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泥中の再会

欧陽詢が江都にて謹慎中の頃。長安では玄功の清書作業が一段落し、作業量は随分と減少していた。とはいえ、日々一定の量をこなす必要があるため、午前中は書斎に籠もり、午後からは比較的自由に過ごす生活が始まった。


「阿成 大哥ダーガー【阿成兄貴の意】、今日は一緒に街に出ようぜ!」


「おっ、いいねぇ。よっしゃ、うまいもんでも探しに行くか!」


 あれからちょくちょく世話を焼いてくれる阿成とは、今や実の兄弟のような仲だ。家宰の忠衡ちゅうこうも、二人の姿を微笑ましく見守ることが増えていた。


 そんなある日の昼過ぎ、玄功は久しぶりに阿成を伴って「東の市」へと繰り出した。


「なぁ大哥、俺がいない間に、随分と寂れちまったな……」


「そうだろ? お前が旦那様に拾われた時よりさらにひどい。ほら、あそこのガキ。前はまだ息があったが、もうピクリとも動きゃしねえ」


「むごいな……。あのクソ爺、江都にはさんざん物資を送っておきながら、膝元の長安は野放しかよ」


「馬鹿! またそんなこと言って。誰かに聞かれたらどうするんだ?」


「大丈夫だって。周りを見てよ、ほとんど人なんていやしない」


 阿成が辺りを見回すと、確かにいるのは、生気を失い泥のようになった浮浪者が数人だけだった。


「た、確かに……」


 二人は互いの顔を見て、今の時代を笑い飛ばすように、ほんの少しだけ自嘲気味にクスリと笑った。

 そんな二人が大通りの十字路に差し掛かった時。ドン、と強い衝撃とともに誰かとぶつかった。


「ッテテテ、痛てぇじゃねえか! どこに目をつけてやがる!」


 派手に尻餅をついた阿成が罵声を浴びせる。だが、ぶつかった男は謝るどころか、無言のまま脱兎のごとく走り去った。


「ちっ、なんだあいつは」


「……」


 憤慨する阿成の傍らで、玄功はその男の後ろ姿に妙な違和感を覚えた。


(……あの走り方。ただの平民じゃない。それにあの身なり、あんな質のいい布を、なぜあんなボロの下に隠してる?)


「大哥、あいつ怪しいぜ。向かった先は何もない貧民街だ」


「だよな。しかもあの身のこなし、どう考えてもあそこに住んでる奴のそれじゃねえな」


 興味の赴くままに男を追おうとする玄功の肩を、阿成が掴んだ。


「やめておけって! 今の長安じゃあんな胡散臭いのはわんさかいる。関わらないのが身のためだぜ」


「……だけどよ。あぁそうだ、俺も久しぶりに自分の家に帰ってみるわ。それならいいだろ?」


「まあ、それならな。だが遅くなるんじゃねえぞ!」


「ああ、分かってる!」


 玄功はそう言い残すと、弾かれたように貧民街へと走り出した。


*****


 玄功が久しぶりに足を踏み入れた貧民街には、以前にも増してボロを纏った人々が、生気のない顔で座り込んでいた。


(ああ……この感覚。今思えば、やっぱり異常だ)


 わずか数ヶ月離れていただけの古巣。だが玄功は、自分はもう二度とここには戻れないだろうという、確信に近い予感に襲われた。その瞬間、視線の先にあの男が走り去る背中を捉えた。


(いた!)


 玄功は、汚れた手で自分の袖を掴もうとする群衆を必死に振り払いながら、男を追って駆け出した。


「すまん、どいてくれ!」


 声を張り上げるが、這い寄る飢えた人々の群れに阻まれ、思うように進めない。ようやく人波を振り切った、その瞬間だった。路地の暗がりにあった小屋から、不意に太い腕が伸びた。玄功は抵抗する間もなく、埃っぽい小屋の中へと引き摺り込まれた。


「おいガキ……なぜ俺をつけた」


(――マズい)


 喉が引き攣り、声が出ない。男の瞳には、一切の躊躇がない。


「まあいい。ここなら誰が死のうが、誰も気に留めん。たとえ殺されたとしてもな……」


 男は懐から匕首あいくちを抜き放ち、玄功の胸元へ刃を突き出した。  ――その時だった。バサリ、という重い音とともに、男が白目を剥いて玄功の足元へ崩れ落ちた。


 あまりに唐突な出来事に、玄功は腰を抜かしてへたり込んだ。倒れ伏した男の背後には、ボサボサの頭をした「あの男」が、右手に太い棒をぶら下げて立っていた。


「お前なぁ……。久しぶりに現れたかと思えば、なんだこのザマは? ――おっ、いい服着てんじゃねえか! 金持ってるか?」


「……」


 あまりに拍子抜けした声に、玄功の胸の内に、死の恐怖を上書きするような怒りが沸々と湧き上がってきた。


「……それが、久々に会った息子に言うセリフか、このクソ親父!」


「ああ、そうだったな。じゃあ再会を祝して言い直してやろう。――おい、飯を奢れ!」


 いつもの、救いようのない無意味な会話。だが、そのろくでなしの言葉がほんの少しだけ懐かしく思えたのは、玄功だけの秘密である。


「フムフム、なるほどなぁ……。お前も随分と苦労してんな。――おっ、この菓子うめーな!」


 玄功が役宅に帰ってから食べようと懐に忍ばせていた菓子を、逸人は躊躇なく頬張り、話を聞き流すように相槌を打つ。


「……で、お前は何を知りたいんだ? この男の素性か?」


「役宅の家人は、最近こんな奴が街に増えたって言ってた。洛陽の方じゃ反乱軍が暴れ回ってるらしいし、ここ長安もボチボチ危ねえ。もしそうなったら、あのクソ爺にも知らせねえとマズいだろ」


「ほうほう。なかなか律儀なこった。まあ、俺としては安心したぜ。あの爺さんにこき使われて、とっくに死んでねえか心配してたんだ。――いや、嘘じゃねえって。……やっぱうまいわ、これ」


(……口から出る言葉と行動が、ここまで一致しない奴がいるか?)


 気にしたら負けだ、と自分に強く言い聞かせながら、玄功はどうにか平静を保つ。


「おっしゃ。菓子の礼も兼ねて、そこらは俺が調べてやろう。お前はここにいると顔が割れて危ねえ。とっとと役宅へ帰りな」


「……」


「なんだその顔は? 久々の父親に会えて感動でもしたか?」


「いや……お前、何か悪い物でも食ったのか?」


「どういう意味かな?」


 引き攣る笑顔が、ますますだらしなく崩れる。だが、玄功は確信していた。この親父、今の状況を「楽しんで」さえいる。


「で、どうやって調べるんだよ」


「まあ、それはな。色々あんだよ、この界隈には。お前の知らない世界がな」


 逸人はそう言って、半ば強引に玄功を小屋から追い出そうとした。


「いいか、連絡は俺から送る。お前はしばらく役宅から出るんじゃねえぞ。お前と一緒にいたっていう家人も同じだ」


 言い放った瞬間、逸人は不意に玄功の胸ぐらを掴み、自分の顔の近くまで引き寄せた。


「いいか! 死にたくなかったら、俺の言う通りにしろ。……分かったな」


 つい先刻までの、ひょうひょうとした「クソ親父」の面影が消え失せ、冷徹な『男』の顔がそこにあった。そのあまりの違和感に、玄功は気圧される。


「……おっ、おう」


「じゃあな」


 逸人はいつものだらしない歩調に戻り、手を振りながら、玄功とは反対の闇へと消えていった。

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