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何ともいえない微妙な雰囲気のまま席まで戻ると、すぐに二幕が始まった。
二人とも、まだ気遣わしげにこちらを窺っている。
そういえば、紺ちゃんは紅さまの序盤イベントが苦手だって言ってた。
……もしかして、さっきのもイベント?
自分でも気づかないうちに順調にフラグを積み重ねていったら、どうなるんだろう。
ゲームの進行通り、自動的にイベントが更新されていくのだろうか。
答えの出ない問いを前に、鬱々と落ち込みそうになった私を掬いあげたのは、美しい歌声だった。
第二幕の見せ場でもある『ある晴れた日に』のアリア。
『蝶々さん、我が愛しき妻よ。コマドリがヒナを抱く頃に、バラを抱えて帰ってくるよ』
ピンカートンはその場しのぎの甘い台詞を残して、本国アメリカに帰国済み。
一人残された蝶々さんは、ピンカートンとの間に生まれた息子を抱え、貧乏生活を耐え忍ぶ。
ひたすら夫を信じ、ピンカートンの帰りを待つ蝶々さん。
もう彼は帰ってこないのでは?
仄めかす周囲に向かって、彼女が堂々と歌い上げるアリアは、圧巻の一言だった。
『ある晴れた日に 水平線を見つめると 海の上に白い煙が見える そして船が姿を現すの』
澄んだソプラノの響きが、私の胸を熱く震わせる。
普遍的な美しさ、というものの凄みが、そこにはあった。
『最初になんていうかしら? 蝶々さんって呼ぶかしら 私は返事をしないで隠れるの 少しからかうくらいいいでしょう? あまりの喜びに死んでしまわないように』
ポタポタと涙がワンピースの膝に落ちる。慌ててハンカチで目頭を押さえた。
DVDで何回も見たのにな。生で見ると、こんなに違うものなんだ。
そして、いよいよピンカートンが再び日本へ。
蝶々夫人を迎えにきたのではなく、彼女との関係を清算する為に来日したピンカートン。
なんと彼は本国で結婚した正妻を伴なっている。この場面は何度も見ても、正視するのが辛い。
蝶々夫人にどうしてもその事を伝えることができないシャープレスさん。
その気持ち、すごくよく分かるよ……。
帰国の知らせを受け、舞い上がった蝶々さんは、貧乏生活のせいで落ち窪んだ頬に紅を差し、部屋に花をまき散らし、夫の帰りを待つ。
手の中のハンカチを握りしめ、私は何度も瞬きを繰り返した。
そして運命の第三幕。
健気に自分を待ち続けた哀れな現地妻に罪悪感を覚え、逃げてしまったピンカートン。
残酷な事実を知らされた蝶々さんだが、そこは武士の娘。
取り乱すことを良しとせず、彼の奥さんに「どうか幸せに」と告げる。
彼との間にできた息子は、ピンカートンが引き取ることになる。
芸者に戻って辱めを受けるくらいなら……と、彼女は一人、父の形見の短刀で自害して果てる、というのが物語のラストだ。
私は手が痛くなるほど拍手をしながら、心の底から思った。
男の甘い言葉ほど、当てにならないものはない。
もしも私が蝶々さんだったら、逃げたピンの野郎を地の果てまで追いかけて、ケツを蹴り上げる。
アメリカ式とやらを披露してやろうじゃないの。
それから、ガッポリ慰謝料をふんだくって、家も買って貰って、一人息子を大事に育てあげる!
