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雨唄

作者: 姫月紋
掲載日:2007/11/10

―――ぽつぽつと、雨音が聞こえる。


今日も午後から雨が降り始めた。


蒸し暑い教室の中、僕は、授業もろくに聞かずに、外ばかりを見つめていた。


時折、意識せずとも視界に入ってくるのは、斜め前の席に座っている佐々木春奈。


身長が低くて、髪が長い。


どちらかというと真面目系で、でもとても明るい可愛い子だ。


つまり、そう、それ。






僕は、彼女に片思いをしている。






言っておくけど、告白する気はない。


というか、考えられない。


ボクが彼女に告白するなんて、天と地がひっくり返っても、ありそうにない話だ。


「山本ぉ!」

 

先生の声に、反応して立ち上がった。


まだ若い英語の教師は、1つ小さなため息をついて、腰に手を当てた。


「ぼーっとしている暇があったら、少しは勉強しろよ?」

 

その通りだった。


ただいま、高校1年生。


入学してから数ヶ月がたったが、未だに勉強というものがよくわからない。


テストの点も相変わらず悪く、僕が高校に入学できたこと自体が、奇跡と思えてならない。


とりあえず適当に返事をして、また外を眺めた。


いつの間にか、外は大雨になっていた。


ざあざあという音が心地よい。


僕は雨が好きなんだと思う。


じめじめしているのは嫌だ。


でも、雨は好きなんだと思う。


この雨音のリズムが好きなんだと思う。






どれだけ雨を眺めていたのだろう。


僕は、中学からの友人である笠原翔哉に声をかけられ、我に返った。


―――気づけば、授業は終わっていた。


昼食の時間だ。


「光一! 授業終わったぜ」


山本光一。


それが、僕の名前。


ありきたりな名前だけど、別に嫌っているワケでもない。


気に入っているワケでもない。


結局、どうでもいいのかもしれない。


「雨ばっかで嫌になるよなぁ……」

 

翔哉が漏らす。


僕は、それに対して


「そうかぁ?」

 

と答える。


さっきも言ったが、正直、雨は嫌じゃない。


さらに続けて、


「お前って、いつも、ぼーっとしてるよな?」

 

と、言われた。


確かに、僕はぼーっとしている。


簡単に言うならば、間が抜けているのだろう。


「そうかぁ?」

 

でも、適当に答えた。


翔哉は小さく笑って、


「なんか最近、雨のせいでテンションが下がってんだよな」

 

と言いながら、ご飯をほおばった。


朝から、思い切り騒いでいて廊下に立たされたのは、どこのどいつだよ、と心の中で思ったが、口には出さなかった。

 





昼の休憩時間も、たいして何かをするワケでもなく、翔哉とくだらない話をしながら過ごした。


考えてみれば、ボクは学校に勉強をしにきているのではない。


こんな風に、友だちと話をしにきているんだ。


まぁ、それはそれでいいか、と思うが、さすがにそれでは何のために受験をしたのか、よく分からない。


勉強する気がないのなら、働くべきなのかもな、と思うこともある。

 





そのまま午後の授業も、無意味に過ごしたボクは、部活動に行く翔哉と別れて、いつもの帰り道を歩いていた。


傘はない。


もともと持ってくる気はなかった。


濡れても別に構わないし、風邪を引けば、それはそれでラッキーだった。


そんな風に、若干浮かれ気味だった僕は、ふと前を見て、体が一気に固まるのを感じた。






―――春奈だった。






ビニール傘をさして、1人で歩いている春奈だった。


とりあえず驚いた。


ちょっとの間、身動きが取れなかったが、すぐに僕は小走りで、彼女の後ろ姿を追いかけだした。


別に理由があったわけじゃない。


無意識のうちに体が動き出していた。


ここで、追いかけなきゃ、ここで、言わなきゃ……。


そんなところなんだろう。


雨は激しく降っており、僕の足音が、水たまりを踏んで大きな音を立てても、全く気づかれない。


……声は出なかった。


大声をあげれば呼び止められたかもしれない。


でも、声が出なかった。


喉のどこかで引っかかっているみたいだ。


だから、ボクは追いかけた。


追いかけたけど追いつかない。


その繰り返しがしばらく続いた。











「―――ちょっと待って!」

 

