第一章
封神計画からの仙人界の崩壊劇は後に仙界大戦とよばれることとなった。
その大戦で教主を失った仙人界は指針を失い、徐々に集団としての結束力を失っていった。あの時なにが起き、何があったのか、全容を知るものはほとんどいない。教主亡きあとに指針を示すべき者のほとんどが何も解らず、ただ結果に呆然とするしかなく、以前のような秩序を守ることがかなわなかったのが事実である。そして、あの時に失われた命はあまりにも多く、また大戦後に昇山した才能あるものも、どんなに修練しても不老長寿の域に達することはできず、そのために発展することがかなわなくなったことで、実質仙人界は崩壊したのだった。
なぜ仙人界から不老長寿の技法が失われたのか、それを知るものもほとんどいなかった。ただ大戦で命を失った教主だけが、正しいその技法を持っていたのだろうと言われていた。そのため教主を殺した最強の仙女に多くの避難の目が向いていた。
最強の仙女。それは大昔に仙人界を崩壊しかけ、三大老の手によって封印されたという伝説の仙女。仙人界に知らぬものはいないというこの伝説だったが、ほとんどの者はそれが作り話だと信じて疑いはしていなかった。しかしあの大戦時その伝説が実際に現れ教主と十二太子の一人を殺した。その事実は誰の目にも明らかだった。何故ならそれは封神計画の終焉を機に開かれた宴で起きたことで、そこには崑崙十二太子はじめ、封神計画に参戦した多くの仙人、道士が集まっていたのだから。
彼らの証言には多少の差異はあるものの皆こう言った。宴が始まる時、強い閃光が輝きその時にあたたかな風に包まれた。次の瞬間には玉虚宮は跡形もなく、その瓦礫の中に自分達は立っていて、教主と仙女が戦っていた。その先は覚えていない。
熟練したより上位の仙人であれば、あの時教主がそこに集まったものを皆殺しにしようとし、それを仙女が阻んだことを理解できていたが、ほとんどのものにはそれは理解できなかった。そのためその仙女が仙界大戦の戦犯であり、仙人界を崩壊させたのだとほとんどの者は思っていた。
大戦後、三大老が一人、太上老君が現れ、教主が自身の術式をより高い段階へ完成させるために仙人界を贄にしようとしており、それを阻止するために自分がこの大戦を仕組み、実行したのだと語った。そして仙女もまた自分の協力者であり功労者なのだと語った。表向き三大老に異議申し立てするものはおらず混乱は収まったが、不満を募らせるものは多かった。それほど教主という存在は大きかった。
不満や不安が渦巻く中、それぞれが立て直しや復興に尽力し、とりあえずの平和は取り戻された。そんな中、その渦中の人である最強の仙女は再び姿をくらましていた。人命救助や復興に助力もせず姿をくらましている彼女に、やはりなにか後ろめたいものがあるのだという声は多かった。ただでさえ悪名高い彼女に肯定的なものなど少なかった。
「自分たちの無力さを棚に上げて、沙依に全部責任押し付けやがって。」
道徳の悪態に太乙真人は肩をすくめた。
「君は大怪我で意識もなかったしいいけどさ、大変だったんだよ。沙依ちゃんを探し出して討伐すべきなんて盛り上がっちゃって。」
太乙はそこまで口にして、道徳の怒気が膨れたのに気が付いて口をつぐんだ。そして大きなため息をついた。
「君と沙依ちゃんは仲が良かったから、君の気持ちもわかるけどさ。昔からあの子は変わってたし、正直恐ろしいと思ってた奴も多かったよ。それに大昔のあの時だって、何で沙依ちゃんが原始天孫様と戦闘になってたのか解らないし、あの子が仙人界転覆を謀ってたって思われても仕方がないじゃない。僕たち世代でそんな認識なのに本当に何も知らない世代の子たちが沙依ちゃんの味方をするわけなんてないでしょ。」
そう諭され道徳は黙り込んだ。
「僕は薬物体制が強いから実はあの時意識があったんだ。」
太乙の言っている意味が道徳には解らなかった。
「あの時四肢の自由や意識を奪う薬物がばらまかれてたんだ。だから皆あの後何があったか知らないし、関与してない。さすがに僕も身体の自由は奪われてたけど、意識あったんだよ。だからそこら辺の事、噂話よりちゃんと知ってるんだよね。」
知りたい?そう言って太乙は意地の悪い笑みを浮かべた。
本当に性格が悪い。道徳はそう思った。太乙は沙依や道徳と同じ世代の仙人で、幼少期に一緒に修練した仲だった。同期の中では断トツでで頭が良く、宝具研究に精を出し、当時術式による奇跡体現が主体だった仙人界を宝具での奇跡体現主体に切り替えた立役者でもあった。それによりより高度な術式がより簡単に体現可能となり、仙人界の発展に貢献した人物だった。術式主体を貫きどんな高度な術式も簡単にこなしてしまった沙依とはある意味で真逆だったが、お互いに刺激を受けるのか、彼と沙依はよく共同研究を行っていた。彼は沙依の数少ない友達だったといってもいい。
教えてくれと道徳が言うと太乙は真顔になった。
「沙依ちゃん、男がいたよ。」
思いがけないその言葉に道徳は驚き言葉を失った。それを見て太乙は大笑いをし、からかわれたのだと思った道徳は頭を抱えた。
「嘘ではないよ。君が術式で打ち抜かれて、それを沙依ちゃんが治療したんだ。そのおかげで君は生きてる。その後男が現れてなんか痴話喧嘩みたいなことして、男が沙依ちゃんにキスしてたよ。その直後に封神台とすっごい美人が現れて、その美人と沙依ちゃんが戦闘になったんだけど、その戦闘が終わった後、意識を失った沙依ちゃんを男が担いでどっか行っちゃった。なんかいい雰囲気だったし、あれ沙依ちゃんの男なんじゃないの?」
僕らの前から姿を消してた間何があったんだろうね。君がぐずぐずしてる間に他の男にとられちゃったね。ニヤニヤしながらそう言ってくる太乙に道徳はとても腹が立った。
「他の男にとられて嫉妬するくらいなら、さっさと自分のものにしとけばよかったのに。兄妹ごっこなんてしてないでさ。結局、君はふられるのが怖くて手が出せなかっただけでしょ。」
道徳が沙依に好意を持っていたのは誰がみても明らかだった。それこそ子供の時からずっと。沙依も道徳を特別だと思っていたのは明らかだったが、それが兄の様に慕っているだけなのか、異性として好意を持っているのかは、はた目にはよく解らなかった。でもあの頃、道徳がちゃんと気持ちを打ち明けていれば沙依は受け入れたのではないかと太乙は思っていた。だからことあるごとにはやし立てて煽っていたが、頑なに道徳は沙依との関係性を変えようとしなかった。それが昔から太乙には不思議で仕方がなかった。
「ねぇ。沙依ちゃんには何か秘密があるんでしょ?君が踏み出せなかったのはそれが原因?」
太乙の言葉に道徳は黙り込んだ。
沙依の秘密。確かに沙依にはなにか秘密があった。でもその秘密が一体何なのか、道徳には解らなかった。沙依を見つけた時、沙依と修練を積んでた時、沙依が夢にうなされていた時、原始天孫の沙依を見る目、大人たちに怯えていた沙依の姿、その端々に道徳は何かを感じ取ってはいた。でもそれらから全部目をそらしてきた。それらの理由を全部知っていたであろう原始天孫はもうこの世にはいない。
「俺は、沙依のこと何も知らないんだ。」
そう呟いた道徳に君が知らないなら僕が知るわけないでしょと、太乙は言った。
「僕らといた頃沙依ちゃんは記憶を失ってた。大昔に原始天孫様と衝突したときあの子は錯乱状態だった。でも原始天孫様を殺したあの時は、沙依ちゃん正常に見えたよ。明らかに自分の意思で、信念をもって原始天孫様に挑んでた。今なら本人に聞けば答えがでるんじゃない?」
君が知りたいと思うならだけど。太乙のその言葉に道徳は目が覚める思いだった。そうだ本人に聞けばいい。道徳はずっと大昔に沙依は死んだと思っていた。大戦時の情景もまるで夢を見ていたような感覚で実感がなかった。大昔できなかったことを夢の中で果たした、そんな気がして、目が覚めた今も実感が持てずにいた。でも確かに沙依は生きていた。生きて存在している。なら会いに行けばいい。会って、ずっと話せなかったことをちゃんと話すことができるのだ。そう実感が湧いてきて道徳は胸が熱くなるのを感じた。
「会いに行ったはいいけど、とくちゃん、この人わたしの恋人なんだ、なんて男を紹介されたりしてね。」
それを聞いて道徳の気持ち再びは重くなった。
「誰なんだよそれ。」
おもわず声が漏れる。沙依に特定の相手ができるなんて道徳は考えたことはなかった。自分が関係性を変えなくても、沙依に他に男ができると考えたことが無いのは、高慢だったのかもしれない。それを痛感してさらに気が重くなった。
「とりあえず僕は知らない男だったね。でもあれだけの人数相手に、気付かれずに的確に意識不明にさせられるほどの薬学の知識や身のこなしから考えて、そうとう腕の立つ仙人なんじゃない。僕らと同等かそれ以上の実力がありそうだけど、そんなレベルなら噂ぐらい聞いてもおかしくないとけど心当たりはないね。」
そう言って太乙は何かを思いついたような顔をした。
「太上老君なら知ってるんじゃない?ほら沙依ちゃんは協力者だって言ってたし、彼は三大老でも仙人界とほぼ交流がなくて一番謎の多い人物だから、もしかしたら彼の弟子とかそんなのかもよ。それなら僕らが知らなくてもおかしくないし。」
太上老君。大戦後一通りの後始末が終わりこれからのことを考えたとき、復興に尽力した彼を新たな教主にとの声は多かった。でも彼は仙人界とは関わりたくない、これからのことは君たちで話し合って勝手にしろと言って、去って行ってしまった。仙人嫌いで有名な仙人。彼がはたして話を聞いてくれるのかそれは甚だ疑問だったが、だめもとで会いに行くのは手かもしれない。そう道徳は思った。
沙依のことをちゃんと知りたい。道徳はそう思った。それが自分にとって辛い話になるかもしれないが、彼女のことをちゃんと知って自分の気持ちにちゃんとけりをつけたいと道徳は強く思った。だから彼女を探そうと道徳は決めた。
○ ○
磁生が郭の家の扉を開けようとすると、中から淑英の怒鳴り声が聞こえていた。何を言っているのか聞き取れはしなかったが、なにかものすごく腹を立てているらしいという事だけは伝わってきた。
またなんかあったのか。そう思うと扉を開けることが億劫になった。郭と淑英の兄妹喧嘩はよくあることだ。たいていは本当にどうでもいいことで淑英が一方的にまくし立てているだけだが、聞いてるこっちは本当に疲れる。磁生が出直すかと踵を返そうとしたところで、沙依の名前を聞き取った。厳密にいうと彼女の仙号である清廉賢母という言葉だったが、そこに批判めいた色を感じて、磁生は扉を開けた。