泣き寝入りなんてするものか。短刀を使うなら、ピンカートン、貴様の喉に突き立ててやる。
まさか100年後の大和撫子が、こんな物騒な事を考えてるなんて、プッチーニは想像も出来なかっただろうなあ。
そうと思うと可笑しくて、胸の痛みが少し薄れた。
オペラ鑑賞の後。
一体これからどうなるのだろう、と怯えたものの、特にこれといったイベントは起きず、その後は平和に過ぎていった。
相変わらず蒼くんとは時々歩道橋で会っているし、紺ちゃんともレッスン日に会っている。
紅様とはオペラコンサート以来、一度も出くわしていない。
ピアノのレッスンは順調に進み、ツェルニーの30番も終盤。同時進行で進めていたバイエルはあっという間に終わり、ソナチネに突入。ツェルニーの50番は流石に難しい。
お風呂に入りながら手指を引っ張って伸ばすのが習慣になった。
オクターブを楽々鳴らせるような大きな手になりたいからだ。
気休めかもしれないけど、指をマッサージし続けると細くなるっていうし、大きくするのにも少しは効果があると思いたい。
亜由美先生は私の上達ぶりにものすごく驚いているけど、この世界がゲームに準じて作られているのなら『主人公補正』というものが働いてるんじゃないだろうか。
そうは思いたくないけど、前世の私の要領の悪さを考えれば、ありえない話じゃない。
懸命に積み重ねている日々の努力が、『だって主人公だから』の一言で括られるのだとしたら、ものすごく悲しいけどね。
勉強の方は、今一つ伸び悩んでいる。
もっとレベルの高い問題をたくさん解かなきゃ駄目みたい。
現状を分析した私は、来年受験生となる姉を連れ出し、ブックストアにやってきた。
「ねえ、ましろ。お姉ちゃん、雑誌見てきてもいい?」
「ダメ。お姉ちゃんの偏差値聞いて、倒れそうになったよ。模試の結果もE判定ばっかりなんだって?」
「えへへ。でもほら、まだ4月まで、もうちょっとあるしー。3年になったら本気出すから」
「……知ってる? 浪人生の大半が、2年の終わりくらいまでそう思って何も対策立てないんだって。次こそは本気出す、なんて言ってる人に限って本気出さないの」
「うう……」
他のお客様の迷惑にならないよう、声のボリュームを絞って、呑気な姉を窘める。
花香お姉ちゃんは涙目になりながらも、大人しく私の後をついてきた。
今日は、姉の基礎学力を上げる為、そして私の更なる学力向上の為の参考書及び問題集を探す予定だ。
流石にこのままではまずいと焦り始めた母さんから、お金も預かってる。
お姉ちゃんには渡すな、と言い含められてるんだけど、言われるまでもない。
あれこれ比較した結果、8冊を購入。
今回は何の邪魔も入らず、じっくり厳選できた。
お姉ちゃんは重たい買い物袋を下げ、この世の終わりのような顔をしていた。
「そんな顔しないでよ。私も一緒に頑張るから、ね? 将来保母さんになりたいって言ってたじゃない。努力はお姉ちゃんを裏切らないよ!」
実は最後の台詞は、前世の姉がよく言ってくれた言葉だ。
落ちこぼれ気味の私を励ます為、姉はそう言って肩を引き寄せ、頭をこつん、とぶつけたものだ。
今は逆に、私が姉を励ましている。
それがすごく不思議で、お腹の底がむずむずした。
「うん、分かった……」
今の姉とは年が離れすぎていて、肩に手を回すことは出来ない。
代わりに腕を組み、こつんと頭をぶつける。
花香お姉ちゃんは嬉しそうに頬を緩めた。
書店を出ようとしたところで、急に彼女は立ち止まった。
「ねえ、マシロ。あれ、見て!」
姉が指さしたのは、入口近くの大きな平台に展開されている料理本のコーナー。
『今年こそ手作り』
そんなキャッチが書かれたピンク色のハート型ポップで、そこら一帯が華々しく飾り付けされている。
