手のひらの凜たる風よ
どうも、緋絽と申します。短めです。どうぞ!
「たーかしっ」
名前を呼ばれて僕───貴史は読んでいた小説から顔をあげた。
季節は冬が解けていく頃。正直言ってこの辺りはまだ肌寒い。僕が県外の大学へ行くために家を出る、一週間ほど前のことだった。
「何? 母さん」
返事をすると、母さんはフフッと笑ってペットのマロのリードを僕に見せた。
「お散歩、一緒に行かない?」
今年十歳になるマロを思い浮かべる。マロはすっかりおじいちゃんだ。しばらく会わなくなるし、散歩に付き合うのも悪くない。
「いいよ。行く」
立ち上がって伸びをすると、タイミングよく母さんがコートを差し出してきた。
さては、何がなんでも連れていこうとしてたな?
その意味を込めて母さんを見返すと、母さんは舌を出してイタズラっぽく笑った。
外は暗かった。夜なのだから当然だ。夜空に大小様々な星が散りばめられ、白く冷たい光を放っている。わりと田舎なので、都会よりは星が多いはず。
しばらく小雨が続いていたので、空が洗われたように綺麗だ。きっと明日は晴れる。
手をつついてくる存在に目を下に向けると、黒い柴犬のマロが鼻で手を押していた。名前から想像できるだろうが、時代劇に出てくる麿様みたいな眉をしている。僕が頭を撫でてやると、気持ち良さそうに目を細めた。
「はい、お散歩セット。今日は小学校をぐるっと回って帰ってこようと思いまーす」
「はいはい」
渡されたお散歩セットの入った手提げを握って歩き出す。
散歩コースには歩道がなく、すぐ隣を車が走り抜けていく。僕は特に何も考えずに母さんの隣、車道側に立った。
キョトンと母さんが僕を見上げる。
「何?」
尋ねると、母さんが目元を緩めて首を横に振った。
「なんでもない。男の子だなあって思っただけ」
「へ? 何言ってんの?」
僕は、男以外にはなったことがないつもりなんだけど。
我が家から小学校まで徒歩で約十分ほどかかる。その途中にある大きな坂を登ると中学校があり、春になると坂に沿って生えている桜が満開になるのだ。
そういえば、小学生の時は坂の下から、中学生の時は坂を登りながら、桜の匂いに腹をすかせていた。桜餅食べたいと呟いて、友人に笑われたこともある。桜の前に咲く梅も相まって、ここはなかなかにいい香りのする道だった。
紅梅と薄紅の咲き誇る、美しい並木坂。それが、僕の一八年間の人生のほとんどを占めている。
「貴史、懐かしい?」
少し先を行った母さんが、マロのリードを引きながら僕を振り返って笑う。
「うん。母さんもでしょ?」
「そうね。でも、夜は新鮮」
「ハハ、それは僕もだよ」
小学校の裏を回ると今度は川沿いに出る。空を見上げると、視界の隅に星空を邪魔する明るい光が映った。対岸にある大きなパチンコ店だ。水面に光が反射して眩しい。そのせいで星の光がくすんでいる。
小さい頃からあるが、夜にこの道を滅多に通らないからか、初めて見たような気分だ。
足を止めてパチンコ店を手で隠して空を見てみる。ついでにガードレールに手をついて体勢を低くしたりしてみた。
あの光、やっぱ邪魔になってるよなぁ。
「見えないっつーの」
視界の半分が、白い光に脅かされている。
「わん」
珍妙な鳴き声と共にガードレールに置いた手に暖かいものが乗った。
「マロ。…………母さん、何してんの」
母さんがマロの手を掴んで持ち上げ、ガードレール上の俺の手に載せていたのだ。
「黄昏る息子に温もりをプレゼント、みたいな?」
小首を傾げる。同時にマロが吠えた。
なんだ、この息の合った一人と一匹。
「…………。あぁそう」
屈んでマロを抱き上げてギュッと抱き締めてみる。獣独特の匂いに目を閉じる。
あぁ、これも、ずっと側にある匂いだ。なんだか、あの並木坂も、この温もりも、星空も、…………認めづらいけど、母さんも。あと一週間で、なくなる気がしない。僕が、僕だけが、この風景から、いなくなる?
想像してみると、なんだかそれは、奇妙な一枚のモノクロの絵のようだった。一面の灰色に僕が埋もれている絵。
横目で母さんを見ると、母さんがちょうどマロを撫でていて目が合った。母さんがマロを撫でていた手を僕の頭に移動させる。
「…………どうしたの」
「やあねえ。どうしたの、ですって。可愛くなーい」
母さんがわざとらしく頬を膨らませた。
僕はちょっと吹き出す。
「フッ。いい歳して」
「聞ーこーえーまーせーんー。あーあぁ、ちっちゃいタカちゃんが、いつの間にかこんなになっちゃって。時が経つのが早くて、お母さんびっくりよ」
母さんが自分の頭上二〇センチのところを手で示す。
「僕にしてみたら、長かったけどね」
でも、そうだな。確かに、振り返ってみると早かった気もする。瞬く間に過ぎ去った日々が、僕の後ろに横たわっている。そんな感じ。
「あっという間だったなぁ。……もう、大人になっちゃうのねぇ」
母さんの瞳が微かに揺れる。
僕がいなくなることを母さんが寂しく思っていることに、僕はちゃんと気づいている。だから、ここ数年まったくなかった触れ合いも、難なく受け入れることができた。
少しの間お互いの目を見つめあっていた。僕は何も言わなかった。きっと母さんは何か言ってほしかったんだろう。でも、僕は、しんみりしたのがあんまり好きじゃない。
母さんの手が頭から離れていく。行きましょうかと微笑んだ母さんを見て、僕はホッと短く息を吐いた。そうして気づく。
違うな。僕は、しんみりしたのが嫌いなんじゃない。母さんが泣く顔を見たくないのだ。
別に悲しませたくないとか、そんなカッコつけた理由じゃない。単純に、僕が狼狽えてしまうだけ。いつもニコニコしている母さんが泣いたのを見たのは、父さんのお葬式での一回きりなのだ。
先を歩き出した母さんをすぐには追わずに、僕はマロに頬を摺り寄せてみる。マロは温かく、微動だにせずにいた。その早い鼓動に、時が確かに移り行くのを感じる。
「マロ。僕、できるだけ、たくさん帰ってくるから。……だから、マロも、できるだけ、長生きしてくれ」
そうして、僕の代わりに母さんにおかえりと言って。
僕の代わりに、母さんの愚痴を聞いて。
僕の代わりに、母さんとご飯を食べてほしい。
マロは体を捻って僕の頬を一度舐めた。それは、いつもの甘えるような感じではなく、返事をするようだった。
僕の腕から抜け出たマロが僕を見上げて吠える。
やっと僕は微笑んで立ち上がり、マロと一緒に母さんの後を追った。
幾千の星が瞬く夜空に、紅梅と薄紅の薫りがたゆたっている気がした。
読了ありがとうございました!!