家に入ってきた磁生を見て二人は固まった。
「お前等ずいぶんと元気そうだな。薬持ってきてやったが、もういらねぇか?」
磁生が薬を机に置くと郭は礼を言った。
「ところで何の話してたんだ?外まで怒鳴り声が聞こえてたぞ。」
その問いに二人は黙り込んだ。
沈黙が部屋を包み、暫くして淑英が口を開いた。
「春麗が死んだのよ。」
それを聞いて磁生は驚きが隠せなかった。
「春麗が決めたことだ俺たちがどうこう言う事じゃない。」
郭の静かな声に淑英はまた怒りを爆発させようとした。
「春麗は自分で選んで父親と一緒に自害した。俺は春麗の意思を尊重してる。それが父親を助けるためにあいつが自分で決断したことだ。」
追及するなという目で郭は淑英を睨むが、淑英は黙っていなかった。
「父親を救うって、二人とも死んでるじゃない。それのどこが救いなのよ。それって清廉賢母に言われたことなだけでしょ。それで本当に魂が救われるのかどうかも解らないのに、なんで春麗が死ぬ必要があったのよ。あんな女に唆されて、命を落とすなんてどうかしてる。それを受け入れるなんて郭もどうかしてるわよ。」
語気が荒くなる淑英の言葉に無性に腹が立って磁生は机を叩いた。
「黙れよ。」
磁生の怒気を含んだその言葉に淑英は息を飲んだ。
「春麗の決断と沙依は関係ないだろ。どっかに苛立ちをぶつけたい気持ちは解らなくもないが、あいつにそれを向けるんじゃねぇ。あいつに何の責任がある?自分らが何もできなかったことを棚に上げて、あいつに責任押し付けやがって、外の連中もお前も腹が立つんだよ。」
淑英が何かを言い返そうとしたのを磁生は目で制した。
「あいつには俺たちを助ける義理はない。わかってんだろ?あいつはターチェだ。俺たちや春麗は恨まれこそして、助けられる義理はない。あいつらに天上界は何をした?俺たちは何をしてきた?家族を奪われ、国を滅ぼされ、生き延びた仲間は狩られ続け、あいつ自身仙人界に捕らわれて何をされてきたと思う?」
そう言われ淑英は黙り込んだ。
「そんな状況でもあいつは最初から俺らのことを恨んですらいなかった。自分の命を落とすことも躊躇わず、身体も気脈もボロボロになって、頭の中もぐちゃぐちゃになって、そんな風になってまで、あいつは戦い続けて皆を救った。結果的にそうなったに過ぎないのかもしれないが、あいつに俺たちは守られたんだ。感謝こそすれ恨むんじゃねぇよ。そんな感情あいつ自身にぶつけやがったら許さねぇぞ。」
磁生の妻だった春李もまたターチェであった。地上の神と人の間に生まれた子供たち。その子孫である彼らは、地上の支配を望んだ天上界の女帝女媧の陰謀により仙人達の手で滅ぼされた。春李は長い年月をかけて自分たちを滅ぼした者達を恨むことを諦めた。いつも笑っていた妻のその笑顔の裏に深い悲しみがあることを磁生は知っていた。彼女のそんなところに腹が立ってそれでも前を向いて歩もうとする彼女が愛おしかった。
そんな妻の友達だった沙依は妻とは似ても似つかなかった。沙依の生き方は刹那的で常に目の前の事しか考えていなかった。自分の望みに忠実で、それ以外に目もくれない。だから自分は女媧と変わらないのだと沙依は笑っていた。妻と同じでよく笑う彼女。でも妻とは違いそこには裏はなかった。あんな事情を抱え、あんな状況で、沙依は本当に笑っていた。そんな彼女を見て狂ってると磁生は思った。でも狂っているのではなかった。ただ沙依は自分の感情や気持ちを理解していないだけだった。実感より先に身体が動いてしまう、身体が反応してしまう。そんな自分の行動に戸惑う彼女はただの子供のように磁生は思えた。何もわかっていないから、直感的に、直情的に突っ走る。突っ走った先が奈落の底につながっていたとしても、気が付かず行ってしまう。
「磁生お前。清廉賢母に恋慕でもしたか?」
郭のその言葉に磁生は心底意味がわからないという顔をした。
「誰があんなかわいげの欠片も色気の欠片もない奴に惚れんだよ。ありえないだろ。」
その反応に郭はそうかと一つ呟いて。やけに肩入れするなと思ってなと言った。
郭の知る限り磁生はそんなに他人に肩入れをする性質ではなかったと思った。妻の友達と言っても、自分たちが彼女と会ったのは春李が死んでだいぶたってからのあの大戦時で、それまで交流があったわけでもない。出会ってからたいして時間もたっていない。正直郭にはそこまで清廉賢母に対する思い入れはなかった。淑英もそうだからこそ彼女に怒りの矛先を向けたのだと思う。
「恋慕してるわけでもないならあまり深入りはするなよ。解ってるだろうが今彼女は戦犯扱いでこの仙人界じゃ厄介ごとの火種だ。彼女の弟子も太上老君の所に避難してる。俺たち相手に言ってるだけならいいが今みたいなこと外で言ってみろ、物騒なことになるぞ。」
郭のその言葉に磁生はもう遅せぇよと呟いた。そして郭の家を後にした。
磁生が自分の家に帰ると沙依が机に突っ伏して眠っていた。
今沙依は一日のほとんどをこうして眠って過ごしている。本当は寝たきりでおかしくない状態なのだが、沙依は目が覚めると動いて家事をしたり家の修理をしたりしていた。動くなと言っても言うことを聞かないので磁生は諦めて好きにさせている。
今の状態で生きている意味はあるのか。沙依にそう聞かれた時、磁生は何も答えられなかった。こうして家に置いて延命処置を続けているのは自分のエゴなのかもしれない。そう磁生は思ったがそれをやめるという選択肢はなかった。
寝ている沙依にそっと気を配って状態を探る。奇跡が起こるわけはなく沙依の気脈はズタボロの状態で変わらず、その機能を失っていた。四肢がちゃんと動く状態なのが奇跡だった。
今の沙依には何もできない。気脈がこの状態では簡単な術式さえも行えないだろう。それどころかそんなことをすれば、命の危険すらあった。
気脈がずれているだけなら針や灸で整えることもできるが、これだけ壊れてしまうとそうはいかない。気脈とは様は本人の気の流れを司るものだから本人に強く生きる気持ちがあれば奇跡的に修復される可能性もないわけでもないが、沙依にはそれはなかった。本人に生きる気持ちが無ければ奇跡も起きようがない。
「なんであんたはそんなに人生満足しちまってんだよ。なんで生きたいて思わないんだよ。なんか未練があるだろ?なんかやり残したこととか、やりたいことがあるだろ?」
寝ている沙依に届かないことは解っていたが磁生は沙依に問いかけた。何度も問いかけた問いだった。
恋慕ではない。それは確信していた。なら自分が彼女に寄せているこの感情は何なのか、そう問われると磁生には解らなかった。ただ彼女にちゃんと生きてほしかった。沙依は自分のやりたいように、自分の欲望に忠実に生きてきたと思い込んでいる。だから自分には未練はないのだと思い込んでいる。でも磁生からみたら、沙依は自分の人生をちゃんと生きてはいなかった。自分とちゃんと向き合って生きてこなかった、本当の自分は置き去りにして、ずっと他人の為にだけ生きてきた。そんな彼女にちゃんと自分の感情や気持ちと向き合って、普通に人生を生きてほしかった。
沙依を救う手立てがないわけではない、それも磁生を苦しめていた。方法は知っている。技術も持っている。彼女の体内に自分の気脈を繋げ、彼女の壊れた気脈を繋ぎ直せばいいのだ。ようは気脈を移植させればいい。それをすれば彼女は助かる。彼女が脳に受けたダメージはどうしようもないから、後遺症は残るだろう。でも助けることは出来る。でもその術式は成功しない。その確信が磁生にはあった。気脈を移植するというのは言う程簡単ではない。沙依が少しでも拒否をすれば成功はしない。それにその術式を行うにはより深いところでお互いが交じりあわなければいけなかった。それもまた磁生に施術をためらわせる原因でもあった。
沙依が目を覚まし、いつも通り磁生は沙依に延命処置を行った。彼女の身体を抱きかかえ、自分の気脈に意識を添わせる。もう声を掛けなくても沙依はそれができる様になっていた。この延長線上に移植の技術はある。これだけ添わせることができるようになったのなら、そんなことを考えて磁生は沙依の額に口づけをした。
普段されないことに、沙依は顔を上げ疑問符を浮かべた。
なぁ、春李。俺はこいつに生きてほしいと思うんだ。そのためにこいつを抱くって言ったら、お前は怒るかな。そんなことを考えてから、意を決めて磁生は沙依に深く口づけをした。
「磁生。ダメだよ。」
唇を離すと沙依はひどく冷静な声でそう言った。こうなってからのいつものふわふわしたぼけっとした顔ではなかった。沙依は真剣な目で磁生を見ていた。
「よりによってこのタイミングで意識がはっきりすんのかよ。」
そう苦笑する磁生に沙依は怒った。
「意識がはっきりしてるときに出来ないことなんて、しちゃだめだよ。」
今何をしようとしたの?そう問う沙依に磁生は、意識がはっきりしてないことをいいことにいけないことしようかと、と笑った。
「磁生。肉欲を満たすためだけにしては危険すぎるんじゃない?」
そう言って自分をまっすぐ見つめるその瞳に、磁生はため息をついた。
「ほんと、かわいくねぇな。あんたのそういうところ本当にかわいくない。少しはしおらしくしろよ。」
そう言って磁生は沙依を床に押し倒した。
「ダメだよ磁生。そんなことをすれば、磁生の気脈まで崩れてあなたも死んじゃう。」
「そんなことやってみなきゃ解らないだろ。上手くいけばあんたは助かる。何しようとしてんのか解ってんなら、いつもみたいに全部俺にまかせておとなしくしてろよ。俺の事だけ考えて、俺の気脈の流れに集中して、全部受け入れて、そうすれば後は俺が全部何とかしてやるから。」
そうまくしたてて磁生は沙依の唇に自分のそれを近づけて、止まった。それ以上できなかった。それ以上はすることができなかった。
磁生は身体を起こして、沙依のことも起こした。
沙依は泣いていた。ぽろぽろと静かに涙を流していた。そんな自分に沙依自身戸惑っている様子だった。
「ごめん。」
そう言う沙依になんであんたが謝るんだよと磁生は毒づいた。
沙依のこの反応は予想外だった。沙依のことだから諦めて受け入れるか、完全に拒否して気脈を繋げさせないかのどちらかだと思っていた。磁生は自分の行為で彼女がこんな風に感情を表にするとは全く考えていなかった。
