逃避行
空には満点の星空が浮かび、月明かりが窓から差し込んでいる。
しかし、二人の少女には月と星による自然の明かりを楽しむ余裕はなかった。
断続的に家屋が振動している。そのタイミングは規則的なようで、まばら。
天然のものではなく、人工的な振動だからだ。砲撃が、家を、街を、国を揺らしている。
戦争。
バーミニア王国とウェスタニアの戦争。
その只中に少女たちはいた。砲撃が続く、戦火の渦中に。
「ほ、本当に逃げられるかな……」
「逃げられるかな、じゃない。逃げるの」
怯える少女を励ますもう一人の少女。砲撃が鳴り響く度に肩を震わせる少女にとって、彼女は希望の光だった。
凛とした眼差しで窓を見据える少女の名前をミヤ。
そして、戦争の音に震える少女の名前をティータという。
黒いローブを羽織った典型的な魔女の装束に身を包んでいたティータは、白いフードを被るミヤの恐れなき眼を羨望の眼差しで見つめた。
「どうして、そんなに……自信、あるの」
「自信があるわけじゃないわ、ティー」
ティータの愛称を口ずさみながら、ミヤは言う。しかし、その仕草は、口調は、自信ありげにティータからは見える。彼女は胸を張って、よく通る声で答えた。
「ただ、やらなくちゃいけない目標に、がむしゃらに突き進むだけよ」
「フィンガルドに、逃げる」
戦地に身を寄せる目的を、ティータは声に出した。バーミニアとウェスタニアは、地図上で言えば上下に並んでいる。隣国同士の戦争。密接した関係にあった両国は、文化的な違いがはっきりとしていた。古来よりそういう違いによっていがみ合ってきた、らしい。
だから、この戦争も歴史家たちの度肝を抜いたわけではなかった。
ただ、また起きただけの戦争。しかしこれまでと違ったのは、軍が開発した数多の新兵器だった。
機関車とも違う変わった音が、近くの道路の残骸から聞こえてくる。ティータは恐る恐る顔を上げて、それを見た。キャタピラという複数の車輪を履帯でくるりと覆った不思議な移動方式を用いている車だ。一番特徴的なのは、その砲身だろう。
「戦車……」
「野蛮」
しかし、人間を砲弾でぐちゃぐちゃに潰す兵器を見ても、ミヤは一言で片づけてしまった。ミヤは戦争を嫌っている。それを声高らかに意見を口にできる度量があった。
それはティータには本来ないもの。でも、彼女の近くにいることで、勇気なきティータにも多少のおすそ分けはしてもらえる。
だから、ティータも復唱した。
「野蛮な、車」
「人殺しの兵器よ。人間の兵器は全部野蛮。剣も弓も銃も戦車も戦闘機も」
でも、私たちにはこれがある。そう言って、ミヤは杖を取り出す。
魔術師の杖。魔道を司る者にしか扱えない特別な道具。
元来、魔術師が杖を扱うのは、標的を定めるためだ。何もない状態で何かに狙いをつけるのはなかなかに面倒くさいし困難だ。だから、先人たちは杖を使って、どこに何を放つか照準した。ミヤは好まない表現だろうが、杖は言わば照準器なのだ。戦車が敵に狙いをつけるのと同じ。銃弾を当てるために、覗き込むものと同じ。
でも、ミヤは杖を野蛮だとは絶対に言わない。ミヤは魔術を崇高なものだと信じていた。
だから、彼女は強く振る舞える。彼女には強い魔力がある。
でも、自分にはない。ティータは自信なさげに顔を俯かせた。
「しっかりして、ティー」
「私は魔力量多くないし……本当に逃げられるのかな」
「大丈夫よ。私たちは魔術師で、敵は人間なんだから」
自信に満ちた表情でミヤは言うが、ティータは複雑な思いに駆られる。
あの徴兵令――魔術師は戦争に参加されたし――を見た同胞たちが、素直に戦争に参加するとは思えない。国に奉仕するために戦争へ参じるには、魔術師は迫害を受け過ぎていたし、完全に偏見の目が消えたわけでもない。かつての時代、魔女狩りの時代よりはマシになったが、それでも未だ魔術師というだけで罵倒を受けることもある。
なのに、戦場にはたくさんの魔術師が参列しているという。ティータの胸に宿る不安の目下の理由はそれだった。
「本当に……」
「心配性ね、ティーは。いつもそうね」
「そう、だね……」
ティータは否定しない。いつもそうだ。
ティータが何か物事を成す時に必ず先んじて現れるのが、心を目一杯に膨らませる不安だった。怖い。怖がりなのだ。小さい時から。