出た。


やっと声が出た。


声が出たという表現では足りない。


……僕は叫んでいた。


引っかかっていた声が、一気に飛び出したようだ。


彼女は、それでやっと僕の存在に気づいた。


とても驚いているらしかった。


彼女の顔を見ると、途端に頭の中が真っ白になった。


これから言うべき言葉が出てこなかった。


また、声がどこかで抑え付けられているような、そんなもどかしさと格闘することになった。


心臓が口から飛び出そうだった。


それでも、呼び止めたのは僕だ。


何か、


何か言わないと―――。


「あの…、えっと、何て言ったらいいかとか、よく分かんないんだけど……」


無理やりに声を搾り出したが、なんだか僕が言っているのではないような、そんな不思議な感じがした。






「僕は、あなたのことが……、好き、みたいです」






雨音にかき消されながら、それでも彼女に伝わるように、僕はできるだけ、大きく、けれど小さく、言った。


彼女は僕の言葉を聞き終えて、さらに驚きを増した表情になった。


その顔を見て、僕は、その場にいることが耐え切れなくなって、返事も聞かずに逃げ出した。


彼女が僕を呼び止めたような気がしたが、足を止める度胸はなく、ただ全速力で走った……。

 

雨は、ますます強くなった。


僕の心にも、その冷たさが、ひしひしと伝わってくるようだった。


それにしても、早く家に帰らないと、風邪を引いてしまいそうだった。





 

家に帰って、風呂に入り、気持ちを落ち着かせてみると、後悔の念にとらわれた。


なんで、あのタイミングで告白したのだろう……。


あのときの僕は、本当の僕じゃなかったのかもしれない。


だって、僕が彼女に告白するなんて、ありえない話のはずだったのに……。


頭の中が、ごちゃごちゃで、もともと整理整頓が苦手な僕にとっては、綺麗に片付けることは不可能だった。


風呂から出て、翔哉にメールをした。


誰かの助けが必要だった。


「んで、返事はいつ聞くわけ?」


確かに……。


先ほどから後悔してばかりだが、加えて、返事を聞かなかったことまで、後悔し始めた。


なんか、今日はダメ日だ。


僕は、思いっきりテンションを下げたまま、


「わかんねぇ」

 

と、翔哉に返した。


翔哉の返事を待ちながら、僕はベッドに寝転がった。


そして、そのまま、眠ってしまった―――。






翌日。


まだ小雨が降っていた。


地面は昨日の雨のせいで、水たまりだらけ。


あまり学校に行きたい気分ではなかった。


好きなはずの雨も、なんだか僕に呆れているみたいで、ちょっと苛立った。

 

学校に行こうと、家を出ると、また雨が強くなっていた。


「しかたない……」

 

今日は、傘を持っていくことにした。


さすがに、雨でぬれたまま授業を受けるつもりはなかった。

 





―――登校中。


僕は、足を止めることになった。


春奈の背中があった。


困った。


僕は、彼女を追い越さないように、ゆっくりと歩いた。


そんな風に、神経を尖らせていたからだろうか、不意に後ろから肩を叩かれた程度のことで、僕の心臓は思い切り飛び跳ねた。


「おっす」

 

翔哉だった。


僕は、一つ大きな息を吐くと、


「おはよう」

 

と言った。


ひきつった笑顔だったみたいだ。


翔哉は、からかうように、


「何びびってんだよ。今、聞きに行けよ」

 

翔哉は、春奈のほうに目を向けた。


「本当に無理」

 

そう言ってから、僕も春奈の背中を見つめた。




 


学校に着くころには、また雨が弱まった。


さっきは、呆れ顔だった雨も、今度は僕をなぐさめてくれているようだった。


やっぱり、僕は雨が好きだ。


そんなことを考えて、少し夢見心地な気分になったけれど、教室に入ると、すぐさま現実が飛び込んできた。


春奈の席は、斜め前。


何もしなくても、昨日のことが頭に浮かぶ。


僕は机の上にうつぶせて、そのままチャイムがなるまで、顔を上げなかった。




 


僕の激動の想いとは裏腹に、いつもの1日が過ぎていった。


相変わらず、僕は授業を聞いてなかったし、外では雨が降り続いていた。


結局、彼女とは目を合わせることもできなかった。


人生で、1番疲れた1日だった。


「お疲れさま」

 

授業が終わり、春奈が教室を出て行ったのを見届けてから、翔哉が声をかけてきた。


僕の顔には、はっきりと“今日は本当に疲れました”と書かれていたように思う。


「さて、どうする?」

 

翔哉が訊ねた。


僕は「何を?」と言おうとして、ぎりぎりのところで食い止めた。


告白の返事の話に決まっている。


「まぁ、今日はいいんじゃないの?」

 

僕は、荷物をまとめながら言った。


翔哉は、不服そうな顔をして、


「早いほうがいいんじゃないの?」

 

僕の言い方を真似て言った。


早いも遅いもなかった。


僕としては、もう、そのことについては忘れていたかった。


それに、返事がどちらであっても、その先の僕を想像することはできなかった。


「まっ、気長に待つよ」

 