「悪かったな。」
磁生が呟くと沙依は首を横に振った。
「わたし磁生に嘘をついたよ。」
そう言って沙依は更に涙を溢れさせた。
「本当は平気じゃない。好意を寄せてる相手以外とすること、平気じゃない。」
その言葉に磁生は何とも言えない気持ちになった。
「ごめんね。感情がちゃんと制御できなくて、こんなつもりじゃないのに。磁生がわたしのためにしようとしてくれたって、解ってるのに。ごめんね。」
だからなんであんたが謝るんだよ。そう言って、磁生はそこらへんにあったタオルを沙依の頭にかぶせた。
「やっぱ、わたしダメだね。兄様から受けた訓練で感情を外側に置いとくことは得意だったのに。もうずっと長いことこんな風になったことなかったのに。小さい頃に戻っちゃったみたいだよ。どうしていいのかわからない。」
そう言う沙依にそれが普通の事だろと磁生は言った。
「あんたは盲目に目的のために生き続けて自分を見失ってたんだろ。あんたはあんたが思ってるほど自分の事解っちゃいない。それが本当のあんたなんだろうが。もう我慢するなよ。」
そう言われて沙依は黙り込んだ。
「とくちゃんとか言ったっけ。あの時あんたが助けてた。あいつのこと好きなんだろ?このままでいいのかよ?」
磁生のその言葉に沙依は震える声で返した。
「とくちゃんはわたしのこと何も知らない。わたしがなんなのかも、わたしが何をしてきたのかも、何をされてきたのかも。わたしも記憶が無くて、昔は無邪気に一緒にいれたけど、今はもう無理だよ。」
沙依は自分の膝を強く抱きかかえた。
「わたしだって本当は好きな人と一緒にいたかった。好きな人と添いたかった。でも、わたしの手はこんなにも血で汚れてて、わたしの身体は汚されてる。こんなのとくちゃんには知られたくない。絶対知られたくない。それにもうわたしは死んじゃうのに、今更会えないよ。今会ったらわたしの存在はとくちゃんの中で傷になって残っちゃう。そんなの嫌だ。」
そう言って泣き続ける沙依に磁生はなんとも声がかえられなかった。生きることに未練が無いわけではないのだ。ただ生きることに希望が持てないだけだったのだ。それが解って磁生は考えた。こんな風に拒絶された以上、房中術による気脈の移植を強行することはできない。でも未練があると解ったからこそ、よけい死なせるわけにはいかないと思った。
○ ○
「君に話すことはなにもないよ。」
太上老君のその言葉に道徳は食い下がった。
「公の場で君たちに話したことが全てだ。あれ以上僕が君に語ることはないし、清廉賢母を連れて行ったという男の心当たりもない。」
冷たくあしらわれ全く取り付く島もなかった。それでも道徳はさらに食い下がった。その道徳の姿に太上老君は顔を顰めた。
「彼女の居場所を聞きにここに来たのは君が初めてじゃない。その誰もをあしらってきたし、しつこい奴は実力行使で追い返してきたけど、本当に面倒くさくてしかたがないよ。僕は君らと関わりたくもないし少しはほっておいてくれないかな。」
本当に面倒くさそうにそう太上老君は言った。十歳前後の少年に見える彼のその言いようやしぐさはなんとも不思議な光景だった。
「あなたと沙依はいったいどういう関係なんですか?」
道徳のその問いに太上老君は少し意外そうな顔をした。
「君は今まで来た連中とは少し違うね。まず彼女の名前を知っている。僕がこの姿をしていても僕が太上老君本人だと気づくし、居場所が聞き出せないと解るとそんな質問をしてくる。」
そう言って太上老君は少し考えた。
「逆に尋ねるけど、君こそ沙依とはどんな関係なんだい?」
その問いに道徳は答えを詰まらせた。恋人ではない。友達と言われたらそうなのかもしれないが、友達と言うのはためらわれた。太上老君はそんな道徳の様子をしばらく見つめ、興味を失った様に視線をずらした。
「沙依は僕が人間だった頃からの唯一の友達だった。僕たちがいたところは激しい戦争があって、僕は沙依を連れてこの大陸に逃げてきた。僕は君たちと違って好きで仙人になったわけじゃない。強制的に仙人にさせられた。そして逃げてきたこの地で、唯一の友達だった沙依を君たちの教主だったあの男に奪われた。だから僕は仙人も仙人界も嫌いだ。」
そう言って向けられた視線に道徳は背筋か寒くなるのを感じた。
「そんな僕が君たちに協力をすると思うかい?正直触れないでほしいんだ。彼女のことは忘れてほっておいてくれ。」
そう言う太上老君に道徳は反論した。自分は沙依を傷つけたいわけじゃない。彼女のことが大切だから、彼女に会って話がしたい、それだけなのだ。
「同じだよ。君の感情なんて関係ない。君が見つけ出せば彼女は表舞台に連れ出されおのずと攻撃の対象とされる。君は自分の立場が解っているのかい?その機能をほとんど失ったとはいえ、崑崙十二太子である君の行動が目につかないわけはないだろう。君に彼女を守り切ることができるのか?それができないなら近づくな。」
怒気を含んだ太上老君の言葉に道徳は息を飲んだ。そんなことは考えたことが無かった。自分が彼女を探すこと自体が彼女を貶めることになりかねないなんて思いもしなかった。そんな危険を冒してまで自分は沙依に会いたいのだろうか。そう考えて道徳は太乙から言われたことを思い出した。沙依には恋人がいる。なら自分が会いに行くことは彼女にとって邪魔にしかならないのかもしれない。そう思って道徳は自分がどうしたいのか、どうすべきなのか解らなくなった。
途方に暮れる道徳に太上老君は一振りの刀をさしだした。
「あげるよ。」
それは刀身に水面にきらめく光のような深く青い不思議模様が彫り込まれた刀だった。
「それは沙依の刀だよ。ずっと返しそびれてしまっていた。もし沙依が返してほしいと言ったら、君にあげてしまったと言っておくよ。」
そう言う太上老君の真意は道徳には解らなかった。
それは彼女がターチェであることを隠すために太上老君が隠しておいた刀だった。それがターチェにとって大切なものだと解っていたから、ずっと処分することはできなかった。しかしもう沙依の素性を隠す必要もない。道徳から多くは聞いていないが、道徳がかつての自分と同じような思いに身をやつしていることは見て取れた。太上老君が道徳に語ったことは本心だったが、かといって彼女を想う彼の気持ちが簡単に切れるものでもないことも理解できた。
あまりにも長く患ってしまった想い。それがいかに人を盲目にして、頑なにするのか、太上老君自身よく理解していた。それは思いを寄せる本人の意思さえも無視し、暴走する。本人から離れていればいるほどその想いは頑なになり、冷静さを失わせる。
「本当は君が沙依と仲が良かったことは知っていたんだ。ずっと僕は彼女を見守ってきたから。少しの間だけだったけど、君のおかげで沙依は穏やかに過ごすことができた。普通の子供のように過ごすことができた。そのことには感謝している。でも彼女の夢は醒めたんだ。君といた時間が幸せだったからこそ、全てを取り戻した彼女はもう君とは会いたくないと思う。そのことを覚えておいて。彼女は君よりずっと長く生きているし、彼女のことは君が知らないことの方が多いんだよ。」
そう言う太上老君はどこか悲しそうに見えた。
なにも言えず刀を受け取って道徳は太上老君の元を後にした。その帰り道で道徳は懐かしい顔にあった。
「道徳師兄、お久しぶりです。」
そう言って丁寧に頭を下げるその姿に道徳は何とも言えない気まずさを感じた。
それは沙依の弟子の功だった。沙依が姿を消す前はそれなりに交流があった。彼には武術の修練をつけたことも多々ある。しかし沙依が原始天孫を襲撃し姿をくらました時、色々あって疎遠になっていた。気まずい雰囲気の中、道徳と功は話しをした。功は今太上老君の下男に扮してここにいるという。渦中の仙女の弟子である彼にとって今の仙人界で暮らすことは難しいのだろう。そう思うと道徳は何とも言えない気持ちになった。
「本当は帰りたいんですけどね。師匠が帰ってくるかもしれないし。帰ってきたとき、家がめちゃくちゃだったら師匠に面目立たないじゃないですか。」
そう言う功は沙依が本当に帰ってくるとは思っていない様子だった。
「実は僕、封神計画の時は天上界に行っていたんです。師兄も知っている通り封神計画後天上界の天帝も代替わりをしました。と言っても亡くなった天帝の代わりに、かつての三帝の一人が戻って玉座に着いただけですが。その騒動に僕も関わっているんです。」
功のその言葉に道徳は驚いた。天帝の代替わりは知っていたがそこになにか騒動があったことは知らなかった。
「その時師匠は戻って来ていたみたいなんですよ。でも家にも顔を出さなかったし、計画が終わっても帰ってこない。帰ってくるつもりならあの人ならとっくに帰ってきてるでしょ。でも帰ってこない。もう帰ってくる気はないんじゃないかなんて思ってしまうんです。」
道徳師兄の所にも行ってないんですねと言って功は笑った。
「師匠が帰ってくるとしたらやっぱり真っ先に貴方の所だと思っていました。」
功のその言葉に道徳は何とも言えなかった。
「僕は師匠を守ってくれなかった貴方に怒っていたし、なら自分が師匠を守れるくらい強くなればいいんだなんて修練に励んだりしていましたが、今回のことで師匠に頼りにされてないことを実感しました。だっているのに、窮地に立ってたのに、顔すら出さないんですよ。」
師兄みたいに師匠に頼りにされる存在になりたかったんだけどな、と言って功は空を見上げた。
「俺の所にだってこなかった。俺だって頼られてなんかない。」
ふてくされた様な道徳の言葉に功は声を出して笑った。
「なんか師兄のそんな姿みるの不思議な気分です。師匠も師兄も僕にとって憧れで凄い存在でしたから。今のあなたはなんか普通の人にみえる。」
功のその言葉に道徳は俺だって普通の人さと呟いた。
「ここにいるってことは師兄も師匠の行方を追っているんでしょ?師匠に会ってどうするつもりなんですか?」
その問いに道徳はどう答えていいのか解らなかった。
「俺は沙依のこと何も知らなかったんだなって思ってさ。ずっと傍にいたのに、あいつの抱えてるもののこと何も知らなかった。あの時も今回も、なんであいつがあんなことしたのかすら知らない。それを知りたいと思ってさ。」
そう言って道徳はため息をついた。
「でも今太上老君に言われて、こうやって知りたいって思うのも俺のわがままなのかなって、沙依にとったら迷惑でしかないのかもな、なんて考えたらどうしたらいいのかわからなくなっちまってな。」