「今年のバレンタインチョコは、一緒に手作りしない? 父さん喜ぶよ~」
姉の魂胆は見え見えだ。
手先の器用な私に作らせ、付き合い始めたばかりの彼氏にプレゼントするつもりなんだろう。
「一緒に……ねえ」
「いいじゃん! ね? 勉強頑張るから。がんばりますからー!」
拝むように両手を合わせるお姉ちゃん。
今日はミニスカートにふわふわのショートコートを合わせ、ヒールの高いロングブーツを履いている。
休日だからなのか、薄化粧につけ睫毛、ダメ押しの派手なネイル。
見るからに能天気そうな今時女子高生だけど、恋する乙女には違いない。
「うん。いいよ。お姉ちゃんのこと、大好きだし」
生きてるうちに、言いたいことは全部伝えるべし。
私が前世から学んだ教訓の一つだ。
お姉ちゃんは、やったー! とはしゃぎながら、ピンク色に染まった平台に向かって行った。
苦笑しながら後を追う。
2人でどの本を買おうか迷っていると、ふと視線を感じた。
ちょっと離れた入口付近。
「……蒼くん?」
目があった途端、蒼くんんは真っ赤な顔で回れ右をして外に出ていった。
あれ? 今来たところじゃなかったのかな。
私が蒼くんのとった不可解な行動の理由を知ったのは、ひと月後のことだった。
その年の二月十四日はとても寒く、ちらほらと雪が舞っていた。
眠い目を擦りながら家を出る。
昨日は遅くまでお菓子作りに奮闘していたので、睡眠時間が減ってしまった。
張り切る姉と一緒に台所に立ったまでは良かったが、やはり大ざっぱな彼女とお菓子作りは致命的に相性が悪かった。
まず、レシピ通りに分量を量らない。適当にアレンジを加えようとする。結果、珍妙な味の物体が出来上がる。
このままだといつまで経っても終わらない!
焦った私は、姉を洗い物係りに任命した。そこからは割とスムーズにいったと思う。
最初からそうすれば良かったんだけど、私も頑張る! と拳を握る姉が可愛くて、つい任せちゃったんだよね。私もかなりの姉バカだ。
私達は、父さんと姉の彼氏用に、チーズとチョコとクラッカーを使ったケーキを用意した。フォンダンケーキショコラというらしい。初めて作ったわりに、かなり上手に出来てホッとした。
「おいしい~! ましろ、すごい!」
味見した姉が大げさに喜ぶので、私まで笑顔になる。前世でも現世でも、姉は向日葵みたいな人だ。
絵里ちゃんと、クラスで仲良くしている女の子数名とは、友チョコの交換を約束していた。
友チョコ用にはブラウニーを焼き、久しぶりに折り紙で薔薇の花束も作ってみた。
大きな薔薇は簡単だけど、サイズを小さくしようと思うと結構難しい。ミニミニブーケを5人分折って、ラッピングした袋をそのブーケで留める。
勉強とピアノ漬けの毎日だったので、久しぶりに息抜き出来た気がした。
もちろん、その後しっかりと予定分のノルマは果たしたので、今日はすごく眠い。
家を出てすぐ、絵里ちゃんと合流する。
「おっはよー、ましろん。あ、学校で渡してクマジャー先生に見つかっちゃうといけないから、今渡してもいい?」
絵里ちゃんはサブバックの中から、よいしょ、と袋を取り出した。
いびつな形のトリュフが透明の袋に収まり、ピンクのリボンで可愛くラッピングされている。
「わーい、友チョコだ。ありがとね。私も作ってきたよ!」
私もサブバックの中から、ブラウニーを取り出す。
エリちゃんは渡したチョコに、ものすごく驚いていた。
「ましろん、これ自分で作ったの?」
「うん。味見はしたから、美味しいと思うよ」
「うわ、すごいー! バラもすごく可愛いし、食べるのもったいないなあ」
無邪気に喜ぶ絵里ちゃんに、嬉しくなった。
誰かが自分のしたことで喜んでくれるのって、すごく幸せなことだ。
今年も担任は武光 伸夫先生。
