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子供たちの鎮魂歌②  作者: さき太
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第二章

 「どうせいらない命なら俺にくれないか。」

 そう声を掛けられて沙依は吃驚した。そこには懐かしい養父、行徳(みちとく)の姿があった。

 気が付くと沙依は子供の姿で、崖に腰を下ろして眼下を見つめていた。コーリャン狩りから逃げ出し、龍籠を目指した先で力尽き、絶望し、どうせたどり着けないならここで生を終わらせてしまおうか、そんなことを考えながら崖の下を見ていた。そんな時、養父の青木行徳に見つけられ、拾われて龍籠に招かれた。

 これは長兄に記憶を封じられた時に代わりに入れられた偽りの記憶。こうして沙依の長兄への特別な感情は、命を拾われた恩として刷り込まれ、沙依は養父に忠実な子供として育った。よく養父の犬だと揶揄された。下劣な言葉も浴びせられた。それでも動じることなく、周囲が異様に感じるほど、幼い頃の沙依は養父を妄信し、尽き従っていた。それが長兄の力によるものなのか、そうでないのかは解らない。でも、もし偽りの記憶で縛られなかったとしても自分は養父を妄信したと思っていた。あの頃の沙依にとっては彼が世界の全てだったから。

 記憶を取り戻した沙依は、養父との出会い、もとい最初の兄弟の長兄との再会がこんなものではなかったと知っていた。だからこれが自分の夢であるとわかった。

 寝てるのか覚めているのかもわからなくなった自分が、また記憶の海を彷徨っている。本当の記憶も、偽りの記憶もまぜこぜになって。何故、死期が近づくと記憶を彷徨うのだろうか。自分が生きてきた時間を思い返して何になるのだろうか。沙依には解らなかった。解らないまま、沙依は記憶の海を彷徨っていた。


 「お前が青木の秘蔵っ子か。噂は耳にしてるぜ。ちょっと俺と手合わせしないか?」

 そう言って隆生(たかなり)が笑っていた。これは沙依が初めて公共の訓練場に行ったときの記憶。

 龍籠について最初しばらくは表には出されず、ずっと養父から訓練を受けていた。養父から合格点が出され軍に入隊し公共の訓練所に入れるようになったのは、沙依が龍籠に訪れて二年がたってからだった。当時、第二部特殊部隊の部隊長を務めていた行徳は有名だった。そんな彼が拾ってきて二年も表に出さず手塩にかけて育て上げた娘。その実力はいかほどのものなのか、それは龍籠の軍人なら誰もが興味を持っていたことだった。しかし青木の者に手を出すなんて恐ろしいことができる者はいなかった。青木家は龍籠の中でも浮いていた。それは青木家が持つ神官という役割と、行徳・高英の双子の持つ能力の特異性の為だった。最初の兄弟の長兄と同じ能力を持つこの双子は、他人の精神に干渉し、意思や記憶を読み取るだけに留まらず、その行動さえも操ることができた。あまりにも強大過ぎるその力は、コーリャンを受け入れていた龍籠の中でも畏怖され、敬遠されていた。

 そんな中、おそれも知らず話しかけてきたのが隆生だった。当時、第一部特殊部隊の服隊長を務めていた男。そんな男と沙依の勝負は、そこにいた誰もが興味を持つ試合だった。

 そしてその勝負は沙依が勝った。その結果、沙依の名も瞬く間に有名になった。青木の秘蔵っ子の実力は本物だと誰もが認めた瞬間だった。

 当時沙依はまだ十歳にも満たなかった。そんな自分よりはるかに幼く、小さい沙依に負けたにも関わらず、お前強いな、また手合わせしようぜ、そう言って隆生は笑った。それから度々、隆生は沙依と訓練を共にした。そうやって訓練場の常連になった沙依は隆生以外にも馴染みの者ができ、受け入れられていった。

 あの時のあの勝負が隆生の気遣いだったのだと、大きくなってから沙依は理解した。青木家に引き取られ、噂を膨らませられ、忌み色である黒を持って生まれてきた。そんな沙依が公共の訓練場に馴染めるように気遣ってくれていたのだ。

 そんな隆生とは親友と呼べるような間柄になった。沙依が第二部特殊部隊の部隊長になってからも、大人になった後も、お互いが非番の時はよくおやつを賭けて勝負をした。いつも沙依が勝って、隆生が奢る、そんな関係だった。隆生が沙依に勝てないのは、彼が手を抜いているからだと沙依は思っていた。接近戦は得意じゃないとぼやく彼が、いつも沙依が大怪我を負わないように力加減をしていることを沙依は知っていた。訓練用の模造刀であっても、本気で戦えば致命傷を与えられる。だから力を抑えて戦う隆生と、そんなことはお構いなしにいつも全力で戦う沙依とでは勝負にならないのは当たり前だった。

 「そういや、山邊(やまなべ)んとこのガキはお前と同い年じゃなかったか?ガキ同士でつるんだりしないのか?」

 隆生のその言葉に沙依は春李の顔を思い浮かべた。自分と同い年の少女。後に彼女はたった十五で第一部主要部隊の隊長になってしまった。戦闘において天性の素質と実力を持ったコーリャンの女の子。彼女もまた、沙依と同じで幼いころから有名だった。

 「あいつにゃ俺の部下がだいぶやられたが、普段のあいつは本当にただのガキだぞ。お前もこんな非番の時でも訓練したいとかいうバカが集まる男くさいとこに入り浸ってないで、たまには普通のガキみたいに遊んで来いよ。」

 そう言われて困った記憶がある。沙依には普通の子供というのが解らなかった。同じコーリャンでも隆生に様に龍籠で生まれ育った者には解らない。生まれ育った場所を命からがら逃げださなければいけない子供のことなんてきっと解らない。それに沙依は普通のコーリャンとも境遇が違った。普通のコーリャンの子供は七つになるまでは他の子どもと同じように過ごす。七つの時の儀式で能力の強さが測られ、それによってコーリャンと識別される。でも沙依はその髪と目の色から生まれた時にはもうコーリャンと認識され、隔離されて過ごしていた。物心ついたときから塀の中だった。生まれた時からコーリャンと認識されているにも関わらず、七つまでは生かされた。ただ生かされていた。他の子供のように過ごしたことなどない。龍籠に来てからもずっと訓練に明け暮れてきた。仕事と訓練しかしたことがない。沙依にとって遊ぶとは、隆生とこうして勝負をして一緒にお茶をすることだった。これが遊びだと思っていたから手を抜かれても腹が立たなかったし、楽しかった。それ以外の遊びなんて沙依は知らなかった。養父も、義叔父も教えてはくれなかった。


 「コーエー?」

 そう言う沙依に高英は首を傾げ、沙依の視線の先を見て納得した。

 「表札か。お前の名前も彫らないとな。」

 高英は沙依が自分の名前を読み間違えたにも関わらず訂正しなかった。そのため沙依はずっと高英をコーエーと呼んでいた。沙依は後にタカヒデと読むことを知ったが、呼びなれてしまったその名を直すことができず、公の場以外ではずっとコーエーと呼んでいた。

