師匠
玄功は立ちすくみ、膝の力が抜けたようにその場へへたり込んだ。
(こいつがあの……欧陽詢か……)
「なんじゃ童、儂を知っておったのか? ……まあよい。では逸人、先ほどの件、相違ないな?」
「あぁ、構わねえよ」
二人のやり取りに、玄功は弾かれたように我に返る。
「な、何のことだクソ親父!」
「何って……取引さ。お前をこの御仁に預ける代わりに、俺は無罪放免。お咎めなしってわけよ」
縛られた両手を玄功に見せつけ、逸人は口角を歪めてニヤリと笑った。
「クソが! どこまで行ってもお前は最低のクソ親父だ!」
「あぁ、そうさ。どうせこのまま俺と一緒にいても、お前は野垂れ死にするだけだ。なら、こちらに拾ってもらう方がよっぽどマシだろうが」
「それでも……お前は……!」
「もうその辺でよいか。おい、誰かある」
「はっ、はい!」
陽詢の呼びかけに、家臣が慌てて姿を見せる。
「この童を再び閉じ込めておけ」
「承知いたしました。ただいま!」
抗う術もなく、玄功は再び屋敷の暗い一室へと連行されていった。
*****
玄功の背中が見えなくなるのを見届け、陽詢が口を開いた。
「……あれで本当に良いのか、おぬしは」
「あぁ、あれでいい。俺を恨んで、それを糧に強く生きればそれでいい」
先ほどまでの不敵な態度は消えていた。逸人の横顔に漂う、哀愁にも似た寂しげな色を見て、陽詢は小さく吐息を漏らす。
「おぬしも不器用よな……」
目を細め、逸人を見据えたまま陽詢は問う。
「……で、どうして玄功をあんたの手元に置こうなんて思ったんだ?」
逸人の問いに、陽詢はしばし沈黙した。
「……まあ、おぬしになら話してもよかろうな」
陽詢の視線が、どこか遠い過去をなぞるように彷徨った。
「実はな、儂も国賊の息子よ。我が父は儂が幼少の頃、反乱の咎で処刑された。天涯孤独となった儂は、父の知己に引き取られ育ったのだ。……お前ら親子を見て、それをふと思い出してな」
一瞬、陽詢の表情が微かに強張る。その一瞬の揺らぎを、逸人は見逃さなかった。
*****
逸人が去った後、陽詢は机に整然と積み重なった紙の束に目を向けていた。
(かの倭人に言ったことは嘘ではない。……じゃが、真意は……)
陽詢はスッと筆を手に取り、壁に掛けられた白紙へその穂先を向けた。
(奴の書は、明らかに縦に長い物の章法であった。あれは我が国の伝統的な形ではない。……むろん、倭国のそれとも違う。ならば一体、何だというのだ。知りたい。あの造形の、真の姿を!)
陽詢の鋭い眼光が紙を射抜き、一気呵成に筆を走らせる。その姿は、新たな境地を追い求める孤高の求道者そのものであった。
*****
一方、玄功は暗い部屋の中で膝を抱え、自らの数奇な身の上を呪っていた。
「クソ親父……。俺はこれから、どうなっちまうんだ」
当たり散らそうにも、相手はいない。子供のように暴れ回るには、二十八歳という理性が邪魔をした。悶々とした思考が堂々巡りをしていた、その時。
「おい、飯を持ってきてやったぞ。食うか?」
先ほどの若い家人が、玄功の前に一杯の粟粥を差し出した。
「さすがに白米とはいかないが、これならいいと家宰様もおっしゃってくれた。さあ食え! 腹が満たされりゃ、悩みなんて大抵吹っ飛ぶもんだ」
その言葉に応えるように、玄功の腹が情けない音を鳴らした。途端、暴力的なまでの空腹が押し寄せる。
「あっ……ありがとう。……兄ちゃんは、どうしてこんなところで働いてるんだ?」
玄功の問いに、家人は少し遠い目をした。
「俺か? 俺は戦で親を殺されてな。路頭に迷っていたところを、たまたま旦那様に拾われたのさ」
「あの爺さんが……?」
思わず口走ると、家人は慌てて玄功の口を塞いだ。
「こら! 滅多なことを言うんじゃない! 全くお前ってやつは……。いいか、家宰様の話じゃ、お前もこの屋敷に住み込むことになるらしい。旦那様を足蹴にするような真似は、もうよしな」
家人は釘を刺すようにそう言い残すと、そそくさと部屋を後にした。
*****
数日が過ぎ、玄功はようやくあの暗い一室から解放された。あてがわれたのは、平民が着る質素な服だ。だが、何より変わったのは、無造作に伸びきっていた髪を整えて束ねたことだろう。泥や汚れが払われたことで、隠されていた美少年然とした素顔が露わになった。
「こうして見れば、普通の少年に見えますな。……さて、旦那様はあなたを家人ではなく、『書生』としてこの屋敷に置くおつもりだそうです」
玄功に話しかけるのは、家宰の張忠衡。陽詢が絶大な信頼を寄せる、有能で口数の少ない老いた男である。
「阿成、玄功を旦那様の書斎へ連れて行きなさい」
「はっ、はい!」
阿成と呼ばれたのは、あの日から世話を焼いてくれている若い家人だ。二十歳そこそこの、どこにでもいそうな素朴な若者である。
「さあ行くぞ、玄功。旦那様の前では絶対に行儀良くするんだぜ?」
「わかってるよ、阿成さん」
数日間、食事や身の回りの世話を焼いてくれた阿成に対し、玄功はどこか新鮮な感情を抱いていた。それはまるで兄弟のような、前世ですら味わったことのない感覚だった。
「旦那様、玄功をお連れしました」
「通せ」
阿成に背中を押され、玄功は陽詢の待つ書斎へと足を踏み入れた。そこには、相変わらず黙々と書き物をしている「書の化け物」の姿があった。
「ほう……磨けばそれなりに見えるものだな、童」
「余計なお世話だ、爺さん」
玄功が言い放った瞬間、背後の阿成の顔から血の気が引いた。刹那、風を切る音と共に、木製の文鎮が玄功の額をかすめた。
「ってええええええ!!!」
悶絶してうずくまる玄功に、陽詢は冷ややかな声を投げた。
「誰に向かって口をきいておる。次は額ではなく、牢の壁に頭を打ち付けたいか?」
「……っ」
「返事がないな。……よいか、これからは儂のことを『師匠』と呼べ。わかったか!」
舌打ちする玄功。それに対し、陽詢は分厚い紙の束を机に叩きつけた。
「お前の仕事はこれだ。ここにある書類をすべて清書せよ。……さあ、わかったらさっさと始めぬか!」
有無を言わさぬ陽詢の気迫に、さすがの悪童・玄功も、毒づきながら従わざるを得なかった。
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