そのクマジャー先生からは「不要なものは学校に持ってきてはいかん!」との通達が出てるんだけど、ほとんどの女子は休み時間にこそこそチョコを配っていた。
いっちょ前に、男子がソワソワしているのが微笑ましい。
例のたっくんが、今年も一番人気のようだった。
「ましろんは、好きな子いないんだっけ? せっかくこんなスゴイのつくったのに、男子にはあげないの?」
昼休み、同じグループにいる麻子ちゃんが、ワクワクした顔で聞いてきた。
「だめだめ。ましろんの恋人はピアノなんだから。ねー?」
放課後はピアノの練習があって遊べない。そう言って、いつも彼女たちのお誘いを断っている私をからかおうと、佐和ちゃんがそんなことを言う。
「そうだよ~。本当に好きな人が出来るまで、誰にもあげないもんね」
自分で言って、ツキリと胸が痛む。
そんな日が本当に来るのかな。まともに恋をしたことがない私には、先が全く見えない。
皆は冗談だと思ったみたいで、ころころ笑っていた。
「ましろんは中学、お受験するんだっけ?」
勉強できる組の朋ちゃんに尋ねられ、私は首を振った。
「ううん、公立に行くよ」
「あれ? でも青鸞に行くのが夢なんじゃないの?」
急にピアノを頑張り始めた私を不審がった皆には、将来の夢を話してある。
朋ちゃん以外の皆も「ましろはお受験組かと思ってた~」などと言い始めた。
「青鸞学院って、中等部までは家柄のいい子しか受け入れてないんだよ。学費も馬鹿高いし、うちではとても無理。朋ちゃんは? 私立受けるの?」
「私は狙いたいんだけど、お母さんがダメだって。はあ……。世の中、お金だよね」
「ほんとそれ」
学区内の公立中学はあまりレベルが高くないという話だから、頭のいい朋ちゃんは不安みたい。
他のメンバーは苦手な勉強の話になったのを察知し、そそくさと私達から離れた。
「でも、ましろんも公立なら、ちょっと安心かも」
「私も思った。トモちゃん、中学校行っても一緒に勉強がんばろ!」
前世の記憶を取り戻してからというもの、以前からの友達の間にぎこちない隔たりを感じていたんだけど、友チョコ交換のお蔭で皆と楽しく話せた。
未成熟な体に馴染むように、心も幼く若返っているのかもしれない。
そして、帰り道。
習字の日のエリちゃんと別れ、私は1人帰路についた。
雪、積もらないのかな。積もったらいいのにな。
儚く舞っている白い欠片を眺めながら、歩道橋に差し掛かった時だった。
水色の髪が視界に飛び込んでくる。蒼くんだ。
彼はこの寒い中、コートも着ないで手すりにもたれ掛かっていた。
「ちょ、何その恰好。どうしたの!」
挨拶より先に、思わず大きな声が出てしまう。
蒼くんは弾かれたように身を起こした。
「マシロ! よかった、会えて」
形のいい頬が、寒さで赤くなっている。鼻の先も赤い。
顔の造作がいいと何をしたって様になるのか、蒼くんの容貌は少しも損なわれていなかった。
私の頬と鼻先が赤くなろうものなら、かなりみっともないことになる。
「良かった、じゃないよ、もう。薄着過ぎ! 見てるこっちが寒いじゃん!」
巻いていたマフラーを外し、彼の首にぐるぐる巻きつける。
去年の冬に自分で編んだ焦げ茶色のマフラー。先に付けたフワフワのぼんぼりが蒼くんには可愛すぎるけど、今は我慢してもらおう。
「はあ。あったかー。……さんきゅ、マシロ」
「朝から天気悪かったのに、コート忘れちゃったの?」
「いや。去年まで着てたやつが、小さくなって着られなくなってたんだよ」
確かに出会った頃に比べたら、随分骨格がしっかりしてきている。
ここ一年で、背もかなり伸びたんだろう。
「着られなくなった、って……」
微かに笑った蒼くんの表情に、息を呑む。
諦め切った乾いた笑みだった。小学生が浮かべていい笑みじゃない。
もう、2月だよ? お母さん、準備してくれないの?