そんな道徳の言葉を聞いて功は遠くを見た。
「道徳師兄は師匠の事好きなんですよね?」
いきなりの功の問いに道徳はどぎまぎした。
「隠してたつもりだったんですか?貴方が純粋に師匠の事実の妹みたいに思ってるなんて、そんなの信じてるのは師匠だけですよ。師匠が僕の事弟子にするって言った時だってあんなにあからさまに殺気飛ばしてたのに。」
そう言われても道徳には全く自覚はなかった。ただ沙依の弟子にまでバレていたことにすごく気恥ずかしい思いがこみ上げてどこかに隠れたくなった。
「師兄の好きは愛着ですか?それとももっと深いものですか?」
功が何を言いたいのか道徳には解らなかった。
「師匠はああいう人だから人の気持ちも解らないけど、自分自身の気持ちもよく解ってないと思うんです。どこか存在に現実感が無いっていうか。でも貴方といる時の師匠はちゃんとここにいるなって実感できました。貴方といる時だけは師匠はいつもただの人だった。それだけで師匠にとって貴方は特別だと解りました。そんな師匠が貴方のところに帰ってこないのはどうしてだと思いますか?」
そんなことを言われても道徳には解らなかった。
「僕は師匠が帰ってきたらこれを機に独り立ちしようと思っているんです。もう師匠の背中を追うのはやめようって思ったんです。だから帰ってきてほしいなって思ってるんです。老子に何を言われたのか解りませんが、師匠を連れて帰ってこれるのはやっぱり貴方だけだと思うのでちゃんと連れて帰ってきてくださいね。」
そう言って功は一礼すると去って行った。
道徳は一人取り残されて、空を仰いだ。追うなと言われたり連れ戻せと言われたり、訳が分からなかった。自分がどうしたいのかと問われれば、やっぱり会いたかった。拒否されてもいい。もう一度会いたかった。もう一度会ってその声が聴きたかった。
○ ○
「とくちゃんって誰だよ。」
磁生は毒づいていた。大戦のあの時、沙依が治療していた男。どこかで見覚えがあるような気がするが思い出せない。
あなたがいない世界なんて耐えられない。だからお願い、生きて。そう言って沙依が自分のありったけとも思われるほどの錬気を注ぎ、命を繋ぎ止めた相手。そうまでしても沙依が助けたかった相手。そいつを見つけ出せばまだ沙依を助けられる可能性があると磁生は思っていた。見つけたところで沙依があれだけ知られることを拒否している以上、その先は簡単にいかないとは思うが、可能性がある以上賭けないわけにはいかなかった。
とりあえず探して、大丈夫そうなら近づく。そしてそいつについて慎重に調査する。やるべきことは解っていたが、それはどれも磁生が苦手とすることだった。かつての仲間に思いを馳せ、郭や堅仁なら上手くできるかもしれないと思った。とはいってもこの間の一件から郭達に協力を得るのはどうも憚られた。
そういえば沙依の弟子が太上老君の所にいるとか言ってたなと磁生は思い出した。沙依の弟子なら何か知っているかもしれない。太上老君とは沙依がヤタと呼んでたあのガキのことだったと思う。確かあいつの居住地は。そんなことを考えて磁生は太上老君の所へ向かった。
「今日はやけに来客が多い。」
磁生が訪ねると太上老君は億劫そうにそう言った。
「あんたも相当疲れてんだろ。大戦の傷がまだ癒えてないんじゃないのか?」
そう言う磁生に太上老君は肯定の意を示した。
「将勇が僕らもろとも女媧と封神台を沙依の所に飛ばしたのは予想外だった。彼とはそれなりに長い付き合いだが、彼にそんな芸当ができるなんて思ってもみなかったよ。それで女媧の気がそがれたおかげで致命傷は免れたが、この通りさ。」
そう言って太上老君は服をめくり上げて見せた。まだふさがりきっていない傷はひどく、塗布薬を含ませた布に血が滲んでいた。
「こんな身体でなんであんな無茶してまで復興の手伝いなんてしてたんだよ。」
そう毒づく磁生に太上老君は肩をすくめてみせた。
「あの場を落ち着かせるにはこちらの正当性を印象付けるしかないだろう。そのためには尽力するしかない。」
全ては沙依を守るため、か。こいつはぶれないなと磁生は思った。
「大戦時沙依を連れ去った男と言うのは君の事だろう?沙依はどんな状態なんだい?」
太上老君のその言葉に磁生は言葉を詰まらせた。
「結局、沙依は一人で全てやってしまった。僕はなんの役にも立てなかった。彼女の為と思ってしたことは全て彼女の足を引っ張ることでしかなかった。僕が記憶を封じなければ、僕が彼女を封じなければ、もっとうまくいってたんじゃないかと思うとどうしようもない気持ちになる。」
そう言って太上老君は磁生の目を見つめた。
「沙依の容態は良くないんだね。」
その問いに磁生はうなずくしかなかった。
「あいつ自身に生きる気持ちが無いせいで治療しようにも効果はあがらねぇし。房中術で無理やり気脈つなげようとしたら泣かれるし、どうしようもねぇよ。」
磁生のその言葉に太上老君は顔を顰めた。
「房中術を無理やりしようとするのは拒否されて当然だと思うよ。君が沙依を助けようとしての行為なのは解るけど、それはどうかと思う。」
思ったより怒られなかったことに磁生は拍子抜けした。その顔をみて太上老君はため息をついた。
「自分のしたことを後悔するのはいいけど、人を使って罰を受けようとするのはやめてくれるかい。君も大概不器用だね。」
そう言って太上老君は磁生を一瞥し、目をそらした。
「気脈が壊れているのか。生きているのが奇跡と言ったところだね。本人が拒絶している以上、繋げるのは不可能に近い。衰弱して死ぬのを待つのみということか。」
重い沈黙が流れた。
「まだ本人が生きたいと思ってくれれば可能性もなくはないんだけどな。あいつには今生きる希望が無い。俺はあいつの生きる希望を見つけることに賭けたいんだ。」
磁生のその言葉に太上老君はうなずいた。そして磁生はここには沙依の弟子に会いに来たのだということを伝えた。
「功なら多分外で掃除でもしてるよ。会わなかったかい?」
そう言う太上老君に磁生は、自分はそいつと面識がないのだと言うことを伝えた。太上老君は意外そうな顔をして、そう言えば功が合流したのは君が沙依を追って出ていった後だったねと呟いた。
「ついこの間の事なのにずいぶんと昔の事のように感じるよ。ああやって誰かと協力して何かをするなんて僕の人生の中で初めての体験だった。」
そう呟きながら太上老君は功の似顔絵を描き、それを磁生にわたした。
「沙依のことは任せたよ。」
そう言って太上老君は磁生を見送った。
外の掃除でもしていると言っていたが太上老君の庭は広かった。庭というより森林と言っていいそこのどこに功がいるのか、まして人がいるかさえも認識するのは難しかった。
適当に歩いていると見覚えのある男が座っていた。それは磁生が探していた男だった。思わず磁生はあっと声を上げていた。
男は磁生の声に反応し振り向くと、怪訝そうな顔をした。
「悪い。人がいると思ってなくて驚いた。俺は磁生。あんたどっかで見覚えある気がするが、どっかで会ったことあるか?」
磁生の問いに男は記憶にないと答えた。男は立つと、自分は清虚道徳真君だと名乗った。
「道徳真君って、あの道徳真君か?崑崙十二太子の。」
磁性がそう言うと道徳はうなずいた。
「どうりで見覚えがあるわけだ。そりゃそんなお偉いさんならどっかで見てて当然だわ。」
一人で納得する磁生に道徳はますます怪訝な顔をした。
「なんでそんなお偉いさんがこんなところにいるんだ?太上老君に会いに来たのか?」
磁生は予想外の邂逅に何を話すべきか解らず、とりあえず話し続けた。そんな磁生の様子に道徳は曖昧な返事をしてその場を去ろうとした。
「そうだ。あんたこの男知らないか?外で掃除でもしてるって言われたんだが、どこにいるんだかわかんなくてさ。」
そう言って差し出された似顔絵に道徳はまた怪訝な顔をした。
「功に何か用なのか?」
その問いに磁生はちょっと聞きたいことがあってなと答えた。もう聞きたいことの答えは解っていたが、それを口に出すのは憚られた。道徳からさっきまでここにいたと聞き、あからさまに落胆したふりをして、磁生はそこに腰かけ道徳に話し掛けた。
「あんたあの大戦の時に大怪我したって聞いたけど、すっかり大丈夫そうだな。」
磁生の言葉に道徳はうなずいた。
「腕のいい術師が完全に傷を治してくれてたからな。意識を取り戻すまでに時間はかかったが、もうこの通りだ。」
そう言う道徳の顔に陰りが見えて磁生は疑問に思った。
「すっかり回復したって割にはさえない顔してんな。なんか悩み事か?」
そう問われ道徳は曖昧に微笑んだ。
「まぁ、お偉いさんが素性も分からねぇ、初対面の俺にほいほい内情なんて話せねぇか。」
そう言って磁生は視線を前に向けた。
「俺の知り合いっていうか、妻の友達なんだけどな。そいつもあの大戦で大怪我を負って色々難しい状態でさ。今、治療方法を探してんだ。」
磁生のその言葉に道徳は視線を落として黙った。
それを見て磁生はこいつは悪い奴じゃないなと思った。気休めの言葉も無責任な言葉も言わない。ただ大戦の招いた結果に心を痛めている様に見えたからだった。
「あんたくそ真面目で融通きかないって言われない?俺の友達にもバカみたいに真面目で責任感が強い奴がいるんだけどさ、そいつはそのせいで心身共に壊したぞ。あんたも気をつけろよ。」
磁生がそう言うと道徳は笑った。
「俺は元々そんなにまじめな方じゃない。大昔にちょっとやらかして、謹慎処分くらってな。それ以来、目をつけられないように真面目なふりして言われることに従順に過ごしてきただけだ。そうやって自分の立場をしっかり確立していれば、同じ過ちは繰り返さなくて済むと思ってた。」
そう言って道徳は遠くを見た。
「結局何にもできなかったけどな。大戦後の混乱を治めたのは老子だし。名ばかりで、十二太子なんて役に立たない。役に立たないくせに足を縛るこんな立場なんて、なるんじゃなかったな。」
その呟きは思わず漏れた本音だった。ぽろっと本音をこぼしてしまったことに気が付いて、道徳は笑ってごまかした。お偉いさんもお偉いさんで大変なんだな。磁生はそう呟くと言った。
「正直、俺はあんたらお偉いさんが嫌いだったんだ。教主だったあのじじいとは色々あったしな。あんたらのことも、何にも解っちゃいねぇ、なんにもできやしねぇくせに、偉そうにふんぞり返って、のうのうと過ごしやがって、なんて思ってた。でも実際会って話してみてよ、俺あんたのことは嫌いじゃないぜ。」