 高英はいつも不機嫌そうな難しそうな顔をしていた。その表情は行徳とは正反対だった。同じ顔でも行徳はいつも穏やかな笑みを浮かべていた。高英は口数も少なく、人ともあまり関わらなかった。人と関わることを嫌っているというよりも、恐れている、そんな印象を沙依は彼に持っていた。

 最初、沙依は高英が怖かった。それは兄から沙依を押し付けられた高英が、自分を嫌っているように見えたから。それはいつも不機嫌そうな彼が何を考えているのか全くわからなかったから。行徳の訓練で意識を失った沙依をいつも介抱してくれたのは高英だった。でも沙依が起きるといつも、そこにはもう彼の姿はなかった。心配する言葉も、気を遣うそぶりもなく、ただいつも通りの会話もない生活が流れた。だから仕方がなく面倒を見ているだけで、本当は自分のことなど邪魔にしか思っていないのだと沙依は思っていた。

 ある日、沙依は訓練でひどい怪我を負った。起きるといつも通り高英はいなかった。いつも通りだった。でも、その時の怪我は深く時間が経つにつれ痛みが増し、身体は熱っぽく頭がくらくらとしてきた。しかし沙依は何も言わずいつも通り過ごした。珍しく高英が傷の具合を聞いてきても、大丈夫としか答えなかった。その時、高英はひどく辛そうな顔をした。なんで高英がそんな顔をするのか沙依には解らなかった。でも、彼が本当に自分を心配してくれているのだという事だけは解った。嘘をついたことを沙依は少し悔やんだ。

 その晩沙依は高熱を出した。高英はずっと沙依に付き添って看病をしてくれた。沙依の熱が下がっても高英はそこにいた。ずっと傍にいてくれた。大丈夫か?そう訊かれて、沙依は大丈夫と言った。本当はまだ頭がくらくらしていた。でも平気だと言った。もう起きられると。それは高英を心配させたくなかったからだった。それを見て高英は悲しそうな顔をした。

 「わたしが嘘をつくと、コーエーは痛いの?」

 沙依は聞いた。高英は少し考えて、そうだなと答えた。

 「本当は何を考えてるのか解ってしまうからな。今回はお前が俺のこと考えて大丈夫って言ったのは解るが、それでも偽られるのは苦手だ。」

 そういう高英は困った様な顔をしていた。

 「じゃあ、わたしもうコーエーに嘘つかないよ。約束する。だから泣かないで。」

 沙依のその言葉を聞くと高英は一瞬驚いた顔をして小さく微笑むと、ありがとうと言った。高英が怖くなくなった時だった。彼が本当はとても優しいんだと、ただ不器用なだけなのだと知った時だった。それからは約束通り沙依は高英に嘘をつかなかった。隠し事もしなかった。それでも受け入れてくれる彼に沙依が懐くには時間はかからなかった。沙依に対して高英の対応が変わったわけではなく、相変らずそっけなく、相変らず会話もなかったが、それでも高英は沙依にとって一番信頼できる、安心できる相手になった。


 春李は泣いていた。龍籠が見渡せる場所で彼女は泣いていた。

 自分と同い年の少女。自分より先に軍隊に入り、史上最年少で隊長になった少女。その頃はまだ彼女は隊長ではなかったが、彼女の強さは第一部主要部隊で群を抜いていた。そんな彼女が何故泣いているのか沙依には解らなかった。

 「あれはね、わたしが殺した人たちのお墓なの。」

 そう言って春李が指したのは龍籠の共同墓地だった。

 「ここに逃げてきた時、武器を持った人たちに囲まれて怖かった。もう龍籠の中に入ってたのにわたしを追ってきた人達と同じような気がして、怖くて、気がついたら殺してた。(よう)(いん)が止めてくれなきゃ、わたしはきっと、もっとたくさん殺してた。そしたらわたしもきっと誰かに殺されてたんだ。」

 そう言って春李の目からは更に涙が溢れてきた。

 「コーリャンはなんで死ななきゃいけないの?そんな決まりが無かったら、あんなことにならなかったのに。」

 戦う事において天賦の才を持ち、強大な力を持つ彼女。普通ならコーリャンとはいえまだ幼い子供相手に、龍籠の猛者たちがそうやすやす敗れるわけはない。でも春李にはそれができてしまった。それだけの力が彼女にはあった。その才能と能力に多くの者は羨望を抱いた。しかしその本人はきっとそんな才能は欲しくなかったのだと思う。そんな才能を持つには春李の精神はあまりにも幼く、弱くかった。

 殺されたくない。殺したくもない。本当は戦いなんてしたくはない。そんな春李がそれでも軍隊にいたのは償いだった。自分のその才能を龍籠のために役立てることで、自分が殺してしまった命に償おうとしていた。そしてまた違う命を奪い、その度に彼女は泣いていた。敵とか味方とかそんなものは関係なかった。誰かの命が自分や誰かの手で奪われること、そのことに春李は耐えられなかった。

 「戦いたくないなら戦わなくてもいいのに。」

 沙依はそう言った。

 「シュンちゃんが戦いたくないってこと、みんな解ってるよ。シュンちゃんは確かに強いけど、シュンちゃんがいなくちゃどうにもならないくらい皆は弱くない。シュンちゃんが戦いたくないなら、戦わなくてもいいと思う。」

 それが簡単なことではないことは沙依も解っていた。実際、春李ほどの実力者が戦いたくないなどと言えば力があるものは戦うべきだという者も多いだろう。一時的に受け入れられたとしても、きっと大人になればまた軍に戻ることを打診される。それでも沙依は、戦いたくないなら戦わなくてもいいと本気で思っていた。殺し合いなんて心を壊してまでするものじゃない。必要な時自分や大切なものを守るために戦えればそれでいい。そう思っていた。

 沙依の言葉に春李は驚いていた。

「沙依は戦うのが好きだから、軍隊にいるの?」

 その問いに沙依は首を横に振った。

「訓練をするのは好き。でも実戦は好きじゃない。それでも、それで行徳さんの役に立てるならわたしは戦い続けたいと思う。」

 子供らしからぬ沙依の言葉に春李はめをぱちくりさせて驚いた。

 「沙依はお父さんのことが大好きなんだね。」

 そう言って春李は何かを考えるそぶりをした。

 「わたしも陽陰のこと大好きだよ。陽陰はわたしを助けてくれて、お父さんになってくれた。陽陰は軍人にならなくてもいいって言ってくれたけど、わたしは自分で軍人になった。わたしも陽陰みたいにこの国を守る人になりたいと思ったから。わたし頑張ってみる。」

