兄弟
「では、行ってまいります」
早朝。玄功と阿成は、忠衡の静かな見送りと共に長安を後にした。旅の供は、荷を背負った二頭の驢馬だ。
「それにしても、書だけでこの荷物とは……。玄功、どうしてこんなに旦那様の書を持っていくんだ?」
旅には余計な重荷だと言わんばかりに、阿成が呆れた声を出す。
「大哥……この先にはいろんな勢力の軍隊がひしめいてるんだぜ。いざって時に、この『筆跡』がどれほどの威力を発揮するか!(……腹は立つけどな!)」
「そんなもんかねぇ……」
納得いかない様子の阿成が、驢馬の背に括り付けられた小箱をポンポンと叩いた。玄功はその箱を横目で見ながら、この書の使い道をあれこれ思案していた。
*****
「もう昼過ぎだな。そろそろ飯にするか?」
「そうだね。ここらは……」
玄功は、懐から取り出した地図を広げた。
「ふむ。この登り坂は、きっと『白鹿原』って場所だ。ここから道が少しきつくなる。お前は小さいんだから、しっかり休んで先に備えようぜ」
「誰が小さいだ!」
影が東にやや傾き始めた。振り返れば、遠くに長安の巨大な城壁が見える。だが、その景色に心を動かす余裕もなく、二人は粗末な小麦の餅を口に押し込むと、再び歩み始めた。
夕刻。二人は、覇水に架かる覇橋のたもとの宿場町に到着した。
「よし、今日はここに泊まるぞ」
阿成が手頃な酒家を見つけ、威勢よく扉を開いた。
「おう、今夜の宿を頼むぜ!」
「へい、いらっしゃい。何名さまで?」
「二人だ。俺と、この小さいの!」
「ははは、仲の良い兄弟だね。さあ、部屋は二階だ。荷物を置いたら、一階で飯にしていきな」
「ああ、助かるよ」
店主との何気ない会話の中で出た「兄弟」という言葉。それが耳に届いた瞬間、玄功の胸の奥に、ほんのりと温かいものがこみ上げた。
(……兄弟、か)
見知らぬ土地での第一夜。だが、隣に阿成がいるという事実に、玄功は深い安心感を感じていた。
*****
疲れが出たのであろう。昨夜はいつ意識を失ったのかも分からないほど、二人はあっという間に眠りに落ちていた。気が付けば、隙間から差し込む朝の光が、二人のまぶたを叩いていた。
「はぁ~、寝た! 大哥、起きろよ。さあ準備するぜ」
「まだ……あと少し……後生だから……」
役宅にいた頃から朝に弱い阿成は、なかなか起き上がれない。玄功は苦笑しながら階下へ降り、宿の亭主から熱い粟粥を二杯もらってきた。湯気の立つ器を阿成の鼻先へ持っていく。
「フンフン……粟のいい匂いだ。……腹が減ったな」
匂いに釣られてようやく身を起こした阿成は、むにゃむにゃと文句を言いながらも、粥に手を伸ばした。
「まったく、どうしようもないなあ……」
「腹の具合には素直なのさ、俺はな! さあ、食おうぜ」
こうして腹をこしらえて出発した二人は、その日のうちに次の町、藍田へと辿り着き、そこで旅装を整えた。
*****
「さあ、次!」
翌日、二人の前に立ち塞がったのは、藍田関という名の堅牢な関所だった。
「ここから先はいよいよ京兆郡を出て、漢南郡への移動になる。過所をいつでも出せるようにしておけよ」
阿成が玄功に低く囁き、懐から巻物を取り出した。
「分かってる。肌身離さず持ってるから」
玄功もまた、懐の巻物をぎゅっと握りしめた。乱世であればこそ、この紙切れ一枚が命の境目になる。
「よし、次! 過所を見せよ」
髭面の兵士が、無造作に阿成の差し出した巻物を広げる。
「ふむふむ……。お、おい、お前ら。その荷物は……」
兵士は過所の文言を追っていた目を上げ、驢馬の背にある箱に一瞥を送った。一瞬、兵士の目が過所と箱を行き来した。そして、何かを悟ったように背筋を正す。
「……こ、これは、大変失礼いたしました! まさかこれほどの方のご関係とは。ここから先は険しい山道ですので、どうぞお気をつけて。……さあ、通れ!」
「え……っ、は、はい。ありがとうございます。では、どうも」
詰問を覚悟し、戦々恐々としていた阿成は、あまりの拍子抜けに戸惑いながら、そそくさと玄功を促して関を通り抜けた。
兵士たちの視線から逃れるようにしばらく歩いてから、阿成がたまらず口を開いた。
「なあ玄功。あの兵士の狼狽えようは何だったんだ? まるで幽霊でも見たような顔しやがって」
「ふふ、だから言っただろ? あの爺(欧陽詢)の『書』の威力ってやつだよ」
玄功は、荷箱に収められた書状を思い浮かべた。欧陽詢の筆致には、それだけで見る者に「この者の背後には巨大な権力がある」と思わせる、魔力に近い威厳が宿っている。
「そんなもんかねぇ……。字が綺麗なだけで、あんなに震えるもんかよ」
相変わらず納得がいかないという素振りの阿成を、玄功は微笑ましく眺めた。そして二人の前には、いよいよ険しき武関道が、龍の背のように連なり始めていた。
ここからは、逃げ場のない深い山道だ。足元には底も見えぬ深い谷が口を開け、一歩足を踏み外せば真っ逆さまに堕ちる。二人は息を詰め、慎重に、一歩、また一歩と険路を刻んでいった。 やがて日が落ち、二人はこの旅で初めての野宿を迎えることとなった。
パチパチと小枝が爆ぜる音。揺らめく焚き火を眺めながら、二人は粗末な餅をかじり、いつしか昔話に花を咲かせていた。
「なあ、玄功。……俺は、お前のことを本当の弟のように思ってる」
「あ、ああ……」
唐突な告白に、玄功は恥ずかしさと嬉しさが混ざり合い、言葉に詰まった。前の人生も含めて味わったことのない、こそばゆくも温かい感情が胸を巡る。
「前に言ったよな。俺は孤児だって。……実はな、弟がいたんだ。生きてりゃ、お前より少し年上くらいだったはずだがな……」
「大哥……」
「す、すまん! しんみりしちまったな。さあ、寝ようぜ。明日も険しい道のりだ」
阿成は照れ隠しに声を張り上げると、焚き火に背を向け、向こう側を向いて横になった。その肩が、心なしか小さく揺れているのを玄功は見逃さなかった。玄功はそっと、その震える背中に自分の背中を預けるようにして横たわった。
「大哥。俺には兄弟はいなかった。だけど……今は、本当の兄貴がそばにいてくれる気がしてるんだぜ」
「……馬鹿野郎。早く寝ろ」
阿成の声は、鼻声だった。背中越しに伝わってくる、阿成の鼓動と微かな震え。揺らめく炎に照らされた二人の影は、深い山の中、重なり合うようにして静寂の夜に溶けていった。




