ、蒼からのプレゼントだろ? 随分張り切ったもんだよな」
「どういう意味? これって高価なものなの?」
「教えないよ。本当のこと言ったら、蒼に突き返しそうだし」
そんな意地悪なことを言って、紅さまはチャームから手を放した。
ト音記号の先端についた模造ダイヤが、本物の可能性……?
え、でもこれ結構大きいよ。
青褪めたところで、先生の声が聞こえてくる。
「ましろちゃーん? どうぞ?」
慌てて立ち上がり、あたふたとレッスン室に向かう。
直前に動揺しすぎたせいか、その日はミスを連発し、真顔の先生にしごかれる羽目になった。
もっとメンタルを鍛えないと……。
私はサロンには寄らず、玄関先に立って母さんの迎えを待った。
これ以上、紅様にメンタルを削られたくない。
「どうしたの? 今日はしょんぼりだね」
車に乗るなり、母さんが尋ねてくる。
「丸が貰えなかったんだ」
友達に貰ったプレゼントが高価すぎるみたい、とは言えず、レッスンの結果だけを報告する。
「そっか。残念だったね~」
母さんは俯いた私の頭を撫で「そういう日もあるよ。次また頑張ろ?」と励ましてくれた。