他の連中のことはわからないけどなと磁生は笑った。
「俺はあんたらのこと知ろうとしてなかったんだな。勝手に人間性決めつけて、嫌ってさ、悪かったな。」
そう言う磁生にお前変わってるなと道徳は言って笑った。
「昔から一緒にいる奴のことだって本当は何も解ってないこともあるし、誤解なんていろいろあるさ。」
そう言って道徳は視線を落とした。沙依のことを考えていた。お互いが子供のころから一緒だった。そう思っていたが、出会った時には彼女はもう子供ではなかったのだ。記憶を失っていたから彼女自身も解っていなかっただけで、もうあの時には長い歴史を歩んできていたのだ。思い当たる節は沢山あった。当時五、六歳くらいに見えた沙依の戦闘に対する執念、意識を失うまで戦い続けるあの狂気とも思える姿勢。悪夢にうなされ、失うことを極端に恐れ、仙人に怯えていた。太上老君は仙人界に沙依を奪われたと言っていた。きっと沙依にとって仙人界はいい場所ではなかったのだ。だから無意識に沙依は他の仙人に心を開かなかった。沙依と一定以上親交があったのは、自分含めてあの頃子供だった一緒に修練を積んで育った数人の仲間だけだった。
「なんかお前といるとなんでも話してしまいそうだ。」
そう言って道徳は困ったように笑った。
「話して気が楽になるなら聞いてやってもいいぜ。俺はあんたの顔もうろ覚えだったくらい政治的な事には興味ないしな。こう見えて案外口は堅いのよ。」
そう言って笑う磁生に道徳は頼もしさに似た何かを感じた。初めてあった気がしない。まるで昔からの友人のような安心感が磁生にはあった。それが道徳にはとても不思議な感じがした。
「そろそろ戻らないと家にいる怪我人の治療時間になりそうだ。また会おうぜ。」
そう言って磁生は去って行った。
道徳はまた一人残された。これと言って何かがあったわけではないが不思議と心が少し軽くなっていた。
○ ○
「で?老子にあしらわれて何の収穫もなしに帰ってきたんだ。情けない限りだね。」
そう言ってニヤニヤ笑う太乙に道徳は凄く腹が立った。なんでこいつはこうも人の感情を逆撫でするような言い方をするのだろうか。
「お前はなんでまだ家にいるんだよ。自分の洞府に帰れよ。」
苛立ちを抑えて静かにそう言う道徳に、太乙は笑いながら返した。
「やだな。君が心配だから待っててあげたんじゃないか。沙依ちゃんのことになると君は周りが見えなくなるしね。」
僕だって沙依ちゃんが心配じゃないわけじゃない。そう言う太乙に道徳は目をそらした。
「君はさ、自分ばっかりが沙依ちゃんのこと考えてるって思ってたかもしれないけど、そうでもないよ。沙依ちゃんの最初の教主襲撃の時、君は暴れて謹慎処分になったから知らないだろうけど、行方不明になった沙依ちゃんを捜索して処分しろって話もあったんだよ。それを止めたのは誰だとおもう?」
太乙のその言葉に道徳は驚いた。そんな話があったことすら道徳は知らなかった。
「あの子はなにかある。あの子はなにか特別な存在なんだってことは、皆解ってたよ。原始天孫様が何か隠してるってことも。沙依ちゃんが僕たちの所に来たときのあの情緒の不安定さ、戦闘に対する狂気、皆が沙依ちゃんのことを想って心痛めてた。手を差し伸べたくても、あの子自身が人を拒否していて誰も近づけなかった。でもその殻を君が破った。そこから君を通して少しづつ僕らとも心通じられるようになった。どれだけ皆が安心したか解る?君だけじゃない、皆があの子を見守ってきたんだよ、昔から。ずっとあの子は皆の妹みたいな存在だった。」
そう言われて道徳は言葉を失った。
「僕ら十二太子の中にも沙依ちゃんを危険視して対処すべきだという人もいるけど、その意見を止めてきたのは誰だと思う?君はいつも感情的で、話し合いとかそう言うことに消極的だったけど、そういうことで収めてきたのは誰だと思う?」
黙り込む道徳に太乙はため息をついた。
「君の沙依ちゃんへの想いは、それは愛情かい?それともただの執着?正直、君は仙人として精神が未熟すぎるよ。そんなんだから大切なことを見失うし、何もできない。」
そう言われ道徳は頭に血が上るのを感じた。そんな道徳に太乙は憐れむ様な目を向けた。
「僕が心配しているのは君のそういうところだよ。君はもっと冷静に広い視野を持って物事を見るべきだ。」
ものすごく屈辱的な気分だった。でも言われていることはきっと正しい。そう思って道徳は唇を噛んだ。
「昔から君と沙依ちゃんは良く似てるなと思っていたけどさ、よく似てるけど君たち正反対だよね。」
太乙のその言葉に道徳は疑問符を浮かべた。
「二人とも直情的で、自分勝手で、わがままで、ほんとこっちはいつも振り回されっぱなしだよ。そんな君らの違いはさ、いつも自分の事しか考えてない君と違って、沙依ちゃんは他人の事しか考えてないってことさ。」
君ならわかってるだろ?そう問われて道徳は目を伏せた。
そうだった。沙依はいつも他人の事ばかり考えていた。自分が嫌だから、自分がそうしたかったから、そう言いながら、自分のことは後回しにして他人のことばかり優先させていた。
「そんな沙依ちゃんがさ、復興の手伝いに出てこないってどうしてだと思う?あの子なら真っ先に人命救助して、怪我人の治療に全力で当たるんじゃない?それこそ自分の錬気を使い果たしてぶっ倒れるまでさ。」
そう言われて道徳はハッとした。
「原始天孫様はあの時僕らを皆殺しにしようとした。あれだけの強大な術式の一撃を一人のけが人も出さずに、沙依ちゃんは防いだ。どっかのバカが沙依ちゃんを殺そうと放った一撃を君はあの子をかばって受けた。あれは即死してもおかしくない一撃だった。でも君はこうして生きてる。傷跡も残らず完璧に傷がふさがって。それは沙依ちゃんが、禁忌ともいえる僕らじゃ絶対に出来ないような術式を使って君を再生させたからだ。その後、沙依ちゃんは原始天孫様との戦いよりさらに激しい戦闘を繰り広げ、終戦後、意識を失った。そして今あの子は行方不明だ。これがどういうことか解る?」
その言葉に道徳は最悪の事態を想像し、背筋が寒くなった。
「普通に考えて沙依ちゃんはもう死んでるか、生きていたとしても動けない状態なんだよ。」
そう言って太乙は道徳を見据えた。
「君の沙依ちゃんへの執着が強いから、断ち切るためにもあの子のことを知るのはいいことかと思って送り出したけどさ。このまま沙依ちゃんを追わせたら君が壊れそうで見てられないよ。沙依ちゃんの秘密もそうだけどさ、あの子の今も含めちゃんと現実を受けとめる覚悟が自分にあるのか、よくよく考えてから今後の行動は決めた方がいいよ。」
また来るから。そう言い残して太乙は帰って行った。
また一人残されて道徳は考えた。何も知ろうとしないで勝手に決めつけて勝手に嫌っていた。そう言った磁生の言葉が思い出された。ずっと自分もそうだったのかもしれない。太乙に言われるまで、どれだけ他の皆が心砕いて支えてきてくれてたのか、気付かなかったし、考えもしなかった。
一緒に育った仲間たちのことを考える。思い返せば、色々なことがあった。色々なことを言われた。ずっと皆、傍にいてくれていたのに。道徳は自分の身勝手さを思い知って恥ずかしくなった。太乙の言う通りいつだって自分の事しか考えてない。ずっと自分の事しか考えてこなかった。道徳は手で顔を覆って自己嫌悪に浸った。
○ ○
磁生が家に戻ると沙依はまだ眠っていた。本当に少しずつではあるが沙依の起きていられる時間は確実に短くなっている。その中で意識が完全にはっきりしている時間となると、それはもうほとんどなかった。起きている間はちゃんと会話もできるし、身の回りのこともできるが、どこかふわふわしていて、ちゃんと思考ができているかは怪しかった。
沙依は幸せそうな顔をして眠っていた。とても幸せそうな寝顔なのに、彼女の頬に涙の後を見て、磁生は何とも言えない気持ちになった。
「いったいどんな夢をみてんだろうな。夢ん中であんたは幸せなのかそうじゃないのか、どっちなんだよ。」
そう呟いて、磁生は沙依の頭を撫でた。
沙依の瞼がゆっくりと開かれ、目が合った。焦点の合わないその瞳に磁生の胸に苦いものが込み上げてきた。
「あんたの好きな男は悪い奴じゃなさそうだったな。あんたさ、知られたくないって言ってたけどさ、本当は受け止めてほしいんじゃないのか。全部知って、そのうえで受け入れてほしいんじゃないのか。拒絶されるんが怖くて、踏み出せないだけだろ。本当はあいつの傍にいたいんだろ。最後かもしれないんだからさ、いいじゃねぇか思い切って飛び込んでみろよ。あいつの傷になったっていいじゃないか。生きてりゃ傷なんてそのうち癒えるんだから。最後だと思うなら、最後くらい本当の自分の望みってやつに必死になってみろよ。」
届かないと思いつつ磁生は話しかけていた。いつもそうだった。いつもそうやって話しかけて、それが少しでも沙依の心に届けばいいと思ってた。少しづつでも心に積もって、沙依の生きる糧になればいいと思っていた。
「こんなことだと思った。」
そう声がして振り返ると、そこに郭がいた。
「深入りすんなって言ったろ。なんで匿ってんだよ。」
そんなことを言いながらも郭の口調や表情には責めている様子はなかった。
「別に匿ってるわけじゃねぇよ。大戦の時に連れ帰ってそのまんまなだけだ。こんな状態で追い出すわけにはいかないだろ。」
磁生のその言葉に郭は肩をすくめた。
「そうやって、春李のことも手懐けてたっけな。ターチェ拾って養うのが趣味なのか?」
「犬猫拾って育ててるみたいな言い方やめろよ。春李は俺の妻だし、こいつは春李の友達だ。一回つながった縁はそう簡単に切れるもんじゃないだろ。」
そう言う磁生に、お前はなんだかんだ言ってお人よしだよな、と言って郭は笑った。
「それにしてもこれがあの清廉賢母か。見る影もないな。」
そう言って郭は沙依の顔を覗き込んだ。初めて会った時の彼女は有無を言わせない威圧感があり、その瞳で見られると全てを見透かせているようで落ち着かなかった。自分よりずっと小さく小柄な彼女がひどく大きく見え、恐怖すら感じたことを郭はまだ実感を伴っておぼえている。今の彼女にはそんな片鱗も見られなかった。
「こいつ意地っ張りであの時は去勢張ってお前らに錯覚させてたからな。実際あの時にはもうボロボロだったんだぜ。ほんと危なっかしくて見てらんなくて、ついてったらこうなった。」