そしてまた、勇気ある恐れ知らずのミヤがそんなティータの手を取って、勇気のプレゼントをくれる。
ティータはミヤが大好きだった。たぶん、ミヤもそうだろう。
だから、いっしょに逃げてくれるのだ。
「いい? もう一度、目的を確認するわね」
ミヤは地図を取り出した。最終目的地であるフィンガルドに赤い印がついている。
フィンガルドは上下に並ぶ両国の左隣に位置する国だ。
「この戦闘が静まったら、私たちはほうきに乗って、フィンガルドを目指す。中立国だから、きっと奴らも追いかけてこないわ。それに、空を飛べば人間は追跡できない。空は魔術師の場所だから」
「でも、戦闘機……」
「あんな野蛮な鉄鳥なんて問題ないわ」
ときっぱりとミヤは言うが、ティータは素直に頷けなかった。
それに、古い時代、魔女狩りの狩人はほうきに乗った魔術師をそれは恐ろしい追跡術を使って、地の果てまで追いかけたという。本当に大丈夫なのかと問いかけたかったが、また同じくあしらわれるだけだとわかっていたので、ティータは口にしなかった。
「国境はもうすぐ。たぶん、三日もかからない。そうしたら、私たちは野蛮な戦争からおさらばして、自由を謳歌できる。新生活が始まるのよ。運のいいことにフィンガルドは魔術師に対して悪感情を抱いてない。何で今まであんな最悪な国にいたのか不思議なくらいだわ。でも」
ミヤは不意に顔を綻ばせて、ティータの頬に手を当てた。
「あなたに会えたし、そこだけは認めてやってもいいかも」
「ミヤ……」
バーミニアには嫌な思い出は多いが、ミヤの考えには同意できる。ミヤに出会えたというだけで、あの国で生まれ育った理由は十分にあった。
だけど、もうこれ以上はいられない。ティータにもミヤにも、戦争に参加する理由はないし、これからできるとも思えない。
だから、国境を越える。中立国を目指す。
「砲撃音が止んだわ。銃声も。さぁ、ほうきを持って」
ティータはミヤに頷いて、手製のほうきを手に取り窓際へ向かう。窓を開け放ち、夜風にローブをなびかせて、大空へと舞い上がった。夜空は地表で何が起きようとも無関係で、とても美しかった。
それからは、ミヤの言った通り、誰も追いかけてこなかった。
寄り道せずに真っ直ぐに、目的地であるフィンガルドまで飛翔を続ける。並走するミヤは涼しい顔をして空を駆ける感覚を楽しんでいたが、ティータとしてはあまり余裕はなかった。
ミヤは魔力量に優れている。対して、ティータの魔力量はたかが知れている。
ゆえに、へばるのは当然のことだった。ミヤは疲れ切ったティータの顔を見て励ましてくる。
「頑張って、もう少しだから」
「で、でも、そろそろ……辛い……」
できることなら今すぐにでも降りたい。そう切実な瞳を向けると、ミヤは嘆息して手を伸ばしてきた。
「ミヤ……?」
「掴まって。引っ張ってあげる」
ティータは顔をぱっと輝かせた。ミヤはいつもそう言って、ティータに手を差し伸べてくれるのだ。
ティータはミヤの手を掴んだ。いつもと同じように。
二人で笑顔を見せあいながら。
フィンガルドへは本当にすぐ着いた。とティータが思い違いしそうになるのは、かなりの距離をミヤにけん引してもらったからだ。魔力自慢のミヤも、流石にへとへとになっている。ティータとしても、一刻も早くふかふかのベッドで眠りたかった。
なので、とりあえず宿を探そうと降り立った街の中を歩き回る。体力的にも厳しかったので、歩みは非常にゆっくりだ。
だが、それでも何も問題ない。そう思っていた。ようやくフィンガルドに辿り着いたのだから。
「街並み、よく見えなかったよ」
「とにかくがむしゃらに来たからね。また後でゆっくり見ればいいわ」
ミヤは疲れが混じった笑顔を見せながら、倒れそうになるティータの手を引っ張って先に進む。陸でも空でもティータはミヤにべったりだった。
これからは少し変えないと。いつまでもべったりじゃダメ。漠然とティータが思ったその時、
――ぱん、という乾いた音がした。
「え……?」
呆けた表情でミヤを見る。ミヤの身体がゆっくりと倒れた。
「ミヤ!!」
慌ててミヤへ駆け寄る。彼女の腹部から血が流れていた。
「ティー、逃げ」
逃げて、という言葉は最後まで放たれなかった。代わりに複数の銃声が轟く。反射的に顔を振り向かせるとウェスタニア軍の黄色い制服が目に入った。――国境を越えて、中立国に入ったというのに!
