人狼ワクチン
寒いと思ったらもう、12月か……どうりで冷えるわけだ……
俺は会社帰りに果鈴と待ち合わせて駅前のイタリア料理店でパスタを食べた。
「トオルぅ、ジンロウワクチンはもう受けたの?」
「ジンロウワクチン? インフルエンザ予防なら会社の定期検診でもうやったぜ」
「ちがうわよ、ニュースでやってたでしょ、人狼症候群が東ヨーロッパから日本へ上陸したみたいだから予防接種しろって、政府の通達」
「いや、俺は最近仕事とゲームで忙しくてテレビも新聞も見てない」
「あんたねえ……」
少し口論して本題に戻る。
「ところでなんだ、ジンロウ症候群って? 新種の風邪か?」
「ちがうよ、昔話に出てくる狼男の伝説の元になったと言われてる病気の名前よ」
「なんだそりゃ? 嘘くせーな……もしかして狼人間に変身する病気か?」
「そうよ……米軍基地の兵士から広まりつつあるみたい。最近ワクチンができたっていうから、休日でも診療所で注射してくれるって……日曜に一緒に行こうよ……」
「ああ、今度な……」
俺は気のない返事をして別れて、アパートに向かった。三年も付き合っていると淡白なものだ。第一、狼人間になる病気だなんて非現実的すぎて実感がこない。
外は日が沈み、夜になっていた。曇り空で星ひとつ見えない。
夜道に背広姿の男がうずくまっていた。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
「うぅぅぅぅ……」
そのとき、曇り空から満月がのぞいた。
背広の男がみるみるうちに肌から長い毛が生えてきた。露出している手と顔は毛むくじゃらになり、頭の上に尖った耳が生えた。爛々と光る目に金縛りにあった俺は恐怖で身をすくめていた。
狼人間は逃げる俺の背後にのしかかり、涎をながして牙の生えた口を大きく開いた。
「ぎゃあああああっ!」
「がるるるるるっ……」
俺を食べようとする気か……こんなところで、俺の人生は終わってしまうのか……
そこへ一発の銃声が聞こえた。狼男はのけぞり、向こう側に倒れこむ。
「きみ、大丈夫か……」
「は、はい……助かった……」
救い主は軍服を着た男たちだった。政府が緊急に訓練させた対人狼症患者チームだという。
「人狼症候群に罹患したものは伝説の狼人間になってしまう……普通の弾丸や刃物では通じない不死身の体になって、人を襲うんだ」
「でも、あいつは倒れたようだが……」
「銀の弾丸だよ。詳しくはわかっていないが人狼症で不死身の体になっても銀製の武器なら倒せるそうだ……」
装甲車でマンションに送ろうという兵士たちを断り、俺は果鈴のマンションへ走った。
あいつの言う事は本当だった……あんな危険な奴が街をうろついているんだ。
果鈴のことが心配になって、汗みずくになって俺は夜の道を走る。果鈴の住むマンションの前のスーパーの駐車場に見覚えのある人影があった。あの長い後ろ髪は果鈴だ……安心したら、どっと疲れが出た。
「果鈴!」
「……トオル?」
「おい、聞いてくれよ。俺は今噂の人狼症の男に襲われたんだぜ……」
スーパーの中から悲鳴が聞こえた。見れば窓ガラス越しに客たちが毛むくじゃらの狼人間たちに襲われていた。ここにも人狼症の患者が……
「逃げよう、果鈴。ここは危険だ!」
「トオル……もう、遅いよ……」
顔を伏せた果鈴が俺の左肩を噛んだ。犬歯が突き刺さり激痛が走る!
「か、果鈴……まさか……」
「ぐるるるる……」
果鈴の顔が毛むくじゃらの狼の顔になる……彼女もすでに人狼症にかかっていたのだ――
夜空に月が不気味に顔を出していた。
あれから三か月後――
突如、現れた人狼症候群はあっという間に広まった。
日本の国民1億2千人あまりがたった一ヶ月でほとんど人狼症になった。
三か月後、世界の人口72億のうちほとんどが人狼症になった。
やたらと人間を襲っていた狼人間たちはピタリと人間を襲うことをやめた。
人類のほとんどが人狼になってしまっては、襲う対象がいないくなったからだ。
恐慌状態となった世界に人々は沈静化し、以前の生活に戻った。人類の代わりに人狼の歴史が始まった。
三年後、俺と果鈴は結婚し、新しい生活を初めていた。
「トオルぅ、人間症ワクチンはもう受けたの?」
「人間症ワクチン? 狂犬病予防なら会社の定期検診でもうやったぜ」
「ちがうわよ、ニュースでやってたでしょ、人狼の超人的な能力や変身能力を奪ってただの人間にしてしまうウィルスがアフリカから日本へ上陸したみたいだから予防接種しろって、政府の通達」
「へえ、人間になっちまうのか……それじゃ、ちょっとした事故にあっただけですぐ死んじまうのか……」
「そうよ……子供も生まれてくるのに、弱い人間になっちゃすぐ死んでしまうのよ……」
「クワバラクワバラ……一緒に予防接種にいくか……」
「そうそう……」
なっていったって、家族が増えるんだ。人間になんかなりたくない。