磁生のその言葉に郭は驚いた。あの時彼女は回復して出て行ったのだとばかり思っていた。彼女の不調など微塵も気が付かなかった。不調の最中あれだけのことをやってのけたのかと思うと、郭には化け物のように感じた。
「これは意識があるのか?」
郭のその問いに磁生はさあなと答えた。そして沙依をいつものように抱きかかえ、延命処置を行った。
「ちゃんと意識がはっきりしてることの方がもう少ないな。でも聞こえてはいるんじゃないか。こうやって術式を発動すればちゃんとそれに添ってできるし、もう少しはっきりしてれば会話だってできる。」
慈しむ様に沙依に寄り添う磁生の姿を見て、郭は眉根を寄せた。
「本当にお前清廉賢母に特別な感情持ってないのか?」
郭のその問いに磁生は嫌そうな顔をした。
「それここで聞くこと?お前、結構デリカシーないよな。」
そう言いながら磁生は沙依の頭を撫でた。
「特別な感情が無いかって言われたら、多分あるんだろうな。でもお前が言うような感情じゃ絶対にない。」
そういう磁生に郭は疑いの目を向けた。
「こいつみてると本当危なっかしくてほっておけなくてな。今はとりあえず、こいつにちゃんと自分の人生を生きてほしいと思ってる。短くてもいい、ちゃんと自分の人生を生きるってことに必死になってほしい。それだけだ。」
恋とか愛とか男女のどうこうじゃないことだけは確かだ、と磁生は笑った。その答えに郭は難しい顔をした。
「それはお前のエゴじゃないのか。正直、俺には清廉賢母が正常な状態に戻るとは考えられない。こいつこそ魂の帰る場所とやらに戻すべきなんじゃないのか?」
郭はかつて沙依が春麗に言っていたことを思い出して言った。傷ついた魂は魂の帰る場所に帰ることで傷をいやすことができる。魂さえ失わなければまた生まれてくることができる。そんな話だった気がする。
「輪廻転生か。ターチェはその信仰が強いみたいだからな。でもさ、実際輪廻転生があったとして、生まれてきたとして、それは沙依と言えるのか?今のこいつの人生は今のこの一回だけだろ。新し身体に生まれてきたって、それは新しい人生の始まりであって、今の人生とは関係ないだろ。死んだ先があるから大丈夫なんて考えは俺には出来ないんだよ。」
抱えた沙依の身体が、びくりと動き磁生は視線を落とした。知らずに声が大きくなり力が入っていたらしい。
「悪い、驚かせたか?」
その問いに沙依は首を横に振りそっと磁生から離れた。
「驚いたというより、目が覚めた感じかな?最近はちゃんと自分が起きてるのか、それとも寝てるのかほとんど自覚が無いんだ。でも今は起きてるって気がするよ。いつもありがとう。」
そう言って沙依は笑った。そして沙依は郭に身体を向けて郭をじっと見つめた。
「天上界の娘さんはそういう選択をしたんだね。」
沙依のその言葉に郭は目をそらした。
「天帝の魂はもうほとんど擦り切れて微かなものだった。だからその魂がちゃんと還るべき場所に戻れるように、彼女は付き添ったんだね。」
沙依は郭の胸に手を置くとそっと目を閉じた。
「天帝の娘さんの気配をあなたのここに感じる。あなたと彼女はまだ繋がってる。ちゃんとここに絆が残ってる。大丈夫。また逢えるよ。」
そう言って沙依は笑った。その笑顔を見て郭は熱いものが込み上げてくるのを感じた。だから目頭を押さえて上を見た。
「これをあげるよ。」
そう言って沙依は郭に丸薬を差し出した。
「天帝の娘さんと逢ったら、そしてまた同じ時間を一緒に過ごしたいなら、これを彼女に飲ませるんだよ。」
疑問符を浮かべる郭に沙依は微笑んだ。
「生命は器に入るべき魂と、魂を入れるべき器の両方がそろって初めて成り立つ。魂に対して器が小さければその器は壊れてしまうし、器に対して魂が小さければ器は上手く機能できない。人には大きすぎる力を手に入れた魂に人の器は耐えられない。でも人を仙人に昇華させる術は女媧とともに失われてしまった。それが残った最後の術だよ。」
そう言って沙依は遠くを見た。
「かつて女媧がわたし達を滅ぼすために力を与えた人間は沢山いた。でもその中で不老長寿の域に達し、後世まで生き残ったのはたった三人。戦死した者もいたがほとんどは与えられた力の大きさに器が耐えきることができなかったから。女媧は人間以外にも様々なものに力を与え、地上の生態系を変化させてしまった。それらが命を育み、繋げていった結果、色々な場所で、より強い器や魂を持った者が生まれている。それでもやはり天上界の娘さんほどの魂を受け入れるには脆いと思う。天上の子として再び生まれてくるのならともかく、そうでない時は器を強化させる必要があるんだよ。」
沙依の言っていることの意味が解って郭は恭しく丸薬を受け取った。
「わたし達ターチェにも同じことは言えるんだ。生き残ってるターチェは少ない。残った者のいくらかは人と交じり、人の中に我らが血は受け継がれていくだろう。それは人にしては強い器だけど、ターチェとしてはあまりにも脆い器だ。わたし達、最初の子供たちの魂は受けきれないと思う。受け入れられる器が無ければちゃんと生まれてくることは出来ない。だからわたしたち兄妹は受け継いだ神の力もろともここでお終いなんだと思う。確言はできないけど。」
そう言って沙依は磁生の方を見た。
「磁生の言いたいこととは違うだろうけど、わたしがこれでお終いっていうのは多分正解だよ。」
そう言う沙依の胸倉を掴んで磁生は怒鳴った。
「じゃあ、なんでもっと必死になんねぇんだよ。終わりだって思ってんだろ。次が無いって思ってるなら何で今を生きようとしない。まだ意識があるうちに何かをしようとしないんだよ。」
そんな磁生に沙依は微笑んだ。
「わたしは臆病者なんだよ。目的も完遂して大切な人も守れて満足してるんだ。これ以上を求めて傷つきたくない。この満足した気持ちのまま生を終わらせたいと思うのはいけないことなのかな?」
それでもと、沙依から手を離して磁生は声を絞り出した。
「それでも俺はあんたに生きてほしいんだよ。俺のエゴでもわがままでもいい。あんたがどう思ってようが関係ねぇ。俺はあんたにちゃんと生きてほしい。絶対諦めないからな。あんたを助ける術を見つけ出してやる。俺は絶対諦めないからな。」
磁生はどうして自分がこんなにも腹が立つのか理解できなかった。ただ無性に腹が立った。それが誰に対しての怒りなのか、何に対しての怒りなのか解らなかったが、ただただ本当に腹立たしく思った。
「どうして磁生はそこまでしてくれるの?」
そんな磁生を見て沙依は困った様な顔をしてそう言った。
「あんたのその態度がむかつくからだろ。少しは素直に人の言う事聞きゃいいのに、ほんとかわいくねぇ。」
そう言う磁生の顔は泣きそうだった。そんな磁生の顔を見て沙依は更に困った顔をして、そしてまた意識を手放した。
崩れ落ちる沙依の身体を支え郭は、危ないなと呟いた。
「いつもこんなんなのか?」
その問いに磁生は首を横に振った。
「今のはこいつが自分の気脈通さずに術式を発動させるっつうむちゃくちゃな事したからだ。」
そう言って磁生は沙依の頬を撫でた。郭に対して沙依が何らかの術式をかけたのはたしかだった。多分、春麗を失って気落ちしている郭の助けになるようなことをしたのだと磁生は思っていた。
「気脈は通さなくても錬気は使うだろうが。錬気を練ることだって今のあんたにはしんどいだろ。なんでいつもそうゆう無茶は躊躇なくするんだよ。」
磁生は郭から沙依を預かると寝室に連れて行き寝かした。
「お前、本当に清廉賢母とそういう仲じゃないのか?」
郭のその言葉にしつこいなと磁生は怒った。
「だから何であんなかわいげの欠片もない奴に俺が惚れなきゃならないんだよ。」
その答えに郭は難しい顔をした。
「お前らしくないと思ってさ。清廉賢母はあの状態だし、俺は正直彼女の言っていることに共感できる。回復できる見込みがあるならともかく、そうでないなら穏やかに最後を迎えたいと思うのは普通じゃないのか?その本人の意思を無視してまで延命させて、そんなに必死になって、今のお前はちょっとおかしいぞ。」
そう言うと郭は磁生の目をまっすぐ見た。
「お前が彼女に惚れてるっていうならまだ理解できなくもない。自覚してないだけならちゃんと考えてみろよ。これだけのめり込んでダメだった時またお前が壊れないか、その方が俺は気掛かりだ。」
郭が春李が死んだ時のことを言っているのは磁生にも理解できた。あの絶望感や喪失感を忘れたことはない。今だってその痛みは磁生の中に生々しく残っていた。
「お前が後悔しないように彼女との最後をどう過ごすのか、それを考えるべきだと俺は思うぞ。意識がある時に勝手に消えることもできるのに彼女がここにいるのは、お前のその想いを尊重してここで最後を迎えようとしてるからだろ。勝手に消えてお前が苦しまないですむようにさ。自分の意思を曲げてお前の延命処置を受け入れてることが、あいつの精一杯のお前への誠意なんだろ。それ以上は受け入れられないっていうあいつの意思を尊重してやってもいいんじゃないのか。」
郭の言葉が磁生の頭の中に響いた。郭は沙依をこのまま死なせてやれと言っている。それが本人の望みなんだからそれを受け入れろと。そんなことは解っていた。でも磁生にはそれはできなかった。どうしても、それを受け入れることはできなかった。
恋なんかじゃない。情愛なんかじゃ絶対ない。そう思っているのは、そう思い込もうとしているだけなのだろうか。磁生には解らなかった。ただ、妻を失った、あの時の痛みが自分から離れてはいなかった。誰かを強く想うのは、妻だけでいいと思っていた。だからこれは情愛なんかじゃない。ただあまりにも沙依が自分自身のことに無頓着だからそれが腹立たしくて、それであいつの思い通りになんかさせたくないそう思っているだけだと、磁生は自分に言い聞かせていた。
自分が言った言葉に思い悩む磁生を見て、郭はため息をついた。
「お前は案外繊細だよな。何か出来ることがあったら言えよ。どうせヒマしてるからさ。」
そう言って郭は帰って行った。
一人残された部屋で、磁生は妻の形見の刀に手を伸ばした。心の中で妻の名を呼ぶ。沙依は磁生の中で春李が生きていると言っていた。磁生の胸に手を当て、シュンちゃんがうらやましいと呟いた沙依を思い出した。淋しそうな声だった。あの時にはもう沙依は道徳のことを諦めていたのではないだろうか。こんな状態にならなかったとしても、道徳と添うことを諦めていたのではないだろうか。本当は深くつながりたいのに、自分のことを知られて拒否されるのが怖くて、あの時にはもう諦めていた。そう思って磁生は、あのバカがと呟いた。