「奴らが例の魔術師か?」
「バーミニアよりも先に確保しろ」
複数いる敵は会話をしながらティータとミヤの元へ寄ってくる。ティータは自衛するべく杖を構えたが、魔術を行使することは適わなかった。魔力切れ。それに、戦う気力もない。ただお守りのように杖を取り出しただけだった。
「杖を出したぞ」
「大丈夫だ。疲れ果てている。問題は……来たな!」
「ウェスタニアに獲物を奪われるなよ野郎ども!」
「バーミニア軍!?」
またもや響いた銃声と怒声にティータは恐懼する。逆方向から赤い軍服の集団が現れたのだ。
ありえないことが目の前で起こっていた。場違いな場所に場違いな軍隊が場違いな戦争を始めようとしている。周辺の住民は怯えて逃げ惑い、兵士たちだけが怒号を飛ばして銃を撃ち始めた。
ミヤと共に逃げようとしたティータだが、ミヤを立ち上がらせるのにも一苦労だった。それを、銃撃に晒されながらしなければならない。どう考えても無理だった。私は死ぬのかも。死という単語に磔にされそうになりながらも、どうせ死ぬならミヤと死にたいとも思っていた。だから、その手を掴む。
「いっしょ……いっしょだよ」
「ダメ、ティー。あなただけでも」
「私、私は……きゃ!」
「ガキを一人確保したぞ!」
背後から来た男にティータは身体を軽々と持ち上げられる。繋いでいた手はあっさりと手放され、バーミニア軍が展開する方へ連行された。ティータを捕まえたのとは別のバーミニア軍人がミヤを起き上がらせようとしたが、彼はウェスタニアの凶弾に倒れた。バーミニアの指揮官が撤退命令を飛ばす。
「仕方ない、退避するぞ!」
「離し、離して! ミヤ!」
「ティー!!」
ティータがミヤの名前を呼び、ミヤがティータの愛称を叫ぶ。
だが、届くのは言葉だけで、手は届かない。その言葉も、遠ざかるにつれて聞こえなくなってしまう。
あれほどいっしょにいようと誓い合ったのに、驚くほどあっさりと離れ離れになってしまった。
「成果はまずまずといったところか。チクショウめ」
ティータは男に乱暴に運ばれながらも、疲労とショックで意識を手放した。
※※※
「ティー。ティー。ふふふ」
「ミヤ、ミヤ、待って!」
ティータはミヤを追いかけていた。いつもそうだ。ティータはミヤを追いかけて、追いかけて、追いかける。そうして、ミヤはゴールで待っていてくれるのだ。優しい笑顔を浮かべて。
だが、今はゴールが見えない。見えるのは、自分を呑み込む暗闇だけだった。
「いやっ!!」
「起きたようだぞ」
男たちの嗜虐的な笑い声が聞こえる。ティータの目の前は真っ暗だった。麻袋のようなものを頭にかぶらされている。男の一人が乱暴に袋を取り、邪悪な笑みを浮かべた。小屋のような場所にいるが、詳細はわからない。ただ、絶体絶命であることと、ミヤと離れ離れになってしまったこと、そして、目前の男たちが自分たちが必死になって逃げていた徴兵官たちであることぐらいしか。
「手間を取らせてくれたな。あらゆる魔術師はバーミニア軍に付くべきだと言うのに」
「あ、ぅ」
恐怖で言葉が発せない。その様子を見て男たちは嗤った。
「こいつ今にも小便漏らしそうな顔してるぜ」
「ああ、全くおかしいな。にしても、女とは上々だ。そうだろう?」
気心知れた中であろう部下が、指揮官らしき男に尋ねる。その雰囲気はまさにティータとミヤのような親友同士なのだろうが、ティータには自分たちと同じ関係性にはとても見えなかった。
そもそも彼らが同じ人間のようには思えない。残忍な顔。
まさに、野蛮。しかし声には出せない。ティータには勇気がない。
「ああ、魔女はいい。憂さ晴らしにも使えるからな」
(憂さ晴らし……?)
