家宰の決断
役宅に帰り着いた玄功に、忠衡と阿成が血相を変えて駆け寄ってきた。
「玄功! 無事だったか。あまりに帰りが遅いから、今まさに家宰様に相談していたところだぞ!」
「無事で何よりです。……して、一体何があったのですか?」
玄功は貧民街での出来事を包み隠さず二人に話した。
「……なるほど、そういうことでしたか。まずは命があっただけでも良しとすべきでしょう。ですが、以後は慎みなさい。いいですね!」
「はい……申し訳ありませんでした」
「さて、そういうことなら阿成、お前は当面、家の中の仕事に専念しなさい。玄功は今まで通り、書斎で書類の清書を。……外へ出ることは、当分禁じます」
「「はい、承知しました」」
二人揃って家宰のきついお叱りを受け、肩を落として寝室に向かう。ちなみに、罰として今日の夕餉は抜きだそうだ。
こうして幾日が過ぎ、西暦六一七年、六月下旬。いつものように書斎へ向かおうとした玄功は、門の前に立つ忠衡に呼び止められた。忠衡は周囲を警戒するように手招きをし、玄功を奥へと誘う。
「お待ちかねの『お客人』が来ましたよ。さあ、中へ」
「いやぁ~、すみませんねぇ。うちの坊主がお世話になって……。ヒック!」
そこには、どこからどう見ても救いようのないクズ親父がいた。今度は酒臭さに加え、安物の白粉の香りをぷんぷん漂わせている。
「昨晩は少し飲みすぎましてな、この様ですわ。ヒック……」
(……やっぱり、この親父に頼んだのが間違いだったか?)
玄功は、一瞬でもこのクソ親父を信頼した自分を呪いたくなった。それを幾度も我慢しつつ、
「……で、何か分かったのかよ」
「ああ、お前を殺そうとしたあの男なぁ。あれはこの界隈を縄張りにする山賊の下っ端だったぜ。……ウッ」
こみ上げるものを強引に飲み込む逸人。その生々しい仕草に、さすがの忠衡も顔を顰める。
「汚ねえなぁ! ……それだけか?」
「いや……そんな小物より、もっと『大物』が背後にいたぜ。……ヒュゥー、耐えた耐えた」
「大物? 誰だよ、それは」
逸人がその名を口にしようとした瞬間、忠衡が鋭い手つきでそれを制した。
「……待ちなさい。その内容は、ここでは聞かない方が良さそうです」
忠衡は周囲に人影がないか今一度確認すると、重々しく告げた。
「逸人殿、中へ。阿成、水を持ってきなさい。……その話、我が欧家の存亡にも関わるようです。私も、共に聞かせていただきましょう」
こうして、冷たい水を片手にした四人の、歴史の裏側を覗き込むような密談が始まった。
*****
四人が役宅の奥まった一室に入ると、逸人は阿成が持ってきた水をグイと一息に飲み干した。
「ヒヤァー、生き返るぜ。ありがとうよ、兄ちゃん。……で、だ」
空になった器を机に置くと、逸人の眼光がわずかに座った。彼は濡れた指先を使い、机の上に即席の地図を描き始める。
「ここが長安。で、ここが広通渠で……」
這わせた指が、ある一点でピタリと止まり、コンと机を叩いた。
「常平倉、だな」
玄功がつぶやく。
「おっ、詳しくなってるな。結構結構。……で、だ!」
逸人の指が、今度は速度を速めて北へと滑り、今度は力強く机を連打した。その先にあるのは、帝国の北辺。
「……そこは太原。では、唐国公・李淵様が!」
忠衡が、喘ぐような声を上げた。
「そういうこった。どうやら最近の長安の穀物不足、この御仁の指図だそうだぜ。……ああ兄ちゃん、水もう一杯くれる?」
(李淵……!?)
玄功の背筋に、氷を流し込まれたような衝撃が走った。唐の初代皇帝。その歴史の巨人の名が、ついに目の前で現実の輪郭を持って響いたのだ。
「……李淵って、あの太原留守の李淵ですか?」
「ええ。唐国公・李淵様その人です。どうやら事態は想像以上に深刻のようですね……」
今まで見たこともないほど深く思案に沈む忠衡を見て、玄功は己の立っている場所が、歴史の断崖絶壁であることを理解した。
「まあ、そういうこった。こりゃあ近いうちに戦になるぜ。――おっ、すまねえな兄ちゃん!」
二杯目の水を受け取った逸人を横目に、忠衡は一度席を立ち、奥から戻ってきた時には、ずしりと重い二つの袋と一枚の書状を手にしていた。
「逸人殿、ありがとうございました。そして玄功……あなたもです。欧家の書生として、十二分な働きでした。さて、私も『家宰』の仕事をせねばなりません」
忠衡は、まず一つの袋を逸人の前に差し出した。
「逸人殿、こちらは今回の謝礼、そして『今後の仕事』への手付金です。引き受けていただけますか?」
「ん? 俺に何を頼もうってんだい」
「今後も、北や東の不審な動きがあれば教えていただきたい。……欧家を守るための『目』になっていただきたいのです」
「そりゃあ……俺は構いませんけどねぇ」
逸人はそう言いながら、袋の中身を覗き込み、一瞬だけ喉を鳴らした。
「うへぇ! こんな金、久しぶりに見たぜ。いいんですかい、こんなに?」
「ええ。どうせ戦になれば奪われる物。今のうちに欧家のために使うのが道理というものです」
「へぇ……じゃあ、ありがたく」
そそくさと金を懐に入れる逸人の顔が、だらしなく緩む。
「そして、玄功。あなたはこの路銀を持って、江都にいらっしゃる旦那様(欧陽詢)の元へ向かいなさい」
「えっ、俺が……江都へ?」
「そうです。阿成も同行させます。この手紙を、必ずや旦那様に。……あとの指図は、すべて旦那様が下してくださるでしょう」
忠衡から手渡された袋は、あまりに重かった。それは金の重みだけでなく、預けられた『手紙』という名の命の重みそのものだった。こうして西暦六一七年七月中旬。玄功、阿成らは身支度を整え、欧陽詢が謹慎する江都へ向け、遠く険しき旅路に出るのであった。