 そう言って春李は笑った。

 それからも春李は戦う度に泣いていた。ただ以前のように、なんで、どうしてと言わなくなった。ただ静かに戦で散った命を想って泣くようになった。そんな時、沙依は春李に付き添うことが多かった。ただ傍にいただけ、時々肩を貸していただけ。それだけのことでずいぶんと救われたのだと春李に言われ、沙依はくすぐったい気持ちになったことを覚えている。

 ターチェにとって忌み色である黒。その色をした沙依の目と髪を春李は綺麗だと言った。そしてよく沙依の髪を編んで遊んでいた。軍人とはいえ女の子なんだから、非番の時ぐらいおめかししないと。そう言われ、沙依は春李によく着せ替え人形のようにおもちゃにされた。そういう春李自身は、邪魔だからと前髪は額が出るほど短く適当に切り、後ろは伸ばしっぱなしにしていた。沙依がそんなことをすれば怒るのに春李自身はそれでいいなんてずるいとむくれると、いつも春李は笑っていた。沙依は美人だから。春李はよくそう言ったが、そんなことを言うのは春李くらいだった。忌み色を持って生まれた沙依の容姿を褒める変わり者は、春李くらしかいないと沙依は思っていた。色素の薄いターチェ。その中でも春李の色素は薄く、その薄茶色の髪は光に当たるとキラキラ輝いていた。それを見て沙依はいつも、シュンちゃんの方が綺麗なのになと思っていた。


 行徳が第二部特殊部隊の部隊長を退くことになった時、副隊長を務めていた沙依と一馬のうちどちらが次の隊長になるのかと言われれば、誰もが一馬が次の隊長になるのだと思っていた。しかし行徳が次の隊長に指名したのは沙依だった。それは大きな波紋を呼ぶことになった。

 元々第二部特殊部隊は荒れくれ者の集まりで有名だった。別名、特攻部隊。そう呼ばれる第二部特殊部隊は、真っ先に敵陣に突っ込んで戦力を削ること、また力量の解らない敵と交戦しその戦力を測ること、そして囮になることを主な任務内容としていた。そのため一番死傷率が高く、一番危険な部隊だった。そんな第二部特殊部隊に自ら志願してくる変わり者はおらず、多くの者は他の部隊で手に負えなかったり、問題を起こしたような連中だった。そんな第二部特殊部隊での序列はわかりやすく強さだった。強い奴が偉い。たとえ自分より立場が上でも自分が認めた者以外の命令は聞かない。気に食わなければ誰の言うことも聞かない。聞かせたければ力ずくできかせてみろ。それが第二部特殊部隊における基本ルールだった。その筆頭が一馬であり、彼は龍籠で最強の軍人だった。その絶対的な強さから、第二部特殊部隊の中で彼は憧れの的であり、彼に心酔するものも多かった。そんな第二部特殊部隊を取りまとめられたのは行徳だったからこそだと思う。なのにそんな第二部特殊部隊の部隊長を行徳は沙依に譲った。当時の沙依はターチェとしてはあまりにも若かく、行徳の代わりを務めるには誰が見ても役不足だった。春李のように管理体系が確立し秩序が守られている主要部隊の部隊長を担うのとはわけが違う。どう考えても沙依には荷が重かった。

 「俺は絶対に認めないからな。」

 そう言って一馬は力任せに沙依の胸倉を掴んだ。そうすると沙依の身体は簡単に持ち上がってしまうが沙依は全く動じる様子はなかった。そのままにらみ合いになり、一馬は力任せに沙依を壁に投げつけた。

それはいつもの光景だった。気に入らないことがある度に、一馬は沙依に喧嘩を売っていた。実際は喧嘩にもならない、一方的に沙依がやられるだけ。それでも沙依は逃げず、動じず、反撃することもなく、いつも静かに一馬を見つめ言いたいことを言うだけだった。そんなところも気に入らず、初めのうちは沙依が瀕死状態になるまでぼこぼこににすることも多かった。それでも動じない沙依に、一馬は力ずくで言うことをきかすのを半ば諦め、今の状態に落ち着いた。沙依が第二部特殊部隊に入隊したこと自体、一馬は気に入らなかった。チビで非力な女のガキが、ここにいることも、副隊長になったことも、今度は隊長に任命されたことも、何もかも一馬は気に食わなかった。それを全て本人にぶつけていた。

 「コーエー手を出さないでね。」

 自分を心配した高英に沙依は釘を刺した。

 「行徳さんだって本当は一馬に隊長をやらせたいんだよ。一馬のカリスマ性の高さにも、能力の高さにもわたしじゃ全く敵わない。でも隊長になるには一馬はあまりにも思慮に欠けてる。隊長職に必要な能力にも欠けている。そこをどうにかして一馬に隊長を譲ることがわたしの役割だよ。」

 そう言って沙依は高英に自分が何をするつもりなのかを全部話した。高英は何か言いたげだったが、何も言わず沙依の意思を尊重した。そして沙依に頼まれた条件にあう仕事の指令を出した。その頃には高英は司令塔統括管理官を務めており、それぐらいのことは簡単にできた。

 沙依は自分を中心に一馬はじめ、一馬に心酔し沙依に反意をもつ者を集め少人数の作戦実行部隊を編成し、出陣した。そしてその部隊は壊滅した。最初から沙依の立てた計画に沿わず、命令違反、独断行動を行った結果だった。

 最後に残ったのは、沙依と一馬だけだった。

 「一馬。これがお前がやったことの結果だよ。」

 そう言って沙依は一馬に撤退命令を出した。そして自分は囮として残った。敵の目を引き付ける、実際より部隊編成を大きく見せる、まだ戦力があると思い込ませる、そういう小賢しいことは得意だった。一馬の退路を確保し彼を無事に帰させる。後はそれをするだけだった。それで沙依の当初の目的は完遂される。沙依は高英の顔を思い浮かべ、心の中で謝った。

 沙依には最初からこうなることは解っていた。最初からこうするつもりだった。そのために一馬一人の力量で、力技のごり押しで何とかならないような仕事を回してもらった。そして自分の言うことを絶対に聞かない連中を集めた。一馬さえ生き残れば、自分含め全員死んでも構わないと思っていた。一馬にトラウマを植え付けることで、彼に足りない思慮深さを補おうとした。一馬が落ち着けば足りない能力は誰かが教えてくれる。一馬は案外、面倒見がよく優しい。だから自分を慕う者達が自分のせいで窮地に立たされ命を散らす結果になれば目が覚めるだろうと思ってのことだった。それが隊長として隊の今後を考え沙依がした決断だった。非情なことをしたと思っている。沙依の心は痛んだが、後悔はしていなかった。必要なことだと思っていた。

 沙依は死ななかった。気が付くと一馬がいた。結局、一馬は最後まで命令違反をして沙依を連れ戻した。彼のコーリャンとしての能力を使って、敵もろとも辺り一面を消し飛ばして。よく沙依まで消し飛ばさず力を制御できたなと沙依は思った。沙依が知る限り、後にも先にも彼が器用に力を制御できたのはその時だけだった。