とティータが疑念を感じたのも束の間、すぐに答えが明示される。身体的暴力を伴って。
突然身体を押し倒されると、男たちはティータのローブを剥ぎ取り始めた。ティータは言葉を叫べない。ただ嗚咽のようなものを喉の奥から放つだけだ。その従順ともとれる様子に男たちは気を良くし、続きを進めようとした瞬間、突然、戸が叩かれた。全員の視線が戸に向けられる。
「やぁ、夜分遅くにすみませんな」
「何者だ?」
ウェスタニアを警戒してか、指揮官の声が高質的なものとなる。しかし、戸口にいるであろう男は平然とした口調で応じた。
「なに、噂を聞きましてな。察するところ、あなた方は魔術師の少女を……そう、保護したのでは?」
指揮官は部下に武器を取り出すよう指示を出して、ゆっくりと扉を開けた。
開かれたドアから姿を現したのは、黒いインバネスコートに身を包むハットを被った男だった。男の衣装は古めかしく、死神のような印象を与えるが、彼の表情は柔和そのものだ。敵意を全く感じさせないその男に、指揮官たちは幾ばくか緊張を解いた。
「ああ、そうだ。で? 何者だ」
「いやはや、失礼。自己紹介が遅れましたな。私はクエント・ウェスト。魔術師狩りの狩人です」
「狩人だって……」
「ええ、そうですとも。魔術師を狩る専門家ですよ」
と身の上を明かした男に、バーミニア軍の徴兵官たちは顔を見合わせる。どう考えたって、来るのが遅すぎた。遅すぎたのは自己紹介だけじゃなかったな。指揮官はそう鼻で笑って、
「あんたに用はない。魔術師は捕まえた」
「ええ。だからこそ私はあなた方に用事がある」
「何だと?」
「なぜなら……私は」
クエントという男の視線がティータに定まる。息を呑むティータに、クエントはさらなる驚き文句を言い放って見せた。
「彼女を味見したいのです。あなた方といっしょにね」
「何だって?」
「ですから、ご相伴を。もちろん、礼金は支払います」
回りくどい言い回しをしながら、クエントは笑う。敵意の窺わせない顔に、ティータは恐怖を読み取った。バーミニア軍は顔を再び見合わせながらも、満足げに笑った。
「ああ、構わないとも。金がもらえるならな。それに、そうやって教育してやった方が、身の程も弁えるだろう」
「でしょうとも。人の誠意に感謝を」
謝辞を口にしたクエントは小屋の中へと入り、ティータを見下ろす。そして、慄くティータは不思議なものを見た。
クエントは一瞬だけ、ウインクした。まるで合図を送るかのように。すぐさま総勢四人いる男たちへと向き直る。床に寝かされるティータの目に、男の後ろ腰に提げてあるリボルバーが写った。
「さて、まずは……謝罪を」
「謝罪だって?」
感謝の後に謝罪。男たちが訝しんだ瞬間に、クエントは二つの音を瞬時に放った。
「嘘を吐いてしまったのでね」
と説明した後には、四つの死体ができあがった。クエントが持つリボルバーの銃口からは煙が昇っている。恐るべき早撃ち。反応する前に四人の男が頭を撃ち抜かれた。
「さて、哀れな君」
「ひっ……」
「ああ、落ち着いて……と言っても、無理な相談だね。では、息を吸って」
ティータに呼吸を促しながら、中腰になったクエントはリボルバーを見せつける。そして、ゆっくりと床に置くと、手をひらひらと振って武器を持っていないというアピールをした。
「さぁ、吐いて。深呼吸。心を落ち着けて」
言われるがまま、息を吸って吐く。少しだけ、安らぎを取り戻せた気がする。
が、その僅かな安息もすぐに奪われることになった。銃声を聞きつけた兵士が銃を持って現れて、
「さようなら哀れな諸君」
クエントが左袖から小型拳銃を取り出し、振り向き様に二つの遺体を創作したからだ。
「ひ、ひ……!!」