「何もする前から諦めてんじゃねぇよ。」
そう声に出して。磁生は道徳に会いに行くことを決めた。
沙依が踏み出せないなら自分が橋渡しすればいい。道徳が受け入れられないようなら、沙依に言わなければいい。その時は沙依の意思をちゃんと尊重してやろう。そう決めた。
○ ○
道徳は自分の洞府から出られずにいた。太乙から言われたことが、頭の中でぐるぐる回って動けなかった。
「ずいぶんとしけた顔してんな。」
聞き覚えのある声がして顔をあげると磁生が立っていた。太上老君の庭で会った男。どうしてこの男がここにいるのだろうか。道徳は疑問に思った。
「あんたは有名人だからな。訪ねてくるのは簡単だったぜ。酒でも飲みながら話ししようや。」
そう言って酒瓶を差し出す磁生の姿に道徳は思わず笑った。
「なんでだろうな。あんたの顔みるとほっとするよ。」
そう言う道徳に磁生は、俺の人徳が滲み出てるからだろと嘯いた。
道徳に会いに来たはいいが磁生は道徳に何から話をすべきか決めかねていた。交渉事や対話術は苦手だった。だからとりあえず勝手にお猪口を出してきて酒を注ぎ道徳に差し出した。
「酔っぱらいのたわごとなら、何言ったってありだろ。」
それは道徳にかけて言ったのか、自分に言ったのか、磁生は解らなかった。磁生にとって誰にかけたか解らないその言葉は、道徳の口を軽くするには十分だった。
「俺の話聞いてくれるって言ってたよな。じゃあ、きいてくれるか?本当どうしようもない俺の悩みをさ。」
そうやって自虐的に笑う道徳の顔が泣きそうに見えて、磁生は水を向けた。道徳は少し考えてから話し始めた。
「子供の頃からずっと好きだった女性がいるんだ。最初から、異性として好きだった。記憶をなくして、家族を亡くして、帰る場所をなくして、泣いてる彼女に元気になってほしくて、子供だった俺は家族になってやるって言ったんだ。俺が帰る場所になってやるって。それ以来、彼女はずっと俺の事実の兄貴のように慕うようになった。彼女の中で俺は異性じゃなくて家族になっちまった。ばかだろ。」
磁生には道徳が沙依のことを言っているのだということがわかった。そしてお互いにすれ違ってただけなのかと、そう思った。道徳は意識を失っていたから覚えていないのだろう。道徳の治療をするとき、沙依は言っていた。道徳が家族になってやるって言ってくれた時凄く嬉しかったと、その時からずっと道徳は特別な人だったと。
「案外、相手の女もあんたのこと好きだったんじゃないのか?」
そう言う磁生に道徳は首を横に振った。
「異性として意識されてるなんて感じたことはない。異性として意識してるなら人の寝所に潜り込んでくるとかありえるか?大人になっても、あいつ情緒が不安定になると小さい頃と同じように人の寝所に入ってきてたんだぜ。」
それを聞いて磁生は、それはないなと、頭を抱えた。
「もう、いっそのこと襲っちまえばよかったんじゃないのか?大人になってまでそんなんなら、そういう気があるって思われても仕方がないってさすがに解るだろ。その状態で手を出しても、誰もあんたのこと責めねぇよ。」
磁生のその言葉に道徳は遠くを見た。
「何回も欲求に負けそうになったよ。でもさ、あいつが俺のこと信頼してるのも、本当に苦しくて来てるのも解ってて、手を出すなんてできなかった。いや、その兄妹ごっこの関係性を崩すのが怖かったんだ。そんなことしてあいつが自分から離れてくのが怖くて、ずっと気持ちを伝えることすらしなかった。」
そう言って道徳は酒をあおった。
「ずっと俺は自分の事しか考えてこなかった。あいつが仙人を怖がってるのも、原始天孫様が何かを隠してるのも気づいてたのに、何も知ろうとしなかった。何もしようとしなかった。ただ、その時の自分の世界が壊れるのが怖くて、ずっと目をそらしてきた。そしたらさ、失っちまったんだ。大切だったはずのものが、気がついたら何もなくなってた。」
そして道徳は手で顔を覆った。
「今も同じなんだ。ずっと大昔に死んだと思ってたあいつが生きてて嬉しかった。今度こそ失いたくなかった。だから探そうとしたけど、色々言われて、それ自体がおれの身勝手だって実感した。状況から考えてあいつが無事な訳ないのに、出てこないのは事情があるはずなのに、俺はあいつの気持ちも立場も何にも考えなくて。それで。」
道徳は言葉を詰まらせた。磁生はなにも言葉を掛けることができなかった。
「バカみたいだろ。何千年も生きてるのに子供のころからの片思いをずっとひきずって、一方的に盲目にあいつに執着して。あいつのこと本当は何にも知らないのに。あいつの秘密や今を受け入れる覚悟が自分にあるのかも分からないのに。それでもさ、身勝手だって解っても、ただの執着かもしれないって思っても、それでも俺はあいつが欲しい。会いたいんだ。この手で抱きしめたい。あいつが拒否したとしてもあいつを俺のものにしたい。自分がそう思ってるって、そう実感した。自分の中のそんな欲望を自覚して、本当に自分はどうしようもなく身勝手な奴だなって実感して、自分が嫌になった。」
磁生は酒をあおりながら道徳の話を静かに聞いていた。執着と愛情の違いはどこにあるのだろうか。磁生には解らなかった。好きな女を自分のものにしたいというのは普通の事ではないのだろうか。欲望をそのままぶつけたらそれは間違いだろうが、欲望を持つこと自体は人として自然なことではないのだろうか。
「あんた俺より年寄りのくせに初心なんだな。何千年も童貞こじらすとこうなるのか?」
そう言われて道徳は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「いや、あんたかわいいな。どっかの誰かさんよりあんたの方がよっぽどかわいいわ。」
ニヤニヤ笑いながらそういう磁生に道徳は今度は背筋が寒くなるのを感じた。
「勘違いするなよ。別に男に興味があるわけじゃないから。」
そう言って手をひらひらさせる磁生に道徳は疑いの視線を向けた。その反応はその反応で面白いなと思って、磁生は声を出して笑った。からかわれているのだと感じた道徳は不機嫌そうな顔をして酒煽った。そして磁生に何かを言おうとしたとき、扉が開いて太乙が入ってきた。
「どうしてるかと思って来てみれば、酒盛りかい?いいね。僕もまぜてよ。」
そう言って太乙も勝手にお猪口を出して席に着いた。そして磁生の顔を見ると疑問符を浮かべた。
「君、見ない顔だけど道徳の友達?いや、どっかで見たことある気がするな、どこだっけ?会ったことある?」
そう聞かれても磁生には全く心当たりはなかった。
「ま、いいか。のものも。ところでなんの話してたの?僕もまぜてよ。」
磁生が、何千年も童貞こじらすとこういう男ができるんだなって話してた、と言うと太乙は手を叩いて大笑いした。
「仙人界には美人がいっぱいいるのに他の女性には目もくれずにずっと沙依ちゃん一筋だもんね。そのくせ兄妹ごっこして手は出さないし、かといって他に女作るわけでもないし。本当、気持ち悪いよね。」
そう言って太乙は思い出したとポンと一つ手を叩いた。
「そうだよ。沙依ちゃんの彼氏だ。君、大戦の時、沙依ちゃんと一緒にいた人でしょ。沙依ちゃんにキスして、沙依ちゃん連れ去った。」
太乙のその言葉でその場が凍り付いた。
「その言い方色々語弊があるからやめて。あんたまだ酒飲んでないのにもう酔ってんのか?」
磁生は冷や汗をかきながら言った。道徳の視線が怖かった。さっきまでの友好的な感じは消え、殺気に似た何かを向けられている。いや、本当に殺気なのかもしれない。肝が冷える思いがして磁生はこいつやばい奴だと心の中で呟いた。
「語弊ってなに?じゃあ、君と沙依ちゃんはどんな仲なの?ずいぶんの親しそうにみえたけど。」
空気を読まず薄ら笑いを浮かべながら聞いてくる太乙はこの状況を楽しんでいるようだった。磁生に睨まれてもどこ吹く風で、太乙は飄々としていた。しかし自分に向けるその目が存外真剣なことに気が付いて、磁生はため息をついた。試されている、信用にたるのか見定められている。そう感じて諦めた。
「君は勘がいいね。ずいぶんと戦慣れしているようだし、いったい何者なの?」
太乙のその言葉に磁生は嫌そうな顔をして答えた。
「あのじじぃから直接修練を受けたっていう意味じゃ、あんたらの弟弟子だよ。直弟子として表に出たことはない。あのじじぃに拾われ徹底的に訓練を受けさせられ、ずっと仙人界の、いや、あのくそじじぃにとって都合の悪いものを片付けさせられてきた。仙号ももってねぇ、家名もとっくに忘れちまった、ただの磁生だよ。」
それを聞いて太乙たちが驚くのが見て取れた。
思い出したくもない。でも沙依のことを話すには自分のことも話さなければいけないのだろう。磁生はそう思って、視線を落とした。
「どっから知りたい?あんたらはこの仙人界の成り立ちをどこまで知ってる?正直、俺もついこの間まで知らなかったんだ。本当のことは何もわかっちゃいなかった。」
磁生は目を閉じて一呼吸おいて語り始めた。
「ずっと、くそじじぃに言われるがまま殺してきた。それが仙人界のためって信じて、俺たちが仙人界を守ってるんだって言い聞かせて。そんな最中、俺は妻と出会った。妻は人間じゃなかった。ずっと俺たちが殺してきたものと同じ存在だった。あいつと出会って、初めて、自分が殺してきたのがターチェっていうやつらだって知った。地上の神と人の間に生まれた子供たちの子孫。かつて人から神と崇められていたあいつらは、汚い手をつかって仙人の手で滅ぼされ、そして生き残った奴らも狩られ続けてた。そんなことをしてきた俺たち仙人への憎しみから、生き残ったたいていの奴は鬼と化し、暴れまわってた。俺たちが殺してきたのは、その鬼と化した奴らだった。妻は、初めてあった鬼と化してないターチェだった。そしてターチェであるという理由だけであのくそじじぃに殺された。」
あの時の情景が鮮明に脳裏に浮かんで磁性は目まいがした。こらえようとしても涙が溢れてきた。まだ覚えてる。あれからずいぶんと経つというのに、まだこの痛みは自分の中にある。
「沙依は妻の友達だった。ターチェの国、龍籠が第二部特殊部隊部隊長、青木沙依。それがあいつだった。沙依は仙人じゃない。あいつはターチェだ。」