 「俺が悪かった。もう二度と同じことはしない。お前の命令に従うよ。」

 一馬が沙依を隊長と認めた時だった。それ以来、一馬は沙依に従順になった。そのことに関して沙依は複雑な気持ちだった。一馬が従えば後は多少のごたごたはあったが勝手についてきた。そうやって沙依は第二部特殊部隊を取りまとめるに至った。


 「隊長に憧れて、第二部特殊部隊に志願しました。」

 さわやかな笑みを浮かべ、孝介はそう言った。そうやって慕ってくる孝介に沙依はなんとなく最初から苦手意識を持っていた。頭が良くとても気が利く好青年、そんな印象の彼は第二部特殊部隊には似合わない存在だった。孝介の実力は本物だった。特に作戦立案や、班の動かし方、人の動かし方において、目を見張るものがあった。孝介はその能力を生かし、曲者ぞろいの第二部特殊部隊員をあっという間に手懐けてしまった。彼ほどの実力と適応能力があれば他のどの部隊でも重宝されたと思う。むしろ他の部隊の方が合っている気がした。なのにわざわざ沙依の部下になりたくて第二部特殊部隊にやってきた。沙依から見て、自分より頭も切れ実力もある彼がそこまで自分を評価し慕ってくる意味が解らなかった。

 孝介は一馬を嫌っていた。それは見ていれば明らかだった。沙依はそれを、以前一馬が自分を毛嫌いしていたのと同じようなものだと思っていた。孝介は頭がいいから、一馬に対する間違った偏見にいずれ自分で気づいて勝手に解決される問題だと思っていた。それが間違いだと沙依が気が付いたのは、孝介を副隊長に任命ししばらくたった頃だった。仕事上での一馬のミスが目立つようになった。一つ一つは些細な事で、大した問題ではなかったが、その大した問題でないことが目立つことが問題だった。あからさまに誰かが一馬を貶めようとしている。そう感じて沙依は慎重に様子を見た。そして孝介を呼び出し問い詰めた。

 「隊長はなんで一馬のことをそこまで評価するんですか?一馬の強さは認めますが、ろくな作戦も練れないバカじゃないですか。あなたがどうしてそこまで一馬を立てるのか僕には解らない。」

 孝介の口調は穏やかだったがそこにはあからさまに一馬に対しての軽蔑の色が浮かんでいた。沙依が自分より一馬を評価することが許せなかった。自分の方が優秀だと、自分の方が沙依の片腕にふさわしいのだと見せつけたかった。そんなことを語る孝介を見て、沙依は嫌悪感を抱いた。

 「一馬は自分の足りないところを認めそこを他者に頼る柔軟性を持つ優秀な軍人だ。わたしが隊を取り纏められているのも、一馬の力に頼ったところが大きい。」

 孝介が何か反論しようとしたがそれを沙依は目で制した。

 「いいか孝介。お前のやっていることは第二部特殊部隊の秩序を乱し隊を貶める行為だ。一馬を否定し貶めるということは、一馬を信頼し副隊長を任せているわたしの判断を否定し貶めているということだ。行動を改めないのであれば次はない。わたしはお前を除隊する。覚悟をしておけ。」

 沙依の言葉に孝介は下を向き黙り込んだ。

 「孝介。お前を副隊長にしたのはお前の実力を認めて頼りにしてるからだよ。確かに一馬には足りないところが多い。でもその足りないところをお前が補ってくれればいいと思ってる。逆にお前に足りないところは全部一馬が持ってる。二人が力を合わせたならわたしなんて本当に役立たずなんだから。仲良くできなくても協力する努力はしてよ。」

 沙依のその言葉に孝介は顔をあげ、ぽかんと間抜けな顔をした。

 「お前には期待してるんだ。わたしの期待を裏切るなよ。」

 沙依がそう言うと孝介は笑った。それ以来、孝介は表面上は一馬に協力するようになり沙依の仕事は格段に楽になった。


 龍籠で過ごした日々がかわるがわる移っていった。色々あった。本当に色々。楽しかったことばかりではない。それでもやっぱり幸せだった。皆と過ごせて、幸せだった。


 沙依は荒れ野に立っていた。これは龍籠が滅びたあの時。見渡す限り戦火に包まれ、沢山の人が死んでいた。これは沙依が招いた結果だった。沙依が選んだ選択の結果だった。こうなることはこの身体に生まれた時から解っていた。

 地上の神の子。最初の兄弟が全員龍籠に集まっていた。行徳、春李、成得、陽陰、一馬、そして沙依。全員コーリャン狩りを逃れ龍籠にたどり着いた。そして全員龍籠で軍人になった。よくここまで全員生き残ったと思う。あれの準備が整うまで全員が生き残ってしまった。だからこそこれが起きたともいえる。沙依がこの身体に生まれ落ちたその時にはもう決まっていた運命。だからここまで皆が生き残ることもきっと運命だった。

 最後の戦いに赴くとき、沙依はターチェの誇りを守って人として人と対峙すべきだと主張した。それは人間があれの駒にされているだけだと知っていたからだろうか。沙依には解らなかった。ただその結果が、目の前のこの光景だった。戦闘は泥沼化し人間もターチェもたくさん死に、沢山の恨みが残った。もし力を制限せずに戦うことを許していたら鬼と化さずに済んだものもいるのではないだろうか、そう考えると、鬼と化した者たちの恨みは人間ではなく自分にむけられるべきものだと沙依は思った。

 最初の兄弟がそろっていた。世界を滅ぼして、世界を作り直すことだって可能だった。でもその選択肢は沙依にも行徳にも初めからなかった。きっと他の皆が最初の記憶を持っていたとしても、誰もそれをしようとは言わなかったと沙依は思う。


 「沙依。ごめんね。」

 そう言ったのはヤタだった。あれに力を与えられて人間でなくなってしまった幼い少年。ヤタはいつも沙依に謝っていた。謝る事なんて何もないのに。謝らなくてはいけないのは、巻き込んでしまった自分の方だと沙依は思っていた。

 ヤタに連れられて渡った大陸で二人肩を寄せ合って生きてきた。ヤタは必死に沙依を守った。幼かった彼がどれだけ辛い思いをしてどれだけ苦労をして沙依を守り養っていたのか、それを思うと沙依は心が痛んだ。

 当時の沙依は役立たずだった。まだ慣れないヤタの術式で記憶を奪われ何もわからない状態だった。ただ手を引かれるままにヤタについていった。ただ言われるがままにおとなしくしていた。そうやって過ごしながら少しづつ生活する術をみにつけていった。少しずつ知識を取り戻していった。自分よりはるかに幼い少年は当時の沙依にとって父のような存在だった。