「ああ、申し訳ない。事前に観察したところ、敵が六人いるとわかっていたのでね。悪いが君にも嘘を吐かせてもらった。だが、安心して欲しい。もう銃は使わない。嘘も吐かない」
クエントはデリンジャーを床に置いた。さぁ、動かないで。彼は優しく語り掛けて、ティータの拘束を解く。
それでもティータは目の前の男を信用できずに下がって壁に背中をくっつけた。クエントは朗らかに笑って、
「さて、改めて自己紹介をしよう。私はクエント・ウェスト。先程哀れな彼らに告げたように魔術師狩りの狩人だが……この説明だけでは不足だ」
「ふ、不足……?」
「そう、言葉足らずなのだ。なので、私はいつもこう付け加える――私の名前はクエント・ウェスト。悪い魔術師と人間専門の狩人だと」
「悪い……魔術師と……人間?」
「そう。彼らのように。そして君は殺さない。何も悪くないから。自分でもそう思うだろう?」
ティータは激しく首を縦に振った。クエントはそうだろうとも、とにやりと笑う。
「さて……いつまでもこんな場所にいては話もできない。移動しよう。服を直して」
ティータは言われるがままに服を直し、外に出る。そして大量の兵士に出くわした。オレンジ色の制服を着込むフィンガルドの軍人だ。息を呑むティータをしり目に、クエントは顔色一つ変えない。帽子を取りながら気取った挨拶を指揮官らしき男と交わす。
「どうも、大尉。夜遅くに何用ですかな」
「銃声が聞こえたと市民から通報があった」
「そのようですな。何とも悲しき事故……銃の暴発で頭を撃ち抜いてしまうとは。それも、六人もの男が。もしやこれは事故ではなく、集団自殺かもしれませんな」
平然と嘘を吐く。誰が見ても見抜ける嘘を。ティータは肝を冷やしたが、指揮官の軍人は楽しそうに笑みを浮かべただけだった。
「ああ、そのようだな。よもや――バーミニアの軍人たちにそのような不幸が起きるとは。自国の規模が大きいからと言って……中立国に不法侵入し条約を破って好き勝手暴れるクソ野郎どもにそのような……悲しき事故が起きるとは。人々もみな、さぞ悲しむことだろうな」
男の部下たちが痛快そうに笑みをこぼしていた。指揮官に軽く窘められて姿勢を正したが、含み笑いは隠しきれていない。
「では、これにて」
「待て、クエント。……感謝する」
「構いませんとも、大尉。仕事ですからな。それにお互い様でしょう。……人間の誠意に感謝を。行こう」
クエントは歩調を乱すことなく先を歩いていく。ティータは困惑しながらも彼に促されるまま隣に付いた。
「さて、今のが君が中立国で自国の徴兵官に襲われた理由だ」
「え……?」
「ふむ、混乱していたか? この国は戦争もなく、平和で、理想的な住処ではあるが……戦力に乏しい。軍は無能ではないが、全ての国民を守り切れるほどの力は蓄えていない。予期せぬ来訪者ならなおさらだ。そして、今戦争をしている二つの国は、その弱みに付け込んで、逃げ込む魔術師を捕まえるべく網を張っている。非公式にね」
「そんな……抗議、とかしないんですか」
クエントは無知を諭すように言葉を続けた。
「いや、しない。なぜなら抗議すれば……大義名分を掲げて連中に占拠されてしまうからね。ウェスタニアはバーミニア軍からこの国を守るために、バーミニア軍はウェスタニアから中立国を守るためになどとお題目を掲げてこの地へ軍を派遣する。無論、ただ新しい攻撃拠点が欲しいだけに過ぎないがね。だから、この国の人々は耐えているんだ。中立国というのはどうしても……工作活動の温床となるのだよ」
「……」
「理不尽に思うかね」
絶句するティータの心情をクエントは代弁する。そうだろうとも。しかし、これが現実だ。だが、君は理不尽を脱した。これでようやく新生活を謳歌できるだろう。
クエントの言葉でティータは我に返る。私は理不尽から脱した。
では、ミヤは? 私をここまで導いてくれた親友は?