私の顔色が変わったのを見て、蒼くんは軽く肩をすくめた。
「あれ? マシロは知らなかったっけ。今の母さんは、父さんの再婚相手。出て行った本当の母さんそっくりの俺のこと、あの人はあんまり好きじゃないんだ」
カッと頭に血が上る。
「――だからなに? だから、子供のコートすら新調しないの?」
青褪めた蒼くんの唇は、小刻みに震えている。
私の問いには答えず、彼はただ小さく肩をすくめた。
これ、虐待って言わない? まさか、暴力ふるわれたりはしてないよね?
確認すると、蒼くんは鼻で笑った。
「まさか。そんな度胸、アイツにあるもんか」
「お父さんに言わなきゃだめだよ。そしたら、きっと――」
蒼くんを守ってくれる、と続けようとした私の言葉を、蒼くんは乾いた声で遮った。
「父さんはドイツにいる。もう何年も家には帰ってきてない」
何と返していいか分からず、私は途方に暮れた。
私の中で親というものは、全力の愛情を子供に注がずにはいられないい存在だった。
そうではない、と突き付けられ、混乱する。
新聞やニュースで聞いても、他人事のようにしか思えなかった現実に圧倒され、目頭が熱くなった。
「……泣くなよ、マシロ。俺は大丈夫なんだって。我慢すればいいと思ってたけど、コートを買ってくれるようにあの人に言うよ。言えば、ちゃんとしてくれるんだ。父さんに怒られるのは嫌みたいだし。俺に無関心なだけで、暴力とかはないよ、ホント」
蒼くんは私を気遣い、声を明るく張った。
「泣いてないよ! ……雪が、目に入ったんだよ」
一年もそれなりに付き合いがあったのに、私は何も分かっていなかった。
お金持ちで、カッコいい。そんな彼の上っ面だけ見て、すごいな~と呑気に羨んでいた。
前にピアノの話をした時、私は思った。
『何でも手に入る恵まれた蒼くんには分からない』
あの日の自分を思いっきり殴り飛ばしたくなる。
何にも知らない癖に、偉そうに!
恵まれてたのは、私の方じゃないか。
「早く家に帰った方がいいよ。こんなところにいつまでも居たら、肺炎になっちゃうよ」
「うん。でも今日は、どうしてもマシロに会いたくて」
蒼くんは、寒さで強張った頬をにこりと緩めた。
私に会いたくて、この雪空の下、ずっと待ってたの?
なんでこの子、こんなに私に懐いてくるの!?
……折り紙か。無類の折り紙好きか。
「ああ、もう分かった。じゃあ、うちに行こう」
「……え?」
「こんなところで立ち話してたら、ほんと蒼くん病気になるって。私の家、この近くなんだ。……あ、もしかして、すぐ帰らなきゃダメな感じ?」
これ以上見ていられなくてとっさに提案すると、蒼くんの瞳は一気に明るくなった。
無邪気で、純真で、可愛い蒼くん。
『ボクメロ』の彼のイメージは、こんなんじゃなかった。
もっとツンツンしてて、自己防御の壁をぐるりと張りめぐらせている設定だった。
小さい頃は、違ったのかな。彼についての情報を持っていない私には分からない。
紺ちゃんがくれたノートにも、蒼くんについては一切触れられていなかった。
紺ちゃんが紅様の妹に転生済みであるこの世界。
ゲームの進行だけで言えば、私達の未来にもう蒼くんは関係ないのかもしれない。
それなら私だって、好きなように行動していいよね?
「ううん! 行く。俺、行きたい!」
「じゃあ、急いでかえろ。走るよ!」
私は蒼くんの意外に大きな手を取り、一目散に駆け出した。
冷え切った彼の手は、氷のようだった。
家に帰って、鍵開けて、ストーブつけて。
あ、そうだ。残りのブラウニーをおやつにしよう。
無言でついてくる蒼くんが私の手を握り返し、ぐす、と鼻を鳴らす。
私は視線をまっすぐ前に向け、彼の涙には気づかない振りをした。