 「僕はちょっと出かけてくるけど、もし僕が日をまたいでも戻らなかったらここから離れて身を隠すんだよ。」

 そう言ったヤタの顔は緊張で強張っていた。ヤタは戻ってこなかった。ヤタの代わりに家にやってきた男に沙依は意識を奪われ連れ去られた。

 沙依が気が付くとそこは暗い部屋だった。窓もなく光が差し込まないため今が昼間なのか夜なのかそれさえも解らない部屋だった。ただ男が持っているあかりだけが唯一の光源だった。 

 沙依は鎖につながれていた。何が起きているのか沙依には全く分からなかった。ただ良くないことが起きたことだけ理解することができた。

 「これが神の末娘か。」

 そう言って男は沙依を舐め回すように見た。

 「記憶がないとは本当か。力が使えぬとは本当か。どれ、試してみるかな。」

 そう言いながら男は沙依に問いを投げかけ、沙依の様子をまじまじと注視していた。男の問いに沙依は何一つ答えることはできなかった。訊かれることはどれも意味が解らないことばかりだった。ただ怖かった。ただ恐ろしかった。ヤタの元に帰りたい、そう思ったがそれはかなわなかった。

 男は毎日やって来て毎日質問を繰り返した。暴力を受け、薬を盛ったり、道具を使ったり、何らかの術式を施されたり、沙依にとってそれは苦痛の日々だった。

 「ターチェの身体とはこれほどにまで丈夫で術式に対しての耐性も強いものなのか。それともこの娘が特別なのか。」

 男は興味深げに沙依を観察していた。そして沙依の顎を掴み目を覗き込んだ。

 「これだけやってもまだ壊れんのか。たいしたものだ。」

 そう言った男は楽しそうだった。沙依は何をされてももう何も感じなかった。記憶がなくとも訓練された技術は失われていなかった。沙依は無意識に拷問から自分の精神を守っていた。男から与えられる痛みも苦しみも、沙依を傷つけるには充分でも壊すには足りなかった。

 「心を壊せばおのずと深いところに沈められた記憶が顔を出すかと思ったが、なかなかうまくいかないものだ。痛みに対しても反応がなくなってきた、これでは腕の一本や二本千切ったところで意味はなさそうだ。」

 そう言いながら男は沙依の身体をまさぐって自分が傷付けた場所をなぞった。

 「あれだけ深く傷つけたのに完全に繋がっている。この治癒力の高さもまたターチェのもつ力なのか?本当に興味深い。これほど強い身体。精神。是非欲しいのう。」

 そう言って男は沙依の下腹部に手を伸ばした。いつもの拷問とは違うその手つきに、沙依は思わず身を捩じらした。

 「久しぶりに反応を示したか。これはいい、一石二鳥だ。感情を大きく揺さぶって、大いに苦しんで、そしてより強い子を孕めよ。」

 男はそう言って沙依を凌辱した。それは術式が暴走し沙依が部屋ごと自分を外界から隔離してしまうまで毎日続けられた。しかし沙依が子を成すことはなかった。


 子供の姿に戻りずっと闇の中で彷徨っていた沙依を外に連れ出したのは、幼い頃の道徳だった。外に出た瞬間沙依は全てを思い出し、そしてその記憶はまた徐々に遠のき沙依の中から消えていった。

 当時の沙依は微かに記憶がちらつき、凄く不安定だった。いつも夢にうなされていた。戦火の中、死体に囲まれて一人立っている自分の姿を毎日夢で見た。微かにちらつく面影に助けを求めて手を伸ばすが、その手はいつも何もつかめず空虚だった。夢にうなされるといつも道徳が手を握っていてくれた。そんな道徳に高英の面影を見て、沙依は安心感を覚えた。

 「俺が家族になってやる。今日から俺が君の家族になるから、だから一人ぼっちなんかじゃないし、君の帰る場所はここだ。」

 どうして道徳がそんなことを言ったのか沙依には解らない。ただ沙依は当時、凄く帰りたくて仕方がなかった。家族の所に帰りたい。そんな気持ちに支配されつつも、その家族はもう失われているだろうという絶望感から、沙依は途方に暮れていた。そんな時に道徳がこの言葉を掛けてくれた。凄く嬉しかったことを沙依は覚えている。この時から沙依にとって道徳は特別な存在だった。

 当時の沙依には何故だか解らなかったが仙人界が怖かった。仙人と呼ばれる大人たちが怖かった。おなじ修練者であってもより上の兄姉弟子たちが怖かった。沙依が怖くなかったのは、同じ時期に昇山した子供たちだけでその中でも安心できる存在は道徳だけだった。だからいつも道徳について回った。少しでも道徳から離れると不安で仕方がなかった。だからいつも自分の部屋があるにもかかわらず、道徳の寝所に潜り込んで眠っていた。そうしないと安心して眠れなかった。道徳にくっついていれば安心できた。道徳にくっついていなければ安心できなかった。お互いの身体が大人に近づいてもそれは変わらなかった。ただその頃から沙依は道徳に触れることに、気恥ずかしさを感じる様になってきた。それに沙依自身、子供頃のまま一緒にいることが大人になっても許されることではないことも解っていたから、少しづつやめようと努力した。でも他の仙人達が怖くなくなっても意味のない恐怖や不安は付きまとい、我慢しようとすればするほどそれは強くなった。特に夜になるとそれらはさらには強くなった。一人暗い部屋で横になっていると、不安はどんどん膨れあがりどうしようもなく怖くなった。不安が強くなると、どうしても道徳の元へ行きたくなった。子供の頃のようにくっついて全身で道徳を感じたくなった。そして結局、我慢できずに道徳の寝所に潜り込んだ。沙依は寝ている道徳を起こさないようにそっと近づいた。少しだけ、少しだけくっついて、落ち着いたら帰ろう。いつもそんなことを思っていたが、結局いつも気が付くと寝付いていて朝になっていた。

 「沙依。俺たちももう子供じゃないんだから、いいかげん男の寝所に入ってくるのはやめろ。」

 そう道徳に怒られた時、沙依はもっともなことだとは思った。自分だっていけないことなのは解っている、でもどうしようもないんだ。そんなどうしようもない我儘を言いそうになって、沙依は口をつぐんだ。それをどう感じたのか道徳は、もし間違いが起こったらどうすんだよと小さくぼやいた。誰に投げかけたわけでもないそのぼやきを、沙依が聞き取っていたことを道徳は気付いていなかったかもしれない。

それからも結局、沙依は道徳の寝所に潜り込むことをやめることはできなかった。沙依は時々道徳のぼやきを思い出しては、道徳とだったなら間違いが起きたってかまわないのにと思った。でも道徳とはそういう関係にはならなかった。道徳は一度だって沙依に手を出そうとはしなかった。二人のその関係は道徳が自分の洞府を開いて本山を出ていくまで続いた。