「あ、あの!」
「どうしたのかね? 何か質問でも?」
ティータはその質問の図々しさを認識しながらも、言葉を紡いだ。
「ミヤ……もうひとりの、女の子は」
「もうひとりだと?」
クエントが訝しむ。その顔にティータは恐怖を見出す。
クエントが恐ろしいというわけではない。完全には失せていないが、彼が味方であるとは理解できている。
クエントがミヤのことを失念していた。知らなかったという可能性が恐ろしいのだ。
果たして、その危惧は現実のものとなる。新たなる理不尽がティータを襲った。
「君だけでは? 私が見た飛行物体……魔女のほうきは一つのように見えた」
ティータはハッとする。手を繋いでいたせいだ。ほうきと魔術師は一対であり、二人乗りは魔力のコントロールに乱れが生じるため基本的に行わない。
魔女が魔女の手を引いて空を舞うことは、イレギュラー。裏技のようなもの。
だからクエントは見誤ったのだ。一つの塊を、二人の少女が仲睦まじく空を舞う姿を、たったひとりの魔女の滑空移動だと。
「手を……繋いでたんです。私、たちは……」
ティータはか細い声で説明を告げる。そのまま消え失せてしまいそうだ。
クエントは悲しみに憂いた瞳でティータを見下ろした。
「何と……すまない。道理でウェスタニア軍の動きが不可解だったのか……」
クエントは合点がいったように呟くと、不安で真っ青になるティータの肩へ手を置いた。中腰になって、視線を合わせる。しかし、ティータが求めるものは彼の表情からは窺えない。
「救って、くれますか……?」
その問いの厚かましさはわかっているが、問われずにはいられない。
「そうしたいのはやまやまだが……さて」
クエントはティータの目をまっすぐ見据える。真摯な瞳。
「結論から先に言うと……今の段階では非常に難しい」
「ど、どうして……」
動揺が言葉に載せられる。クエントはティータの無礼にも目を瞑り、丁寧に説明し始めた。
「なぜなら奴らは既に輸送の手筈を整えている頃合いだからだ。不幸なバーミニアの諸君は手順通りに進まなかった。本来なら今日合流するはずのトラックに獲物を乗せ、早々に国境を越えるつもりだったようだが……生憎運転手が何者かの狙撃によって永眠してね。それが誰だとは言わないが」
この人はそこまで手回しをしていたんだ。ティータは呆然とする頭の中で考える。
それほど用意周到な男が難しいと言う。その事実がティータの心を深く抉る。
「しかし、だ。ウェスタニア軍の工作員は、そこそこ優秀な頭を使って、定型化された誘拐を実行した。その少女は既に輸送トラックの中に放り込まれ、国境に向かっているだろう。追撃は困難だ。賢い選択だとも思えない」
「で、でもミヤは……ミヤは!」
「落ち着きたまえ。だから私はこう言っただろう。今の段階では、と」
クエントの話は鎮静魔術に近しい効果をもたらした。ティータの表情が喜と哀の混ざった複雑なものとなる。
「彼女……その、ミヤ君だが、ウェスタニア軍の拘置所に送られ、教育されたのち、軍に配属されることは明らかだ。ゆえに、彼女は徴兵され、不本意ながらも戦場に参加させられることになるが……それは絶好のチャンスとなる」
「え、と、つまり……戦争に参加している時なら、救い出せる。そういうことですか」
「ああ、そうだ。行こう。今なら歩けるな。馬車はすぐそこだからね」
「馬車……」