僕は、一言、そう言い残して、教室を出て行った。


「いつもみたいにぼーっとしてると、返事を聞き逃―――」


翔哉が言ったが、僕の耳には、最後まで届かなかった。






雨は、いつの間にか、止んでいた。






―――僕が告白してから、数日が経過した。


春奈からの返事はなかったが、僕の緊張は、だんだんと積み重なっていっていたように思う。


返事がないのは、それはそれで、結構な苦痛だなぁ、とか考えていた。


春奈は、何事もなかったかのように振舞うので、僕は僕で、あの日のことは、実は夢だったのではないか、と考えてしまう。


まぁ、落ち着いてみると、僕が彼女に告白したなんて、それこそ文字通り、夢のような話だ。


いや、夢のような、じゃない。


夢なんだ。


僕が彼女に告白したのは夢で、僕は、その錯覚に陥っているんだ。


「……あっ」

 

授業中にも関わらず、いつものように先生の話を聞かずに、別のことで頭をいっぱいにしていた僕は、窓の外を見て、思わず声を洩らした。


「どうした?」

 

先生が訊ねる。僕は、


「いいえ」

 

とだけ答えて、外から目を逸らした。


あれから降っていなかった雨が、また降り始めたのだ。


久しぶりの雨だった。


軽快なリズムに耳を傾けていると、なんだか眠くなった。


あぁ、やっぱり、あれは夢だったかもなぁ……。


と考えたところで、僕の思考は止まった。







「こら、山本!」

 

耳元で大きな声がした。


僕は体を震わせて立ち上がり、


「すいません」

 

と叫ぶようにして言った。


……隣にいたのは、笑いをこらえきれずに吹き出した、翔哉だった。


「なんだ、お前かよ…」

 

僕は肩の力を抜いて、椅子に腰掛けた。


「寝てんじゃねーよ。もう、授業終わったぜ」

 

翔哉はそう言うと、部活道具を持って、さっさと教室を出て行った。


知らぬ間に、授業は終わっていた。


僕は大きな伸びを1つ、あくびを1つした。


荷物をまとめて教室を出る。


そういえば、春奈の姿は教室にあったっけ? 


―――それは、いまいち、思い出せなかった。







雨は、それほど強くなかった。


やはり傘を持ってきていない僕は、ポケットに手を入れたまま、多少かっこつけて歩いた。


ちょっと寒かった。


何個か角を曲がって、僕は家に向かって歩く。


だんだんと、人の数も少なくなってきた。


まぁ、部活をしていないボクが帰る時間は、いつも人の数は少なかったけど……。







不意に、雨を踏みつけるような音が聞こえた。


正確には、水を踏みつける靴の音。


誰かが走っているみたいだった。


雨は先ほどより強かった。


普通、傘を持っている人ならば、走ったりはしない。


だって、濡れるから。


でも、逆に、傘を持っていない人でも、走ったりはしない。


だって、歩いているときよりも濡れるから。


ということは、今、僕の後ろにいる人は、濡れるのが好きな人か、走ったほうが濡れることを知らない人か、もしくは―――







何か用事があって急いでいる人だった。









答えは、最後の人だった。


「山本君!」

 

振り返らなくてもわかる。


聞き覚えのある声だった。


僕が毎日、学校に聞きに行っていた声だった。


1番好きな、声だった。


振り返ると、そこには、傘を差していながらも、足元がびしょ濡れの、佐々木春奈が立っていた。


―――ここで確信した。


あれは、やっぱり、夢じゃなかった、と。


またも口が心臓から……おっと、心臓が口から飛び出そうだった。


どうやら思考もままならないくらいに緊張しているみたいだ。


もしも、こんなに緊張する夢があるなら、絶対に見たくない。


夢の中ってのは、もっと安らげるところのはずだ。


だから、これは夢じゃないんだ。


僕は、そんな風に、いろいろなことを考えすぎて錯乱していた。


でも、顔は、あくまで冷静を装っていた。


「な、何でしょうか?」

 

声は震えていた。


「……」

 

春奈が何かを言った。


声が小さすぎるのか、雨音が大きすぎるのか、彼女の声を聞き取ることができなかった。


僕は人差し指を立てて、もう1回言って、と合図をした。


彼女は、小さく頷くと、そっと僕に近づいた。


突然のことに、僕は驚いて、ちょっと身を引いてしまった。


「へっ?」

 