 道徳に簡単に会いに行くことができなくなって、ようやく沙依は精神的に自立した。そして沙依も仙号を得て本山を離れた。その頃には沙依は道徳がいなくてもちゃんと自分の中の恐怖と付き合えるようになっていた。それができるようになると沙依は自分が道徳に憧れていたことに気が付いた。沙依はずっと道徳に依存しているだけなのだと思っていた。無意味な不安が大きすぎて彼に頼りきりになっていただけだと思っていた。でも本当はそれを言い訳に彼の傍にいたかっただけだと気が付いた。彼の様に強く大きな存在になりたくて、見ていたかったのだと気が付いて、切なくなった。多分自分にはなれない、そう思って辛くなった。

 沙依が道徳に隠している秘密が沙依の心を縛って苦しくさせた。こんなものを抱えて閉じ籠っている自分は絶対に彼の様にはなれない。そう思うからこそ、時々様子を見に来てくれる彼に沙依はどう接せればいいのか解らなくて、いつもたわいのない世間話をして別れていた。


 「沙依ちゃんはさ、どこで呪術を覚えたの?」

 そう聞いてきたのは太乙だった。

 「沙依ちゃんの術式って崑崙のじゃないよね。ずいぶんと複雑な回路もあるし、さすがにこれを宝具で体現するのは難しいかな。」

 そんなことをぶつぶついいながら、太乙は宝具作りに専念していた。そう言われても当時の沙依には解らなかった。崑崙山でしか修練を積んだことがない。それ以前の記憶はないし、そんな子供の時に修練を積んでいたとは思えなかった。

 「なんとなくできると思ったらできただけ。」

 そう言う沙依に、それってすごいことだよねと太乙は言った。

 「術式の原理ってさ、ようは自分の中の気を練って、変化させ、様々なものに干渉させ、奇跡を体現させる。そういうことだけどそれっていう程簡単じゃないよね。僕の作っている宝具はその奇跡体現までの段階を最初から組み込んでおくことで、気を練って宝具に注げば奇跡体現ができるって仕組みだけど、そこの段階を組み込むっていうのが難しいんだ。どうやったらそれが起きるのかちゃんと理解していないと出来ないからさ。術式を組むって、ようはその段階を理解して宝具に組み込むのと同じだと思うんだけど、君の術式は複雑すぎて僕には解析不能だよ。どうやったらそんな複雑な術式が組めるようになるの?」

 そう聞かれても沙依にも解らなかった。

 「わたしいっちゃんみたいに複雑に考えて術式組んでないもん。気の流れってさ、自分の中だけじゃなくていろんな物にあるじゃない。そういう流れを感じ取ってさ、なっとなくこの流れをこうしたらああなるかなって、そうすると勝手に術式が組めるみたいな感じだよ。ようはイメージだよ。出来ると思ったらできるし、出来ないと思ったらできないもんだよ。」

 そう言う沙依の言葉に太乙はなるほどねと何か納得した様子だった。同世代の仙人の中では断トツの天才。彼が何を考えているのか沙依にはさっぱりわからなかった。

 「ところでさ道徳とはどうなの?あいつの事好きなの?それとも依存してるだけ?」

 そう聞かれて依存してるだけかな。と沙依は答えた。

 「そろそろとくちゃんに依存しなくても大丈夫なようになりたいんだけどね。子供の頃のとくちゃんの言葉に甘えてさ、ずっとこうしてきちゃったけど、きっと重荷でしかないだろうし、とくちゃんが本山を離れた今がいい機会かなって思ってる。」

 そう言うと太乙はふーんと興味なさげに言った。

 「沙依ちゃんの抱えてる不安や恐怖はやっぱり記憶がないことが原因なのかな。正直、僕なんかもう昇山する前の事なんて忘れちゃったけどさ、全く不安はないね。長く生きれば生きるほど、幼少期の記憶なんて無くなって当たり前だし、必要ないと思う。君はもうここで生きてきた時間の方が長いはずだし、人格の確立には充分な記憶と人間関係を築いている様に見えるけど。」

 そう言われても沙依にはよくわからなかった。ただ今でも意味のない恐怖が心の中にあって、不安が付きまとっていることだけは確かだった。そんな沙依の様子を見て太乙は何か考えていた。

 「小さい頃の君の様子から、君の記憶障害は心的ストレスによるものじゃないかと思うけど、忘れてしまってるからよけい恐怖が増大するってことじゃないのかな。思い出せば案外さっぱりするかもよ。何か思い出せる?」

 そう訊かれ沙依は首を横に振った。太乙はごそごそと何かを取り出すと沙依に渡してきた。

 「これ僕が作った記憶干渉装置なんだけどさ、使ってみない?何か思い出せるかもよ。」

 そう言う太乙を見て沙依はため息をついた。

 「人のこと心配してるようなこと言って、本当はこれ試したかっただけでしょ。」

 沙依がそう言うと太乙はさあねと肩をすくめて見せた。

 沙依は確かに自分の記憶に興味あった。他の皆が人間だった時の名前をとっくに捨ててしまったのに対し、沙依が自分の名前に拘り続けているのも、それしか自分を示すものを持っていなかったからだった。だからいつまでたっても昇仙できない。ちゃんと自分を思い出せたなら。そう思う反面、思い出すのが怖いという思いもあった。

 「試したくないなら試さなくてもいいよ。他の奴で試すから。」

 そういう太乙に沙依は試してみると宣言した。

 装置を頭にはめ電源を入れると、一瞬頭に衝撃が走った。どんどん記憶が遡り、そして、沙依は絶叫して装置を床に叩きつけた。

 「沙依ちゃん大丈夫?」

 珍しく焦った様な声を出して太乙が沙依に手を伸ばすと沙依はそれを勢いよく払った。自分のその行動に沙依は驚き、太乙を見た。沙依の目は恐怖に染まっていた。太乙は震える沙依をそっと抱きしめ、優しく背中を撫でてごめんと謝った。

 「いっちゃん。わたし。わたし原始天孫様に…。」

 涙が溢れ言葉が続かなかった。

 「言わなくてもいいよ。僕も誰にも言わないから。」

 そう言って太乙は沙依が落ち着くまでその背中をさすっていた。

 「とりあえず君も早く本山から離れた方がいい。僕も協力するから。」

 そうして太乙の協力の元、沙依は自分の中の恐怖との向き合い方を覚え、昇仙に至った。本山を離れると沙依はほとんど表に出なくなった。自分から誰かを尋ねに行くこともほとんどなく、引きこもって暮らしていた。


 雨が降っていた。

 そこに功が立っていた。傘もささずずぶ濡れになって、ただそこに立ち尽くしていた。沙依はそんな彼を見ていた。

 功はずっとそこに立っていた。彼は呆然と立っていた。途方に暮れた顔をして。世界の中にただ一人取り残されてしまった様な、そんな顔をして。迷子になって、自分さえ見失いそうになって、不安で泣きそうな子供のような顔をして。

