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書生のシゴト

2026/2/23 第1話の内容を掲載しなおしております。

今回の更新は3話更新します。次回からは各週1話ずつの更新を予定しています。

 こうしてこの日より、玄功はただひたすら書類を書き写す作業に取り掛かることになった。


(ああ……懐かしいな。前世で、朝から晩まで法帖ほうじょうを臨書して明け暮れていた頃を思い出す)


 傍目には苦行にしか見えない写字の山を、玄功はなぜか嬉々としてこなしていく。だが、彼はただ無心に筆を動かしていたわけではない。


(なるほど。この束は各地域からの穀物の流入量か……。で、こっちは『広通渠こうつうきょ』? なんだこれ)


 玄功は模写の手を止めず、紙面に現れる未知の固有名詞を記憶の隅に刻んでいった。前世で磨いた観察眼は、筆跡の乱れからその報告書を書いた地方官の焦燥まで読み取ってしまう。そして、意味の分からぬ言葉を家宰のちょうに問うことが、いつしか彼の日常となった。


「広通渠とは、先代の文帝陛下が築かれた運河です。この水の路によって、長安と洛陽の間の物資輸送は劇的に効率化されました。いわば帝国の動脈ですな」


「なるほど、水の街道ってわけか。でも、この最近の報告書だと、動脈が詰まっているように見えるけど?」


「……玄功、それは私のような者が口にすべきことではございません。あ、そうでした。旦那様からさらに書類を預かっております。これも急ぎ写すようにとのことです」


 張が机の上にドサリと置いたのは、先ほど終えたばかりの束の倍はあろうかという、新たな報告書の山だった。


「……あのジジイ、鬼か」


「何かおっしゃいましたか?」


「いえ、なんでもない……です。喜んで、寝る間を惜しんでやらせていただきます」


「よろしい。励みなさい」


 こうして来る日も来る日も書き写し、問い、理解する。そんな「書斎の戦争」とでも呼ぶべき日々が、二ヶ月ほど続いた。


 かくして西暦六一七年、二月下旬。帝都・長安に激震が走った。大路を軍の早馬が土煙を上げて往来し、平穏だった空気が一変する。


「まずいことになった……」


 欧陽詢は珍しく、役宅の書斎で苦虫を噛み潰したような顔をしていた。その傍らでは、玄功がいつものように淡々と清書に勤しんでいる。


「何か……あったのですか? 外が騒がしいようですが」


「……洛口倉らくこうそうが、敵の手に落ちた」


「あぁ、あそこの巨大な倉庫が……。確か、数千万石の穀物が眠っている場所でしたね」


 玄功の脳裏に、先日「広通渠」を調べた際に確認した地図が浮かぶ。洛陽の喉元、帝国の生命線だ。


「誰が落としたのですか?」


瓦崗軍がこうぐんじゃ。……あ奴が加わったせいで、いよいよ手が付けられんことになったわい」


「あ奴、とは?」


「お前は知らぬだろうが、李密りみつという面倒な男だ。元は主上【煬帝】に仕えた身でありながら、勘気を被って出奔し、あろうことか反乱軍に軍師として迎え入れられおった。かつての同僚が、今や帝国の首を絞める賊の軍師よ」


「……その者は、それほど危険なのですか?」


「危険極まりない。知略に長け、弁も立つ。その上、底知れぬ野心を秘めた軍略家だ。奴が洛口の穀物を民に開放すれば、数日のうちに反乱軍は十万以上に膨れ上がるだろうよ。飢えた民にとって、李密は神に見えるはずだ」


 欧陽詢の言葉に、玄功は清書の手を止めて問うた。


「では、今の輸送計画は当分中止になりますか?」


「…………」


 欧陽詢は深い沈黙のあと、重々しく口を開いた。


「いや、止めるわけにはいかぬ。主上の命令は絶対よ。だが……集めた物資は当面、潼関どうかんの常平倉に留め置くことにする。『情勢を見極めるための待機』としてな」


(常平倉……。ここは水路の分岐点……)


 玄功が思わず独り言を漏らすと、欧陽詢の鋭い視線が飛んできた。


「余計な詮索はするな! お前はただ、命じられた通りに写せばよいのだ。余計なことを考える暇があるなら、筆を動かせ!」


「は、はい……(くそジジイ、図星かよ!)」


「ん? 今、何か言ったか?」


「いえ、何も! 謹んで、一字の乱れもなく清書させていただきます!」


 そして三日後。欧陽詢は、嵐の予感が漂う長安を後にし、煬帝の待つ江都へと急遽発つことになった。


 それからさらに一ヶ月——。


 江都宮の門前に立った欧陽詢は、今や近衛軍を束ねる宇文化及うぶんかきゅうと対峙していた。江都の空気は、長安の緊張感とは異なり、どこか甘ったるく、腐った果実のような匂いがした。


「太常博士殿、物資も持たずにご帰還かな? 長安の穀物を楽しみに待っておられる方々が多いというのに」


「主上へ直接、火急の報告がありましてな……。宇文殿も、お変わりないようで」


 宇文化及の蛇のような視線をかわし、欧陽詢は煬帝の待つ離宮 成象殿せいしょうでんへと足を踏み入れた。そこには、外の飢えを嘲笑うような酒池肉林の宴が広がっている。舞姫たちの足音と、弦楽器の音色が、現実感を失わせるほどに華やかだった。


「陽詢か。長安の物資はどうした」


「陛下……。反乱の根源は民の飢えにございます。洛口を落とした李密が民に穀物を配っている今、我らもまた、長安の物資の一部を民へ施されるのがよろしいかと愚考いたします」


「すでに手は打ってある。……そちは礼法を司る身。なぜまつりごとに口を挟む? 朕が求めているのは、民の腹を満たす言葉ではない。朕の威光を飾る結果だ」


 煬帝の目は、冷徹な拒絶に染まっていた。その瞳には、すでに滅びゆく帝国の影すら映っていないようだった。


「興が削がれた。下がれ。沙汰あるまで謹慎を申し付ける。その硬い頭を少し冷やすがよい」


 欧陽詢は深い一礼をして背を向けた。宮殿を出て、一人になった欧陽詢の口元に、わずかな、しかし確かな満足の笑みが浮かんだ。


(これでよし。あのアホ面をした賢童が、どこまでわしの意図を読み取れるか――)


 酔い痴れた皇帝も、野心に燃える宇文化及も、その老人の微笑みの意味に気づくことはなかった。

読んでいただき、ありがとうございました。

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