それで、間の抜けた声を出してしまった。


でも、彼女はそんなことお構いなしに、僕に傘をさしかけた。


先ほどまで、僕の耳に入ってきた雨音とは違う音が、僕の耳に飛び込んできた。


例えるなら、曲の旋律が変わったかのように、違う音が僕の耳に飛び込んできた。


彼女の小さい傘では、2人は入りきらず、結果的に彼女の背中が濡れることになった。


僕は、傘を手にとり、彼女が濡れないようにさしかけた。


僕は既にびしょ濡れだったので、傘は何の意味もなさなかった。


それに、僕らの身長の差を考えると、僕が持ったほうが良かった。


彼女が持つと、どうしても、精一杯手を伸ばさなくてはならず、きつい姿勢になりかねなかった。


彼女は、傘を持つ僕を見つめて、見上げて、とても、本当にとても小さい声で言った。


それは、まるで耳元でささやかれたかのような、か細い声だった。







こんなに近くでも、聞き取れないかと思った。







でも、なぜか、そのときだけは、僕らの周りは、静かだった。


彼女の声だけが、僕の耳に飛び込んできた。


大好きだった雨唄でさえ、僕の耳には入ってこなかった。







「…好きです」







―――それだけ。


彼女が言ったのはそれだけだった。


僕の体のどこかで、それは響き渡り、何度も何度も、僕の耳を刺激した。


一瞬ためらったが、なんだか無性にそうしたくなって、彼女をそのまま抱き締めた。


僕の体は冷え切っていたが、彼女は暖かかった。


傘が、地面に落ちた。


と同時に、先ほどまで消えていた雨唄が流れ込んできた。


素晴らしい唄が奏でられた。











―――あのとき、雨は、僕たちを祝福してくれていた。








 







楽しかった。


何もかもが楽しかった。


彼女と過ごした日々は、僕の時間のなかで、かけがえのない時間だった。


いつまでも、このままでいたかった。


誰もが願う、その気持ち。


そして、叶わぬその気持ち……。






楽しかった。


そして、瞬く間に去っていた。


あの頃の僕らは、すぐに去っていってしまった。


なんて、切なく儚いのだろう……。
















「春奈ぁ!」

 

誰かが叫んだ。


春奈と呼ばれた少女が声のほうを向く。


「悪い、遅れた。ごめん」

 

誰かが謝った。


春奈と呼ばれた少女は、小さく笑った。


「お昼はおごってね」

 

春奈と呼ばれた少女は、楽しそうに言った。


誰かは、は〜い、と間の抜けた声を出した。


「ぼーっとしてないで、行くよ〜」

 

春奈と呼ばれた少女は、笑っていった。


誰かは、は〜い、と答えた。

 





今日は、雨が降っている。


誰かは傘を持たずに走ってきたらしく、春奈と呼ばれた彼女の差しかけた傘を手にとり、2人で入った。


その狭すぎる傘の中で、誰かと、春奈と呼ばれた少女は手をつないでいた。


楽しそうだった。




―――そして、幸せそうだった。







そんな風景を、僕は見つめていた。


春奈、という名前に反応したからだ。


いや、そうではなく、彼らが僕たちに似ていたからかもしれない。


間の抜けた彼氏と、明るい彼女……。


あれから数年経ち、僕はもう大学生になっていた。


今でもやはり、傘を持っていなかった―――。





 

雨の降る日は、あの頃を思い出す。


あの恋が始まった日。


そして、……終わった日。


 





その日も、雨が降っていた。


窓を打つ雨の音が、やや心地よかった。


僕たちは、小さな喫茶店にいて、客は僕ら以外に、数人しかいなかった。


彼女は、あの日と同じように、とても、本当にとても小さい声で言った。







「…さよなら」






 

そのときもまた、雨唄が消えた。


僕の耳は、その声しか聞き取らなかった。


いつまでも響く、その声を僕は静かに聞いた。


分かっていた。


こんな日が、いつか来る、ということは―――。







一粒の涙が落ちた。







僕のじゃない……。


彼女の頬から落ちた。


その姿を見ると、僕の瞳から落ちかかった涙が、何が何でも落ちるまい、とよじ登った。


「春奈……、これまで、ありがとう」


僕は笑顔で言った。


同時に、雨唄が流れ始める。


―――あの日と同じ唄だった。


僕の顔は、涙で濡れた目と、笑った顔。


彼女の顔は、涙で濡れた顔と、笑った顔。


2人は、笑っていた。


そう、別れは悲しい。


でも、僕は彼女と出会えて、彼女は僕と出会えて、本当に幸せだったんだ。







「ありがとう」







彼女の、僕の彼女としての春奈の、最後の言葉だった。




―――まだ、雨は降り続いていた。






僕は、雨が大好きだ。


初めての恋が、始まった日も、終わった日も、ずっとそばにいてくれたから。


雨唄は、僕らに笑顔をくれたから…。


僕は、雨が大好きだ。


雨音が聞こえる。


僕の耳に……。


そしてきっと、今は隣にはいない彼女の耳にも……。


なぁ……。


最後に笑えてよかったよね…。











「僕は、……が、大好きだ」






―――雨音が、僕の言葉をかき消してくれた。

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