 気が付くと沙依は声を掛けていた。気が付くと沙依は功を弟子にしていた。

 沙依は功に自分を重ねていた。きっと道徳と出会った時、自分もこんな顔をしていたんだろうなと思った。そして沙依は道徳を思い出した。その差し出してくれた手の暖かさを、おぶってくれた背中の頼もしさを、つないでいてくれた手の心強さを、それを思い出して、気がついたら功に手を差し出していた。道徳のようになりたかった。どうしようもないくらい沙依は道徳に憧れていた。

 功は真面目な青年だった。勤勉で、努力家で、弱音を吐かない。彼は決して優秀ではなかったが、着実に教えたことを吸収していった。とても長い時間をかけて、彼は沙依の持つ知識や技術を、確実に自分の物へと昇華させていった。決して優秀ではない。でも決して才能がなく劣っていたわけではない。どれだけ時間をかけても出来ない者には出来ないが、彼は時間さえかければなんだってできる才能を持っていた。そして自分達にはその時間が沢山あった。焦る必要なんてなかった。急ぐ必要なんてなかった。

 沙依はただ知っていることを教え、功はただそれを吸収していった。自分達は自分が何を望んでいるのかさえわかっていないのだから、修練の先に目指すものなんて何もないのだから、それでいいのだと沙依は思っていた。沙依はただ本山から逃げるために昇仙したが、もし功が修練の先で何かを見出すことができたら、そして昇仙を果たしたなら、沙依は自分も何かになれるような気がした。

 自分が皆とは違うことを沙依は知っていた。でも自分が何者なのかは知らなかった。元々人間ではない。ならば昇仙した今も仙人ですらない。どこからきてどこへ向かうべきなのか、沙依は何も知らない。自分の存在はとても曖昧で吹けば飛んで行ってしまいそうなほど儚いもののように沙依には思えた。ただ道徳との繋がりだけが、自分を自分たらしめているとうことを沙依はよく理解していた。その繋がりがなんという名前なのかは解らなかった。ただ道徳が自分を妹のように愛してくれるのなら、自分は彼を兄のように慕い、いつまでも家族ごっこを続けよう。沙依はそう思った。ごっこでもよかった。沙依は家族を求めていた。

 沙依は本当のことは何も道徳に言えなかった。言えるはずはなかった。彼にとって師であり父親のような存在であるあの男に自分が何をされたのかなんて。もし記憶を取り戻したら、殺し合わなくてはいけなくなるかもしれないなんて。太乙の装置で思い出した記憶。それはほんの一部だったが、この崑崙の教主が沙依の敵であることを認識するには充分だった。あの男が、忘れてしまった自分やその仲間に何かをしたと知るには充分だった。

 「師匠、大丈夫ですか?」

 その声で沙依はハッとした。

 「最近ぼーっとしていることが多いですが、どこか体調がすぐれないのですか?」

 心配そうに自分を見つめる功に、沙依は何でもないと笑いかけた。そんな沙依に功は不安そうな視線を向けた。そんな功の視線に沙依はなんともかえすことができなかった。

 沙依の頭の中に色々な場面が断片的に浮かんでは消えていった。それに意識が呑まれることが増えていた。その映像にはいいことも悪いこともあった。なんとなく沙依は、それが自分の失われた記憶なのだと思った。実際は沙依の不安定な心が生んだ幻だったのかもしれない。それでも沙依は自分が確実に記憶を取り戻していっているのだと感じていた。だから沙依はもうここには長くいられないと思った。だから沙依は功に自分の持つ全ての技術を教えようと思った。自分がいなくなっても彼が困らないように。師匠がいなくても彼が途方にくれないで済む様に。彼を独り立ちさせることを目標に、沙依は集中して功に修練をつけた。そして功は立派に昇仙を果たした。でも功は沙依の元を出ていかなかった。

 「僕はまだ師匠の足元にも及びませんから。もう少しあなたの元で修練を積ませてください。」

 そう頭を下げる功を見て、沙依は困ったように笑った。無理やり追い出す理由もなかったので沙依はそれを受け入れた。

 白昼、沙依は夢を見ていた。それはいつもの悪夢だった。それはいつもの悪夢と少し違っていた。戦火の中、荒れ野に一人立っていた。見渡す限りの死体の中に男が立っていた。見渡す限りの死体を作り出しているのはその男だった。その男は崑崙の教主、原始天孫だった。それを見て沙依は頭に血が上るのを感じた。それを見て全てが納得できたような気がした。それは夢。本当の事ではないのかもしれない。それでも沙依には本当にあったことに思えた。そして沙依は原始天孫の所へ向かった。そんな夢など無視すればよかった。でも頭に上った血がその夢を無視することを沙依に許さなかった。

 気が付くと沙依は道徳と戦っていた。自分を惑わすための幻覚だと思った彼が本物だと気が付いたとき沙依は愕然とした。そして術式に貫かれ落ちていった。落ちていく自分を見送る道徳を見て、沙依は少し嬉しくなった。こんなことをしてしまったのに道徳はまだ自分を大切に思ってくれている、悲痛な彼のその表情からそれが読み取れて嬉しかった。そして気が付いてしまった。自分は彼のことが好きだったのだと。彼に恋していたのだと。それに気が付くのが遅すぎた。今更気がついてももうどうにもできない。彼が伸ばしてくれた手を掴みたかったが、沙依にはそれをとることはもうできなかった。

 自分の気持ちに気が付くのにはもう遅すぎた。原始天孫と戦うにはまだ早すぎた。まだ死ぬわけにはいかないが、ここで終わってしまうのかもしれない。何もできずに、何も成せずに、自分はここで終わるのだろうか。そんなことを思いながら沙依は落ちていった。

 戦いの中で沙依は全てを思い出していた。自分が誰で何のためにここにいるのか。だからもう皆とはいられない。とくちゃんにはもう会えない。だってどうあがいても自分たちは相いれない敵どうしだと思い出してしまったから。今は敵でなくても、何も知らなくても、その時になれば敵になる。なぜならかつて仙人達は自分達ターチェを滅ぼそうとし、そして今自分はその元凶となった者を、仙人に加護を与えているその者を滅ぼさんとしているのだから。沙依はその事実に涙した。自分の宿願を果たすためならなんだってする。目的の為ならどんな犠牲も厭わない。今までずっとそうしてきた。さっきの様に邪魔をされたら、その時はきっと道徳であっても殺してしまう。自分にはそれができてしまうと解っていたから、もう会いたくなかった。