その言葉に道徳は驚いたが太乙は全く驚いていない様子だった。
「沙依ちゃんが僕たちと違うことは最初から解ってたよ。沙依ちゃんの気は僕らのそれとも、天上界出身者のそれとも違ってたから。元が人ではないんだとは思ってた。」
太乙のその言葉に道徳は大いに驚いている様子だった。そんな道徳の様子に太乙は気付いてなかったの?とため息をついた。
「本当に君は沙依ちゃんのことになると盲目だね。でも君のその盲目さがあの子の心を開いたのかもね。僕らはやっぱ心配もしてたけどどうしても警戒してしまってたから。」
太乙は呆れたような顔で道徳をみつつもその瞳には温かいものが宿っていた。
「ところで君の話には矛盾があるよね?ターチェを容赦なく狩っていた原始天孫様は、なんで沙依ちゃんは手元に置いていたの?」
再び磁生に視線を向けると太乙は追求した。磁生は少し間をあけそして口を開いた。
「実際の所は俺には解らない。実際にそれを決めたあのじじぃから聞いたこともないし、死んじまったから聞きようもないしな。」
そう言って磁生は深く息を吐いた。
「初めて沙依と会った時、あいつが最強の仙女と言われていると知った時、頭に血が上るのを感じた。春李は殺されたのに何であいつはのうのうと普通にこの仙人界で生きてるんだって、腹が当たってしかたがなかった。最初からあいつに向けるべき怒りじゃないことは解ってたが、それでも腹が立った。そうやって仙人界で生きていれたのが春李だったらなんて考えてどうしようもなくなった。でも、太上老君やあいつの話を聞いて、俺は春李じゃなくてよかったって思ったんだ。自分が惚れた女がそんな目に会わなくてよかったってそんなこと思っちまった。そんな人生をあいつは生きてきた。」
磁生は道徳の目を見て問いかけた。
「それでもあんたはあいつのこと知りたいか?あいつに何があったとしても、それでもあいつを自分のものにしたいって思うのか?あんたはあいつに向けたその欲望を抱き続けることができるのか?」
それを聞いて道徳は言った。
「俺はこれを抱き続けてもいいのか?」
道徳は困ったように笑った。
「俺はもう抑えておける自信がないんだ。あいつを傷つけてでも、無理やりにでも自分のものにしたい。そんなことを考える自分はもう沙依と会うべきじゃないんじゃないかって思った。会ったら本当にとんでもないことをしてしまいそうで、欲求が抑えきれない自分が情けなくてさ。」
道徳の顔は泣きそうに見えた。
「今、俺お前に凄く嫉妬してるんだ。お前はは俺の知らない沙依を知ってる。沙依はお前には俺の知らない部分をさらしてる。お前と沙依がどんな風に過ごしてたのか、そんなこと考えるだけで、気が狂いそうだ。沙依の過去も今も未来も全部自分のものにしたい。あいつの全てを知りたい。俺のこの気持ちは愛情なんかじゃない、一方的な劣情だ。何を聞いたって、あいつに対しての劣情が消えることなんてない。でも、こんなもんあいつにぶつけたくない。」
好きなんだ。道徳はそう呟いて、涙を流した。それを見て磁生はこいつの想いは、ちゃんと愛なんだなと思った。純粋すぎる最初の想いをこじらせすぎてこうなった。ただそれだけで沙依のことを大切にしたいと思ってるのだ。どうしようもなく大切なんだ。そう思うと磁生は何とも言えない気持ちになった。傷つけたくないから触れられない道徳と、傷つきたくないから触れられない沙依。お互いに想い合っているのにこんなすれ違いもあるんだなと磁生は不思議に思った。
「あんたと沙依は正反対だな。」
思わず漏れた磁生の言葉に道徳は顔をあげた。
「いいじゃねぇか、惚れた女に劣情を抱くなんて普通の事だろ?ぶつけちまえよ本人に。そんなに怖がんなくても、あんたはあいつのこと傷つけやしねぇよ。」
心からそう思う。だから心からこいつになら沙依を任せられる、そう磁生は思った。
磁生は語った。どうやって仙人が生まれ、仙人界ができたのか。仙界大戦の最中なにがあったのか。沙依が何を成し遂げ、今彼女がどのような状態なのか。
「あいつの身に起きたことは俺が話す事じゃない。あいつに何があって、あいつが何を思ってきたのかは、本人に聞いてくれ。」
磁生の話を二人は真剣に聞いていた。聞き終わってしばらく誰も何も言わなかった。
「会えるのか?」
そう問う道徳の決意の固まった目を見て、磁生は優しく微笑んだ。
「たとえ沙依がもう俺の知ってる沙依じゃなくても、すぐに消えてしまう命だったとしても、会いたい。傷になったっていい。それであいつが俺の中に残ってくれるっていうなら、その方がいい。何も知らずにただ想い続けて、知らない間にいなくなってしまう事の方が俺は耐えられない。」
道徳の言葉に磁生は、じゃあ少し訓練しないとな、と言った。
「延命処置の仕方を教えてやる。後はあんたに任せる。」
それが磁生が出した答えだった。沙依が望まなくてもこれでいい。これで希望はつながった。奇跡を起こせるとしたら道徳しかいない。磁生はそう確信していた。もし奇跡が起きなかったとしても、沙依の最後に傍にいるのは自分じゃなくてこの男であるべきだ。磁生はそう思った。
磁生の妻は磁生の腕の中で死んだ。死ぬ間際、彼女は磁生の頬に手を添え笑った。穏やかな顔をして眠る様に息をひきとった。決して楽な人生ではなかったと思う。決して幸せな最後ではなかった。でも妻は磁生だけを見て笑って、穏やかに逝った。あの時妻が何を思っていたのか解らない。でも沙依は言った、妻の最後が磁生の傍で良かったと。沙依は言った、妻がうらやましいと。あいつはいつも本音しか言わない。だからあれは本音だった。沙依が無意識にでも望んでいた願いだった。そう思うから、沙依が望まなくても道徳をあいつの元に連れていく。それが磁生が決めたことだった。
そうして磁生は道徳に指導を行い、沙依の元に連れて行った。
生気の薄い沙依を見て道徳は打ちひしがれた様子だった。ゆっくりと近づきその身体を抱きしめる。
「沙依。」
沙依は返事をしなかった。起きてはいるがその目はここを写してはいなかった。今の彼女は道徳のことも認識してはいなかった。そんな彼女の姿に道徳は目頭が熱くなるのを感じた。
「沙依。ずっと好きだった。ずっと。」
そう言いながら道徳は教えられた通りに延命処置を行った。初めてなのに声を掛けなくてもすっと自然に呼吸を合わせることができた。無意識の中で沙依はごく自然に道徳の気脈を感じ、それに添っていた。それを見て磁生は安心しそっと二人を置いて出て行った。
沙依が道徳の名を呟くのが聞こえた。しかし意識がはっきりしたわけではなかった。沙依は涙を流していた。
「沙依。また怖い夢でもみてるのか?」
道徳はそう言って沙依の頭を撫でた。子供の時のように手を握りしめ道徳は沙依に寄り添った。
「沙依。俺は、お前の事何も知らなかった。お前が抱えている不安も、恐怖も、何も知らなかった。こうやっていれば、それが少しでも薄れるんじゃないかと思うだけで、それを知って解決しようなんて思ったこともなかった。」
怖かったんだ。道徳はそう呟いて、息を吐いた。
「俺は、お前のことが知りたい。お前の恐怖や不安も、全部。全部知って、全部、俺の物にしてしまいたい。もう遅いかもしれないけど、そう思ってるんだ。」
そう言って道徳は沙依の額に口づけをした。
道徳はずっと沙依を抱きしめていた。寝ても覚めてもずっと、抱き締めていた。腕の中にある体温が、鼓動が、息が、彼女がまだここにいることを伝えてくれた。離したら、消えてしまいそうなほど、彼女の気配は薄かった。それほどにまで沙依は弱り切っていた。そんな沙依を慈しみ、道徳はずっと抱きしめていた。彼女の気に添って自分の気を流し、彼女の気を全身で感じながら。
「道徳はこのまま沙依ちゃんと心中するつもりなのかな?」
外から様子を見ていた太乙は、同じく様子を見ていた磁生に声を掛けた。
「それならそれでいいんじゃないか?強いて言うなら、俺んちでやめてくれって話だが。」
そう答える磁生に太乙はため息をついた。
「君は案外薄情だね。」
「あんたは意外とおせっかいなんだな。」
そう言い合ってお互い顔を見合わせた。
「君は本気で奇跡が起こると信じているのかい?」
太乙の問いに磁性はさあなと肩をすくめた。
「起きなくてもあいつらはこれでいいんだろ。好きにさせておけよ。」
「そう言いながらなんで君はここにいるんだい?」
「なんでだろうな。なんとなく見届けたいからだろ。自分が選んだ結末がどこにつながってんのかさ。」
そう言いながら磁生は二人の居る方へ意識を飛ばした。
二人の気は違和感なく交じりあい、繋がっていた。無理やり気脈つなげたわけでも、なにか術式を使ったわけでもなく、二人の気は一つに交じりあっていた。多分お互い無意識にお互いを求めあった結果がこうだった。離れてしまえば切れてしまうそんな繋がり。気脈を再構成するには足りない、ただ純粋に交じりあっているだけの繋がり。でもそこまで一体に繋がれる者同士はそうはいない。
なぁ、沙依。これだけ繋がってりゃ解るだろ。どんだけあいつがお前の事想ってるのか。どれだけあいつがお前を求めてるのか。それと同じようにあいつにもお前の想いが流れてんだぜ。もう偽ったってどうしようもないくらい、お互いの事解ってんだろ。だから意地張ってないで戻って来いよ。短い時間でもいい。ちゃんと生きてみろよ。磁生は心の中で沙依に語り掛けた。
沙依がちゃんと目を覚ましたのはそれから数日たってからだった。
漠然とした視界の中で沙依は道徳の姿をとらえた。これは夢なのか、まだ自分は眠っているのだろうか。沙依にはちゃんと認識できなかった。握られた手の暖かさが、抱き締められた胸の鼓動が、これが現実であることを知らせていた。
「本当にとくちゃんがいてくれたんだね。」
沙依のその言葉に道徳は驚き、沙依の顔をまじまじと見つめた。
「夢の中でずっととくちゃんのことを感じてた。小さい頃みたいにとくちゃんのことを身近に感じてた。わたしが辛い時とくちゃんはいつもこうやってわたしの傍にいてくれた。」
大好きだよ。そう呟いて、沙依は再び眠りに落ちた。
「沙依‼」
道徳は思わず叫んでいた。危篤状態になったのかと思ったが、そうではなかった。沙依は本当にただ眠っているだけだった。その寝顔に、生命力が戻っているのを見て道徳は安堵した。何が起きたのかは解らない。でも確かに奇跡は起きたのだ。沙依の気は正常に体内を巡っていた。
奇跡が起きた。ただその事実を道徳は噛みしめ、そして彼もまた眠りに落ちた。