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年を越すと云う事 前向き

作者: ひさまた病

 世界はとにかく白かった。

 白すぎて眩しくて、少しでも距離が遠いと霞んで見えた。

 振り向けばそこには、己が描いてきた様々な絵が延々と続いている。床にも壁にも、空であるはずの上にもそれは一面何かで埋め尽くされていた。

 過酷であるような絵もあれば、当然、幸福そうな絵もある。それは全て、己が経験してきたことだった、と思い返す。

 立ち尽くすのは成熟した女性とも、幼子とも見える少女。だがそこは特段、重視すべきところではない。

 仮にそれを彼女とするならば、彼女は手に持つ様々な色の落とされたパレットと筆で何かを描かなければならなかった。

 それは幸福でも、不幸でも、題材は自由だ。何も描かなくても良い。だが気づくと、周囲に居る数えきれぬほどの人々は早くも何かを描きだしていた。

 幸せそうな家族の絵、忙しく仕事をしている社会人の絵、冬休みを満喫している学生の絵、あるいは一人寂しく過ごす男の絵、寒空を見上げ身を凍えさせている絵、墓地にただ一人立ち尽くす絵。それこそ十人十色という程、様々なタッチで、ジャンルで、色使いで、それでも確かな絵画の一筆が始まっていた。

 ただ一人、何を描こうか迷っている少年が居た。パレットは黒く塗りつぶされていて、筆から滴る液体は早くも足元を黒く染めている。

 はっとして、何か声を掛けようと動こうとした。だが何を言おうか思いつかない。それでも何か、彼の為になるような一言を。

 そうしようとした時、壮年を過ぎたくらいの中年男性が少年に近づいた。

「少年」

 かけた声に、少年はふと我にかえったように顔を上げる。

「迷っても良い、ネガティブでもいい。ただ思いついたことを好きに描けばいい」

 ただな、と男は一つ間を置いて言った。

「描き始めるということが重要なんだ。結末は自然、後からついてくる。描き始めるのが遅くてもいい。周りが始めているからと焦る必要などない。君は君のペースで、ゆっくりでも、確かな志を立てればいい」

 こくり、とその言葉に少年は頷く。

 男はそれを見て、何か己の使命を果たしたかのように、先程まで己が描いていた絵の続きを描き始めた。それを眺めている内に男の姿が少しずつ薄くなっていくように見えた。

 少年は何かを思いつき、大きく腕を動かす。絵の具が跳ねて服を汚そうと、不格好な形ができようと、構わず楽しそうに、時には苦しそうに描き始めた。

 気づいた頃には、描きかけの絵だけを残して先ほどの男の姿は完全に消えていた。周りを見渡しても、その姿はどこにもなかった。誰も彼もが必死に、楽しそうに、苦しそうに、悲しそうに絵を描いていて、それに気づいているのは自分だけのようだった。

 絵はその都度、タッチや物語性を変えていくように見える。

 彼女はやがて自分だけが立っていることに気がついて、そこでようやく、自分も彼らと同じように、描くための道具を持っていることを思い出す。

「お姉ちゃん」

 先ほど少年だったはずの青年は、そんな彼女に気がついて歩み寄ってきた。

「あのおじさんの絵は描きかけに見えるけど、あれは確かに、おじさんが描ききった絵なんだよね」

 最後まで、夢中になって描いていた。彼女は確かに、それを見ていた。

 小さく頷く彼女に、青年は少し満足そうな笑みを見せて頷き返した。

「自分が描いた絵と、歩いてきた道は違うかもしれない。でもそれは、確かにあのおじさんが一歩一歩踏みしめてきたんだ。扉の向こうでも描きかけの絵は描けるけど、新しく描き始めることは出来る」

 青年は静かに続けるのを頷きながら見て、彼女は続く言葉を聞いた。

「描き始めること、歩き始めること。何でも始めることが大切なんだ。あのおじさんのお陰で、僕は気づくことが出来た」

 立ち止まることは誰にでもできる。そしてそれが必要な時もある。

 だがいずれは発想に任せて、やがては扉の近くまで絵を描くことも必要だ。

「今は真っ白なままでもいいけど、黒でも白でも、僕らは気づいたらどんな形でも描いている。それがイヤな絵かもしれないし、満足できる出来かもしれない。でも、それは確かに、その人が描いた絵だ」

 そして。

 ゆっくりと歩みを進める。床にも壁にも、空にも、そこら中が様々な絵で埋め尽くされている。もうこんなに筆が進んだのか、と少し驚きながら、気づいたら扉は目の前にあった。

 青年は先を促すように扉を開ける。二人は同時に、その先へ進んだ。

 世界はまた、白く埋め尽くされていて、誰もが絵を描き始めている。立ち尽くしている者も、頭を抱えている者も居る。消えかけている者さえ居る。

 今度はさきほどの中年男性のように、誰かが彼らに声をかける。その結果、消える者や、再び描き始める者が居た。

「そして結局、扉を開けたら、今回は何かを描いてみようかな、って誰もが考えるんだ」

 その結果は考えず、前の絵の続きでも、新たな絵でも、それぞれが胸に抱いたものに駆られて。

「だからお姉ちゃんも、今度はどう?」

 言われて、彼女は小さく頷いた。

 思ったこと、感じたこと、これからこういう絵が描きたい――思うがままに、彼女はようやく白い世界に、色をつけ始めた。

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