 「時が来るまで眠っていなさい。」

 長兄の声がした。沙依は長兄に助けられていた。そして長兄は沙依にあれを倒すための好機と、その作戦を教えた。沙依はそれを全て受け入れ、そして眠りに落ちた。

 それから沙依はあれの夢を見ていた。あれの夢を盗み見ていた。その中で長兄の語った話が本当の事だと理解した。そして自分がすべきことを理解した。

 一人で全部背負って行ってしまった兄様。一人で全部抱えて壊れてしまった兄様。そんな兄様の心が、まだ少し、ほんの少し動いていることを沙依は知っていた。そんな兄様の心を助けたかった。兄様の背中の物を自分も一緒に背負いたかった。兄様の負った傷を少しでも癒したかった。だからそのために、あれを倒して兄様を自由にしたかった。一人責任感に縛られ、自分達兄弟を、そしてこの地上を守り続けてきた兄様を自由にしたかった。だからそのためならなんだって自分はするのだと、この身体に生まれる前からずっと沙依は思ってきた。そのためなら自分も含めて誰がどうなったってかまわない、そう思ってきた。それなのにどうしてこんなにも胸が痛むのだろう。父といたあの封印の中で長兄を想って心が痛んだあの時と、同じように胸が痛んでいた。ずっと長兄だけが特別だった。ずっと長兄だけが沙依の世界の全てだった。でも今はそうではなかった。自分の世界がとっくに広がっていたことに、沙依は気付かずにいた。そして何もわからぬまま、沙依は衝動にかられ長兄の計画を無視して出てきてしまった。

 長兄から聞いて沙依は知っていた。あれが仙人界を滅ぼすつもりなのだと、仙人達を皆殺しにするつもりなのだと。その中には一緒に育った仲間がいて、道徳がいて、そして自分を助けるために奔走したヤタがいた。ヤタが死ねば沙依を封じている術式が解除され、沙依は力を取り戻し、それをもって疲弊したあれを倒す予定だった。大切だったはずの全てが失われるのを待って、沙依はあれを倒すはずだった。それを受け入れたはずだった。でもあれの夢を盗み見た先で実際にその場面を目にしたとき、沙依は耐えられなかった。結局、大切な人たちの命を諦められなかった。たとえ敵になっても、殺し合わなくてはいけなくなっても、それでも助けたかった。生きていてほしかった。


 廃墟と化した玉虚宮の瓦礫の中で沙依は空を見上げていた。

 結局あれを滅したのは自分ではなかったが沙依は満足していた。もう望むことはなにもなかった。沙依は心の中で父と兄に全てが終わったことを報告した。そして皆が幸せになれることを願った。皆の魂が救われることを願った。

 そう沙依は満足していた。大切なものを守ることができて、宿願を果たすことができて、満足だった。

 「せっかく生き延びたんだ。ちゃんと生きることを考えろよ。バカが。」

 泣きそうな磁生の顔があった。彼は沙依を生かそうと必死だった。なんで彼がこんなにも自分が生きることを強く願うのか、沙依には解らなかった。

 色々なことがあった。色々なことを言われた。その中で、沙依は自分が生きることを怖がっているだけなのだと知った。それが解ったからと言って、生きたいとは思わなかった。


 沙依は暖かい何かに包まれた感じがして、とても懐かしい気持ちになった。そして、心が満たされていくのを感じた。このぬくもりに包まれていたい。もっとこのぬくもりを感じたい。そんな感情が沙依の中に芽生えた。


 「ずいぶんと長い旅をしてきたようだね。」

 気が付くと沙依は子供の姿になっており父の膝に乗っていた。

 「父様。ここは?」

 父は娘の頭を優しく撫でた。

 「ここは夢の中だよ。お前の夢であり、私の夢の中だ。」

 沙依にとってそこは懐かしい場所だった。父や兄弟達と過ごしたあの家。沙依はいつもこうやって父の膝に乗って話をせがんでいた。父が聞かせてくれる物語が好きだった。物語を語る父の声が好きだった。

 「今度は私が話を聞く番だ。愛しい我が娘よ、父にお前がたどったこの道のりを語って聞かせてはくれないか?」

 そう促されて沙依は父に自分のことをはなした。自分が何を望んで何をしたのか、どんなことがあって、どんな思いをしたのか、沙依は思い出せる限り父に話した。父は娘の話に静かに耳を傾けていた。

 「よく頑張ったね。」

 話しを聞き終わると父は優しくそう言った。その言葉に沙依の頬に一筋涙が流れた。一度溢れた涙は量を増し、気が付くと沙依は大泣きしていた。そんな娘の背中を父は優しく包み、そっと撫でた。その父のぬくもりが自分が求めたぬくもりと重なって、沙依は道徳を思い出した。

 さっき感じたあのぬくもりは良く知っているあのぬくもりは道徳のものだ。そう思うとまだそのぬくもりに包まれているような気がした。父のものと似ている、深く優しい暖かさ。父の物とは違う熱をもった暖かさ。それを感じて沙依の胸は苦しくなった。

 「愛しい我が娘よ。お前はこれからどうしたい?」

 そう訊かれて沙依はすぐに答えられなかった。

 「ここは私の夢。お前が私の願いを叶え、私に見せてくれている幻。ここには私の愛した全てがある。」

 懐かしい家。懐かしい庭。そして皆がいる。兄様姉様達が、そして会ったことのない母様も。かつて沙依が恋い焦がれ帰りたかったあの場所がここにはある。

 「お前が望むなら、この場所にとどまりまた父と暮らしてもいいのだよ?」

 優しい父の声に沙依の心は少し揺れた。でもこれは夢。父様と自分以外は全て幻。とても幸せで暖かい、これは夢。

 沙依は胸に手を当て、まだ自分を包んでいる暖かいものに想いを馳せた。ここにある確かなぬくもり自分がそれを強く求めていることを沙依は感じた。

 「父様、わたし帰りたい。」

 そう言う娘を見て父は優しく微笑んで娘の頭を撫でた。

 沙依はずっと帰りたかった。ずっと戻りたかった。幸せだったあの時に。家族の元に。でもそれは過去の話だった。過去の話になっていた。今、沙依が帰りたいのは道徳の元にだった。彼の元に行って、彼のぬくもりに包まれたかった。

 「ならばお前の願いをこの父が叶えてやろう。」

 そう言って父は娘の額にそっと口づけをした。

 「愛しい我が娘よ。お前を求めるこの者の所へ、お前が求めるその者の所へ、帰りなさい。」

 そう言って父は沙依の意識を送り出した。

 「父はいつだってお前たちを愛している。帰ってきたくなったらいつでも帰ってきなさい。私の夢はいつだってお前たちと繋がっているのだから。」

 父の声が遠く聞こえた。


 沙依が目を覚ますとそこには道徳がいた。夢の中で感じたあのぬくもりは確かに道徳のものだったのだ。そう思って沙依の胸を暖かいものが満たした。

 帰ってきた。ここに、この人の元に。不思議ともう沙依は怖くなかった。道徳に全てを知られることが怖くなかった。彼が全部受け止めてくれると知っていた。彼が深く想ってくれていると知っていた。

 「大好きだよ。」

 それが伝えたかった想い。それを呟いて、安心感に包まれて、沙依は瞼を閉じた。

 


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