クエントの歩みへティータも合わせる。先に一頭の馬とその後ろにある木製の馬車が見えてきた。
その馴染み深い移動方式にしかし、意外な感慨を覚える。彼は貴族のようにも見える。金持ちのようにも。ミヤが嫌う自動車というものを用いてもおかしくない身分には。
そんなティータの疑問を押しやるように、クエントが言葉を発した。
「でだ。話の続きだが」
主人の姿を発見した栗色の馬が嬉しそうに嘶く。
「ウェスタニアの魔術師……強制徴兵された哀れな彼らは管理され、強制的に戦いをさせられる。これは悲劇だが……さっきも言った通り、戦場の中が一番監視が緩くなるんだ。どのみち、ミヤ君を救うためには一度中央へ赴かなければならないだろうし、となると、戦場の真ん中を突っ切っていくことになるが……ここで問題が一つ」
「問題?」
「ウェスタニアの国境へ至る道、最短距離の途中にあるカナミヤ平原に、雨期が近づいていることだ。とてもじゃないが馬では通れない。あらゆる交通方法を用いても、突破は不可能だ。ウンディーネの禊だよ。そして、迂回するのは賢い選択だとも言えない。行きは良いが、帰りに満身創痍のミヤ君を連れて来た道を戻るのは過酷すぎる。精神的にも肉体的にも摩耗しているはずだからだ。さ、荷台に乗って」
クエントはティータをオーダーメイドであろう馬車の荷台へと案内する。中に入ってティータは驚いた。自分のほうきが丁寧に置かれている。彼は回収してくれていたのだ。杖もいっしょだった。
「これ……」
「ちょっと失礼」
クエントはティータに謝って身支度を整える。油断ならない狡猾の男。鋭くナイフのようでいて、しかし曇りを吹き飛ばす太陽のような二面性を持つ不思議な男だ。謎の狩人。漆黒のインバネスコートは死神のような印象を与えるが、その内面は善人に優しく悪人に厳しいという独自の信念を持っている……ように感じる。
自分を騙す悪人である、という可能性もあるにはあるが……クエントは人心掌握に長けている。ティータは先程とは違い、完全に安心しきっている自分に気が付いた。この人は他人に安心感を与える人だ、と思う。そんな目に見えない力をもたらす人間は多くない。
まさに、ミヤと同じ――なぜあの子が攫われなければならないの。
「君は、たぶんついてくるだろうな」
「ミヤを救いに? もちろんです! あの子は私にたくさんの勇気をくれたんです!」
「そう興奮しないで。神経が高ぶってるな。となると、まず支度を整える必要がある。どのみち一度着替えなければ」
御者席に乗り込んだクエントは背後の覗き窓からティータの衣服――魔術師の伝統的なローブを見ながら言う。ティータはまだそこまで汚れていない丈夫なローブを見下ろして、
「大丈夫です、この服、魔力で編まれている特別な――」
「ああ、だからこそ、だよ。君とミヤ君が犯したミスの一つだな」
「ミス? ミスってどういう……」
「どうして私が君たちをこうもあっさりと見つけられたのか考えてみたかね?」
わからない、と首を振って答える。クエントは朗らかに笑った。
「では、移動しながら説明しよう」
一台の馬車が暗闇を進んでいく。僅かな灯りが暗闇を照らしていく様は、希望の光のように感じられた。
この出会いが何を意味するのか……ティータはわからないまま。
「ミヤ……」
親友の無事を祈って、杖をぎゅっと握りしめた。
更新はゆっくりめとなります。
読んで下さった方、ありがとうございました